小坂神社

延喜式神名帳 小坂神社 信濃国 高井郡鎮座

現社名 小坂神社

長野県須坂市井上町 2578
       
祭神 小坂神 誉田別命
 大洞山麓に近く、鮎川末端の湧水線直上であり、この地域を開発した古代氏族が、ムラの上方湧水線直上に祀つたのが当社であろうと推定される。
中世信濃源氏の名族井上氏がこの地に拠り、当社の西北隣地に居館して以後、源氏の奉齋神「八幡宮」の名で通つてきた。
明治中期に祭神を大和国宇陀郡男坂(ヲサカ)神の分霊と変えた


鎮座地 須坂市井上小坂二五七八当社は十世紀の延喜式に載せられている名神です。祭神は古代この地方一帯を開発した氏族の祖神又は勤請神と考えられますが具体的には不明です。十一世紀後半清和源氏井上氏がこの地に入国して当社後方に居館を営んだとき八幡神を当社に祀りました。
高井郡式内六社の中で、社名と社地が確定しているのは当社だけです。鎌倉時代の史料に、地名「小坂」が現われ、現在まで続いているからです。
境内は北信濃特有のケヤキの純林で、須坂市天然記念林に指定されています。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁
   
 墨坂神社

延喜式神名帳 墨坂神社 信濃国 高井郡鎮座

現社名 墨坂神社

住所 長野県須坂市大字須坂芝宮1048
       
祭神 墨坂神 健御名方命
 本殿の主神は墨坂大神で奈良榛原から勧請したといわれる。建御名方命を合祀している。創立年月は不明であるが、「延喜式」には延喜7年(907)の頁に記載あり。芝宮は、市川が今の市内の地を乱流していた時、須田氏が大日方地籍で瀬替えをして、今のように流れを替え、荒れていた宮地を整備したといわれる(「勧進帳」承応元年(1652)神社神宮 山岸図書太夫)。代々の藩主に崇敬され厚く保護され、旧須坂町の中心的神社。
弥栄社のご祭礼は須坂を代表する夏祭り。
「墨坂」の社名については社論があるが明治になって、八幡社と共に、両社とも墨坂社・県社となる。宮前の駅へ通ずる道が開けたのは大正11年。その道が更に高橋町に向かって開かれたのは昭和52年。


墨坂神社の創建は不詳ですが伝承によると天武天皇白鳳2年に大和国宇陀郡榛原に鎮座していた墨坂神の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。平安時代に編纂された「新抄格勅符抄」によると天応元年に「墨坂神一戸信乃」との記載がある事から少なくともその当時、本社とされる大和国墨坂神社の神封が当地にありその鎮守社として分霊が勧請されたと思われます。延長5年に編纂された延喜式神名帳に式内社として記載された高井郡6座の内の1座で古くから当地の産土神として篤く信仰されてきました。大正7年には旧境内から甕・横翁・坩・壷などが発掘、その中でも壷は1600年以上の遺物とも云われ所有の経緯は不詳ですが歴史の長さを感じられます。
 墨坂神社

延喜式神名帳墨坂神社 信濃国 高井郡鎮座

現社名 墨坂神社

長野県須坂市大字小山 1593-2
       
祭神 墨坂大神 帶中津日子尊 気長足姫尊 品陀和気尊 天照大神
 (配祀)健御名方命 (合祀)菅原道真 天照大御神 火産靈命
 往古大和部族移住に際し同国宇陀郡榛原より墨坂神を遷祀したという。現在の須坂市の東方日瀧地区の本郷にその古八幡という地名があり、少しの原野が現存している。そこが、当社の原位置とされる


当社は其の草創年月不詳と雖、住古大和部族移住に際し同国宇陀郡榛原より墨坂神を遷祀したるものなり。
一に白鳳2年ともいう。貞観2年10月15日男山八幡より八幡神を勤請し爾来墨坂神社八幡宮と称し奉る。朝廷の御崇敬も行われ畏くも光仁天皇天応元年10月14日神封一戸を賜りたり。延喜式高井郡初筆記載として後一郡一ノ宮と定められる社家山岸氏勅使巡国の際郡内御供仕奉ると云う。
鎌倉時代に入り武将の崇敬殊に篤く、越後少将及右近太夫は各々高三石宛を寄進し、信玄公祈願状を寄せ武運長久を祈る。土豪八幡長者、領主須田氏等産宮として崇敬し多数の神器を奉納せらる。堀公藩主となるに及び産神とし殊に藩祈願所と定められたり。累代の崇敬敦く、年々祭事料として籾一石二斗五升、人足四人宛を遣わさる。2代直升公高三石を寄進せしを始め一万石の小藩にして寄進高八石餘に及ぶ。猶多数の神器々物等社納せられたり、明治に至るまで十日間の大祭中日市、馬市、大角力芝居、競馬等行われ番所を設け藩より重職出張して警護の任に当り、三道具、紋入御幕、高張等奉納あり、藩公定式の社参あり幣帛を奉る例たり。出府の節等必ず社参し道中安全武運長久を祈願せらりたり。往古多数の門前(今の市川添)ありたるも荒廃するに及び堀公、寛永9年更に二十五戸の門前新田(今八十余戸八幡町)を開発し神役に使用せしむ。
外に社家を始め下社家、神人神子数戸あり寛永の頃既に広大な神楽殿を有す。神社奉加等領内御免の外北四郡より上州吾妻郡に及ぶ。藩公社領を拡め祭祀を厳厚す、庶民の崇敬愈々加わり祭事の殷盛なること往事比なきに至れり。境内一町五反余稀にみる撞木形境内なり。千余年の欅樹を交え神域欝蒼たり。昭和3年県社に列せられ愈々近郷の大社として崇敬をあつめ神徳宣揚せらる。知名士の参拝歳々亦多し。境内社若宮八幡社は高梨氏の守護神として崇敬並びたる社なり。数十点の古文書等銘記すべき由緒の尊きを語り他事を要れず恐れむ所以なり。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁
   
 墨坂神社

鎮座地 須坂市小山1592番地

御祭神 墨坂大神

帯中津日子尊(仲哀天皇)
息長足姫尊(神功皇后)
品陀和気尊(応神天皇)
 古代大和の部族が移住する際、同国宇陀郡榛原より墨坂神を遷祀したものである。一説には天武2年(873)であるという。後、貞観2牢(860)京都の石清水八幡宮より八幡神を勧請して以来、墨坂神社八幡宮と称するようになった。昔から朝廷の崇敬があり天応元年(781)には封戸が与えられている。また、延長5年(927)の延喜式神名帳には高井郡六社の筆頭に記録され、郡内一の宮と定められた。
中世には、武将の崇敬が篤く土豪八幡長者、国人領主須田氏は産土神として崇敬し、武田信玄は武運長久の祈願状を寄せている。近世の須坂藩主塚氏は、当社を藩祈願所と定め高八石を寄進し、正月・例祭・出府・帰藩の折には必ず社参することにしていた。なお、例祭十日間には、日市・馬市等が行われ北信一帯の大祭としての賑わいをみせていた。
   
 越智神社

延喜式神名帳 越智神社 信濃国 高井郡鎮座

現社名 越智神社

長野県須坂市幸高 389
      
祭神 饒速日命
 
当社の社地は点川氾濫原の扇端部に位置し、湧水線上とは言え、古代において集落の発達を想定できるような地形ではない。


祭神は物部氏(古代の氏族の一)の祖神饒速日命(にぎはやひのみこと)・相殿に諏訪神の建御名方命が祀られている。氏神として区民から崇敬されている。境内社には「神明社」「秋葉社」「蚕神」「飯綱・稲荷社」「天神社」「庚申3基」「川除大明神」「稲荷社」「熊野社」「雁田社」「神明社2基」があり主に石祠。又境内に「御神木」「越智池」がある。越智池には「弁財天」が祀られ井上殿・須田殿・高梨殿の三神石があり、「三峯紀聞」によると「霊水」として有名。雨乞いの神事も行われた。

越智池はかつての豊富な湧き水を物語る。
いまは枯れているがケヤキの大木が大切に保存されている。
湧水池の多いこの地に移住し田畑を耕して越智氏の祖神饒速日命を産土神とした。
後、諏訪神建御名方神を勘請し神社名を諏訪大明神とした。
寛延3年(1750)、神社名を越智神社に改め延喜式内社として今日に至る。

長野県神社庁
   
 越智神社

延喜式神名帳 越智神社 信濃国 高井郡鎮座

現社名 越智神社

長野県中野市越 170
       
祭神 御穗須須美命 (合祀)菅原道真
 口碑によれば、往古は此の越智山の山頂に奉齋されていたが、嶺険しいので里社を造営し、其の後現地へ移齋し、その里社跡地に小社を建て尚且つ御祭神であつだ天神饒速日命を祀り、天神社と称し崇敬されて來たものと傳えられる。奥社跡には今尚石祠があり、毎年5月15日登頂し祭を行つている。
   
 﨔原神社

延喜式神名帳 小内神社 信濃国 高井郡鎮座

現社名 﨔原神社

長野県上高井郡小布施町都住 282
       
祭神 健御中方命
 応永2年(1395)高梨朝高の嫡男欅(クヌギ)原次郎が社殿を再建したという。『大塔物語』では樟原次郎は五年後の応永7年大塔合戦で戦死して、当社はその居館跡と伝える。
   
 笠原神社

延喜式神名帳 笠原神社 信濃国 高井郡鎮座
          (旧地)笠原神社【旧地】

現社名笠原神社

長野県中野市笠原 408
      
祭神少彦名神
 文政5年吉田家へ願い社号額字申受く寛文11年(1671)夜間瀬川の大洪水により流失
文化12年(1815)現在地に再建 明治6年4月郷社 明治40年4月神饌幣帛料供進神社に指定さる

笠原牧の牧官、笠原氏が京都五条天神から国作りの神少彦名命を勧請して字天神前に創建した。天つ神を祀るところから笠原の天神さんといわれ崇敬されてきた 。
もとは現社地の北東300mほどの上笠原村天神前にあった。
   
 高杜神社

延喜式神名帳 高杜神社 信濃国 高井郡鎮座
          (奥社)高杜神社奥社
          (里宮)高杜神社奥社里宮

現社名 高杜神社

長野県中野市赤岩 563
       
少那彦名之命 (配祀)大国主之命 健御名方之命
 市北東に高杜山(高井富士 1352m)在り、山頂に高杜神社奥宮を祀る。
明治13年奥社の真正面で村落の上位に中社を新築する。
本社は里宮とも称されている。
高社山の位置風格からして、山そのものを信仰の対象として信奉したであろう。
奥社は高杜山第二峰の巖窟中に鎮座し、峯のお藥師さまと尊称され高社山信仰として親しく登拝されている。
本来は山頂の奥宮と赤岩宮之裏にあった里社の2社で構成されていた。里社は夜間瀬川そばにあり集落の上位置にあったが、応永13年の大洪水で集落が山側へ移動し、里社は集落の下位置になってしまった。ために、明治13年、集落の上位置に当社中社を建立し現在の三社構成となった。
   
 高杜神社奥社

延喜式神名帳 高杜神社 信濃国 高井郡鎮座
          (本社)高杜神社
現社名 高杜神社奥社

長野県中野市大字赤岩字収ノ入
      
祭神 少那彦名之命 (配祀)大國主之命
 山頂より西500mのところに鎮座している。
   
 高杜神社里宮

延喜式神名帳 高杜神社 信濃国 高井郡鎮座
          (本社)高杜神社
現社名高杜神社里宮

長野県中野市大字赤岩字宮之裏1552
       
祭神 少那彦名之命 (配祀)大國主之命 健御名方之命
 この地が高杜神社の旧地とされる。
本来は山頂の奥宮と赤岩宮之裏にあった里社の2社で構成されていた。里社は夜間瀬川そばにあり集落の上位置にあったが、応永13年の大洪水で集落が山側へ移動し、里社は集落の下位置になってしまった。ために、明治13年、集落の上位置に当社中社を建立し現在の三社構成となった。
   
