遠江三十三観音霊場  
  第一番  一澤山 結縁寺

宗派曹洞宗

ご本尊聖観世音菩薩

創建未詳開基寺伝によれば弘法大師による

静岡県掛川市結縁寺54

TEL0537-22-5897

開帳33年毎
 御詠歌

「父母ちちははの恵みも深き結縁寺けちえんじ 閼伽井あかいの水に浮かぶ月影」


弘法大師が、貧しい僧に身をやつし諸国行脚しておられたとき、当地に水の不足していることを哀れみ、この地が「神代地かんだいじ」という場所であったことから「われ神に代わり清き流れを開き与えん」とおっしゃって、ここに観音堂を建て、自ら刻まれた観音像を安置されたという。里人はこれを「一の澤観音」あるいは「弘法堂」と呼んだという。(『小笠郡伝説集』)
 江戸初期ころからの観音信仰の隆盛により、参詣者が増えその「縁結び」「五穀豊穣」の霊験が知られるようになったといわれている。
現在の観音堂は元禄初年の焼失の後、宝暦9年近隣の寄付によって再建されたもの。屋根の頂上に露盤、伏鉢、その上の宝珠が鎮座した方形造りのたたずまいはまことに美しい。
 なお「結縁けちえん」とは仏道に入ろうとするものがその決心をすることである。遠江三十三霊場の一番寺として相応しい名称である
   第二番 保福山 常楽寺

宗派曹洞宗

ご本尊聖観世音菩薩
(木造・寄木・尺四寸 42cm・座像・伝春日明神作)

創建元和5年(1619年)

開基善祐僧

静岡県掛川市下俣南1-19-18

TEL0537-24-3553(管理者 掛川市下俣228 東光寺)
 御詠歌

「これやこの常に楽しむ寺なれば み法のりの船にさおやさすらん」

当初、常楽寺の西の別所に法福寺(保福寺とも)いう寺があった。が、衰えて常楽寺に合併されたと言われている。その時寺号を保福山常楽寺と称した。元禄3年時の住職が常楽寺に観音堂を建てて聖観世音菩薩を安置したところここに巡礼者が増えてきたという。
安政の大地震で堂宇は倒壊、明治初めに再建。しかし、昭和46年8月の台風で再び倒壊。さらに火災で焼失したという波乱の歴史を持っている。
   第三番 東陽山 長谷寺

宗派曹洞宗

ご本尊十一面観世音菩薩(木造・座像・90cm)

創建寛永6年

開基不詳

静岡県掛川市長谷 1615-1

TEL0557-22-5812

開帳秘仏・33年毎に開帳(次回は2021年の予定)
 御詠歌

「西国さいこくも東あずまも同じ長谷寺ちょうこくじ 詣まいる心は後の世のため」


『掛川誌稿』によると、本寺は、はじめ長照山東陽院とよばれ、掛川市高御所にある曹洞宗正法寺(4番新福寺のある寺)の末寺で、本尊は阿弥陀如来であったという。後に地名をとって、長谷山長谷寺と改めた。平成8年、都市計画により改築した。
本尊の十一面観世音菩薩は、右手に錫杖と念珠を持ち、左手は蓮華をさした水壜をたずさえていて、地蔵菩薩と観音菩薩の二徳・二刀を兼ね備えたものとされている。
これは同名の、奈良県桜井市初瀬の長谷寺の本尊の形になぞらえたものという。
参道正面には地蔵堂があるが、本寺は元来は地蔵堂の堂守であったという記述(『掛川誌稿』)もある。伝説の安産祈願の地蔵(木製)として知られている。
   第四番 鶏足山(曽我山) 正法寺内新福寺

宗派曹洞宗

ご本尊十一面観世音菩薩(木造・座像・25cm)

創建正法寺創建は応永17年

開基明円見珠大和尚

静岡県掛川市高御所1312

TEL0537-22-4668開帳昭和61年開帳。(次回は33年後の予定)
 御詠歌

「参るよりつみはあらじの新福寺 おんての花を見るにつけても」

嘉禎4年頃、このあたりに真言宗正眼院という寺院があったという。が、鎌倉中期には頽廃していた。室町中期応永17年、豊田郡野辺村(現在の豊岡村)の万世山一雲斎の明円見珠大和尚が、ここに正法寺を開いたという。
宝徳年間、二世見的の時代に本堂を建立したが、寛永4年焼失した。その後慶安2年江戸幕府より寺田38石を受けて蘇生、宝永4年 までに諸堂宇を復興したという。この時、寺号を鶏足山(鶏の足に似た山の形にちなむ)と改めたと伝えられている。新福寺観音堂は元高御所区北端の曽我 山上にあったが、明治23年廃寺となり、正法寺境内に移転した。
   第五番 法多山 尊永寺内北谷寺


宗派真言宗

ご本尊聖観世音菩薩(桧・一木造り・立像御身丈 36cm、総丈 61cm・製作者不 詳)

