諏訪三十三ヶ所観音霊場 一番 鹿島山 三光寺

宗派/曹洞宗

開山/元禄7年(1694)群亀応逸 

本尊/釈迦如来 

富士見町落合上蔦木2614 

TEL0266-64-2001
札所
 諏訪三十三ヶ所観音霊場1番(聖観音)
 諏訪郡霊場百番札所東26番

御詠歌   
「ほそ道を蔦木にからむ唐錦 みみょう薩たの導きもかな」

諏訪八十八ヶ所霊場7番

御詠歌   
「人間の八苦を早くのがれなよ 極楽浄土かみも蔦木も」



山梨と長野県境近くの蔦木の地は、かつて甲州領だったそうです。
諏訪と甲斐の間にあって幾多の戦いの舞台となったこの地が、化粧料として諏訪の所有となったのは、両国が和睦し武田信虎の娘・禰々が諏訪頼重に嫁いだ時でした。
それよりもずっと昔に開かれた三光寺は、元の名を真如山満願寺といい、真言宗に属し甲斐の武田信重によって創られました。天正2年に門鶴和尚により曹洞宗に改宗。以後移転を繰り返し、名も改め、江戸時代に鹿島山の麓である蔦木に移ったようです。同じ頃、蔦木に宿場町が形成されました。甲州道中を歩き、甲斐から信濃に入った最初の宿場町がこの蔦木宿で、江戸から数えて43番目の宿。宿場町の賑わいの中で、多くの旅人が道中の安全を祈ったことでしょう。元禄7年、諏訪高島藩初代藩主・諏訪頼水により再開基され、頼岳寺四世群亀応逸和尚を勧請し開山としました。 現在は頼岳寺の末寺にあたります。
「三光寺観音」と呼ばれる観音様は寛政7年以前の作といわれ、総丈3尺5寸。観音様の舟形光背は、古ぼけていたけれども金色に輝いていて、とても素晴らしいのです。
山門前の寒紅梅は毎年、諏訪の春の訪れをを寿いでいます。武田氏所縁とあって所縁の寺紋が印象的
二番 神澤山 瑞雲寺

宗派 曹洞宗

創建 文明18年(1486)祖峰

開山 安永5年(1776)堤山見全

本尊 釈迦如来

諏訪郡富士見町御射山神戸10706 

TEL0266-62-5168
札所
諏訪三十三ヶ所観音霊場2番(前立十一面観音)
諏訪郡霊場百番札所東終番(薬師堂)*薬師堂御朱印は地区の管理になっています(平成23年4月現在) 
   
御詠歌
「瑠璃の峰越えておさおさ御射山の 名残り惜しくもここにおいつる」
「補陀落をここに示しかさしも草 しばしは詠歌聞くも極楽」


古くは入笠山の中腹、牛首地籍に建立。文明18年四賀桑原の僧・祖峰は、薬師如来と守護神十二神将の三度の夢のお告げにより入山したと伝えられます。江戸時代になり甲州街道が整備されると、寺を神澤の地に移し、更に智音和尚の代である貞享5年に、現在の御射山神戸に移転しました。
安永5年に開山を頼岳寺十三世提山見全和尚、開基を二の丸諏訪家家老とし、曹洞宗のお寺となりました。平成に至り、様々な縁に導かれた仏様を新たに迎え、また曹洞宗には珍しくも祈祷殿に大日如来も安置。龍蝋という変わった蝋燭が何本もあったのが印象的です。玄関には三面出世大黒天もお祀りされています。
毎朝のお勤め坐禅もあり、温かい雰囲気に包まれているお寺です。
本堂前には108個の数珠玉で作られた巨大数珠が。 これをカラカラとまわしてお参りします。 明治の初めにお堂の茅屋根に根付いた桜の幼木を、本堂正面の庭に植え替えると、やがて大木に成長しました。しかし近年桜は枯れてしまい、何か記念に残るものをと考えていたところ、檀家の中に器用にも木を丸くする事に長けていた人がいて、このような形に生まれ変わったそうです。珍しいので同じものを作ったお寺もあるのだとか。因みに本堂は昭和41年にトタンに葺き替えられました。
境内の薬師堂は、現在地区管理となっていますが、こちらには祖峰和尚以来の薬師如来を迎え、御詠歌額が残されています。
三番 金鶏山 泉長寺

宗派 曹洞宗

開山 安永5年(1776)堤山見全

本尊 釈迦如来

茅野市金沢仲町1174 

TEL0266-73-6597
札所
諏訪三十三ヶ所観音霊場3番(聖観音)
諏訪郡霊場百番札所中16番
   
御詠歌
「後の世の種をいまから泉長寺 無量宝珠も金沢の宿」
 
諏訪八十八ヶ所霊場16番
   
御詠歌
「わすれても金鶏山の金間府も 西方世界弥陀の浄土へ」


元は金沢半僧山の麓、半僧川の元屋敷地籍にあったお堂が前身といわれ、下青柳の地に移り青柳寺と称しました。
この辺りは青柳宿がありました。しかし度重なる宮川の氾濫や大火に見舞われ、慶安3年の大火の翌年にそれまであった宿場町を南へ移しました。この時、名も金澤宿と改めます。この新しい宿場町の名「金澤」は「金鶏金山」に由来。「金鶏」とは金の鉱脈が鶏型に似ているところからきている名なのだそうです。武田信玄もこの金鉱脈に目をつけ、甲州金として供出させており、現在でも僅かながら採掘の名残を見る事が出来ます。青柳寺も承応年間中に泉長寺に改称し、やがて現在地に移りました。その後、何度かの火災に遭い、宝物や古記録が失われたそうです。
本堂には正徳年間中に愛宕山地蔵寺より贈られたという、諏訪家梅香院の本尊であった釈迦如来ほか脇士文殊菩薩・普賢菩薩などが安置されています。近年本堂は新しくなり、境内には霊場百番札所中16番の御詠歌が刻まれた石が建っています。
門前右側には「おてつき石」という平たい石があり、他郷から金澤宿に入ろうとする者はこの石に手をついて物申さねばならない決まりになっていました。通行の可否は名主の判断であったとか。宿場町の名残が僅かに残る金澤の、歴史の生き証人です。
四番 円通山 宗湖寺

宗派 曹洞宗

開山 文政11年(1828)覚海真禅

本尊 聖観音

茅野市宮川茅野4694-3 

TEL0266-72-2793 
札所
諏訪三十三ヶ所観音霊場4番(聖観音)
諏訪郡霊場百番札所中18番(聖観音)

御詠歌
「もものちの無量薩たの観世音 西の浄土へ誓い給えや」


諏訪頼忠は、武田氏や織田氏などに蹂躙されるという激動の諏訪の戦乱の世を生き抜き、一時は武州・上州に移る事もありましたが、遂に諏訪の地でその生涯を全うし、向富山永明寺に葬られました。永明寺は極楽寺・金剛寺・法明寺・光明寺と共に上原五山の一つとして栄えていたお寺で、開基は頼忠の祖父頼満です。しかし、寛永7年に寺に駆け込んできた科人の引渡しを拒否した事から、頼忠の子・諏訪高島藩初代頼水によって破却されてしまいました。翌年代わって少林山頼岳寺が建てられました。この時、お寺の本尊や什器と共に、頼忠(永明寺殿)と頼忠室(理昌院殿)の墓も移りました。そして頼岳寺境内には位牌所として宗湖庵(頼忠)と理昌院(頼忠室)が建立されました。宗湖庵は参道右側の裏大門南側辺りに建てられたといいます。
後、文政5年に頼岳寺十九世覚海真禅和尚により、茅野村への移転願いが出され、元々あった千松庵の場所に宗湖庵を移転し文政11年開山。千松庵は頼岳寺末寺で、千昌庵・泉松庵・仙松庵とも書かれた寺でしたが、これにより廃寺となりました。宗湖庵の移転の理由としては、5代藩主諏訪忠林の側室宗寿院が子を成さぬまま没し、後に7代藩主忠粛夫人眞操院の願いにより山田の名跡を三の丸千野家老の娘に継がせる事となり、山田家の創立に際し宗湖庵を菩提寺とした事もあるようです。昭和21年2月宗湖寺と改称。
五番 清龍山 長圓寺