 高杜神社

延喜式神名帳 高杜神社 信濃国 高井郡鎮座

現社名 高杜神社

長野県上高井郡高山村高井 2040
       
祭神 健御名方命 高毛利神 豊受姫命 武甕槌命 市杵島姫命
(合祀)大山祇命 伊邪奈美尊 稻田姫命 大鞆和気命 菅原道真
 集落の隅に鎮座する。山裾にあり、120mの杉の参道がある。境内叢林深い。
高杜神社の祭神は建御名方命と高毛利の神である。五穀豊穣・家内安全を始め、風を鎮め、火を守る等の御利益もあります。
明治40年代に村内十余の神々も合祀しされ学問の神様(菅原道真)も祀ってあります。
尚この神社は高井の名工、亀原和太四郎の作(天明二年)で特色ある建物、彫刻であります。
参道の樹齢三百年と言われる杉並木は善光寺平随一と言われている。
   
 小内八幡神社

延喜式神名帳 小内神社 信濃国 高井郡鎮座

現社名 小内八幡神社

長野県中野市安源寺572
       
祭神 応神天皇 大気都姫神 神功皇后
 慶長8年(1603)吉田家に式内小内神社の称号を請したが許されず、寛延3年(1750)に綿内の諏訪社(現小内神社)と式内社号を競願し、僅に「小内八幡」の社名を得て郷名を遺す事ができた。


小内八幡神社の創建は貞観年間(859~877年)に勧請されたのが始まりと伝えられています。平安時代に編纂された延喜式神名帳に記載されている式内社小内神社とされ古くから広く信仰を集めてました。歴代領主からも崇敬され中世周辺を支配した高梨頼親は社領の寄進などを行い領内筆頭神社として庇護したことが"社家片山文書(中野市指定有形文化財)"に書かれています。それによると永禄4年(1561)に川中島合戦により境内が荒廃した際、天正10年(1582)に高梨頼近が社領10貫を寄進、さらに天正17年(1589)に社領100貫を寄進し社殿が再建されています。江戸時代に入ると飯山藩主から庇護され寛文5年(1665)には藩主である松平忠倶が社殿の造営し伝統ある「馬市」を再興しています。中野周辺が天領になると歴代代官が庇護し、安永年間(1772~1781年)の馬市の際には中野天領陣屋から紋幕や高張提灯などが貸与され、足軽が警備の為に派遣され「御幕の市」と呼ばれるようになっています(馬市は昭和30年:1950年に廃止)。中世以降は庄内八幡宮と称していましたが寛延3年(1750)に吉田家から小内八幡の社号を得て、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が一掃され、明治6年(1873)に郷社に列しています。祭神:応神天皇、大気都姫神、神功皇后。
   
 岩殿寺 (長野県筑北村)

(岩殿寺 (筑北村)から転送)

長野県東筑摩郡筑北村別所13505

富蔵山 天台宗

本尊 馬頭観音
 岩殿寺は長野県東筑摩郡筑北村にある天台宗の寺院。山号は富蔵山。本尊は馬頭観音。信濃三十三観音霊場15番札所。

境内に大小75社、12坊、4支院を有する大寺であったとされるが、度重なる火災により衰退した。往時を偲ばせるものとしては重要文化財の懸仏と大日如来像、長野県宝の三所権現神像などがわずかに残されている。

伝承によれば、嘉祥元年(848年) 円仁が仁明天皇の命で一向大乗寺として創建。岩殿山を修験道の霊場として三所権現を祀り、十一面観音、深沙大王を本尊としたという。室町時代末期 武田信玄の帰依を受け、寺紋を武田菱とした。江戸時代には服部・石川両氏の入部にあたり、寺領を悉く横領されるが、水野忠直よりの黒印30石により維持される。
   
 日置神社

長野県東筑摩郡生坂村大字北陸郷字日岐8699
 式内社 信濃國更級郡 日置神社
旧村社

御祭神 彦火火出見尊 天照皇大神 菅原道眞


社伝によると白鳳七年(667)六月の創祀。
応神天皇の皇子・大山奉行尊の子孫である日置部真木己利が岐郷に来て祭祀したという。

その後、荒廃していたが、寛弘の頃に再興され、明応元年(1492)、丸山肥後入道平盛高が日岐六郷を受領した時 日岐六郷の産土神として祝詞殿を建立。
以後、領主の崇敬を受けた古社。
   
天宗寺(長野県)

長野県長野市大岡乙274

【問合せ】TEL:026-266-2417
4月の下旬から5月上旬にかけて咲く樹齢300年のしだれ桜(別名合掌桜)がある
   
樋知大神社

長野県長野市大岡聖

【問合せ】TEL:026-266-2121 ; FAX:026-266-2012
延喜式神名帳 武水別神社 信濃国 更級郡鎮座

樋知大神社
  
長野県長野市大岡丙 5400
       
祭神 水波女命
   

樋知大神社は諏訪大明神建御名方刀美命の第二の御子武水別命で清和天皇貞観8年6月朔日従二位に昇叙格調高い神である。
ひじり山を頂点とする農業開拓の守り神で自然と共に農民を慈む。(樋}は水路で(知)は民のくらしを治め司る大神である。
往古はひじり山を高栖の山と称し峰にかかる雲の状態で天候を占ひ雨乞により雨を降らせ給ひし事は広く安曇野・筑摩・川中島平農民の信頼するところであった。
   
虫倉神社

長野県長野市中条御山里小手屋

問合せ】TEL:026-268-3001 ; FAX:026-268-3931
虫倉七社のうちで最も古く総社と呼ばれる。「子育て」の神様。地震によって壊れ、現在の神社は安政4年に建てられたもの。
広福寺

長野県長野市中条御山里高福寺

【問合せ】TEL:026-268-3001
信濃三十三番観音礼所の三十一番礼所。乳出し観音の伝説が伝えられます。
長野市の西方、虫倉山の山麓の御山里集落にある。
創建は不明で古くから高福寺という寺が有ったとのこと、寛永5年(1628)隣村の和尚が中興開基し広福寺に改名したとのこと。江戸時代の弘化4年(1848)に長野市付近を中心とした大地震(善光寺地震)が起き、寺も押し流されてしまったということです。その後、村人の努力で再建され「乳出し観音」と呼ばれ厚く信仰されていたようですが、戦時中に荒れ果ててしまい、今の寺は最近信者の皆さんの浄財を集め再建したもの。
今は無住寺ですが、こじんまりとしたお堂が建っていました。
正法寺(長野県)

長野県長野市中条日下野三ヶ野

【問合せ】TEL:026-267-2319
信濃三十三番観音礼所の三十番礼所。雨乞いと縁結びの寺。聖観音、四天王は県宝、宮殿は市の指定文化財に指定されています。
西宮神社

長野県長野市岩石町257

【問合せ】TEL:026-235-6633
堂内には室町末期の作といわれる聖観音を中心に十三仏が安置されています。信濃三十二番札所となっています。

西宮神社は、長野県長野市岩石町に鎮座する神社。
「およべっさん(えびすさん)」と呼ばれ近傍の商業者の崇敬を集める。善光寺七福神の「恵比寿」。
初えびす

本家西宮神社とは異なり1月19日〜1月20日である。「御種銭」の貸出しを求めて長蛇の列ができ、こちらも大いに賑わう。この「御種銭」は、初えびすに恵比寿様から百円玉を1年間借り、これを商売に活用することで御利益を受け、翌年の初えびすには2倍にして神社に返す風習である
薬師洞窟

長野県上水内郡小川村

小川村 稲丘 1176

問合わせ
小川村役場建設経済課 Tel:026-269-2323
天然洞窟。江戸時代、木食僧の木食山居が万体仏を彫り、修行した地。洞窟奥に薬師如来像、石仏があります。設立年月日は薬師如来像(慶長~天和時代)、十三仏1839年(天保10年)
善光寺七福神 西光寺(寿老人)

西光寺は、長野県長野市にある浄土宗の寺院。通称はかるかや山。山号は苅萱山。院号は寂照院。本尊は阿弥陀如来。絵解きの寺として知られる。


往生院(弁才天)

弁才天は、七福神の中で唯一女性の神様で、琵琶を弾く姿から芸能の神としても信仰されている、ここ権堂という土地柄もあり、多くの芸妓から信仰を集めていた。もともとインドの河の神様のため、水辺に奉られているのだが、ここの近くには、池や川が見当たらない。


THE FUJIYA GOHONJIN(布袋尊)

布袋様は、中国に実在したお坊さんで、いつも大きな袋を背負っていたので、その名で呼ばれた。ふくよかで円満な姿から福の神として信仰されている。ここの布袋像は、かつての善光寺宿の御本陣である藤屋で奉られている


大国主神社(大黒天)

大黒天は、三宝を守り、戦闘を司ったインドの神様。農産、福徳の神様と崇められている。大国主神社は、古くからの街道である西山街道沿いに建てられていたものと考えられており、門前町への西の入り口として多くの参詣者を迎え入れてきた


秋葉神社(福禄寿)

福禄寿は、幸福、財産、長寿を授ける神様。秋葉神社は、火伏せの神の三尺坊という天狗の神様を奉っており、この三尺坊も幸福、財産、長寿を授けることから福禄寿の化身とされている。秋葉神社には、見事な彫刻が施されており、幕末の左甚五郎といわれた名工、立川和四郎冨昌の作


善光寺世尊院釈迦堂(毘沙門天)

毘沙門天は、仏法を守る四天王の一人で多聞天とも呼ばれる。北の方角を守る戦の神様だが、福の神としても信仰されている。ここの像は、平安時代の作で、長野市の文化財にも指定されている。世尊院釈迦堂には、その他にも文化財が多く、釈迦涅槃像は、国の重要文化財にも指定されている
   
善光寺三鎮守(善光寺三社)
妻科神社 長野市南長野

長野県長野市南長野妻科218

【問合せ】TEL:026-232-6307

御祭神:八坂刀売命、配祀/建御名方命、彦神別命

社格:式内社、旧県社
妻科神社の創建は不詳ですが、『三代実録』貞観2年(860)2月5日条に従五位下を奉授された記事があり、それ以前の創建と考えられています。同5年(863)には従五位上に進められました。延喜式神名帳には水内郡9座の一として記載されています。

諏訪大社のもっとも古い分社の一つで、御祭神の八坂刀売命は相殿に祀られている建御名方命の妃。古くは両神の御子神・妻科姫命を祀っていたと考えられています。

相殿に祀られているもう一柱・彦神別命も両神の御子神で、これも善光寺と関わりの深い健御名方富命彦神別神社(水内大社・城山県社)の御祭神です。健御名方富命彦神別神社は『日本書紀』持統天皇6年8月に龍田風神(龍田大社)・信濃須波(諏訪大社)とともに使者が遣わされた水内神に比定されますが、八坂刀売命を祀る妻科神社、建御名方命の荒魂を祀る湯福神社、同じく建御名方命の和魂を祀る武井神社と一体をなすという見方もあります。