創建未詳

開基未詳

静岡県袋井市豊沢2777T

EL0538-43-3601

開帳決まっていない
 御詠歌

「北谷きただにや雪や氷とへだつれど 解けては同じ谷川の水」

明治5年の廃仏毀釈の嵐に無柱となった北谷寺を、法多山尊永寺の境内の石段横に移して北谷観音として祀っていた。
 が、平成10年9月24日夜半の集中豪雨により尊永寺本堂の石段が大崩落、そのため多数の樹木とともにお堂も土砂に流されてしまった。しかし、ご本尊は無事で、現在本堂横の東堂に祀られている。御朱印は尊永寺受付へ。
法多山尊永寺は、高野山釈迦文院の末寺で、行基上人が自ら刻した聖観音(一 般的に厄除け観音)を本尊として開基した勅願寺。最盛期一山六二坊を有して、以来「遠州の高野山」とたたえられている。
   番外 法多山 尊永寺  御詠歌 「やくよけの願いも深きはつたさん とうとき慈悲をながく守りて」
   第六番 篠谷山 岩松寺

宗派真言宗

ご本尊聖観世音菩薩(白檀・95cm・立像・伝行基作・平安中期)

創建神亀2年

開基行基

静岡県袋井市浅羽3598

0538-23-5351

開帳60年毎
 御詠歌

「ささ谷や岩に松風おとづれて すなわちみてら浄土なるらん」



岩松寺は、高野山理性院の末寺。神亀年間の創立と伝えられている。山岳仏教の流れを汲み、最盛期には、30の僧坊があったといわれる。慶安元年2月に24石の御朱印を受けている。
本堂観音堂は、正徳3年再建。元々は芽葺きであったが、明治になり、現在の瓦に葺き替えた。
また、行者堂には役の行者、地蔵堂には子安地蔵、大師堂に弘法大師(石造り)を祀っている。
本坊、客殿の本尊は不動明王(平安末期)を祀っている。永禄年間の兵火、寛文年間の失火などのため記録が失われたのが惜しまれる。
寺に伝わる「鰐口」には「東金谷・秀時作、大永2年4月17日」の銘があり、県の指定文化財となっている。
   第七番 福聚山 慈眼寺

宗派曹洞宗

ご本尊聖観世音菩薩(木造・立像・75cm・伝行基作)

創建元弘年間

開基慈眼寺殿精忠時国大居士(俗名:堀江新右衛門中務大輔時国)

静岡県袋井市掛之上8-2

TEL0538-42-2540

開帳33年毎正月18日初観音、大般若大祈祷会を厳修
 御詠歌

「慈眼じげんしてみちびきたまえ法のりの道 ただひとすじにたのむ観音」


創建時は山名軍笠西村高部(現袋井市高尾町袋井駅付近)にあった。当時は那智山観音堂と号し、天台宗であった。
この地に後醍醐天皇の皇子が行堂を建てて住まわれた。皇子は、正平7年(1352) 病を得、10年に没した。その従者堀江新右衛門時国が、皇子の逝去を嘆いて観音堂を建立したと伝えられている。寺には、その辞世が残されている。「しるは潟磯の高部による浪のあはれうき世をうみのはて哉」
その後時国の子孫、政久氏が元和年間に再建。禅僧観補黁察和尚に請うて開山とし現在の寺号に改めた。
延宝3年焼失したが再建。安政の大地震による大破、大修理。明治34年現在地に移転。昭和19年の大地震後大修理。昭和55 年、創建650年を記念事業として本堂新築。
   第八番 月見山 観正寺

宗派曹洞宗

ご本尊六観世音菩薩

創建不詳

開基不詳

静岡県袋井市下山梨267

TEL0538-48-7131(管理者 袋井市下山梨524 成道寺)

開帳33年毎(次回2017年)
 御詠歌

「幾度いくたびも参る功徳くどくのたまりぶち 浮かぶ救世ぐぜいの舟寄ふなよせの松」


この寺の寺号は「月見山」だが、この由縁について、『掛川誌稿』によると、周智郡には、上山梨、中山梨、下山梨の三村があってその隣に豊田郡沖山梨もある。
この四村は平安期には「山名郷」に属している。この山梨一帯より南側には 山がまったく無く、まさに山無しの地域であって、古い地図には「月見里」と 書いて「山なし」と読ませているという。「月見山」の寺号はこれによると考えられる。
上山梨の「正福寺」には橘逸勢が遠江に流された時の歌「古里も今ははるか に遠江月はくまなし山なしの里」が残されているという。
 本尊の六観音というのは、守り本尊十一面観世音菩薩、聖観音、如意輪観音、 千手観音、馬頭観音、不空羂索観音の六観音、他にもう一体、准胝観音が加わっている。
   第九番 岩室山 清瀧寺

宗派真言宗

ご本尊聖観世音菩薩(木造・立像・105cm・平安後期の作)

創建平安期

開基伝弘法大師

静岡県磐田市岩室227

TEL0539-62-3723(管理者 磐田市岩室115-1 佐野邦雄)