宗派 真言宗

開基 武田慶尊

本尊 金剛界大日如来 脇侍 不動明王・愛染明王

茅野市玉川穴山11373 

TEL0266-79-3720
札所
諏訪三十三ヶ所観音霊場5番(薬師堂・千手観音)
中部四十九薬師霊場8番(薬師堂・薬師如来)*上社本地仏
諏訪郡霊場百番札所東13番

御詠歌
「願わくば三界流転あなやまも 出離生死と誓いたまえや」


玉川山田の外屋敷にあった小堂が始まりとされます。初代住職武田慶尊法印は諏訪高島藩2代藩主諏訪忠恒より境内地を賜り、慶安2年高野山金剛峯寺金剛頂院の法流を相続して開山、要穴山胎蔵院長圓寺を創建しました。その後火災により伽藍が焼失、諸堂を再建し、火伏の為に山号を清龍山と改めました。本尊は金剛界大日如来で脇侍に不動明王と愛染明王を祀ります。
霊場としては薬師如来が有名です。上社神宮寺の寺内平地籍(上社御柱の三の柱と四の柱の間の辺り)にあった薬師堂は鷲峰山法華寺が管理していました。本尊の薬師如来像は三河国の鳳来山の峰ノ薬師と同木といい、御利益が多い事で知られ、諏訪明神の本地仏として普段は秘仏とされていましたが、法華寺は財政に困ってくると御開帳をして凌いでいたという記録があるのだそうです。この薬師如来は鎌倉時代の春日の仏師作と伝えられ、日本三大薬師如来とも呼ばれています。明治の廃仏毀釈の折に長圓寺に移され、薬師堂に安置。現在、両脇士の月光菩薩日光菩薩とともに厨子の中に安置されています。御開帳は年に一度。
六番 長河山 真徳密寺

宗派 真言宗智山派

開山 宝性宥快 

中興 寛永2年(1625)祐仙

本尊 胎蔵界大日如来

茅野市豊平下古田6629 

TEL0266-72-4412
札所
諏訪三十三ヶ所観音霊場6番(阿弥陀堂・聖観音)
諏訪郡霊場百番札所中9番(阿弥陀堂・聖観音)
   
御詠歌
「真あれば徳あらたなる観世音 薩たの誓いもありがたの世や」


元は真言宗古義派高野山金剛頂院末でしたが、明治時代に真言宗智山派智積院に属し、現在に至ります。
現在の東京理科大学上方の梨ノ木地籍には鎌倉時代に徳阿弥寺というお寺が存在し、この草庵が前身といわれています。鎌倉時代に高野山宝性院宥快によって開山。真徳寺一帯は、三方を河川に囲まれた要害でしたが、天正10年に織田軍による諏訪攻めの折に焼失、荒廃してしまいます。同19年祐仙法印によって中興、現在の地に再建されました。享和2年に再び焼失し2年後に再建。現在の建物は平成に至り新築されたものです。諏訪高島藩主の巡検や鷹狩の際の本陣ともなった故に上段の間(殿様座敷)や御家老座敷を見る事が出来ます。
平成20年には本堂外陣の格子天井に植物細密画136枚が奉納されました。現代的な題材が選ばれてはいるものの、天井画として納められると上手く調和しています。また現住職さんが選んだという和紙製の照明がほんのりと淡い光を照らし出し、美しく華やかな空間を作り上げています。
初代の梵鐘は享和12年に鋳造されましたが、太平洋戦争の折に供出され、現在の鐘は昭和33年に再鋳されたものです。諏訪地方の梵鐘の多くは、昭和の最中に同じ道を辿り、再鋳されたものが多いのです。
境内には阿弥陀堂があり、この中に聖観音も祀られています。阿弥陀堂は元々両古田の人々が祀っていましたが、後に真徳寺境内に御堂を建てて祀ったといいます。軒には御詠歌額が掲げられています。
七番 硫黄山 泉渋院恭謙寺

宗派 浄土宗

中興開山 天正6年(1578)生蓮社岌往親阿

本尊 阿弥陀如来

茅野市北山芹ヶ沢6762 

TEL0266-78-2270
札所
諏訪三十三ヶ所観音霊場7番(馬頭観音)
諏訪郡霊場百番札所東5番
   
御詠歌
「観音の誓い頼みと硫黄山 芹が沢べに泉わく寺」

諏訪八十八ヶ所霊場73番
   
御詠歌
「ありながら出でて摘まばや芹ヶ沢 大悲大師の影ぞとうとき」


東山道が通り、信濃国大山寺があった場所と伝えられ、古御堂地籍にあったお堂が前身で、延命地蔵を本尊としていました。また武田信玄が渋の湯で傷を癒したのを機に八幡社を鎮守し、泉渋院を創設したともいわれています。
古御堂からの移転当時は松林山長福寺泉渋院といい、雑木の山を背にした村には松がなかった事から「松林」を山号に、「泉の渋、日々繁盛する故」長福寺と号して院号を千手院と書いた事もあったそうです。後に硫黄山恭謙寺に改めました。
明治に入り、この北山の地では火災が相次ぎました。泉渋院も明治19年6月に本堂から出火焼失し、古い記録が失われてしまいました。後、再建。近年内部を改修した本堂には本尊阿弥陀如来を安置。至るところに葵紋が多くみられて色彩豊かです。また広隆寺の弥勒菩薩の模倣仏も安置。対照的に外側は昔ながらの古めかしさを保っています。
八番 蓼科山 聖光寺

宗派 法相宗

創建 昭和45年(1970)

本尊 救苦観世音菩薩(交通安全観世音菩薩) 脇侍 アサンガ・ヴァスバンドゥ

茅野市北山蓼科高原4035(蓼科湖畔) 

TEL0266-67-2397
札所
 諏訪三十三ヶ所観音霊場8番(救苦観世音菩薩)


信州には珍しい法相宗のお寺で、奈良薬師寺別院。本堂の屋根には鴟尾が見られるなど奈良時代の建物を模しています。山門は平安時代の趣き。
寺の歴史は40年程と新しく、トヨタ自動車販売株式会社社長神谷氏により発願、トヨタ自動車関係諸社が施主となり創建されました。交通安全の祈願・交通事故遭難者の慰霊・負傷者の早期快復の祈祷を三大寺命に掲げています。交通安全に関わるお寺を、交通に関わる自動車会社が創ったのでした。
九番 金台山 八水院功徳寺

宗派 浄土宗

開山 天文15年(1546)遵蓮社願誉栄海 

中興開山 天正3年(1575)生蓮社岌往親阿

本尊 阿弥陀如来

茅野市北山湯川4447 

TEL0266-78-2345 
札所
諏訪三十三ヶ所観音霊場9番(薬師堂・聖観世音菩薩)
諏訪郡霊場百番札所東4番
   
御詠歌
「湯川にもだせん衆生を導くは 巡礼したる慈悲の功徳寺」
 
諏訪八十八ヶ所霊場72番
   
御詠歌
「功徳せよ人のためなり今ぞ知る 峠も近し迷いこそすれ」


功徳寺は武田信玄による諏訪統治が始まってまもなく、願誉上人によって開かれました。願誉上人遷化の後の天正元年に、堂宇は悉く焼失。本堂と庫裏はまもなく再建されたと伝えられています。
大門街道は武田軍による信濃攻略の道でもあり、功徳寺も武田信玄との関わりが深く、永禄年間の川中島合戦の折には宿所になった事もあったとか。お寺には信玄の念持仏と伝えられる薬師如来立像(薬師堂本尊)と、本尊の阿弥陀如来(開山堂)が安置されています。阿弥陀如来は善光寺如来とも呼ばれ、その別称の如く善光寺様式です。信玄が長野の善光寺如来を甲府へと移す際に、功徳寺に一夜泊まったのだそうです。そして後に模倣仏として阿弥陀如来を造り安置したといいます。
また、裏手にある湯川城は信玄築城といわれています。今は長閑な片田舎の雰囲気がありますが、この辺りは砦のように起伏が激しく、諏訪や佐久の武将達にとっては領地争いの重要拠点だったようです。
明治17年焼失、同22年5月再建。寺紋は長野善光寺と同じ立葵。現在の鐘は太平洋戦争の折に供出された後の鋳造のものですが、初代の鐘は小坂観音へと持ち運ぼうとしたところ、竜神の怒りに触れて諏訪湖深く沈んだといい、時折鐘が湖底から響いたと昔話は伝えます。
十番 向陽山 宝勝寺