中世以降は湯福神社・武井神社とともに戸隠神社の護法神とされ、江戸時代には善光寺三社鎮守として崇敬されました。当時は妻科諏訪大明神と呼ばれていましたが、宝暦14年(1764)妻科神社の名に復しました。

明治6年(1873)郷社に列格、昭和6年(1931)県社に昇格。
武井神社

長野県長野市東町186-2

御祭神:健御名方神の和魂 /相殿:八坂刀売神、健御名方富命彦神別神


善光寺三鎮守の残る一社は、善光寺の表参道の東側19ヶ町を氏子とする武井神社です。もちろん、善光寺七社の一でもあります。

武井神社は妻科神社・湯福神社と同じく諏訪系で、御祭神は健御名方神の和魂、相殿に妃の八坂刀売神と御子神の彦神別神(健御名方富命彦神別神)を祀ります。

三鎮守と健御名方富命彦神別社(水内大社・城山県社)は、七年ごとの寅年と申年に四社交替で御柱祭を行いますが、湯福神社と武井神社に健御名方神の荒魂と和魂、妻科神社に八坂刀売神、健御名方富命彦神別神社に彦神別神を祀っている
湯福神社

湯福神社


長野県長野市箱清水3-1-2

【問合せ】TEL:026-234-7410 ; FAX:026-234-7410
妻科神社に続いては、同じく善光寺三鎮守・善光寺七社の一、湯福神社。善光寺表参道の西側15ヶ町を氏子とします。
湯福神社も妻科神社と同じく諏訪の系統で、諏訪大社の御祭神である健御名方命の荒魂を祀ります。
湯福神社は善光寺本堂から見て北西に鎮座しています。手前の道をそのまま西に進むと、刈萱上人の終焉の地と伝えられる往生寺がありあります。
善光寺三鎮守(善光寺三社)・善光寺七社
美和神社

長野県長野市三輪8-1-2

026-232-2838 - 武井神社
美和神社は、長野県長野市三輪にある神社。現在は武井神社の兼務神社であり、御朱印も武井神社での対応となる。
『延喜式神名帳』にある「美和神社(信濃国・水内郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では県社。
主祭神は大物主命(おおものぬしのみこと)。大国主命の和魂で、水内神(健御名方富命彦神別神社御祭神)の父神と伝えられる。
相殿に、大物主命の母神と伝えられる国業比売神(くになりひめのかみ)、神部神または神服部神(かみはとりのかみ)を祀る。
創建は不詳。善光寺七社の一社であり、『善光寺縁起』には、大和三輪出身の三輪時丸が善光寺に参詣しそのまま当地に留まった、この時、大和国大神神社の御神体を奉納したので、現在も奈良の大神神社には御神体がない、という伝説が記されている
 加茂神社

長野県長野市西長野町213

026-232-6307
  加茂神社は、長野県長野市西長野町にある神社。善光寺七社の一社で、近代社格では村社。湯福神社・妻科神社・木留神社・柳原神社と同じく上西之門町に鎮座する弥栄神社の兼務神社であり、御朱印も弥栄神社で頂ける。

御祭神は玉依比売命。御神紋は菊桐。善光寺の西方、長野県庁の北方に鎮座する。周辺は市街地の山手に位置する閑静な住宅街。鳥居の傍に大本願と書かれた石柱がある。

創祀は不詳だが、平安時代のことという。初代の善光寺大本願上人が信濃国に下向する際、信仰していた京都の賀茂御祖神社(下鴨神社)を勧請したと伝えられている。
 木留神社

長野県長野市若里1-14-8
 木留神社は、長野県長野市にある神社。善光寺七社の一社で、近代社格では村社。湯福神社・妻科神社・加茂神社・柳原神社と同じく上西之門町に鎮座する弥栄神社の兼務神社であり、御朱印も弥栄神社で頂ける。
鳥居をくぐると中央に樹齢500年を超すケヤキの巨木がそびえており、参道はこの前で屈折している。
南方に犀川、西方に裾花川が流れる場所で、社名の由来は、善光寺再建のための材木を犀川丹波島の渡しで陸揚げし、境内に留め置いたからだと伝わる。
鎌倉時代、正治年間(1199年-1201年)より前に創建と伝わる。主祭神は建御名方命。諏訪神を勧請したといわれるが、諏訪大社からかどうかは不詳。
 柳原神社(笹焼神社)

長野県長野市中御所1-4-1
 柳原神社は、長野県長野市にある神社。善光寺七社の一社で、近代社格では村社。湯福神社・妻科神社・木留神社・加茂神社と同じく上西之門町に鎮座する弥栄神社の兼務神社であり、御朱印も弥栄神社で頂ける。
長野駅善光寺口の西方に位置する。長野駅に近いが繁華街とは逆方向にあり、周辺は比較的閑静な住宅地・ビジネス街。境内には御神木として、大きく太く立派なケヤキの木がある。
かつては善光寺の注連縄などをここで焼いていたため、笹焼神社、笹焼大明神、左善焼神社などと通称される。
建御名方命と少彦名命を祀っており、もとは諏訪大明神と称したが、文政元年(1818年)に現社名に改めている。明治42年(1909年)に誉田別命を合祀。
   
 長勝寺(長野県)

長野県長野市信更町三水833

【問合せ】TEL:026-299-2713
 
信更町三水の小高い場所にあり、眼下に犀川渓谷を見下ろし、遠く安曇・水内の山並みを望むことができます。
   
阿弥陀山清水寺

長野県長野市若穂保科1949

【問合せ】TEL:026-282-3701
牡丹寺で有名なこの寺は、大正5年の保科村の大火で全てが消失したそうで、同14年に本堂だけは再建されたが、 仁王門、三重塔、大日堂は未だに再建されてはいない
観音堂までは、九十九折の車道も整備されているが、直登の石段を登り(約1キロ)散策する方が良い
観音堂は、昭和50年に(1975)懸崖づくり耐火構造に再建された

若穂保科にあり、奈良時代に行基によって千手観音が刻まれ、小堂に安置されたのが始まりと伝えられています。日本最古といわれる「鉄鍬形」や両界曼荼羅図、千手観音など9つの重要文化財が保存されています。信濃三十三番札所の第十六番です

 小内神社

延喜式神名帳 越智神社 信濃国高井郡鎮座
延喜式神名帳 小内神社 信濃国高井郡鎮座
          (旧地)宮王神社
          (旧地)諏訪社

現社名 小内神社

長野県長野市若穂綿内 5908
       
祭神 宇麻志摩遅命 建御名方刀美命 埴安神 (合祀)素盞嗚命
 天平9年宮王神社の場所に勧請  天応元年(781)10月越智神封 康和5年(1103)6月10日神事を穢した科で中祓を課せられた 永正元年(1504)2月現在地に移動 寛延3年吉田家より小内神社と称す 明治6年4月郷社


若穂唯一の延喜式内社であり、社伝及び古文書によれば、元は妙徳山頂の白鬚明神を祀る小社が本社であったといわれ、後に山新田山崎の地に移された。この地は現在杉林となっているが、礎石だけが残っている。後に清水区(旧片山地籍)に遷宮されたが年代等は不明である。
千曲の流れが次第に西に移り、森嶋等に集落が営まれるようになり、永正元年(1504)2月現在地遷宮された。住古は妙徳山頂にあったためか越智神社と称し、幾度かかの水害により、社号額流失の伝承が残されている。寛永3年(1624)現小内神社称号を拝載することとなる。鬼の妻飾りが本殿屋根の棟木の両面につけられており一般にも見られる鬼瓦と同じ魔除けと考えられるが神社建築では珍しい意匠である。本殿は桃山様式が残っている。平成16年4月盛大な遷宮500年祭斎行された。

長野県神社庁
   
 宮王神社


延喜式神名帳 越智神社 信濃国高井郡鎮座
          (現在社)小内神社
現社名 宮王神社

長野県長野市若穂棉内字山崎3424
       
祭神 建御名方命
 越智神社は当初この地に鎮座していた その後綿内村清水区の片山地籍に遷、現在諏訪社  永正元年(1504)2月現在地に移動
式内社越智神社の論社である小内神社の古社地。
越智神社は、鎌倉時代麓の清水の諏訪社の地へ遷座、のち永世元年(1504)現在の小内神社の地へ遷座された


主祭神は建御名方命。ほか天照皇太神宮、 秋葉神社、三社(天神、大黒天、子安観世音)を合祀。明治6年「村社」に列せらる。
 創建は、天平9年霊峰妙徳山(明徳山)頂に越智泰澄神融が白鬚大明神 (可美摩遲命)を祀り「越智神社」本宮を開基したときの「前宮」である。
 以前は、此処より南方の踊原地籍に在り、本宮と同じ時期に建立されていたとみられる。
 醍醐天皇の御世、延喜5年より編修された律令の「延喜式」と云う書物五十巻の内、第九、第十巻に神名台帳が在り、この中に全国に存在した延喜式内社が記載されており、高井郡内ではこの「越智神社(現小内神社)」のほか五座が銘記されている。
 延長5年に書物が撰進されているので、それより前の平安時代初期には「前宮」は、ここ宮王原の山崎地籍に遷座されていて、この広い境内から推して、当時「延喜式」に登録されるだけの、相当な規模と格式をもった社殿が建立されていたとみられる。
 その後前宮は、鎌倉時代に清水の片山地籍へ、さらに室町時代後期の永正元年に現今の森地籍に遷座されている。
 現在の宮王神社は、前宮が清水に遷座したあと、当時の山新田組の産土神として、主祭神の建御名方命を祀り、以後永年に亘り崇敬されてきた後、天保13寅年3月8日には、神祇道管領長上侍従卜部朝臣良芳より、主祭神「諏訪大明神」が正式に神宣の允許を受け、その「神宣状」と「幣帛」を拝受している。
   
 諏訪社


延喜式神名帳 越智神社 信濃国高井郡鎮座
          (現在社)小内神社

現社名 諏訪社

長野県長野市若穂棉内字清水2351
       
祭神 健御名方命
 小内神社は当初現宮王神社に鎮座していたが、その後この地に遷座。
当社の地は式内社越智神社の論社である小内神社の古社地。
越智神社は、鎌倉時代麓の清水の諏訪社の地へ遷座、のち永世元年(1504)現在の小内神社の地へ遷座された。
   
蓮香寺

長野県長野市川中島町原101

【問合せ】TEL:026-292-1546



 
葛山落合神社

長野県長野市芋井入山岩戸

【問合せ】TEL:026-224-7013
本殿は国の重要文化財に、また、本殿右隣の諏訪社社殿は県宝に指定されており、杉の社叢が見事です。


康楽寺

長野県長野市篠ノ井塩崎角間3429


【問合せ】TEL:026-292-2465
長野市篠ノ井塩崎にある浄土真宗のお寺で、山号は白鳥山、「こうらくじ」と読みます。
親鸞が師の法然の追善法要を行った場所である
正覚院 長野市安茂里

長野県長野市安茂里630

【問合せ】TEL:026-227-8728

善光寺七寺(院)だった安茂里の寺、正覚院

「善光寺七寺(院)」の一つ、安茂里大門の「正覚院」。境内には2つの観音堂。
「安茂里の観音さん」と呼ばれて親しまれています。
「大門」の地名は、この寺の参道だから付いた名。真言宗の寺。入り口の門の右手奥は「観音堂」。
「月光殿」と言い、聖観音菩薩と大師自画座像を安置。
   
典厩寺

長野県長野市篠ノ井杵渕1000

【問合せ】TEL:026-292-3335
典厩寺は長野県長野市篠ノ井杵淵にある曹洞宗の寺院である。山号は松操山(しょうぞうさん)。川中島の戦いで討ち死にした武田信繁の墓がある。