開帳毎年二月初午に例祭開帳
 御詠歌

「岩室いわむろのこけの細道踏み分けて 参る心は浄土なるらん」


平安時代、空海により真言密教が伝えられると、全国各地に山岳寺院が造営されることとなった。その時代に、この地岩室に大寺院が造られたと考えられ ている。それは、この観音堂を中心に大礎石が並ぶお堂や石段があり、また布目瓦や土器などが多数出土、さらに北谷土中より大日如来頭部(約120cm)と仏 像二体(立像150cm)が発掘されていることなどからも明らかだ(これらは豊岡 村の指定文化財となっている)。しかし、戦国時代の織田信長によって、この寺院は観音堂を残して村落もろとも焼き尽くされたという。
またこの岩室一帯には、当時を物語る地名や墓石銘なども残されている他、弘法大師に関する伝説もいくつかある。
   第十番 八形山 安住院 蓮華寺

宗派天台宗

ご本尊聖観世音菩薩(木造・立像・70cm・伝慈覚大師作・伝天長8年作)

創建慶雲元年

開基文武天皇勅願 行基上人開創

静岡県周智郡森町2144

TEL0538-85-5374

開帳60年毎
 御詠歌

「はちすばやなにあふ寺の法のりの声 雲ゐにひびく入相いりあいの鍾かね」


文武天皇の勅願によって創建。開基は行基上人。東海道における法相宗本山 として一里四方の寺領を誇った。寺記によれば、八形山には36坊の諸堂があり、学問寺として栄えた。天長8年(831)慈覚大師円仁が在住したとあって、その格式がしのばれる。裏山には両師供養の五輪塔が立っている。
戦国時代、今川、徳川、武田の戦火に焼かれ全山が灰となった。
寺の文化財記念館(平成15年、開創1300年を記念して開館)には、天台大師像(県指定文化財)木喰上人の刻んだ子安地蔵尊像(132cm)、今川義元の寄進状、徳川家康の朱印箱などが多数展示されている。墓地には、戦国時代の墓も見られる
   第十一番 高平山 遍照寺内観音寺

宗派真言宗

ご本尊十一面観世音菩薩(木造・立像・84cm・仏師大橋劔之介作・明治37年8月再製)

創建元和元年

開基木喰秀海上人

静岡県周智郡森町飯田2130

TEL0538-48-6758

開帳昭和2年開帳(次回予定なし)
 御詠歌

「宝をばぐぜいの船につみおさめ 五色ごしきの島へつくぞ嬉うれしき」


開創は江戸初期。高野山の木喰秀海上人による。観音堂脇に鎮座する青銅製 大日如来座像(5・28メートル・享保3年建立)は東海一とうたわれ、姿、顔の美しさは人々の心を引き付けてやまない。縁結びのご利益の評判も高い。県指 定文化財。
本堂は方形造り、頂点に大きな宝珠。本尊に弘法大師を祀り、その唱号「南 大師遍照金剛」から、寺号を「遍照寺」としている。
観音堂は、明治5年森町鴨谷の観音寺より移築されたが、平成14年4月、老朽化のため、屋根没落、解体した。
   第十二番 神宮山 長源庵 山崎

宗派曹洞宗

ご本尊如意輪観世音菩薩(木質乾漆金箔・半跏思惟像・台座共60cm)

創建寛永元年

開基不詳

静岡県掛川市寺島1540

TEL0537-26-0024(最福寺)

開帳33年毎(次回2020年)
 御詠歌

「昨日たち今日きてみれば山崎の 谷に霜ふる峰の平松」



応永年間初期、大高山麓にあった大洞院の六門、円通院の門前、寺田村山崎 の地に仏堂があり、如意輪観世音菩薩を祀っていたことが寺記にある。その後 維新の際に、現長源庵の境内に移築されたと言われている。従って現在「長源庵山崎」と称しているのは、元来観音堂のあった所が寺田村の山崎であったことから、その観音堂を移転合併した長源庵という意味だろう、ということである。
観音堂の中には、地獄極楽の絵図が2枚掲げられている。元禄時代のものとされているが、彩色はまだ鮮やかだ。
元禄14年)7月銘の鰐口、天保8年(1837)8月銘の鐘などが、この寺に寄せられた信仰の篤さを物語る。
   第十三番 大尾山 顕光寺

宗派真言宗

ご本尊千手観世音菩薩(榧寄木・立像・伝行基作)

創建大同2年

開基掛川市本郷長福寺2代智顕上人

静岡県掛川市居尻482

TEL0537-25-2251

開帳秘仏大祭日3月17日
 御詠歌

「はるばると登りて見れば大尾おびてらの 雪も氷も解けてながるる」」


掛川市本郷長福寺の第2代智顕上人が、大同2年(807)2月17日に、「ひょん の木(いすの木)の茂る山頂、此処に我を祀り広く功徳を施せ」との霊夢を見 て、この地に観音堂を建て千手観世音菩薩を祀ったのが始まりと伝えられている。『掛川市誌』によれば文亀2年(1502)鋳造の金鼓に、当寺院に常住する者 (おそらく修験者)があったことが記されているという。
海上安全、子授け、子育て、厄除けなどのご利益が知られ、また、江戸時代には掛川藩の祈祷所として手厚く保護され、信仰を集めてきた。
   第十四番 瑞霧山 大雲院内知蓮寺