宗派 曹洞宗

中興開山 寛文4年(1664)雲峰誾悦

開基 諏訪頼満

本尊 釈迦如来

茅野市米沢北大塩5631 

TEL0266-72-4850
札所
諏訪三十三ヶ所観音霊場10番(十一面観音)
諏訪郡霊場百番札所東1番
   
御詠歌
「後世菩提みちて北大塩ながら 大慈大悲のたからかつてら」


交通の要所である北大塩の地にあります。創建年は不詳で、寛文4年頼岳寺二世雲峰吟誾悦和尚を招き中興開山。この時開基となった諏訪安芸守頼満は、文明の内訌の折、上社神殿で一族の諏訪継満(上社大祝家)・金刺興春(下社大祝家)・高遠継宗らに父政満を殺され、10歳で家督を継いだ人物で、のちに諏訪氏中興の祖と称されます。また諏訪頼重の祖父にあたります。
現在は諏訪頼岳寺末寺ですが、その歴史は本寺よりも古く、風穴山龍雲寺・鹿島山三光寺・愛宕山地蔵寺と共に末寺中の上四ヵ寺の格式を持ち、また末寺筆頭として門主の地位にあります。
鐘楼門には宝暦5年七世官牛代作と伝わる石の仁王像が立っています。欠損が痛々しいのですが、これは火災の折に鐘楼も焼け頭上の鐘が落下した名残なのだとか。茅葺き屋根の建物が姿を消していく中で、庫裏と衆寮(舞台)は未だ茅葺きで、田園もろとも田舎の温かみを持った風景が残るお寺です。
百番霊場の御詠歌額は「坂東一番」として本堂の中の三十三観音と対峙して掛けられています。
十一番 来迎山 無量寿院紫雲寺

宗派 浄土宗

開山 永享3年一道上人 中興開山 天正3年生蓮社岌往親阿

開基 長田大和守元康 中興開基 両角筑後守信清

本尊 阿弥陀如来 脇士 観音菩薩・勢至菩薩

茅野市米沢埴原田856-1 

TEL0266-72-1379
札所
諏訪三十三ヶ所番観音霊場11番(末庵月見山観音堂・十一面観世音菩薩)
諏訪郡霊場百番札所中6番

御詠歌
「遠からぬ九品浄土は紫雲寺の 来迎山と聞くもたのもし」
 
諏訪郡霊場百番札所中7番(月見山観音堂)
   
御詠歌
「月見山登りて見ればはいはらの 補陀落山に誓いたまえや」
 
諏訪郡霊場百番札所中8番(明星山虚空蔵堂) *末庵の明星山虚空蔵堂は廃寺、寺物は地区管理。
   
御詠歌
「忘れけん罪も報いも福沢の 虚空に花の降りみ降らずみ」


寺名の由来は埴原田の地を所領していた田村政忠の没後、尼となった夫人が往生した時に紫雲がたなびいたことから。『紫雲寺起立書』によれば夫人は武田信満の娘で、剃髪ののち人家を避けて洞に籠もって菩提を弔いました。故に尼御前の洞なるものがあるそうです。後にこの地を治めた長田大和守元康が田村夫妻の為に建てたのが紫雲寺だと伝えます。埴原田城の下、現在の寺屋敷の辺りにありましたが、天文8年焼失し天正3年に宮の脇に再興。元禄15年に寿誉順的上人により現在の地に移転します。幕末の慶応3年に再び焼失し、明治2年に上社神宮寺の廃寺蓮池院を買い受け再興されました。
十二番 齢松山 福壽院

宗派/曹洞宗

開基/寛永年中諏訪頼雄(二の丸諏訪家初代家老)

開山/安永3年仏界性見

中興開山/諏訪頼保(二の丸諏訪家8代目)

本尊/釈迦如来

茅野市ちの本町西17-20 

TEL0266-72-3843
札所
諏訪三十三ヶ所観音霊場12番(観音堂・准胝観世音菩薩)
諏訪郡霊場百番札所中5番(観音堂)

御詠歌
「福聚海無量の徳の有難や 大慈大悲の誓いなるらん」
 
諏訪八十八ヶ所霊場終番
  
御詠歌
「福聚海無量の罪も消へ果てて 脱ぎて納むる笈摺もかな」


創立年代は不詳で、始めは福重院と号していました。開山以前5代の住職により護持され、その初代は日州関朔和尚で寛永年間中に遡ります。万治2年永補僧が再建。その時に福壽院と改めたといいます。
開基は諏訪高島藩初代藩主頼水の弟・美作守頼雄で、二の丸諏訪家の初代家老です。二の丸諏訪家と三の丸千野家の両家は家老を輩出してきた家柄でしたが、代々争いが絶えず、とうとう6代藩主忠厚の治世に、二の丸騒動という藩の存亡をかけるお家騒動までに発展してしまいました。8代目の頼保(大助、福壽院殿)は福壽院の中興開基で篤い信仰を寄せていましたが、三の丸家老千野兵庫との政権争いの末、この事件の折に処断されます。頼保は処刑の後、檀那寺の頼岳寺には葬られる事なく、首は愛宕山地蔵寺に、遺体は福壽院三世冠山楊法和尚により福壽院墓地に葬られ、妻・齢松院殿、子・寂照院殿と共に眠っています。
文化7年2月、類焼により伽藍は焼失。しかし僅か半年後に再建。本堂を除く建物は平成19年に建て替えられている為、新しい雰囲気です。齢松山とは寺裏方にある山の名
十三番 白岩山 惣持院

宗派 真言宗

中興 享保年間(1716~)宥寛

本尊 阿弥陀如来

茅野市塚原2-8-2 

TEL0266-72-6049
札所
諏訪三十三ヶ所観音霊場13番(如意輪観音/別名・白岩観音)
諏訪郡霊場百番札所中4番(観音堂)
  
御詠歌
「遠くともつい白岩の観世音 誓い新たの功徳つかはら」
 
諏訪八十八ヶ所霊場68番
  
御詠歌
「念仏と光明真言つかにつき 大師の功力有難きかな」


寺伝によれば開創は寛正3年のこと。元は佛法紹隆寺の塔頭で、無住の期間もあり、その時は佛仏寺住職が兼務していました。永禄末に塚原の地に移り、安永3年11月に改築。古く村の寺として親しまれてきましたが、安永7年に本堂と庫裏を火災により焼失し、寛永12年に玉川中沢村の民家を移築して本堂としました。老朽化により平成14年6月に再建された現在の建物は、2階が仏事を執り行う本堂となっています。一環として四国八十八カ所霊場札所の御砂を勧請、御砂踏み霊場が奉安されました。
観音堂の元は永明寺の岩窟にあり、その頃から白岩観音堂と称していました。永明寺山中の観音平と呼ばれる地がそれにあたり、現在は白岩観音遺跡という碑が建っています。観音堂本尊の如意輪観音は石窟中に出現し、諏訪七観音の一つとして信仰されてきましたが、塚原の地に移されたのは元禄年間で、諏訪高島藩主忠虎の命によります。現在の観音堂は安永3年の再建。立川初代和四郎冨棟の手によるもので長野県宝。
十四番 少林山 頼岳寺

宗派 曹洞宗

開基 寛永8年(1631)諏訪頼水(諏訪高島藩初代藩主)

開山 大通関徹(雙林寺十三世)

本尊 釈迦如来

茅野市ちの上原1753 

TEL0266-72-3027
札所
諏訪三十三ヶ所観音霊場14番(聖観世音菩薩(理昌院)/如意輪観音)
諏訪郡霊場百番札所中1番(理昌院)
   