かつては瑠璃光山鶴巣寺と号して薬師如来を本尊としていた。

1561年(永禄4年)の川中島の戦いで、武田信玄の弟・武田信繁が当地八幡原で討死したことに因み、合戦から60年後、松代藩主真田信之が信繁の官職「左馬助(さまのすけ)」の唐名「典厩」から寺号を典厩寺と改めて菩提を弔った。本堂の左手には自然石の墓があり、落命した甲越両軍戦死者の弔魂碑もある。信繁は討死して上杉方に首級を取られたものの、信繁の家臣らが追撃して取り返したが、首級は領地であった小諸に持ち帰ったため、当寺の墓は胴体だけと伝えられる。 また墓の脇に佇む小さな供養塔は信之が幕府に遠慮して密かに弔った真田信繁の供養塔であると伝えられてる。

本堂の前には閻魔堂があり、川中島合戦後300年を記念して造られた閻魔大王像は日本一大きいとされる(2丈(約6m)もあり、東洋一大きいと紹介する書籍もある[1])。境内の川中島合戦記念館(1966年(昭和41年)4月完成)では、寺宝60余点を収蔵展示している
大昌寺

長野県長野市戸隠栃原3082

【問合せ】TEL:026-252-2017
紅葉伝説は、長野県の戸隠、鬼無里、別所温泉などに伝わる鬼女にまつわる伝説。平維茂が鬼女・紅葉戦い、討ち捕る話である。
寺には、紅葉狩(鬼女紅葉)を絵巻様に描いた画軸をはじめ紅葉ゆかりの寺宝が伝えられています。
戸隠神社 火之御子社

長野県長野市戸隠

【問合せ】TEL:026-254-2001
祭神 天鈿女命

由緒・ご神徳 承徳二年(1098)頃の創建で、岩戸の前で舞われた天鈿女命が主祭神で他に三柱の神様をお祀り申し上げております。
  戸隠山の神様が神仏習合されていた当時も、このお社だけは神社として終始しておりました。戸隠神社太々御神楽は、この神社に仕えていた社人によって古来より伝えられ現在に至っております。舞楽芸能の神、縁結の神、火防の神として尊崇されております。
近年は参拝される方が多く、境内には樹齢500年を超える『結びの杉(二本杉)』と有名な西行桜があります。
戸隠神社 九頭龍社

長野県長野市戸隠

【問合せ】TEL:026-254-2001
祭神 九頭龍大神

ご神徳 鎮座の年月不明ですが、天手力雄命が奉斎される以前に地主神として奉斎され、心願成就の御神徳高く特別なる信仰を集め、また古来より水の神、雨乞いの神、虫歯の神、縁結の神として尊信されています。
 戸隠神社中社

長野県長野市戸隠3506

【問合せ】TEL:026-224-8316
 祭神 天八意思兼命

ご神徳 素戔嗚尊の度重なる非行に天照大神が天岩戸にお隠れになった時、岩戸神楽(太々神楽)を創案し、岩戸を開くきっかけを作ったという神です。学業成就・商売繁盛・開運・厄除・家内安全に御神徳があります。
社殿天井には平成15年に復元された狩野派の天才絵師、河鍋暁斎によって描かれた「龍の天井絵」があります。
また、境内には樹齢700年を超えるご神木、樹齢800年を超える三本杉があり、戸隠神社の社務所が置かれています。
   
 春日神社 (戸隠・妙高)  白馬、鬼無里、奥裾花への三分岐近くには京にちなんだ地名が多くあります。東京、西京、加茂神社と共に京の都を思わせるのがこの春日神社で、言い伝えによればこの地に遷都を計画した天武天皇の使者が来村した折りに創建したといわれています
   
土倉文珠堂

長野県長野市鬼無里16566-ロ

【問合せ】TEL:026-256-3169
日本三文殊のひとつに挙げられる文殊さま
800年歴史を持つお堂で、日本三文殊のひとつにも数えられる「文殊さま」。木曽義仲が北陸進出の際、巻物一巻と、弘法大師の作と伝わり木曽義仲が武運を祈ったとされる文殊菩薩を土倉の薬師堂に祀ったのが始まりと伝えられる。
加茂神社

長野県長野市鬼無里14232-1

【問合せ】TEL:026-256-3169
加茂神社は、長野県長野市鬼無里東京二条にある神社(村社)。
東京集落の産土神である。

鬼無里には紅葉伝説や遷都伝説など都に関わる様々な伝説が残るが、加茂神社も信濃国への遷都のため天武天皇に遣わされた三野王が鬼無里新都の鎮守として建立したものと伝わる。伝承では684年(天武天皇13年)2月のことであり、地名を東京(ひがしきょう)として日本武尊の石矢を収め宮を設けたという[1]。当社のほかは、裾花川の対岸(西京)に春日神社、鬼門の方角に白髯神社を建立したという。

現在の本殿は1787年(天明7年)の建立で、長野市の有形文化財に指定されている[2]。なお、本殿は覆屋に収められている。
白髯神社

長野県長野市鬼無里日影4957

【問合せ】TEL:026-256-3169
白髯神社は、長野県長野市鬼無里日影にある神社(郷社)。
本殿は国の重要文化財に指定されている

鬼無里は紅葉伝説や遷都伝説など都に関わる様々な伝説が残る山里である。伝承によれば白鳳13年(685年)に信濃国への遷都のため天武天皇に遣わされた三野王は、鬼無里を候補地とし、新都の鎮守として裾花川の両岸に東京(ひがしきょう)の加茂神社と西京の春日神社、そして鬼門の方角に白髯神社を建立したという。

本殿は一間社流造、杮葺きで桃山時代の建築と考えられ、国の重要文化財に指定されている。なお、本殿は保存のためコンクリート製の鞘堂に収められており、通常は拝観できない。
松巌寺

長野県長野市鬼無里320

【問合せ】TEL:026-256-3169
鬼女紅葉の守護仏といわれる地蔵尊を祀ってある紅葉ゆかりの寺です。伝説の里の史跡巡りには是非とも訪れたい。また境内には、自然を愛し昭和12年11月23日に当地を訪れた川端康成の文学碑が残されています

紅葉」ゆかりの寺として知られる松厳寺の境内に鬼女「紅葉」の墓といわれる石塔が今でもひっそりと祀られていて花やお菓子がたむけられています。

鬼無里村は、長野県上水内郡にあった村。 合併により、現在は長野市鬼無里地区になっている。 紅葉伝説や木曾義仲に因む伝承を残し、伝説にちなむ「東京(ひがしきょう)」「西京(にしきょう)」などの集落がある。奥裾花渓谷(日本百景)やミズバショウ大群落の奥裾花自然園(日本の秘境100選)も著名。最盛期には、人口が6000人ほどあったが、廃止当時は、2000人ほどまでに落ち込み、過疎地域に指定されていた。
春日神社(長野県)

長野県長野市鬼無里日影6819

【問合せ】TEL:026-256-3169
長野県長野市鬼無里西京6819

祭神
天児屋根命

天児屋根命は春日権現や春日大明神とも呼ばれ、全国の春日神社の主神である。
アマテラスが天の岩戸に隠れたときに、天児屋根命はその前で祝詞を奏上し、アマテラスが少し扉を開いたときに鏡を差し出した。中臣氏は春日神を祖神としている。
 『日本書紀』や『古事記』によると、4世紀から7世紀のあいだ、天皇は数年おきに遷都を繰り返していた。ほとんどの場合は奈良か京都、或いは難波あたりの範囲に収まっていたが、時には近江(滋賀県)や朝倉(高知県または福岡県)に遷都したこともある。
 671年の暮れ、天智天皇が近江の都で崩御すると、その弟と息子の間で跡目争いが起きる。これが壬申の乱である。天智天皇の子、大友皇子は都付近の軍勢を集めて戦い、天皇の弟大海人皇子は美濃国を経て信濃国へ逃走した。しかしそこで信濃の兵を集めて都へ進撃し、大友皇子を打ち破った。勝った大海人皇子は天武天皇として672年の夏に即位した。
 白鳳13年(685年)、天武天皇は信濃国への遷都を計画した。まずは下調べとして三野王を派遣し、候補地の選定や測量を行わせた。鬼無里はその候補地だったとされている。
刈萱堂往生寺

長野県長野市往生地1334

【問合せ】TEL:026-232-4349
善光寺から徒歩で20分。坂道を登り切った高台にある浄土宗の山寺。「刈萱[かるかや]道心と石堂丸」の話で知られる刈萱上人が没した地で、別名・かるかや堂という。堂内に残る親子地蔵尊は厄難を救い、極楽へ導いてくれるといわれている。また、珍しい絵解き(縁起の絵を見せながら住職が独特の口調で行う説教法話)が伝承されていて、刈萱上人一代記伝の絵解をしてくれる(1回15分、要予約)。境内の鐘は地元出身の草川信が作曲した『夕焼け小やけ』のモチーフになったといわれ、作詞家・中村雨紅直筆の歌碑が立っている。
源真寺

長野県長野市信州新町上条375

【問合せ】TEL:026-262-2137
萱山西光寺

長野県長野市北石堂町1398-1

【問合せ】TEL:026-226-8436
西光寺は、長野県長野市にある浄土宗の寺院。通称はかるかや山。山号は苅萱山。院号は寂照院。本尊は阿弥陀如来[1]。絵解きの寺として知られる。
蓮台寺

長野県長野市若穂綿内4672

【問合せ】TEL:026-282-2346
明徳寺(長野県)

長野県長野市松代町豊栄2833

【問合せ】TEL:026-278-8621
明徳寺は、長野県長野市松代町豊栄にある曹洞宗の寺院。山号は、龍潭山。

本尊は薬師如来(鎌倉時代作)。

1390年(南朝:元中7年、北朝:明徳元年)に僧妙徳により開山。戦国時代には甲斐武田氏家臣で、信濃更級郡の香坂氏の養子となった海津城代の春日虎綱(高坂昌信)の帰依厚く、1533年(天文2年)に諸堂を修理し重興開基となる。玉山春洞を招き明徳寺は曹洞宗となる。境内には虎綱の墓所があり、『甲斐国志』によれば明徳寺には虎綱の没年を天正6年5月初7日とする伝承を伝えているが、これは誤りであることが指摘される。

慶長年間、松平忠輝により寺領20石を寄進され、それ以後は歴代松代藩主(真田氏)により保護された。
梅翁院

長野県長野市松代町田町984

【問合せ】TEL:026-278-3543
梅翁院は、長野県長野市松代町にある曹洞宗の寺院。

1672年(寛文12年) 、真田信之の側室、玉川右京とその両親を弔うために真田家によって創建された寺で[1]、永平寺および總持寺の両方の末寺とされる[1]。開山は稟室大承[1]。

松代藩で養鯉が奨励されていたことがうかがえる「魚濫観音像」(鯉に乗る観音像)は江戸時代中期に作られたと伝わっており[2]、近年は板前など調理を仕事とする人に信奉されている[2]。また、1991年(平成3年)に松代出身の山上武夫作詞・海沼實作曲の童謡「見てござる」の歌碑が境内に建立された。
白鳥神社

長野県長野市松代町西条

【問合せ】TEL:026-224-7013
旧県社

御祭神
日本武尊
貞元親王 貞保親王
武靖大神(初代松代藩主・真田伊豆守滋野信之)
眞田信政(二代) 眞田幸道(三代) 眞田信弘(四代)
眞田信安(五代) 眞田幸弘(六代) 眞田幸專(七代)
眞田幸貫(八代) 眞田幸教(九代) 眞田幸民(十代)