宗派曹洞宗

ご本尊聖観世音菩薩

創建大雲院開創は天正2年

開基蘭室宋佐和尚

静岡県掛川市上垂木87

TEL0537-26-0553

開帳33年毎
 御詠歌

「とうとやときていまたきのみすじがわ よろずよかけてすすぐぼんのう」


大雲院の本寺は、静岡の安倍川の西慈悲尾にある増善寺である。今川義元の 父氏親の開基になる。増善寺第七世蘭室宋佐和尚がこの地に閑居し、大雲院を営んだという。
『掛川誌稿』によれば、この寺の末寺に知蓮寺があり、観音が祀られていたが、延享4年堂守がいなくなったため、坂下の「地蔵院」に移転されていた。
昭和50年になり、現在の大雲院境内に観音堂が新築され安置されることとなった。観音堂脇には六地蔵堂が並び、また境内右の石垣の中には、小さな「穴観世音菩薩」が祀られている。からだの穴にあたる部分の病気にご利益があると言われている。全快した信者はそのお礼参りに、穴のある自然石を供えることになっているという。
観音堂の本尊「聖観世音菩薩」と並んで、「文殊菩薩」が祀られているが、この台座とその上の座像はともに焼き物(瓦)で、この像を水洗いしたり濡れた布巾でふくと白い粉を吹き出すという不思議な現象で知られている。知恵の仏として信仰を集めている。
   第十五番 五台山 文殊寺内浄円寺

宗派曹洞宗

ご本尊十一面観世音菩薩(木造・乾漆・座像・24cm・伝恵心僧都、あるいは行基作)

創建文殊寺創建は長徳年間

開基如雲闇公

静岡県掛川市初馬2855

TEL0537-22-6922

開帳33年毎 昭和61年開帳
 御詠歌

「浄くしてまどかに照らす朝日影 これも仏の慈悲のまんぎょう」


文殊寺=長徳年間の創建、開山は如雲闇公、当初五台山清源院文殊寺と号した。本尊は宝月智厳音自在王如来=は粟ケ岳の裾野にあたり、かつて初馬の六万法にあって大きな寺院であったが、天文年間に兵火に遭って焼失した。しかし現在でも山門や本堂(本尊薬師如来・文殊菩薩)などの規模は、往時をしのばせる風格がある。
浄円寺観音堂=元禄初年頃建立か。弘化2年十四世大提によって新築=は、立派な宝珠がのった方形造りで美しい反りを見せている。堂の正面には「圓画」の扁額が掲げられている。完全な悟りを意味する「圓覚」に通わせた言葉かと思われる。毎年秋の彼岸には、参詣者が雲の如く、また風の如くに集まるという。
観音堂に並んで三十三観音が鎮座している。
   第十六番 龍洞山 真昌寺

宗派曹洞宗

ご本尊馬頭観世音菩薩(城山観音)(木造寄木・座像・80cm・伝行基作)

創建寛永3年4月(観音堂は室町時代)

開基永江院九世

静岡県掛川市水垂1230

TEL0537-22-3931

開帳33年毎(次回2031年)
 御詠歌

「なむあみだ仏ほとけもおなじ観世音 ちかいあらたにまもりたまえや」」


水垂最北端、室町期、河合一族の山城「水垂城」に、武運、領民守護を祈念して馬頭観世音菩薩を祀ったのが始めという。応仁の乱の余波と今川氏西侵により明応5年落城。堂宇は焼失したが観音像は難を逃れた。寛永3年永江院九世建庵和尚により、観音菩薩別当寺として「仏法の真に昌んなること龍が洞を出るが如し」として寺号を「龍洞山真昌寺」と定め開創し、観音堂を再建した。
その後天明7年伽藍消失、安政の震災により観音堂倒壊、万延元年再建と多難な歴史を乗り越えてきた。
平成7年本堂を改築した折、その中央部より室町期観音堂の礎石が出土した。平成9年、地域住民により観音堂を改築、同時に「水垂高森聖観音」(掛川城主山内一豊の護持仏)を合祀した。
   第十七番 日林山 天養院

宗派曹洞宗

ご本尊聖観世音菩薩(木造・座像・25cm・伝弘法大師作・伝慶長年間)

創建慶長年間

開基龍雲四世祥山麟和尚

静岡県掛川市宮脇4-3

TEL0537-22-7739(管理者 掛川市宮脇156-1 小関俊象)

開帳秘仏・33年毎に開帳(この間16年、または17年に中開扉)。昭和61年開帳。平成10年中開扉(次回2019年)
 「ふだらくやここにありける成る滝なるたきの やなぎの上に吹くや松風まつかぜ」


古文書によると、天養院は今から四百年前の慶長年間に創立。
明治初年に政府の出した神道国教化政策(廃仏毀釈)の影響を受け、明治6年に廃寺となり、御本尊は菊川市の本寺である龍雲寺に移された。ところが、昭和初期、宮脇地区にたびたび疫病が蔓延、死亡者が出るなど多くの人々が苦しんだとき、この御本尊を龍雲寺から再び天養院へお迎えした。
安置したところ、たちどころに一切の悪疫が退散したと伝えられている。以来、このような霊験が知られ、毎年秋の彼岸会には多数の参拝者を集めている。
毎月第三日曜日には、宮脇地区の当番組によって献灯、献茶が行われ念仏愛好者による御詠歌の奉詠も行われている。
   新福寺 第十八番 新福寺