御詠歌
「ただたのめりしょうあらたの観世音 じゃくめつゐらくせうりんの鐘」
 
諏訪郡霊場百番札所中2番(西方堂・阿弥陀如来)*廃寺
   
御詠歌
「いく人かごしょうのたねを上原の さいほうどうに祈るなりけり」


諏訪を代表する最も大きな曹洞宗のお寺。戦国時代に諏訪総領家の居城があった上原城下にあります。当時この辺りには「上原五山」と呼ばれる永明寺・極楽寺・金剛寺・法明寺・光明寺の5つのお寺がありました。現存するのは八幡山極楽寺のみです。中でも諏訪頼満の開基以来130年間続いていた向富山永明寺は、諏訪氏の菩提所でした。しかし寺に駆け込んだ科人の引渡しを拒否した事から、寛永7年に曾孫による諏訪高島藩主頼水によって破却されてしまいます。
その翌年、頼水は上州白井雙林寺十三世の大通関徹和尚を招き、永明寺本尊の釈迦如来像を始め什器なども移して開山、菩提寺としました。これが頼岳寺です。江戸時代には寺領百石を受け末寺は14ヶ寺、広く修行寺として知られ、常に数十名の雲水が参集していたそうです。
安政6年に火災により焼失、再興されますが明治34年に再び火災に遭い、現在の建物は大正時代に建てられたものです。
裏山には諏訪家の御廟所があり、永明寺から移された諏訪頼忠(永明寺殿)、頼忠夫人(理昌院)、そして諏訪頼水(頼岳寺殿)が眠っています。
理昌院は本尊を聖観音とし、上原地籍の西方堂(昭和30年廃寺。諏訪百番中二番)の阿弥陀如来を合わせて祀っています。元は上原城本丸下の曲輪にありましたが、頼岳寺に移りました。明治34年の頼岳寺の大火の折には火難を免れていましたが、昭和29年に火災により焼失し、現在の建物はその後に再建されたものです。本尊であった如意輪観音も焼けてしまい、現在は聖観音が安置されています。この時、上原西方堂が廃され、その材木の一部は理昌院の再建に使われました。
十五番 神向山 頼重院

宗派 曹洞宗

開基 諏訪頼重

開山 寛政9年 海英秀獄(頼岳寺十世)

本尊 釈迦如来

諏訪市四賀神戸3433 

TEL0266-52-3794
札所
諏訪三十三ヶ所観音霊場15番(千手観音)
諏訪郡霊場百番札所中終番
   
御詠歌
「万世の願いはここに納めおく 後世の菩提を頼み重ねて」
「補陀落をここに示しかさしも草 しばしは詠歌聞くも極楽」


創建年は不明。古い記録に残る大正院が前身ともいわれています。開基は諏訪頼重です。諏訪頼重は諏訪総領家最後の当主で、武田信玄との戦いに敗れ、甲斐国東光寺に於いて弟頼高(上社大祝)とともに自刃。家臣はその遺髪(寺伝では首)を密かに諏訪に持ち帰り、この寺の宝篋印塔におさめ封じて供養したのだといわれています。本堂裏手には頼重の墓として宝塔があります。その隣には新たに作られた墓石が立っています。宝塔は覆塔のようなもので、人目を偲んでか無銘の塔であり、古来、覆塔を開けば目がつぶれると伝えられていました。しかし大正9年の暴風で側の松木が倒れた折に、覆塔も倒れ、初めて中の宝篋印塔(頼重五輪塔)の存在が人の知るところとなりました。宝篋印塔は諏訪地方では最古とみられる様式を持っており、諏訪市有形文化財に指定され、本堂に納められています。また、宝塔は大きく七つに割れた割石の上にあります。頼重の怨念が巨石を割ったのだと伝えられ、江戸時代は脇の小路を「割石通り」、裏山を「割石沢山」と呼んでいたそうです。
本尊は釈迦如来。元々千手観音堂は別にありましたが、過去の水害の折に堂は流され、現在千手観音は本堂にお祀りされています。平成に入り再建
十六番 無量山 地蔵院

宗派 曹洞宗

創建 享保15年 

中興開山 明治13年 尊応教堂

本尊 延命子安地蔵菩薩

諏訪市四賀神戸3924 

TEL0266-52-5865
札所
諏訪三十三ヶ所観音霊場16番(馬頭観世音菩薩)
諏訪郡霊場百番札所中33番
   
御詠歌
「六道の辻に詠歌を唱えなば 八苦奈落の罪も消えなん」
 
諏訪八十八ヶ所霊場59番
   
御詠歌
「神戸なら願い重ねん六道の 辻に迷わば大師念じよ」


元々この地には神宮寺末寺の青龍寺というお寺があり、坊や十三重の塔があったといいます。本尊は延命地蔵尊、脇侍に阿弥陀如来を祀ります。昔は本尊の14年に一度の御開帳があり、ご利益を求める人々で周辺は賑わったといいますが、宅地化が進んだ現在では想像がつきません。
高島藩士志賀七右衛門は狩りの最中、今の地蔵院の側で法華経の声を聞きました。不思議に思って声の聞こえた辺りの地面を掘ると、地蔵尊が現れたのだそうです。七右衛門は寺を建て地蔵尊を本尊として祀りました。『矢島家古文書』によれば「神戸村地蔵大菩薩は昔、慶長年中衣の渡、志賀七右衛門、山奥へ殺生に出かけ、その時山中にて念仏の声を聞く。何者也とたずねたり。その時、草の中に一寸八分の地蔵尊これあり候につきお連れ申し、それより神戸村地蔵堂に納めたり」とあります。
古くは地蔵堂と呼ばれていましたが、昭和27年に地蔵院と改めました。また本堂の扁額の裏書により享保15年建立
十七番 鼈澤荘厳山 佛法紹隆寺

宗派 高野山真言宗

開基 大同元年(806)坂上田村麻呂 

草創 弘法大師 法流始祖

文和元年(1352)俊海上人

本尊 薬師如来

諏訪市四賀桑原4373 

TEL0266-52-2241
札所
諏訪三十三ヶ所観音霊場17番(聖天堂・聖観音)
諏訪郡霊場百番札所中32番
   
御詠歌
「仏法のおさまるべくははらみつの 無量の慈悲も瑠璃の薬王」
 
諏訪八十八ヶ所58番
   
御詠歌
「仏法のおさまる末は桑原の 無量の慈悲は瑠璃の薬王」
 
伊那諏訪八十八霊場23番(本尊薬師如来)
   
御詠歌
「花を見しえみのまゆよりひらけける 心の法はここにさかへて」 
 
伊那諏訪八十八霊場客番神変山神宮密寺(本尊普賢菩薩)*上社本地仏
   
御詠歌
「ます神のもとのひかりにうろくづも 浮かびやすらんすわの湖」


大同2年坂上田村麻呂を開基とし、上社別当寺として神宮寺村にあって慈眼寺と称した事に始まると伝えられています。弘仁年間に空海は上社神宮寺を真言流布の根本道場とし慈眼寺を学問の道場としたといい、信州四ヶ寺之道場随一となったそうです。後、文和元年俊海法印を中興とし、寺地も神宮寺村から中州下金子城、四賀桑原に移ったといいますが、永禄3年尊朝法印の時、鎮守であった足長明神の「この山崩落せん」という神勅により現在の大祝邸跡に移りました。寺の横を流れる鼈澤川から山号を鼈澤山と称し、その折に山中で聞いた仏法僧の声色から寺号を佛法紹隆寺と改めたと伝えられています。江戸時代中期には直末7ヶ寺、門徒6ヶ寺を有した大寺でした。
本尊は薬師如来で、本堂には廃仏毀釈により移された上社蓮池院の本尊金剛界大日如来も安置されています。
境内の普賢堂は東京高輪にあった高野山金剛峯寺別院を昭和51年に移築したもの。普賢堂本尊は、上社如法院本尊普賢菩薩(騎馬像)。また、上社神宮寺普賢堂本尊の普賢菩薩(上社本地仏)も安置されています。一説によると上社神宮寺に陣を張った織田信長が、諏訪大明神の軍神としての力を恐れ、破壊。その後、再彫刻したともいわれています。 堂内には上社神宮寺文殊菩薩も移されていますが、どちらも廃仏毀釈時に破損し傷跡が痛々しいです。普賢堂の前には蓮台があり、 ここに立つと御本地仏・自身・上社が一直線に結ばれて神様のご加護を得られます。
十八番 飯島山 称故院一心寺