ノロシ山(844m)の北麓に境内があり、入口は北向き。

社伝によると、寛保元年(1624)の創祀。
松代初代藩主である、真田信之が上田から松代への移封にあたり崇敬していた海野郷の白鳥神社を勧請したもの。
承応二年(1653)社殿を建立し、社領100石とした。資料によっては、この承応二年を勧請の年としている。
伝説によると、真田信之の駕籠の上に白い鳥が舞い降りて、信之と共に松城へ移りたいと訴えたとあり、鎮座地の名は舞鶴山という。
林正寺

長野県長野市松代町清野947

【問合せ】TEL:026-278-6542
宗派:浄土宗。本尊:阿弥陀如来。

 林正寺の創建は天文19年(1550)に開かれたのが始まりと伝えられています。本堂は万治3年(1660)に松代藩(藩庁:松代城)2代藩主真田信政の霊屋として建てられたもので入母屋、桟瓦葺(元こけら葺)、正面千鳥破風、妻入、桁行3間、梁間4間、1間軒唐破風向拝付。内部は漆塗りの上に極彩色で彩られ細かな彫刻や組物が施され三十六歌仙の額が掲げられています。信政は万治元年(1658)に死去すると同年に初代真田信之も死去、二人の亡骸は真田家の菩提寺である松代の長国寺に葬られ万治3年(1660)に略同様な御霊屋が境内に建立されました。信之の御霊屋は現在でも長国寺にあり彫刻は名工で知られた左甚五郎、壁画は幕府御用絵師の狩野探幽の作とされ国指定重要文化財に指定されています。信政の御霊屋も同規模、同体とされ左甚五郎や狩野探幽が携わったのかは不詳ですが優れた技術により富んだ意匠が随所に施され、諸事情により昭和27年(1952)に林正寺の本堂として迎え入れられました。正面の山門も同様に万治3年(1660)に建てられた建物で切妻、桟瓦葺、四脚門(本柱と前後の控え柱、計6本で屋根を支える門形式)で往時の姿を留めています。林正寺本堂、山門は江戸時代初期に建てられた霊廟建築の遺構として貴重な事から昭和41年(1966)に長野県指定県宝に指定されています。又、林正寺は旧松代町清野出身で日本最初の新劇女優として知られた松井須磨子(本名:小林正子)縁の寺院でもあり境内には「松井須磨子演劇碑」が建立されています。
西楽寺

長野県長野市松代町西条905

【問合せ】TEL:026-278-3624
宗派:浄土宗。本尊:阿弥陀如来。


西楽寺の創建は天正2年(1574)に西条氏が開基となり名誉善宝を招き開山したのが始まりとされます。真田信之の三男で埴科藩3万石の第2代藩主であった真田信重が帰依し、慶安元年(1648)に信重が武蔵国鴻巣(現在の埼玉県鴻巣市)死去すると、その地の有力寺院である勝願寺に葬られ正保年間(1645~1648年)に焼失していた西楽寺を再建、霊屋が建立され信重夫妻の位牌が安置されました(跡継ぎがいなかった為、埴科藩は廃藩となり石高は本藩である松代藩(藩庁:松代城)に返上されています)。
西楽寺霊屋は建立当時のもので一重宝形造、こけら葺 、桁行3間、梁間3間、1間向拝付き、内部は前面1間が外陣で格子戸で囲われた内陣の天井は格天井、仏壇には本尊の阿弥陀如来像と信重夫妻の位牌が安置されて、外壁、内壁共に漆塗りの極彩色で彩られた豪華な霊廟建築となっています。
真田信重霊屋は江戸時代初期に建てられた数少ない霊廟建築の遺構で全国的にみても珍しい工法が採用されるなど大変貴重な事から昭和46年(1671)に前机(1脚)、釣燈籠(2個)共に国指定重要文化財に指定されています。又、霊屋の本尊である木造阿弥陀如来立像は檜材、寄木造り、像高96.7㎝、漆箔、彫眼、藤原時代後期と推定される木像で昭和42年(1967)に長野市指定重要文化財に指定
清水寺(長野県長野市)

長野県長野市松代町西条147

【問合せ】TEL:026-278-3068
信州の古刹、真言宗豊山派・龍燈山蓮華院清水寺(通称:北信濃厄除大師)は、もろもろの災厄をことごとく消除する厄除大師として、霊験あらたかなことは、むかしから有名であります。総本山は奈良・長谷寺です。

 開山は今から1200年ほど前、延暦22年(803年)、寛空上人が開山したと云われており、坂上田村麻呂が東北に遠征に向かった際に、戦勝祈願が為に建立されました。
 開山当時は「当村十二原に七堂伽藍備わり居りし」と云われておるように、五重塔・金堂・書院・回廊等が備わった大規模な伽藍を有した寺院だったと云われておりますが、創建後しばしば火難に遇いました。
 火難により一時衰亡に瀕したものを川中島決戦の折、武田信玄公より供料を給わり伽藍を再建いたしました。依って武田家が中興開墓となっております。
 江戸時代に入り、徳川家の祈祷寺として供料を給わりました。その際、三葉葵を寺紋として頂いております。また、松代藩の城主である真田家のお殿様は、菩提寺とここ清水寺の二箇寺においては、お殿様と云えども馬を降りてから門をくぐらなくてはならないほど、格式の高い寺院でありました。

 その後、江戸時代正徳年間(十八世紀初)の火難により善美壮麗を尽くした堂塔伽藍は悉く焼亡し、享保年間(十八世紀初)、十二原から少し山を下った現在地に仮堂を建立し移転いたしました。
大英寺

長野県長野市松代町表柴町1314

【問合せ】TEL:026-278-2387
大英寺の創建は元和8年(1622)、真田信之が開基となり常福寺(現在の芳泉寺:長野県上田市)の含霊大和尚を招いて正室である小松姫(戒名:大連院英譽皓月大禅定尼)の菩提を弔う為開いた寺院です。小松姫は元和6年(1620)に江戸から草津温泉に湯治に行く途中で死去し、近くにあった武蔵鴻巣の勝願寺に葬られ、その後上田の常福寺に埋葬されていましたが信之が松代に移封の際、この地に改葬され御霊屋や鐘楼などが移されました(勝願寺、芳泉寺には現在も小松姫の墓碑が現存し分骨されたと伝えられています)。小松姫は徳川家家臣本多忠勝の娘でしたが徳川家康の養女となっていた為(秀忠の養女とも)、大英寺は幕府からも庇護され朱印地100石が安堵され寺運も隆盛しました。江戸時代には何度か大きな火災にあい堂宇や寺宝などが焼失しましたが松代藩の藩費によってその都度再建されが明治時代に入ると真田家の庇護から離れ境内も縮小されました。
象山神社

長野県長野市松代町松代1502

【問合せ】TEL:026-278-2461
象山神社は、長野県長野市松代町にある神社(県社)。幕末の松代藩士で思想家の佐久間象山を祀る。本殿等は国の登録有形文化財で、園池は登録記念物。
1913年(大正2年)の象山殉難五十年祭を機に、地元松代町出身の大審院長・横田秀雄を中心に神社建立が計画され、1938年(昭和13年)に創建された。
社地は旧佐久間象山邸であり、境内には象山ゆかりの建物が松代町内や京都から移築されている。
長国寺

長野県長野市松代町田町1015-2

【問合せ】TEL:026-278-2454
天文16(1547)年、信濃国の在地領主であった真田幸隆が、畏敬する伝為晃運禅師を開山第一世に招き、一族の菩提寺として松尾(現・)城内に「真田山長谷寺」を建立しました。その後、永禄7(1564)年に松尾城外へと移され、本格的な禅寺として諸施設を整えました。江戸幕府が開かれると、幸隆の孫にあたる真田信之は上田藩主となりますが、元和8(1622)年の松代移封にともなって現在の場所へと移転し、寺号も「長國寺」(國は国の旧字体)と改めて、今日にいたっています。

真田家の菩提寺

真田家の菩提寺として創建され、歴代松代藩主の墓所でもあった長國寺には、真田一族ゆかりの寺宝が数多く残っています。
長國寺と最も深い縁で結ばれた真田家の人物が、初代松代藩主であった真田信之です。講談や小説で英雄的に描かれた父・昌幸や弟・信繁(幸村)の影に隠れてしまいがちですが、戦乱の世で真田家を守り抜き、明治まで続く松代藩真田家の礎を築いた真田家最大の功労者といえるでしょう。
明治5(1872)年の大火での焼失を免れた「初代松代藩主真田信之公の霊廟」は、往時の真田家の繁栄を彷彿とさせるきらびやかな造りで、国指定重要文化財に指定されています。霊廟の裏手にある歴代藩主の墓所は、大名の墓としては決して宏壮なものではありませんが、真田家300年の歴史を語るように静寂な佇まいを見せてくれます。
 中村神社

延喜式神名帳 中村神社 信濃国 埴科郡鎮座

現社名 中村神社

住所 長野県長野市松代町西条字中村
      
祭神 天児屋根命 大国主命 健御名方命 (配祀)素盞嗚命
 延喜以前上古の創建にして、年月未詳なるも社傳旧地並に神宝など数多く傳はり、永禄年間(1558-70)の兵火にて本殿・拝殿・社庫等一宇不残焼失し確証爲す能はずと雖も、境内地老杉巨槻森欝として昼猶暗く、草創年代の古きを偲ばしめるものがある。(式内社調査報告)
当初は当社の南、高遠山中腹に「宮の平」という地があり、そこに鎮座していたとも伝えられている。


中村神社の創建は不詳ですが延喜式神名帳に記載されている式内社です。当初は高遠山中腹の宮の平にあったそうですが延長5年(927)には現在地にあったそうです。以来、西条地区の産土神として住民に崇敬され、中世には松代周辺を支配した西条氏が庇護しています。永禄年間に兵火により多くの堂宇、社宝、記録など焼失し永禄12年(1569)に西条裕直が社殿を再建しています("信州埴科郡英多邊庄西条大国大明神社造営"の棟札が現存しています。)。祭神は天兒屋根命、大國主命、健御名方命、素盞嗚命。又、境内にあった樹齢250年、高さ22mの大杉が平成15年の善光寺御開帳の折切り出され回向柱として奉納されています
   
 玉依比売命神社

延喜式神名帳 玉依比売命神社 信濃国 埴科郡鎮座

現社名 玉依比売命神社

住所 長野県長野市松代町東条 443
       
祭神 玉依比賣命 天照皇大御神 建御名方命
 当初斎川の地(現在の岩沢、東1Km)に勧請 後同村磯並の地に遷 寛喜2年(1230)洪水のため現地へ遷 明治6年4月郷社  昭和20年12月県社

江戸時代は「磯並三社大明神」と称していた
社殿はもと同村磯並の地にあったものを寛喜2年(1230)洪水のため現地へ遷。

玉依比賣命神社

 神社創建の縁起によれば、「人皇八代孝元天皇16年4月16日東条斎川の地に勧請された」とあり、斎川は現在の岩沢である。その後磯並(現在の中川)に移り、磯並三社大明神と称した。現在の地に鎮座してのは寛喜2年(1230年)と伝える。
 延長5年(927年)左大臣藤原忠平らにより撰進された延喜式五十巻の中の神名帳に記載された信濃国四十八座の式内社の一つとして、その歴史は極めて古い。
現社殿は天保4年(1833年)に改築された、八棟造りを模した荘厳な建築である。
祭神
主祭神 玉依比賣命(初代神武天皇の母神)
合祀 天照皇太神・建御名方命・素戔鳴命