宗派曹洞宗

ご本尊十一面観世音菩薩(金乾漆・立像・70cm・伝行基作)

創建享徳2年

開基村民による

静岡県掛川市逆川149

TEL0537-27-0391(管理者 掛川市逆川187-1 加藤鋼一)

開帳33年毎 昭和63年4月開帳(次回2021年)
 御詠歌

「はるばると登りて見ればさよの山 不二ふじの高嶺たかねに雪ぞ見えける」


大正11年9月、堂宇修理の際、発行された寄進の依頼状の由来には、次のように記されている。
後花園天皇の享徳2年の七月飄然と異僧来り、仏教三世の因果応報を説き、村民を感動させ、僧は、我は諸国巡廻の祈願を果たすもの故にそれは叶わずと、代わりに行基菩薩の御作の十一面観世音菩薩を与えて去った。
村民はおおいに喜び、小堂を建ててこれを安置、村民の信仰を集めた。堂は天文5年に再建、その後、遠江三十三観音十八番札所となり、四百数十年の間、村民や巡礼の人々の厚い信仰を集めている(瀧茂『心の旅路を歩く』)
由来を、御詠歌の内容と照らし合わせた時新福寺は元来この地にあったのではなく、小夜の中山にあったものと考えられる。古老の伝えるところ、あるいは昭和初期発行の寺札によると、新福寺は小夜の中山久延寺の奥の院であったとのことである。上に記されたように、現在地の堂宇はかつて天文5年に再建されたという記録がある。とすればそれ以前、すでに何らかの理由で小夜の中山を下りたということだろう。
    第十九番 明照山 慈明寺

宗派曹洞宗

ご本尊聖観世音菩薩(桜寄木・金色塗・座像・33cm・台座三段六角形・伝行基作)

創建永享3年創建 

元禄15年再建

開基不詳

静岡県掛川市小原子134

TEL0537-27-0374(管理者 掛川市小原子120-1 河村泰雄)

開帳33年毎
 御詠歌

「もち月や明らかなるをしるべにて 歩みをはこぶ人ぞたのもし」


伝説によると、昔、この山中に一人の美女がやって来た。村人に「観音経に帰依した人の妻となって、子供を養育します」というので、村人はこぞって結婚を申し込んで来た。女は「私は一人だから多くの人の妻にはなれません。もし私を思うなら観音経を読んで下さい。そうしたら必ずあなた方の童子童女を守護します」と言い、観音像一体を残して姿を消した。これは小夜の中山の子育観音の化身に違いないというので一同、これより観音経に帰依したと言われている。
堂内に幕末キリシタン禁止の高札がある。
   第二十番 子安山 観音寺

宗派曹洞宗

ご本尊如意輪観世音菩薩(木造・半跏思惟像・60cm・伝行基作)子安観音

創建不詳 天正17年(1589)の再興か

開基未詳

静岡県掛川市伊達方(大原子)1420

TEL0537-27-0056(管理者 掛川市千羽2460-2 榛葉達男)

開帳33年毎 昭和59年4月開帳(次回2017年)
 御詠歌

「父母ちちははを助け給えの観世音 心をつくすのりのしるべに」


通称子安観音として親しまれているこの観音寺は、安産・子育てに霊験あらたかで、安産祈願の御腹帯を現在でも貸し出しており、遠江の祈願者が絶えない。
本堂の棟札には、天正17年4月の記録とともに「佐野郡千羽郷大原子村、徳川殿御代、御地頭長戸上の時」とあるので、長戸上すなわち掛川城主、石川日向守家成の子、長門守康通はの時代の建造であることがわかる。長門守康通は、天正12年に父の後を継いで掛川城主となり、その後6年間城主を勤めた。
本寺は、天正2年に火災に遭っており創建当時の記録が失われたのが惜しまれる。
   第二十一番 宝聚山 相伝寺内光善寺

宗派浄土宗

ご本尊聖観世音菩薩(木造・立像・39cm・伝慧覚大師、あるいは見石庵作)

創建天長2年か永保年間とも。

開基片岡清兵衛

静岡県掛川市日坂928

TEL0537-27-1567

開帳秘仏ではなく、8月10日が縁日
 御詠歌

「春は花秋はもみじの露までも 宿れる月も光よき寺」


天長2年創建とされる、「天台宗 紫雲山 光善寺」(東山椎林)が元来とされている。御詠歌の「光よき寺」がそれである。
現在の「相伝寺」は、日坂本陣扇屋当主片岡清兵衛が京より僧を招いて慶長2年に開基した。清兵衛は、当時、役人大名による日坂宿の人足手当ての支払いが、三年後に履行されるという習慣のために困窮するのを見兼ね、江戸幕府に直訴して死罪となった義民である。しかし直訴は認められ、日坂宿には毎年五百十六俵の米が支給されるようになったという。日坂では今でも清兵衛を「五百十六俵様」と呼んで敬っている。
清兵衛は観音信仰篤く、その資材をなげうって創建したのが現在の相伝寺である。なお、片岡家は代々清兵衛を名乗っており、上の清兵衛が開基清兵衛と同一人であるかは不明。
観音堂脇には、三十三体の観音石像、廃寺となった威法院の千浦地蔵(六地蔵)、延命日限地蔵などが安置されている。
   第二十二番 天王山 観泉寺内長福寺