宗派 浄土宗

開山 文禄2年(1593)生蓮社岌往親阿

本尊 阿弥陀如来

諏訪市四賀飯島2087 

TEL0266-53-0146
札所
諏訪三十三ヶ所観音霊場18番(十一面観音)
諏訪百番観世音霊場中29番
   
御詠歌
「名にし負う如来供物の飯島は 昔も今も実り絶えせず」
 
諏訪八十八ヶ所霊場61番
   
御詠歌
「世の中の悪しき誹謗をうち捨てて 大師ちからにここに飯島」


山号の「飯島」とは宮島・藤島・高島・浮島・福島・白狐島・飯島という諏訪七島の地名に由来します。文禄2年下金子村に創建。後に古屋敷地籍を経て現在の地に移転したのは宝永3年の事。
本尊阿弥陀如来は安産の神様として知られ、「子育て弘法像」があることから「子育て弘法の寺」としても信仰されています。
境内には高遠石工の一人福壽が作った不動明王が鎮座。また鐘楼には平成16年の晋山式に際して奉納された鐘があります。茅葺だった本堂も近年建て替えられました。
十九番 鷲峰山 法華寺

宗派 臨済宗妙心寺派

開山 寛元4年(1246)蘭渓道隆大覚禅師 

中興開基 諏訪盛重・諏訪信重

本尊 釈迦如来

諏訪市中州神宮寺856 

TEL0266-52-3361地名は神宮寺
札所
諏訪三十三ヶ所観音霊場19番(山門楼上・聖観音)
諏訪郡霊場百番札所中22番
   
御詠歌
「神仏の粋はなるらん観世音 によしょうとくしゅも法の華寺」
 
諏訪八十八ヶ所霊場24番
   
御詠歌
「神仏の粋はなるらん大師尊 文殊の誓い新たなりけり」
 
諏訪伊那八十八番霊場25番
   
御詠歌
「鷲の山ときおく法の花の香も 世に古寺の名こそのこれる」


聖武天皇の国分尼寺が前身で、伝教大師により開かれたと伝えられています。始めは天台宗で、上社大祝の諏訪盛重(後、入道)が寛元4年に蘭渓道隆を迎えて中興。その時に臨済宗に改宗。上社の宮寺に準ずる地位を持ち、神宮寺五重塔、釈迦堂、薬師堂などの管理にあたっていました。しかしこれらの建物は廃仏毀釈の際に取り壊されてしまいます。
天正10年2月織田信長は甲州征伐の際に諏訪の地を通過し、上社本宮を焼いてしまいますが、法華寺は類焼を免れました。信長は武田勝頼が天目山に滅んだ後、再び諏訪へと入り、焼け残ったこの寺に立ち寄り論功行賞を行いました。信長の怒りに触れた明智光秀が愚弄されたのはこの時だとか。本能寺の変の2ヶ月前の事といわれています。実は諏訪にも明智光秀所縁の祠があるのだそうです。
明治初期の廃仏毀釈の風は多くの寺の受難の時代でもありました。法華寺が管理を行っていた諸堂も免れる事が出来ず、また法華寺もその流れの中、廃寺となります。大正年間に現在の地に再興。 法華寺の本堂は明和2年に大隈流の棟梁により建てられたものでした。しかし平成11年7月に山門を残し焼失。永仁2年の銘を持っていた本尊釈迦如来も運命を共にしました。現在の本堂はその後に再建されたものです。法華寺の遺構としては文出極楽寺の山門になっている表通用門が現存しています。また、本堂裏山には吉良上野介の養嗣子・義周のお墓もあります。

 諏訪湖畔七福神(大黒天)
二十番 風穴山 龍雲寺

宗派 曹洞宗

開創 門碩

開山 寛文11年 禺明祥察

本尊 釈迦如来

諏訪市湖南真志野4797 

TEL0266-52-1829
札所
諏訪三十三ヶ所観音霊場20番(十一面千手観音)
諏訪郡霊場百番札所西3番
   
御詠歌
「風さわぐ山もまじのの観世音 りゅうきんすらも雲の導き」
 
伊那諏訪八十八番霊場27番
   
御詠歌
「尊とさや真志野の岡の風穴は よろず世つきぬ法の音して」

山号は寺の裏山に風穴があることに由来します。故に風洞山とも。 岩盤に開いた横穴は今も見られますが、弘法大師がお留まりになった説、穴の終点は小坂観音という説など、興味深い説が沢山あるようです。
創建は不詳。武田信玄によって諏訪氏が滅亡した後、諏訪頼重の叔父・諏訪満隣は僧体となり諏訪家再興の日までの40年もの間、あちらこちらに隠れ住み、その日を待っていたといいます。その潜伏先の一つがこの龍雲寺なのだとか。その縁故かこちらの中興開基は満隣なのです。後に満隣の孫・頼水は諏訪高島藩初代藩主となりました。
天正年間に一草庵を造り、問碩という僧が住し離山・思山・本龍和尚などが歴住したという伝えがありますが詳しい事は分かっていません。位牌堂や開山堂は元々本堂裏手にありましたが、昭和50年代に中央高速道路の建設に伴い移転しました。
十一面観音は本堂内の御厨子の中に安置されていて、波乗り兎の意匠が印象的です
二十一番 聚宝山 蓮華蔵院 極楽寺

宗派/浄土宗

開山/弘治3年光蓮社英誉俊浄

開基/篠原讃岐守吉忠

本尊/阿弥陀如来(下馬落おとし阿弥陀仏)

諏訪市豊田文出1397 

TEL0266-53-7559
札所
諏訪三十三ヶ所観音霊場21番(観音堂・千手観音)
諏訪郡霊場百番札所中26番(観音堂)
   
御詠歌
「りんゑなる厭離をいつか踏み出して 欣求浄土に至り至らん」
 
諏訪八十八ヶ所霊場40番
   
御詠歌
「文出していつか大師の筆おさめ 奈落の罪もいつか消えなん」


戦国時代、諏訪頼重が武田信玄に敗れると諏訪は武田氏に統治されます。その時、信玄の家臣であった篠原讃岐守吉忠の子が、安穏長寿を祈願の為建立したのが極楽寺です。明治18年4月の大火により類焼。本堂は上伊那郡箕輪町東箕輪の三井八五郎持ち家を、山門は法華寺の表通用門を移し再興。その移送手段は、天竜川の観蛍橋からは舟で遡り、諏訪湖を経て宮川を水上運搬したというもの。因みに当時の諏訪湖には釜口水門はなく、こうした移送も可能だったのです。どっしりとして茅葺屋根の本堂は長く親しまれてきましたが、近年再建。山門は越後の上杉氏が法華寺に寄進したもので明治の廃仏毀釈の折、文出郷の宮坂氏がこれを求め明治19年にお寺に移したもの。破風の焼けた部分は織田信長により上社神宮寺が焼かれた際の名残でしょうか。
本尊の阿弥陀如来は下馬落如来阿弥陀仏ともいい、堂前を乗馬して通行すると必ず落馬したと伝えられ、故に門前を通る際には皆馬を降り参拝した事から、この名があるのだそうです。文出の地は多くの名僧を生み出した地でもあり、「念仏村」との異名を持っていたと伝えられています。明治の大火の折、僅か3ヶ月にして新しい本堂を迎える事が出来たのも、村人の厚い信仰に守られていたからなのかもしれません。
二十二番 八剣山 甲立寺

宗派 真言宗

再興 永禄年間(1557年以降)武田信玄 

本尊 厄除十一面観音(高嶋観音)