児玉石神事

長野県松城町東条の玉依比売命神社の神宝。県宝。子持ち勾玉を中心に、古墳時代の玉類が多い。最も多いのは、勾玉で490個。ヒスイ製が104個、メノウ製が132個など。管玉、切り子玉、丸玉など、総数591個。全国にも例がない。
この玉、普段は封印されて内陣の中に安置され拝観する事はできない。しかし正月7日、神職と氏子総代によって「児玉石神事」が行われる。神職は覆面をして「玉読み」をし、総代はその側に居て「玉改め」をする。つまり、封印を切って玉を数える、この時玉の数が増減すると言われている。玉の数が増えていれば、その年は豊年であり、減ると凶作である。
   
 祝神社

延喜式神名帳 祝神社 信濃国 埴科郡鎮座

現社名 祝神社

住所 長野県長野市松代町松代鍛冶町 567
       
祭神 生魂命 (配祀)健御名方富命 八坂斗売命
 もと海津城二ノ丸の附近にあった 天文22年(1553)武田信玄海津城築城鎭守として信仰
東條地籍の山上に、鎭座していた  諏訪神社はもと海津城二ノ丸付近にあった 慶長13年(1608)現地へ遷


「往古は、東條地籍の山上に、鎭座していた。其辺の地字に祝畑といった。宮跡礎石等散在し、その当時は里宮なりしを、その後、ある時代に本宮を現地に遷齋せるもの」と伝。
「健御名方富命及び八坂斗売命を祀る社(諏訪神社)はもと海津城二ノ丸の附近に、ありたるを天文22年(1553)武田信玄此地に海津城を築きて北國の防禦となすに當り、社をそのまま城内の鎭守として信仰したるを、その後、松平忠輝の時代即ち、慶長13年(1608)に右の二神を祝神社相殿に遷座合祀せり」と伝。

   
 祝神社(須須岐水神社境内社)

延喜式神名帳 祝神社 信濃国 埴科郡鎮座

現社名 祝神社(須須岐水神社境内社)

住所 長野県千曲市屋代1858
       
祭神 建五百建命・建御名方富命・南方刀美命
 当初鎮座の地は一重山の腰惣に創建 明治42年当地に遷  その後一重山北端の尾根の東の地に遷鎮 平成11年5月22日現地に鎮座
『埴科郡志』によれば、当社が本来の式内・祝神社であった。その後日吉神を合祀し「山王」と呼ばれた。


祭神

建五百建命 (科野国の国造)
建御名方富命 (諏訪上社祭神の古名)
南方刀美命 (諏訪下社祭神の古名〕

祝神社は社伝によれば白鳳2(651)年一重山の腰惣に創建という。平安時代には延喜式の神名帳に列した。鎮座の地は幾多変遷の後、明治42年に一旦当地にあつたが、故あつて一重山北端の尾根の東の地に鎮座した。しかし当地に永久の奉祀を願い再び鎮座して、平成11年5月22日鎮座の祝典を挙行した。



須須岐水神社

須須岐水神社の祭神

正殿に三柱の祭神
大国主命 国土経営の神
生魂命  生成化育の神
事代主命 大国主命の御子
相殿の左に四柱と右に三柱の祭神
罔象女命 水を主宰する神
豊玉姫命 水路の神
速秋津彦命 水戸の神
速秋津姫命 水戸の神
少彦名命  国土隆営助力の神
保食命 食物を主宰する神
国常立尊 天地を司る神


創立は悠久の古代で、当地における産土の鎮守。
近江の国比叡山日吉社から大国主命=山王権現を勧錆し、山王宮とも称す。やがて、近辺十八郷に灌漑生活用水を供する屋代用水の守護神となる。
   
 須須岐水神社

延喜式神名帳 祝神社 信濃国 埴科郡鎮座
          (境内社)祝神社

現社名 須須岐水神社

住所 長野県千曲市屋代1858
       
祭神 大國主命 生魂命 事代主命 (配祀)罔象女命 豐玉姫命 速秋津彦命 速秋津姫命 少彦名命 保食神 國常立命
 寛延4年(1751)に波布離神社(松代)に社名を譲るまでは、波布離神社と称されていた。
当社を式内祝神社に否定する説がある。


郷社須々岐水神社は、元式内祝神社なるべきも中世國照神社と称し、又雨宮と神事を共にするに及び、山王社と呼べり。故に寛延4年祝神社の號を松代の諏訪社に許可せらる、因りて天明元年改めて須々岐水神の社號を受く、屋代、埴生、杭瀬下、両宮縣、森倉科六町村の水神として尊崇する所なり。


須須岐水神社の祭神

正殿に三柱の祭神
大国主命 国土経営の神
生魂命  生成化育の神
事代主命 大国主命の御子
相殿の左に四柱と右に三柱の祭神
罔象女命 水を主宰する神
豊玉姫命 水路の神
速秋津彦命 水戸の神
速秋津姫命 水戸の神
少彦名命  国土隆営助力の神
保食命 食物を主宰する神
国常立尊 天地を司る神
創立は悠久の古代で、当地における産土の鎮守。
   
 祝神社

祝神社 

伊勢町

祭神 生魂命 

相殿 健御名方冨命 八坂斗売命
 延喜式内社埴科郡五社の一つで千年以上の歴史を有す。松城城下時代は町方の産土神、総鎮守社として祀られ、いまも親しみを込めて「お諏訪さん」と呼ばれている。
慶長3年(1598)に、生魂命は東条から、健御名方冨命八坂斗売命の諏訪二神は海津城二の丸から合祀された。本殿は一間社入母屋造り銅瓦葺き、拝殿は間口四間、奥行七間、瓦葺き。見事な立川流の彫刻が刻まれる。
境内には稲荷社、八幡社、天神社、西宮神社(恵比須神社)、猿田彦社、宗像社などがあり、学問、商業、家屋敷、食物、治水、漁業、道案内他、八百万の神が祀られる
   
   
水上布奈山神社

住所長野県千曲市戸倉1990

【問合せ】TEL:026-275-5180
江戸初期に諏訪大社から祭神を勧請して創建される。寛政期に建立された本殿は一間社流造で、諏訪の大工柴宮長左衛門による彫刻が無数に施されている。彫刻の豊富な主題と豪壮な表現技法は当時の建築様式を伝えるものとして、国の重要文化財に指定されている。

また、境内の「飯盛女の献燈籠」は1839年(天保10年)7月に下戸倉宿に働く飯盛女52名と旅籠屋主人が奉納したもので、台座に刻まれた52名の飯盛女の名を確認することができる。千曲市の指定有形文化財である。

諏訪大社にならい、7年毎(数え年によるもので、実際には6年に一度の申年と寅年)の4月中旬に御柱祭がある。直近の御柱祭は2010年に行われた
須須岐水神社

長野県千曲市屋代1851

【問合せ】TEL:026-272-0769 ; FAX:026-272-0769
祭神 速秋津彦命 ほか


式外社 須々岐水神 三代実録
旧郷社

御祭神
大國主命 生魂命 事代主命 罔像女命
配祀
豊玉姫命 速秋津彦命 速秋津姫命 少彦名命 保食命 國常立命

境内社 式内社 信濃國埴科郡 祝神社
建五百建命(科野国造) 建御名方富命(諏訪上社) 南方刀美命(諏訪下社)

現在の主祭神は、大國主命や生魂命となっているが、
本来は,水神である罔像女命や、速秋津彦命、速秋津姫命だと思われる。
『神社名鑑』では、そちらが記されている。

『埴科郡志』によれば、当社が本来の式内社・祝神社であったようだが、
中世には国照神社と称し、また、日吉神を合祀したため、
「山王さん」とも呼ばれるようになり、
祝神社の名を、松代の諏訪神社に許可した。
龍洞院

長野県千曲市大字稲荷山2136

【問合せ】TEL:026-273-1685 ; FAX:026-273-3832
本尊は釈迦三尊坐像。

幕末の志士、佐久間象山や赤松小三郎、それに高井鴻山、山寺常山、竹内八十らの文化人など多くの著名人を育てあげた活文禅師は、四十五歳の時龍洞院の住職として迎えられました。
活文が岩門(神科)大日堂へ移るまでの約6年間、この龍洞院で過ごしたことから、活文が残したすぐれた遺墨や遺品などが数多く保存されています。


  桑原山龍洞院

龍洞院の寺伝によると、信濃の生んだ高僧の恕仲天闇が、応永年間(1394~1428)に、修行と教化の旅の途中、たまたま桑原小坂の観音堂に止宿した。その夜、龍王・秋葉二神の霊夢により、しばらくこの地にとどまった。
古くから桑原は東山道の支道が南から北へ走り、善光寺をへて越後へと通ずる幹線沿いの地であった。
観音堂に止宿した恕仲天闇に接した当地の土豪・桑原左近大夫は、その教えに感動して、互いに協力しあい一寺を建立して龍燈院と名づけた。
姨捨長楽寺

長野県千曲市八幡4984

【問合せ】TEL:026-273-3578
長楽寺は、長野県千曲市にある天台宗の寺院。山号は姨捨山。姨捨山放光院長楽寺と号する。本尊は聖観世音菩薩。信濃三十三観音霊場第14番札所。

眼下に眺望の広がる境内には多くの歌碑や句碑がある。中でも門脇の松尾芭蕉の句「俤や姥一人なく月の友」を刻んだおもかげ塚(芭蕉翁面影塚)が著名である。なお、芭蕉が姨捨山の月を眺めに木曽路から当地を訪れた更科紀行でこの句を詠んだのは貞享5年・元禄元年(1688年)のことであるが、おもかげ塚の建立は明和6年(1769年)に加舎白雄(かやしらお)の手によってである。また小林一茶は4度の来訪があったとされているほか、伊能忠敬も文化11年に訪れて日記に13の古詠を書きとめている。

本堂・庫裏は、天保5年(1834年)に再建されたとあるが、建築様式から文化・文政年間(1804-1829年)の建築と推定されている。本堂に接する観月殿は、元治元年(1864年)の奉納額が飾られていることや、建築様式からこの頃の建築と推定されている(2007年(平成19年)度保存修理)。

おもかげ塚の上方に建つ月見堂は、本堂と同じ頃の建築とされており、2003年(平成15年)度に保存修理が行われた。また、境内の上方に建つ観音堂は、元禄4年(1691年)に再建されたとあるが、虹梁の絵様の様式から宝暦・明和年間(1751-1771年)の再建と推定されている(2004年(平成16年)度保存修理)。

境内にある「姨石(姨岩)」は、高さ約15 m、幅約25 m、奥行約25 mあり、頂上からは長野盆地を一望でき、月の眺めも別格である。江戸時代後期の紀行文作家であった菅江真澄は夥しい人々がこの岩の上からの月見をしている様子を絵(秋田県立博物館所蔵)に残している。なお、この岩が姨捨山縁起から伝説の姨捨山[1]だと伝えられている。

姨捨(田毎の月)は国の名勝に指定されている
智識寺

長野県千曲市大字上山田1197(八坂)