宗派曹洞宗

ご本尊千手千眼観世音菩薩(木造・立像・41cm・製作者不詳・江戸後期)

創建伝・大永7年
開基村内の杉山吉左エ門ら近隣の同志とはかって小堂を建立か

静岡県掛川市東山1219

TEL0537-27-1247

開帳正月三が日のみ開帳
 「おしなべて仏あらたと聞く時は もと木うら木も南無観世音」


本寺は粟ケ岳の麓、東山の地にある。周囲はまさに山紫水明、一面の茶畑が広がっている。
かつて、徒歩での巡礼が盛んだった頃、巡礼の多くはこの寺に参拝、投宿して翌朝粟ケ岳山頂の二十三番観音寺を目指したものだったと古老が語る。古来山岳信仰の一面を残した地なのである。
境内には三十三観音石仏が並び、また弥勒菩薩にちなむ四十九院の塔婆石塔が並んでいる。これらは、嘉永元年当時の住職超岩物宗和尚が信徒と謀り、冥福結縁の為、西国三十三所を擬して請祀したものである。
位牌堂の片隅には不動明王像が祀られている。大正期、歴住大為弘学和尚が熊野詣での途次、熊野川の筏師が川の中洲に安置し信仰していた像を譲り受け、招来したものという。その後、御前崎など近辺の漁師の信仰を集めた。
   第二十三番 無間山 観音堂・龍谷山 常現寺内観音寺

宗派曹洞宗

ご本尊十一面千手観世音菩薩(木造・座像・110cm・伝弘法大師空海作)

創建弘仁2年3月17日

開基伝空海

静岡県掛川市日坂506-1

TEL0537-27-1050

開帳8月9日百万遍祭、秋彼岸に開帳
 御詠歌

「ちさとまで一目ひとめに見ゆるおとこ山 仏の誓い頼もしきかな」


天平年間に、修験者弘道仙人が釣鐘を造立して粟ケ岳山上の松の枝に掛けた。これが観音寺の歴史の始めと伝えられている。なお、この鐘が「無間の鐘」と称された伝説の鐘である。
弘仁2年3月、弘法大師空海がこの粟ケ岳に登り小堂を作り仏像を安置したといわれている。その後承和年間に僧長然が草創座主となり、更に宝治年間僧恵徹(岐阜妙応寺)が上山、曹洞宗無間山観音寺と改称したことが『掛川市誌』にみえる。
現在の堂宇の建造年代は不明。老朽化がすすんだため、平成5年春御本尊は山を降り修理、平成6年春常現寺に安置された。
常現寺は、二十一番相伝寺で述べた義民片岡清兵衛の菩提寺。この寺も彼の発願によるもので、その墓石、供養塔(五輪塔)がある。
   第二十四番 岩崎山 観音寺

宗派曹洞宗

ご本尊十一面観世音菩薩(木造・立像・87cm)

創建応永期か

開基久翁長公座元

静岡県島田市志戸呂839-1

TEL0537-46-2407(管理者 島田市志戸呂837 下島康悦)

開帳毎年秋彼岸に開帳。区民によるお茶の接待をしている
 「田子の浦伊豆山かけて大井川 岩崎照す秋の夜の月」


寺は、金谷坂の曹洞宗金龍山洞善院の末寺で、江戸初期まで観音寺坂の途中にあったと伝えられている。江戸中期に久翁長公座元が開基となって開山。本尊は薬師如来。
明和6年になって海牛見老和尚が観音寺坂より現在地に移転、観音堂を中興した。平成13年に観音堂を移動再建したが、解体した堂宇芯柱に「文化十年再建成す、天下泰平 国家安全 五穀成就」とあって文化10年に再建されたことが知られる。
堂内の古い厨子には准胝観音が祀られている。准胝観音は通常三眼八臂(腕)であるが、ここの本尊は二眼二臂。あらゆるものを清め、様々な願いをかなえてくれる観音である。また、弘法大師像と思われる立像が祀られている。
   第二十五番 松島山 岩松寺

宗派曹洞宗

ご本尊聖観世音菩薩(木造・金彩色・立像・63.5cm)

創建当時は「十一面観世音菩薩」

創建天和元年11月開基文宋大和尚、当地の信徒高木氏らと謀る

静岡県島田市菊川1447

TEL0547-45-4988(管理者 島田市菊川1483 山本達夫)

開帳33年毎。昭和35年秋、平成2年秋彼岸に開帳(次回2023年)
 御詠歌

「とかえりの松に涼しき風立ちて 谷にたえなる音は菊水」


本堂に安置された厨子の背後に墨書きされた記事に「天和元年辛酉霜月念四日、欽敬日に、奉造立斯地蔵殿、壱宇、文宋代也、願主、高木治三郎、雲母浩右衛門、宇野太郎兵」とあって一応、これを創建と考えている。
本堂西側にある小堂宇の観音は「歩き観音」として知られている。
昔、ある日のこと、火剣山の山道にひっそり立っている観音様を見た里人が、「観音様さぞさびしかろう」と、背中に背負って小夜の中山峠にやってきた。「この辺は上り下りの旅人が多いので、退屈なさることもあるまい」と、道端に据えて帰った。
ところが、翌朝火剣山に草刈りに行って見ると、昨日確かに中山峠に移したはずの観音様が元の場所に立っているではないか、しかも、足許が土埃にまみれて…。
観音様が自分で帰ったに違いないというので、この観音様を「歩き観音」と呼ぶようになった。足腰の痛みのある方にご利益があるといわれてる。
    第二十六番 杖操山 妙国寺