諏訪市小和田13-9 

TEL0266-52-5417
札所
諏訪三十三ヶ所観音霊場22番(厄除十一面観音)
諏訪郡霊場百番札所西33終番
  
御詠歌
「尊さや慈悲のさっしょうの草薙の つるぎに勝る大慈大悲ぞ」
「補陀落をここに示しかさしも草 しばしは詠歌聞くも極楽」
 
諏訪八十八ヶ所霊場56番
  
御詠歌
「みな人の参りて拝む甲立寺 ぎょけんも同じ大師だいじぞ」


高嶋の地にあった八剱神社の別当寺で、永禄年中に武田信玄が再興。後に日根野高吉による高島城築城の際に、八剱神社が移されるのに併せて寺も現在の小和田の地に移されました。この時、藤森・小松・宮坂姓の住民42戸も、諏訪湖の権利を下付されて従い、寺はこの漁権によって守られる事になりました。
元は甲龍寺と称していましたが、信玄が「諏訪法性の甲」を初めてこの寺で着けた事から甲立寺と改めたそうです。寺には信玄の朱印状も残っています。本尊は厄除十一面観音で、別名を高嶋観音といいます。信濃一木三体観音として本木は牛伏寺観音、中木は別所北向観音、そして末木がこの高嶋観音とされ、諏訪七観音の随一とのこと。元々は大日如来を本尊としていましたが、境内の観音堂にあった十一面観音の信仰が篤く、こちらが本尊となったようです。毎年7月に行われる「四万八千御縁日」に参詣すると、48000日分の功徳を授かる事が出来るそうです。
江戸時代は代々の高島藩主の祈願所でした。木造愛染明王座像(諏訪市有形文化財)は、室町時代の作と推定され本尊十一面観音の脇侍として祀っていますが、かつては3代藩主諏訪忠恒が寄進した愛染堂の本尊でした。9代忠誠は木彫厨子入りの成田不動明王を寄進しています。仏画では鎌倉時代に描かれた甲立寺不動明王二童子像を所有。
寛文6年と貞享5年に大修繕、しかし天保14年5月に橋本屋火事により類焼。この時近くの八剱神社や教念寺も焼けてしまいます。後に再建。愛染堂も嘉永3年頃に再建されたと伝えられますが現存しません。
二十三番 愛宕山 地藏寺

宗派 曹洞宗

開基 元禄2年(1689)諏訪高島藩3代藩主諏訪忠晴

開山 群亀応逸 中興開山/露山恵白

本尊延命地蔵願王大菩薩

諏訪市岡村2-12-16
 
TEL0266-52-0824
札所
諏訪三十三ヶ所観音霊場23番(千手千眼観世音菩薩)
諏訪郡霊場百番札所西29番
  
御詠歌
「来てみれば誓い尊き地蔵でら 心も澄めるのりのきよみづ」
 
諏訪伊那八十八番霊場20番(延命地蔵大菩薩)
  
御詠歌
「梓弓ひくもはなつも六つのみち こまにまかせて行きめぐるらん」


天正12年諏訪頼忠により、金子城の鬼門鎮護寺として諏訪の中洲の地に開かれたお寺。頼忠は満隣の子で、諏訪高島藩祖・頼水の父。上州に移封となった頼忠に替わり日根野高吉が諏訪を領するようになると、高島城を築き居城としました。再び諏訪氏により領有されるようになった江戸時代の元禄2年、諏訪藩祈願所・高島城鬼門鎮護寺として現在の地に移転。ここは霧ヶ峰に続き佐久地方に抜ける街道沿いにあり、諏訪湖が一望できる景勝地です。
老朽化の為、数年前に再建された本堂には本尊・延命地蔵願王大菩薩が安置されています。脇本尊に千手千眼観世音菩薩、また愛宕大権現勝軍地蔵尊も祀っています。天井には画僧・石田豪澄作の「観音百体」が描かれ、とても華やか。池泉鑑賞兼廻遊式の地藏寺庭園は日本百名庭園の一つで指定文化財名勝。加持湧出御霊水と称される水は、愛宕権現の権化とされています。中興開山・露山恵白が49日間の断食坐禅をし、満願の日に立ち上がろうとしてよろめき金剛杖に縋ったところ、杖の下から清水が湧き出たといわれるもの。 「清水之飛泉」とも称されています
二十四番 臨江山 温泉寺

宗派 臨済宗妙心寺派

開山 寛永17年(1640)泰嶺玄末 *創建年代は二説あり、慶安2年(1649)ともいわれる

開基 諏訪高島藩2代藩主諏訪忠恒

本尊 釈迦如来

諏訪市湯の脇1-21-1 

TEL0266-52-2052
札所
諏訪三十三ヶ所観音霊場24番(薬師如来)
諏訪郡霊場百番札所西27番
   
御詠歌
「人生の不浄なる身もあなとうと 瑠璃の光に病癒えるなり」


諏訪初代藩主頼水は下諏訪の慈雲寺十四世泰嶺和尚に深く帰依し、その寺を菩提寺にと願いますが泰嶺和尚に固辞され、果たせませんでした。子である忠恒は頼水の意思を継ぎ鉄嶺和尚を招いてこの寺を創建。以来、七代に亘る諏訪藩主の菩提寺となります。元文2年、明治3年、火災により焼失。現在の本堂は三門(大手門)、薬井門と共に高島城から移した能舞台で、文政10年のもの。本尊は釈迦如来。そして薬師如来の周りにずらりと並んだ十二神将の色鮮やかな様が印象的です。また、諏訪湖畔七福神の布袋さんも安置されています。
客殿の廊下に置かれている梵鐘は、元々伊那の安養寺にありましたが、武田征伐途上の織田信忠が略奪し、引き摺ってきたという由緒あるもの。武田家を滅ぼした織田信長が諏訪を立ったのは4月2日。本能寺の変の2ヶ月前の事です。
境内には「お鉄塔」と呼ばれる多宝塔があります。鉄塔は、諏訪大社上社の御神体とされていましたが、廃仏毀釈の折に移されてきました。この鉄塔を安置するお堂の建立にあたっては当時の国学者との間に争いがあり、火災までに及びました。境内には小堂が建てられ、長きに渡りそこに安置されていましたが、昭和54年に新たに多宝塔を建立。現在はこちらに納められています。
諏訪氏の廟所は寺の裏山の墓地の一番奥にあります


中部四十九薬師霊場札所7番
二十五番 引接山 聖聚院 來迎寺

宗派 浄土宗

創建 加祐大僧正

中興開山 天文10年(1541)遵蓮社願誉栄海上人

中興開基 諏訪右衛門尉(来迎寺殿宗山一超大居士)

本尊 阿弥陀如来

下諏訪町横町3454 

TEL0266-27-8234
札所
諏訪三十三ヶ所観音霊場25番(千手観音)
諏訪郡霊場百番札所西22番
   
御詠歌
「三尊の衆生さいどは来迎寺 有難かりし誓いなりけり」
 
諏訪八十八ヶ所霊場53番
  
御詠歌
「来迎の弥陀の光は湯のまちに 照りそう月は夜な夜なの月」


來迎寺は応永2年か3年頃加祐大僧正によって創建され、天文10年に遵蓮社願誉栄海上人により開かれたと伝えられています。開基は下社大祝金刺家の分家といわれる諏訪右衛門尉。後、増上寺二十二世位産上人はこの寺で得度したといい、本堂・庫裏を再建します。しかし明治40年の火災で焼失。昭和11年に再建されました。
「かなやきさま」と呼ばれる銕焼地蔵菩薩は、かつては小湯の上の林久寺の本尊でしたが、寺が焼失した際にこちらに移されたといわれています。また和泉式部の守本尊だったと伝えられています。湯屋別当に奉公していた娘・かねは、湯屋の妻に焼け火箸で顔を打たれますが、かねてより信仰していたお地蔵様に縋ったところ、顔の痛みも消え傷一つなく、代わりにお地蔵様の顔からは血が流れ出ていたとか。後にかねは美しい娘に成長し、時の帝に召し出されて京へ上り、和泉式部と呼ばれるようになりました。晩年彼女が尼となり営んだ庵へ、鎌倉時代に至り最明寺入道北条時頼が訪れます。時頼はお告げによりお地蔵様を下諏訪へ運びました。これが銕焼地蔵菩薩です。地蔵堂は享保16年に建てられた記録があり建立年が分かるものとしては下諏訪町最古の建物。中には地蔵尊と笈が安置されています。銕焼地蔵菩薩は、普段は厨子に安置されている秘仏で4月24日のみ御開帳が行われます。
二十六番 福沢山 清泰院 法泉寺