【問合せ】TEL:026-275-1120
智識寺(千曲市)概要: 智識寺大御堂の創建は天平12年(740)に開山されたと伝わる古刹で大同2年(807)には坂上田村麻呂が堂宇を改修したという伝承も残っています。源頼朝も篤く信仰し祈願所に定めると建久9年(1209)には七堂伽藍を建立し仁王像を寄進しています。室町時代に入ると周辺一帯を支配した村上氏の庇護となりますが武田氏に滅ばされ一時衰退し、別当寺院だった法華寺は天正11年(1583)に屋代氏の命で屋代に移され、代って智識寺が別当となり、慶長14年(1609)に当初あった冠着山から現在地に移しています。江戸時代に入ると歴代松代藩主から庇護され文政年間(1818~1830年)には大御堂の修復を行っています。智識寺は寺宝も多く本尊である十一面観音像は平安時代後期に行基菩薩(平安時代の高僧)が自ら彫り込んだと伝わる仏像で像高306㎝、一木造(1本の木から削り出されている立木観音像)、欅材、昭和12年(1937)に国指定重要文化財に指定されています。
武水別神社

住所長野県千曲市八幡3012

【問合せ】TEL:026-272-1144
御祭神

武水別大神

誉田別命

息長足比売命

比咩大神


 社伝によれば、武水別大神は人皇第八代孝元天皇(紀元前二一四~一五六)の御代に御鎮斎と伝えられております。
 
 その後安和年間(九六八~九七〇)に京都の石清水八幡宮より、誉田別命・息長足比売命・比咩大神が勧請され、相殿に奉斎されました。
当社は延喜式(平安初期の年中儀式や制度などを記した書物)に名神大社として記載されており、三代実録(延喜元年に編纂された歴史書)によると貞観二年(八六〇)に従五位下、同八年に従二位の神階を受け、同九年に官社に列したと有り、上古よりの大社であったことを窺い知ることが出来ます。
 
 戦国時代から江戸時代にかけてはこの地方随一の八幡宮として諸武将の尊崇が篤く、慶安元年(一六四八)には幕府から朱印地二百石を与えられました。明治時代に入ると郷社に列せられ、明治四十一年に県社に昇格、現在は神社本庁別表神社に指定されております。
大雲寺

長野県千曲市八幡1253

【問合せ】TEL:026-272-3159
長野県千曲市で、石仏で知られる霊諍山を背景として建つ禅宗の寺院です。池を前にして仏閣が聳える光景は、まるで一幅の絵のようになっています。境内には、ヒガンザクラ、ソメイヨシノ、シダレザクラなどの各種のサクラが植栽され、例年4月中旬から下旬のシーズンには、薄紅色の花を咲かせます。それに続いて、7月中旬から8月には蓮の花、秋には紅葉、冬は雪が、順々に伽藍を彩り、四季折々の姿を見せてくれます。
観龍寺

長野県千曲市森大峯2650

【問合せ】TEL:026-275-1753
観龍寺とは長野県千曲市大峯にある真言宗智山派の寺院である。本尊は千手観音。だが、本尊千手観音は10年ほど前に盗難にあっている。観龍寺は現在無住職寺で地元有志によって寺は維持されている
   
 粟狭神社


延喜式神名帳 粟狭神社 信濃国 埴科郡鎮座

現社名 粟狭神社

住所 長野県千曲市粟佐 1324
      
祭神 健御名方命 (配祀)事代主命 少彦名命
 創建年代不詳だが、古来船山郷の総社として尊崇されている。
往古の鎮座にして創立勧請の年月は不祥であるが、延喜年中に埴科郡五座の筆頭をもって神名帳に記載された延喜式内の名社である。
船山郷を含む近郷にわたる総社であり郷民の崇敬は厚く、大領の時代は祈願所として尊崇を受け、代々の領主よりは祭典料の寄進があった。
七年に一度の御柱大祭を斎行するを例とし船山郷(杭瀬下・新田・鋳物師屋・寂蒔・内川・打沢・小島・桜堂・粟佐)の九ヶ村にて執り行ってきた。
境内は古木多く古社の姿を観し、旧本殿は正応年間(1288)以前の建造物であり、本殿は慶応二年(1866)の御造営である。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 
   
 坂城神社

延喜式神名帳 坂城神社 信濃国 埴科郡鎮座

現社名 坂城神社

住所 長野県埴科郡坂城町坂城大宮 1253
       
祭神 大己貴命 (配祀)事代主命 建御名方命
 景行天皇の御代、皇子日本武命東征の折、日野の里に住せし時、御陵が峯の麓の霊地に奉祀した。

今を去る1900余年前、景行天皇の御代、皇子日本武命東征の折、日野の里に住せし時、御陵が峯の麓の霊地に奉祀せられ、天武天皇白鳳2年社殿奉建されるといわれている。
延長五年延喜式発令され、全国3,132社として延喜式神名帳に登録され、毎年2月4日国司長官ともに幣を奉り、豊年を祈年したと伝えられる。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁
   
   
 子檀嶺神社(奥社)


延喜式神名帳 子檀嶺神社 信濃国 小県郡鎮座
          (里宮)子檀嶺神社(里宮)
          (中宮)子檀嶺神社(中宮)

 子檀嶺神社(奥社)

 長野県小県郡青木村
       
   祭神 木俣神 健御名方富神
 祭神 建御名方命
事代主命
少彦名命


子檀嶺岳山頂に鎮座する。山頂には三つの祠があり、当郷、村松、田沢の3つの地区の神たちを祀るという。
現在、奥社、中社、里社の三社を合せて子檀嶺神社と称している。
 子檀嶺神社


 延喜式神名帳 子檀嶺神社 信濃国 小県郡鎮座

 住所 長野県上田市武石小沢根 230
       
祭神 健御名方刀美命 倉稻魂命 八坂刀売命
 和銅5年(712)武石村沖の五日町地籍に鎮座  和銅5年山城國紀伊郡稲荷山からの勧請  天文4年(1535)依田川の洪水のため社殿流失   現在の地に遷座
初め同村五日町に祀ったが天文4年(1535)の洪水の後大井信広が現地へ遷という。
奥社は子檀倉岳山頂、中社(駒形神社)は余里にある。


武石村無形文化財 第一号 昭和46年2月15日指定
子檀嶺神社御柱祭行事
子檀嶺神社の御柱祭はいつの頃から始まったかは詳らかでないが、今までに発見された記録の中では天明2年(1782)のものが最も古いとされている。しかし子檀嶺神社は諏訪下社と関係があったことから推測してもっと以前から行われていたことは疑う余地がない。
爾来武石八ヶ村の御柱としての祭事であったが御ねり行列のみは宮もとである小沢根・余里の区民によって伝承されてきた。しかしこれも昭和43年より武石村全村民で執行されることになった。
御柱祭行事は注連張式に始まって斧入式・山出祭・里曳・本曳・御柱樹てに終わる一連の行事である。本曳は本祭当日に行われ御ねり行列が奉納される。
   
 子檀嶺神社(中宮)


延喜式神名帳 子檀嶺神社 信濃国 小県郡郡鎮座
          (奥宮)子檀嶺神社(奥宮)
          (里宮)子檀嶺神社(里宮)

  現社名子檀嶺神社
   住所】野県小県郡青木村田沢
       北緯36度23分8秒,東経138度6分35秒
   祭神木俣神 健御名方富神
 奥社は高嶺の子檀山頂に、中社は字細久保に鎮座する。訪問時宮司と面談するに、明治に里宮と合す、以前は別の神社であった
   
子檀嶺神社

長野県小県郡青木村田沢

【問合せ】TEL:0268-49-0111

延喜式神名帳 子檀嶺神社 信濃国 小県郡鎮座
          (奥宮)子檀嶺神社(奥宮)
          (中宮)子檀嶺神社(中宮)

現社名子檀嶺神社
 
住所 長野県小県郡青木村田沢 2378
      
 祭神 木俣神 健御名方富神
祭神 宇賀御魂神
建御名方刀美命
八坂刀賣命

特殊神事 式年御柱大祭ー寅年・申年の4月に執り行われている  式石郷八ヶ村の産土神として信奉されている子檀嶺神社は、奥宮である子檀嶺獄山頂の子檀倉社、中宮である余里の駒形神社、里宮である当社からなっている。御祭神は、奥宮は宇賀御魂神・高れい神、中宮は建御名方刀美命、里宮は宇賀御魂神、建御名方刀美命、八坂刀賣命の三柱である。 和銅5年(712)に山城国紀伊郡稲荷神社より宇賀御魂神を子檀嶺獄山頂に鎮座しこれを奥宮と称し、里宮は旧下武石村五日町に御遷座お祀りしていた。大同元年(806)3月15日当国一ノ宮上諏訪神社より建御名方刀美命、八坂刀賣命を宝珠児玉石三個に添いて分社し二柱の命を左右の殿に遷祀した。古くはこの三柱を合わせて子檀嶺神社獄石宮大神として祀っていた。

貞観2年(860)2月神位従五位下を授けられ、延長2年(924)御勅改、延長5年(927)延喜式に選ばれ名神小社に列した。寛冶元年(1807)源義光公本殿再建され元暦元年(1184)当郷の豪族武石三郎平胤盛本殿吠殿を修理された。


子檀嶺神社

 式石郷八ヶ村の産土神として信奉されている子檀嶺神社は、奥宮である子檀嶺獄山頂の子檀倉社、中宮である余里の駒形神社、里宮である当社からなっている。御祭神は、奥宮は宇賀御魂神・高れい神、中宮は建御名方刀美命、里宮は宇賀御魂神、建御名方刀美命、八坂刀賣命の三柱である。 和銅5年(712)に山城国紀伊郡稲荷神社より宇賀御魂神を子檀嶺獄山頂に鎮座しこれを奥宮と称し、里宮は旧下武石村五日町に御遷座お祀りしていた。大同元年(806)3月15日当国一ノ宮上諏訪神社より建御名方刀美命、八坂刀賣命を宝珠児玉石三個に添いて分社し二柱の命を左右の殿に遷祀した。古くはこの三柱を合わせて子檀嶺神社獄石宮大神として祀っていた。貞観2年(860)2月神位従五位下を授けられ、延長2年(924)御勅改、延長5年(927)延喜式に選ばれ名神小社に列した。寛冶元年(1807)源義光公本殿再建され元暦元年(1184)当郷の豪族武石三郎平胤盛本殿吠殿を修理された。 天正4年(1576)依田川の大洪水により社地・社殿が流失し、当時の地頭大井大和守信廣現在地へ遷座し祭典料として28貫文の地を寄付された。慶長12年(1607)9月28日領主真田候社領として18石余寄付され、以降領主が変わる毎に社領は寄付された。延享3年(1746)烈風のため大破損を被り、翌4年領主松平伊賀守忠愛候巨木を寄進された。

長野県神社庁


こまゆみは「駒斎み」でこの付近一体に展開していた塩原牧の信仰対象でもあった。奥社は高嶺の子檀山頂に、中社は字細久保に鎮座。
現在、奥社、中社、里社の三社を合せて子檀嶺神社と称している。江戸時代には、入田澤の中社をかんにや小社、又は小檀大権現、中村の里社を諏訪大明神、単に大明神、明神と呼んでいた。一般には三社を合せて、諏訪大明神と称していた。
三代実録には駒弓神「コマユミノカミ」と有り、馬を対象にした神ではないかと推察される。延喜式の信濃十六牧のひとつ塩原牧が大字田澤地籍を中心に現在の青木村全体に及んでいたと推定される。
江戸時代までは現里社より東南東約1.5kmの大字田澤、通称中挾組に鎭座していたが洪水により流出したので、現在地に移したとされる。
この子檀神社の鎭座する地域には胡麻を作つてはならないとの言伝えが有る。これは、祭神が葦毛の駒に乗って立谷坂で落馬し、胡麻穀で眼を突き傷つけたのを忌んでのことであるとされる。
鳴龍山 妙見寺