宗派曹洞宗

ご本尊十一面観世音菩薩(木製・座像・30cm・台座金製)

創建元和2年普門殿(観音堂)寺となる

開基金谷町洞善院九世実参黙真大和尚

静岡県島田市神谷城1609

TEL090-1562-7811(管理者 牧之原市相良149 心月寺)

開帳33年毎(次回平成18年秋彼岸)
 御詠歌

「はるばると参りておがむ観世音 罪深くとも救い給えや」


この付近は、旧金谷町神谷城という名にその名残がうかがえるように、菊川に続く隠れた要路であり、応仁の乱ごろから戦国の時代は、東海道の激しい喧騒を少し外れたこの場所に隠棲する人々が住みついたものと言われている。
 妙国寺は、およそ500年前に、現在地より300メートル上った「寺の跡」(てらがいと)と呼ばれる場所に、普門殿という観音堂が、そうした人々によって創建された後に寺となったことが、妙国寺過去帳に記されている。寺となったのは、元和2年丙辰年。その後、金谷町・洞善院九世実参黙真大和尚=享保元年丙申年5月14日示寂=が開山となり、現在地に移して善門山妙国寺とした。
 その後、明治末期ごろに、現在の杖操山妙国寺と改められた
   第二十七番 瀧生山 永寳寺内慈眼寺

宗派真言宗

ご本尊十一面観世音菩薩(木製・立像)聖観世音菩薩(金銅製・立像)

創建不詳。中興 元和2年

開基不詳

静岡県菊川市西方6748-1

TEL0537-35-2975

開帳33年毎
 御詠歌

「さえいずる月をながむる瀧の水 かみすみぬれば下も濁らず」


旧小笠郡唯一の修験道寺院。代々「滝の谷法印」と俗称された檀家をもたない祈祷寺として信仰されている。
『掛川誌稿』には、「西方村、観音堂、滝の谷にあり。此観音は旧慈眼寺の本尊也。潮海寺道に宝蔵坊と呼ぶ所あり。以前某所に寺ありしと云。寛文八年の鰐口に「川村庄慈酬寺」と刻せり。観音巡礼二十七番の札所也」とある。
天和3年春、観音堂移築造営の折にその土中から聖観世音菩薩(金銅製・立像)が出現した。第二代目、久仙法印の時に開扉供養を行い以来両観音を本尊として祀っている。
裏山には、十二支守り本尊の石仏が8体「南無阿弥陀仏」銘の石塔などがある。また、樹齢200年以上の海棠の古木を始めとした花木がよく手入れされて心なごむ。
   第二十八番 拈華山 正法寺

宗派曹洞宗

ご本尊聖観世音菩薩(寄木造り・座像・72cm・運慶作、あるいは逢雲作)

創建天正2年
開基堀田正法の開基。

開山は龍雲院三世実伝宗貞和尚

静岡県菊川市西方1329

TEL0537-35-3612

開帳秘仏。33年毎
御詠歌

「やつたにや梅の名木のりの寺 うしおにひびく鐘のおとづれ」


『菊川町史』によると、「曹洞宗正法寺(西方堀田)天正2年宗貞開創 山号を拈華山と称し、聖観音を本尊とする。この本尊は鎌倉の仏師運慶の作と伝える。安政3年(1856)冬、失火に諸堂ことごとく焼失も本尊はその厄を免れたが諸堂の再建は明治の廃仏毀釈に阻まれ、小堂を建立するに止まった。大正14年現在の堂塔を竣工する」とある。
堀田城城主堀田正法が開基となり龍雲院三世実伝宗貞を招いて開創したということである。
本尊は聖観世音菩薩であるが、一般にその地名から「八ツ谷観音」と呼ばれている。御詠歌にあるとおりである。
厄除け観音、子育て、縁結びの観音様としても篤い信仰を集めている
    第二十九番 国源山 正林寺内磯辺山

宗派曹洞宗

ご本尊聖観世音菩薩(木・乾漆造り・立像70cm・作者不詳)

創建永正14年国源山昌桂寺(現在の正林寺)

開基今川氏親

静岡県菊川市高橋497

TEL0537-73-2221

開帳秘仏・60年毎(次回2052年の予定)
 御詠歌

「はるばると登りてみれば磯辺山いそべやま 小松かき分け出いずる月かげ」


文明8年駿府城主今川義忠が遠州に進攻し、見付城の斯波氏らを破っての帰路、4月6日夜半この塩買坂にさしかかったところ、地の利に詳しい横地の残党が奇襲、義忠は流れ矢を受けて戦死した。その41年後の永正14年義忠の嫡子氏親が、この地を平定したことから、国源山昌桂寺(現在の正林寺)を開いて、父の菩提を弔ったのがはじめという。境内には従って今川義忠の墓、開山堂には義忠の木像が祀られている。
昌桂寺は、天文20年昌林寺と改められ、関ヶ原の合戦の頃に、正林寺と改められた。
五穀豊穣のご利益が知られている。
  第三十番 宝珠山 盛岩院内青木山