宗派 浄土宗鎮西派

開基 不詳

開山 暉蓮社冷誉梁阿誠善

本尊 阿弥陀如来

下諏訪町社区東山田7404 

TEL0266-27-9371 *地名は社、東山田(やしろ、ひがしやまだ)
札所
諏訪三十三ヶ所観音霊場26番(聖観音)
諏訪郡霊場百番札所西19番
   
御詠歌
「朝起きて東を見ればしののめの 安養国も心願のうち」


法泉寺のある東山田の地は元々下社御神領として大祝、禰宜大夫、権祝など下社五官の屋敷が存在していました。東に下の原、西に西山田と接し、中仙道や甲州裏街道に面し、また塩尻峠と諏訪神社下社に向かう古くから交通の要所でもあります。今は静かな住宅街となっていますが、江戸時代は多くの旅人で賑わっていたと推測できます。
山号は寺の近くにある福沢川に由来しています。かつては山号を「冷泉山」、寺号を「宝泉寺」と称していましたが、後に改めました。明治38年以降、長きに渡り無住の時代があったとか。
元々は畑中にあり、広い寺域を持っていました。しかし明治初期に学舎に土地を提供するなどした事もあり、次第に寺域は狭まっていき現在に至ります。駐車場がない為、車でのお参りは事前検討した方が良いでしょう。
二十七番 林澤山 常福寺

宗派 臨済宗

開山 大化2年(646)伝・役行者 

中興開山 承応元年(1652)万渓宗元


本尊 聖観世音菩薩

岡谷市長地梨久保2-8-32 

TEL0266-27-7059
札所
諏訪三十三ヶ所観音霊場27番(聖観世音菩薩)
諏訪郡霊場百番札所西18番
   
御詠歌
「誘われて行く牛連れも西山田 六畜ともに化度に会うかな」
 
諏訪八十八ヶ所霊場49番*隣接の中村薬師堂
   
御詠歌
「十悪のわが身を捨ててそのままに 極楽浄土ありがたきかな」


役の行者を開祖とし、大化2年に荻山沢に築かれた盾鉾山常蓮寺が前身。諏訪湖の釜口弁天島より移した蓮が見事な花をつけた事からこの名がありますが、後に常現寺と改めます。下諏訪の白華山慈雲寺との関わりが深いお寺でしたが一時廃絶。後の承応元年に慈雲寺第十五世万渓宗和尚により中興されました。中興後は慈雲寺の隠居所としての性格が深かったものの、明治に至り慈雲寺から離れ独立寺院となりました。本尊の千手観音は昭和年間に難に遭い、現在は聖観音が迎えられています。
お寺のすぐ隣りには諏訪八十八ヶ所霊場の中村薬師堂があります。古くは常蓮寺に属し荻山沢にあったそうです。約800年ほど前に失われ、再建されたと伝わります。後に移転、正徳元年に現在の地に移りました。お堂は宝暦2年建立のもの。
二十八番 彌林山 平福寺

宗派/真言宗智山派

創建/不詳

中興/応永以前 下社神宮寺憲明阿闍梨

本尊/金剛界大日如来

岡谷市長地柴宮3-3-22 

TEL0266-27-8936
札所  
諏訪三十三ヶ所観音霊場28番(十一面観音)
諏訪郡百番霊場札所西15番(阿弥陀堂・柴宮正八幡宮の本地仏)
   
御詠歌
「平らかな福徳なれや東堀 迷いはせまじ西のみ国へ」
 
諏訪郡百番霊場札所西20番(下社春宮別当寺若林山観照寺)*廃寺、移安
   
御詠歌
「あだし野の露も消えゆく下の原 夢の浮世を助けたまえや」
 
諏訪郡百番霊場西23番(下社秋宮別当寺松林山三精寺)*廃寺、移安
   
御詠歌
「すみにごる世に有難き三精寺 大悲無量のさいどなりけり」


創建は不詳。大同年間、弘法大師が下社神宮寺とともに創建したといい、東堀古屋敷地籍にあって、古くは高野山金剛頂寺の末寺だったとされます。隆盛時は南北四町余、東西二町余の寺領の中に、伽藍七宇十一坊を数え、傍らには柴宮正八幡宮(上八幡宮)がありました。
南北朝期に下社神宮寺の憲明が中興、その頃は春宮の別当寺をも務める大寺院でした。しかし天正10年武田征伐途上の織田軍が諏訪に入ると、近隣の寺社同様難に遭い、平福寺も兵火にかかって「礎石を茂草の間に存すのみ」の状態が続いたようです。横河川左岸の現在の地に移ったのは慶長年間の事ですが、それは横河川の氾濫により寺が流失した事によります。当時の住職は「遂に竜宮に到れり」と口碑に記したと伝えています。江戸時代には柴宮八幡宮別当寺にもなり、第23世憲栄により諸堂を造営再建。本尊の大日如来は享保元年に高野山金剛頂院栄鏡大阿闍梨から受けたものです。
後、明治の廃仏毀釈により下社神宮寺・三精寺の仏像などが引き継がれました。日限地蔵は、もと三島の蓮馨寺から三精寺に移されたもの。大正時代に彌陀堂の続きに日限堂を増設し、そこにお祀りされ「おひぎりさま」として知られています


中部四十九薬師霊場番外札所(阿弥陀堂)
諏訪湖畔七福神(寿老人)
二十九番 霊湊多聞山 久保寺

宗派 臨済宗妙心寺派

開基 諏訪大和守甫良 再中興/大正13年(1924)

開山 建治3年(1277)蘭渓道隆

本尊 釈迦如来

岡谷市湊2-14-6 

TEL0266-22-3120
札所
諏訪三十三ヶ所観音霊場29番(観世音菩薩)
諏訪八十八ヶ所霊場42番(小田井・釈迦堂)*廃堂、所在不明
   
御詠歌
初秋や小田井小田井と来て見れば 補陀落山と願う身なれば」
 
諏訪八十八ヶ所霊場43番(花岡・地蔵堂)*廃堂、所在不明
   
御詠歌
「来世にははちす花岡大師尊 慈悲のみ堂へ歩み運ばん」



諏訪湖西岸の湊の地は傾斜地にあります。湖岸から少し山側の、現在「旧道」と呼ばれている細道が古くからの道ですが、幾つかあるお寺お堂の殆どがこの旧道よりも高台に造られています。古き時代の諏訪湖は今よりも大きく、度々氾濫を繰り返してきた歴史にも関係するのかもしれません。久保寺が建てられた地は、戦国時代には狼煙台であったとも伝えられています。百三十段の石段を登ると眼下には諏訪湖全体が広がります。
大正11年諏訪市豊田有賀の江音寺(臨済宗妙心寺派)の伐採紛争をきっかけに、檀徒内は改宗して小坂観音(真言宗)へ移るもの、江音寺に残るもの、新しい寺を創ろうとするものと三派に分かれてしまいました。その中でも新しい寺を創ろうとする檀徒によりまず本堂が建てられました。その後、上伊那郡南箕輪村久保地籍にあった多聞山久保寺を移し、大正13年に正規の寺院となりました。久保寺の開山は建治3年で鎌倉建長寺の開山第一祖である大覚禅師(蘭渓道隆)で、随分と古いお寺です

諏訪湖畔七福神(毘沙門天)
三十番 龍光山 観音院

宗派 真言宗

中興開山 宥清

本尊 十一面観世音菩薩

岡谷市湊4-15-22 

TEL0266-23-4458
札所
諏訪三十三ヶ所観音霊場30番(十一面観世音菩薩)
諏訪郡霊場百番札所西6番
  
御詠歌
「つきひも湖水の波にうつろふて龍光山にひかりかがやく」
 
諏訪八十八ヶ所霊場41番
  
御詠歌
「月影を磨く湖水の大師尊 火宅逃れん小坂廟堂」
 
伊那諏訪八十八霊場29番
  
御詠歌
「玉くしげふだらく山にのぼりては ななのさわりものがれもぞすれ」


諏訪八景の一つ、小坂秋月と愛でられた地にあり、「小坂観音」の名で知られています。言い伝えによれば本尊の十一面観音は漁夫の網にかかり諏訪湖から引き上げたものだそうです。漁夫は魚籠の上に奉置して持ち帰った事に因むのか、台座は魚籠の形をしています。かつては60年に一度だった御開帳は、現在年に一度行われています。
室町初代将軍足利尊氏に大きな影響を与えた小坂円忠はこの地の出身で『諏訪大明神絵詞』を記しました。また、武田信玄の側室となり四郎勝頼を生んだ諏訪頼重の娘・諏訪御料人は、井上靖の『風林火山』では由布姫という名を得て、後に小坂観音院で過ごしたとされています。故に境内には諏訪御料人の供養塔があります。供養塔は正室に遠慮して、山梨県甲府市円光院の三条夫人の供養塔の二分の一の高さです。初代は昭和38年に建立され、三条夫人と同じ佐久石を使用していました。約50年の歳月を経て一部が欠けるなどした為、平成23年5月に風化に強い御影石を使用し再建。かつては門前に、病床の御料人を見舞った信玄が何度も何度も振り返ったという「見返りの桜」がありました。400年の長きを生きたこの桜も昭和40年代に枯れ朽ち、惜しまれつつも切り倒されたそうです。