宗派曹洞宗

ご本尊聖観世音菩薩(木造・座像・胎籠り仏・弘法大師作)

創建天文8年

開基覚仲素文

静岡県掛川市岩滑3868-1

TEL0537-74-3375

開帳秘仏・33年毎(平成元年4月開帳)
 御詠歌

「ゆき見よと誰いそぐらん 磯山の松の葉こゆる沖つ白波」


数百年前は、現在の旧小笠町平川及び峯田、旧大東町中地区、菊川市下内田一帯は湖水で、青木寺のあったあたりは、この湖水に突出した老松繁る丘であったということである。
天文8年、青龍院の覚仲素文が盛岩院二世となり、塔頭を建て弘法大師作と伝えられる聖観世音菩薩を祀って青木寺と号したという。
青木寺観音堂所蔵の鰐口には、「遠江州笠原庄岩滑郷新福寺、時長禄戊寅2年3月吉日、願主大工十郎」とある。新福寺は、青木寺の前身かと思われる。
   第三十一番 紅梅山 菊水寺

宗派曹洞宗

ご本尊千手千眼観世音菩薩(寄木造り・立像・60cm)

創建不詳 元禄4年再興

開基不詳

静岡県掛川市岩滑1273

TEL0537-74-3415(管理者 掛川市岩滑3278-1 加藤勝司)

開帳33年毎(平成5年9月24日開帳)

 御詠歌

「岩滑いわなめや春のあしたに来て見れば 梅の梢こずえにうぐいすの声」


昔、岩滑村に堂塔を並べた古刹があったが、戦国時代、戦乱に巻き込まれ、地蔵堂と観音堂を残してすべて灰になってしまった。その後、寛文12年10月大洪水に襲われ、観音堂は御本尊ともども失われてしまった。しかし、御本尊はその後、村内の山ぎわで発見され、元禄4年、村の真言宗修験道繁昌院中島家先祖が自宅内に堂宇を建て、これを祀ったと言われている。これが菊水寺の始まりである。
 本尊の千手千眼観世音菩薩は、いわゆる六観音のひとつであり、両眼両手のほかに、左右十手を具し、その中に一眼ずつを有するという姿をしている。
   第三十二番 如意輪山 今瀧寺

宗派真言宗

ご本尊如意輪観世音菩薩(木造・座像・30cm・天平元年)、

行基作の一刀三礼の秘仏)

創建天平元年

開基行基(聖武天皇の勅願)

静岡県掛川市今瀧213

TEL0537-74-5339

開帳60年毎
 御詠歌

「旅衣ころもきていまだきをながむれば 砕くだけて見ゆる有明の月」


天平元年聖武天皇勅願、行基による創建という古刹にふさわしい広い境内を有している。山門はいぬ槙の大樹の枝葉を刈り込んで作られたみごとな造形美で必見(市指定重文)。
本寺は真言密教の道場として繁栄し、多くの信者を集めてきた。しかし、戦国時代に入り、武田、徳川の、高天神城を巡る攻防の際に戦火を受けて、堂宇伽藍、文化財、記録などすべてを焼失した。
元和8年当時の人々により再興。戦火で人材を失うことのなきよう、安産を祈願、祈願布を筒にし、祈願成就の折には底を縫ってお礼参りをする習慣が生まれ、今日に続いている。
本寺には高齢者の為の観音が祀られていて近隣の信仰を集めている。
   第三十三番 佐束山 岩井寺

宗派真言宗

ご本尊聖観世音菩薩(木造・立像・行基作)

創建天平13年

開基行基(聖武天皇の勅願寺)

静岡県掛川市岩井寺32

TEL0537-22-5213

開帳33年毎
 御詠歌

「山高き峰のいおりに住む人は 雲にはつせの風やまつらん」

「慈悲の目ににくしと思う人はなし 罪あるものはなおもあわれむ」

「巡礼をみなひとごとにするならば いづく地獄という月のかげ」

「いままでは親とたのみしおいづるを ぬぎやおさむる岩の井の寺」



第45代聖武天皇の命によって、新仏三体を持って都を後にした行基上人は、この地に入って不思議な霊力を感じた。そこでこの地を仏法守護の霊山として、本尊救世大悲の像を安置した。時に天平13年(741)正月。
弘仁の頃、空海が行脚、真言密教の道場としてここに国家安穏仏法興隆のために金剛頂経(真言宗の根本経典)一巻を奉納。
足利尊氏は、圓教僧都を中興の開山としてここを、九谷山平林寺と改め、また、応永9年足利義満の時、佐束山岩井寺と改めた。
永禄〜天正年間、甲州武田軍の度々の乱入により七堂伽藍の全てを焼失した。まことに残念なことである。
慶長年間、横須賀城主大須賀康高が当山に帰依、現在の伽藍の一部を寄進したものと伝えられている。
     
風と空と雲と・・・・・・・
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