諏訪三十三ヶ所観音霊場
三十一番から三十三番札所
三十一番 城向山 瑠璃院照光寺

宗派 真言宗智山派

開山開基 不詳

再興 応永2年(1395)憲明 

中興 天正元年(1573)宗順 再中興/明暦2年(1656)尊盛 

本尊 金剛界大日如来

岡谷市本町2-6-43 

TEL0266-22-2314
札所
諏訪三十三ヶ所観音霊場31番(観音堂・千手観音)
諏訪郡百番霊場札所西11番(薬師堂・薬師如来)
  
御詠歌
「おのが身をただ一筋に岡の屋の 薬王慈悲と願う安楽」
 
諏訪郡百番霊場札所西24番(下社神宮寺千手堂・千手観音)*廃寺
  
御詠歌
「うちむちも千手の御手の糸桜 花のうてなに導かねぬる」
 
中部四十九薬師霊場11番(観音堂・千手観音)
伊那諏訪八十八番霊場17番(本尊・金剛界大日如来)
  
御詠歌
「みほとけのひかりや四方にみちぬらん 人の心のやみをてらして」
 
伊那諏訪八十八番霊場19番(下社神宮寺・千手観音)*廃寺、移安
   
御詠歌
「ます神のもとのひかりにうろくづも 浮かびやすらんすはの湖」


「お観音さま」と
呼ばれる薬師堂 江戸時代に何度となく火災にあい古記録が失われている照光寺。創建は不詳ですが『延喜式』に岡屋牧に創建された寺との記述が見られます。そして応永2年5月、下社神宮寺宝珠院の憲明により再興され、薬師如来を安置したそうです。その後、文明年間には木曽義仲の四天王の一人今井四郎兼平の末孫・今井兵部兼貫により再建。享徳元年には紀州金剛峯寺の末寺となり、また下社神宮寺の一等末寺となっていました。その頃は現在の成田公園東にあり薬師十二神将に因む十二坊を擁する大寺院だったとか。戦国時代に罹災、後再建。明暦2年頃に現在地に移りました。下社神宮寺唯一の末寺であった事から、明治の廃仏毀釈の折、胎蔵界大日如来(京都七条仏所十代目康忠作)や諏訪七観音随一の千手観音が移されています。
本堂は寛永4年に大隈流伊藤長左衛門矩重が、山門は弘化3年二代目立川和四郎冨昌が建立。本尊の金剛界大日如来には正徳3年の銘があり、脇本尊として明応3年7月の銘のある神宮寺の胎蔵界大日如来が坐しています。また、本堂に安置されている仁王も必見。宮川氾濫の折、安国禅寺より流失し諏訪湖畔に流れてついた仁王像で下社神宮寺千手堂に移された後、巡り巡ってこのお寺にやってきたものなのです。厚い手が印象的。また、生糸の都と謳われた歴史の名残を、蚕霊供養塔(本尊・木造馬鳴薩坐像)に見る事が出来ます。実は住職さんによる砂曼荼羅が有名。

*下社神宮寺・・・海岸孤絶山法性院神宮寺。諏訪神社下社秋宮に隣接していた大寺院で室町時代には殷盛を極めました。下社大祝金刺氏の没落により荒廃し、後に武田氏の庇護を受け再興。明治の廃仏毀釈で破却。現在は宅地となっています。下社秋宮本地仏は千手観音。
三十二番 青龍山 真福寺

宗派 真言宗智山派

中興 頼賢

本尊 上品上生阿弥陀如来

岡谷市川岸上2-6-6 

TEL0266-23-6156

札所
諏訪三十三ヶ所観音霊場(観音堂・聖観世音菩薩)
諏訪郡霊場百番札所西10番(観音堂・聖観世音菩薩)
   
御詠歌
「光明のひかり三沢の観世音 行く先々を照らしたまえや」


口碑によれば昔、諏訪下社大祝金刺隆種が正平5年、高尾山城築城の折、鬼門除けの為に男高尾山西麓の寺平地籍に堂宇を創建したと伝えられます。唐松林の中には観音像を安置したといわれる蓮華形の自然石が残り、現在は地蔵座像が安置されています。
この辺りは筑摩・伊那・諏訪を結ぶ要所として、小野峠(岡谷方面からの呼称は三沢峠)が通る地域でもあります。後に堂ヶ窪地籍に移転。戦国時代の天正年中に移転。宝永3年(1706)に火災の為、三沢熊野神社隣の神田地籍に更に移転。当時はこの辺りが村の中心地だったのだそうです。文化年間(1804-1817)までは高野山の末寺でしたが、後に諏訪佛法紹隆寺の末となり、明治時代に真言宗智山派のお寺になりました。
本尊の上品上生阿弥陀如来は高さ52センチで室町時代中期作の宋朝様式。宝永の火災の折に罹災したといわれ、その蓮台の一部に名残を見る事が出来ます。
観音堂には雨乞いに使用された為、所々破損している厄除け聖観音菩薩を祀ります。高尾城下の武運長久をも祈願したといいますが、日照りが続くと村人は観音堂で祈願の後、太鼓を叩きながら高尾山へ登り雨乞いをしました。また時には観音様を怒らせれば天もお怒りになり大雨を降らせるだろうと観音像を天竜川に運び橋の上から投げ落とす事もあったとか。
三十三番 龍光山 昌福寺

宗派 真言宗智山派

創建 不詳

中興 寛文11年(1671)憲王瑜

本尊 十一面観世音菩薩 脇士 不動明王・毘沙門天

岡谷市川岸東4-16-5 

TEL0266-22-2982
札所
諏訪三十三ヶ所観音霊場終番(十一面観世音菩薩)
諏訪郡百番霊場札所西8番
   
御詠歌
「駆けいだす心の駒を引き止めて 慈悲のみ堂へ歩み運ばん」
 
諏訪伊那八十八番霊場16番
   
御詠歌
「法の道ここにさかゆく誓いあらば たのみはかけん此の世あの世」


はじめ龍光山観音院(小坂観音)の別当寺として湊小坂にありました。元の名を「正福寺」と称し、小坂氏の信仰の篤いお寺でしたが、その勢力が衰えると檀徒の多かった駒沢へと移転しました。この時に「正」を「昌」に改めたようです。記録によれば天文2年に堂山から阿弥陀如来を迎え入れ阿弥陀堂を建立したとあり、室町末期には移っていたのではないかと推定されています。元文5年九世頼意の時に諏訪の佛法紹隆寺の末寺となり、明治19年に大本山醍醐寺無量院法流末に、そして明治33年、京都智積院末となります。
本尊は小坂観音と同じ十一面観音菩薩。昌福寺には武田勝頼の安堵状が伝えられています。また、大正元年に寄進された、天竜川から出て諏訪三名石の一つといわれる竜の巻石があります。鰐口は明応5年遠州の九所大明神に寄進され、天正2年にこのお寺にやってきたと伝えられているもの。梵鐘は戦後の再鋳造のものですが、先代梵鐘は文化13年に寄進され、昭和16年戦争の為供出されました。昭和21年まで金沢市にありましたが、行方が分からなくなっていた梵鐘を探しあてた寺役員が金沢市に駆けつけたところ、なんと僅か8日前に溶かされてしまっていたとか。
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