長野県上田市下武石654-2

TEL:0268-85-2102
一心神社

長野県上田市武石上本入下小寺尾
地元で「一心様」として親しまれている武石下小寺尾にある神社。毎年4月第3日曜日に行なわれるお祭りで、「火渡り」と「剣梯子の刃渡り」が見られます
大法寺

長野県小県郡青木村当郷

【問合せ】TEL:0268-49-2256
大法寺は、長野県小県郡青木村にある天台宗の寺院。山号は一乗山。開基(創立者)は藤原鎌足の子・定恵と伝える。本尊は釈迦如来。国宝の三重塔があることで知られる。

 寺伝である一乗山観院霊宝記によると、大法寺は奈良時代の大宝年間(701~704)に藤原鎌足の子である定恵によって創立されたとされる。その後、平安時代の大同年間(801~810)に坂上田村麻呂の祈願により、義真(天台宗座主)によって再興された。 大宝年間と定恵が生きたとされる間(諸説あり)は一致しない。歴史資料や地理的事実からは、大法寺が近くに存在した東山道の浦野駅に関係する寺として創建されたと考えるのが妥当とされており、いずれにしても奈良時代に創建された信州でも有数の古刹である。
 平安時代に周辺地域が牧場として栄えたことから、大法寺は牧場関係者による崇敬を受けた。重要文化財に指定されている十一面観音菩薩立像、普賢菩薩立像などはこの間に造られ、平安時代独特の作風を伝えている。
崇福山 安楽寺

長野県上田市別所温泉2361
本尊
釈迦如来


安楽寺は長野県上田市別所温泉にある曹洞宗の寺院。山号を崇福山と称する。院号は護国院。開山は樵谷惟仙。本尊は釈迦如来。国宝の八角三重塔があること、また長野県で最古の禅寺であることで知られる。

伝承では天平年間(729 - 749年)、行基の建立とも言い、平安時代の天長年間(824 - 834年)の創立とも言うが、鎌倉時代以前の歴史は判然としない。

安楽寺の存在が歴史的に裏付けられるのは、鎌倉時代、実質的な開山である樵谷惟仙が住してからである。樵谷惟仙は、信濃出身の臨済宗の僧で、生没年ははっきりしないが、13世紀半ばに宋に留学し、著名な禅僧の蘭渓道隆(鎌倉建長寺開山)が来日するのと同じ船で寛元4年(1246年)、日本へ帰国したという。2世住職の恵仁は宋の人で、やはり樵谷惟仙が日本へ帰国するのと同じ船で来日した。

鎌倉時代の安楽寺は塩田荘を領した塩田流北条氏の庇護を得て栄えたが、室町時代以降衰退し、古い建物は八角三重塔を残すのみである。室町時代、天正8年(1580年)頃、高山順京によって再興され、以後曹洞宗寺院となっている。
前山寺


長野県上田市前山300

山号  獨股山・独鈷山

宗派  真言宗智山派
本尊 大日如来

前山寺は、長野県上田市にある真言宗智山派の寺院。山号は獨股山又は独鈷山。本尊は大日如来。独鈷山の山麓にあり、塩田城の鬼門に位置する。寺名は「ぜんざんじ」と呼ばれることもあるが、正式には「ぜんさんじ」である。

また「未完成の完成の塔」と呼ばれる国の重要文化財の三重塔がある。

812年弘法大師空海が護摩修行の霊場として開創したといわれる。当初は法相宗と三論宗を兼ねていたが、1331年善通寺から長秀上人が訪れ、現在の地に移し規模を拡大させたとされる。のち貞享年中(1684年~1687年)に真言宗智山派に改宗された。
信濃国分寺

本堂(長野県宝)

長野県上田市大字国分1049

山号 なし(旧・浄瑠璃山)
宗派 天台宗

本尊 薬師如来

創建年 奈良時代

別称 八日堂 旧名:浄瑠璃山 真言院 国分寺



信濃国分寺)は、長野県上田市国分(こくぶ)にある天台宗の寺院。本尊は薬師如来。現在山号・院号はないが、江戸時代には「浄瑠璃山真言院国分寺」と号した[1]。また「八日堂」の別称がある。

奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、信濃国国分寺の後継寺院にあたる。本項では現寺院とともに、創建当時の史跡である信濃国分寺跡・信濃国分尼寺跡(合わせて「信濃国分寺跡」として国の史跡)についても解説する。
科野大宮社

長野県上田市常入字上常田723-1

主祭神 大己貴命 事代主命

社格 (推定)信濃国総社 旧県社

創建
(伝)第10代崇神天皇年間
鳥居
科野大宮社は、長野県上田市にある神社。信濃国総社と推定され、旧社格は県社。


主祭神大己貴命
事代主命
相殿神健御名方富命


社伝によれば、第10代崇神天皇の御世に神八井耳命の孫・建五百建命による創建という。
天武天皇の御世に神地の下賜があり、天平年間(729年-749年)には官祭執行の儀があったともいう。
信濃国府は古来上田市にあったとされるが、平安時代初期に松本市へ移されたとされる。上田市の国府は神科台地上と推定されており[3]、当社は国司が参拝する総社であったとする説がある。なお、付近には信濃国分寺跡・信濃国分尼寺跡も残っている。
当社は古来「総社大宮」「科野国魂神」と称したといわれ、中世には「大宮諏訪大明神」と称したと伝える[4]。
真田氏による上田城築城以来、当社は城の鎮守と定められ、信濃国分寺三重塔と当社は藩費をもって修繕したという。寛文9年(1669年)頃の城下町古地図には「常田村大宮」と記載されている。
明治に入り、近代社格制度においては県社に列し、社名を現在の「科野大宮社」に改めた
 塩野神社


延喜式神名帳 塩野神社 信濃国 小県郡鎮座

現社名 塩野神社

住所  長野県上田市前山 1681

 祭神 素盞嗚尊 少名彦命 大己貴命
 塩野川の水源である独鈷山の鷲ケ峰に祭ったのが始まりといわれる。
奥宮が独古山にあり。独古山信仰より生まれた神社である。
宝暦7(1757)から明和3年(1766)まで10年間に亘り、保野の塩田神社と共に延喜式内社を主張して社号の大論争が続き、途に幕府の寺社奉行の裁きを受けることになり、その結果共に証拠不十分の理由で、両社とも社を停止されることとなった。

古代の公文書である「三代実録」「延喜式」に記されている。戦国時代には武田信玄や真田昌幸・信之らが信仰を寄せ、それらの古文書や、六十年に一度の「甲子祭」で舞われる「前山三頭獅子」等、多くの文化財を伝えている。
拝殿は勅使殿ともいわれ、棟札により建築は江戸中期の寛保3年(1743)作者は上田市房山の名工、末野忠兵衛とわかる。楼門形式の拝殿は、現在のところ県内では諏訪大社と本件が確認されるのみで、建築史上貴重な物件である。
本殿は一間社流造で、建築は寛延3年(1750)作者は本殿と同じく末野忠兵衛である。各所に雲や天女・虎・牡丹・竜等の彫刻が施され、この時代の地方作としては彫刻が多く用いられた初期の作品であり、当時の様式を良く伝えている

塩野神社

式内 塩野神社
 祭神 須佐之男命 大己貴命 少彦名命
 約千年前、朝廷で編纂された「延喜式」に載せられている信濃の名社。上田、小県地方における式内社5座の一つで、奥社は塩野川の水源独鈷山にある。
 大宮または大明神とも称され、古来この地方の信仰の中心で、塩田北條氏、武田氏、真田氏等の統治者は常にこの神を厚く崇敬した。
 中でも永禄11年(1568)の武田信玄の祈願状や天正15年(1586)の真田昌幸(幸村の父)の寄進状など有名なもので、何れも上田市の文化財に指定されている。
 かつては神宮寺も付属している大社であり、武田信玄は20貫文の朱印地を奉納していたといわれる。戦前は県社であった。
   
 塩野神社


延喜式神名帳塩野神社 信濃国 小県郡鎮座

   
住所長野県上田市保野 429

祭神塩垂津彦命 (配祀)素戔嗚命 健御名方命
 祭神の鹽垂津命は白鳳元年、出雲より分祀とも、宝亀年中の奉斎とも伝えられる。白鳳当時、百済の帰化人が東国へ送られ、平安時代初期、小県郡の帰化人に姓を賜るという史実から、帰化人によって米作が発達し、信濃の中心と発達する基になったと考えられる。
鹽野神社は式内社小縣郡五座の内三座の小社の一に挙げられているが、前山と保野に同名の社があり、現在は共に延喜式内鹽野神社を名乗っている。宝暦7年(1757)から明和3年(1766)まで10年間に亘り、共に延喜式内社を主張して社号の大論争が続き、遂に幕府の寺社奉行の裁きを受けることになり、その 結果共に証拠不十分の理由で、南社とも社号を停止されることになり、保野神主保屋野日向と前山神主宮澤大膳が和談し、済ロ証文を奉行宛差出している。その結論に保野は北鹽野神社、前山は南鹽野神社と祝称して睦まじくやって行くということを誓っている。その後、未だにどちらが真の鹽野神社かは郷土史研究家も解明できないでいる。
 明治以来当地方の郷土史の二大家と言はれる上野尚志、藤澤直枝はともに保野は福田郷(和名類聚抄)に属し、上田盆地における稲作創始の二大地帯の一であり、そこに現存する口明塚古境とともに福田郷の古社であることを主張された。上野尚志著『信濃國小縣郡年表』は今も上小郷土研究会によって復刻されて、郷土史愛好家に使用されているが、氏は保野が式内社であることを断言している。しかし今もなおかっての寺社奉行の裁定に従ふべ きであろうと考へる。
 鹽野神社は宝暦7年(1757)前山と保野の神主が社号論争をはじめるまでは、前山は大宮、保野は大明神(棟札による)と称していたことは明らかであるが、長い間双方とも鹽野神社とは氏子も言わなかったことがわかる。従って由緒なども主として論争時の言い分として言いはじめたものが多いとも思はれ、伝承は余り信用できないものとなってしまった観がある。それよりも明治以来の郷土史家の研究の方が地方民からも信頼を受けている。特に有名な上野尚志はその著『信濃國小縣郡年表』に「前山村の方は証書一○数通あれども皆後世の偽作にして一も取るに足るものなし」と言いきっているし、『上田市史』を執筆した藤澤直枝も「現在の姿でその神社の新古正否をきめることは危険である。鹽野神社の場合保野は福田郷であり、前山は安曾郷であり、福田郷には保野の鹽野神社以外に然るべき神社のないことに注目する方が大事だ」と説いている。
   
 生島足島神社

 延喜式神名帳 生島足島神社 二座 (名神大) 
信濃国 小県郡鎮座

住所 長野県上田市下之郷 701
      
祭神 生島神 足島神
 生島・足島二柱の神が鎭座  崇神天皇の御代に社殿創建 大同元年(806)「神事封戸」 建治年間(1275年~1278年)北条国時社殿営繕 明治22年勅使差遣になり国幣中社

   
本殿は、周囲を池で囲まれた小島の上に立ち、古代の神社の形態を現在に残している。
本殿内に御諸と呼ばれる床板の無い大社造りの内殿が有り、「土・土地」そのものがご神体とされている。

日本中央生島足島神社
日本の真中国土の大神
御祭神生島大神足島大神
御神徳この二柱の神は日本の中央に鎮座して、万物を生み育て、国中を満ち足らしめ給う日本国土の守護神である。生島大神は人々に力強い生命を与え、病気平愈、災難除け、安産に、足島大神は人々の願いに満足を与え、五穀豊穣、商売繁盛、受験、縁結び等に霊験あらたかと昔より伝えられている。
御由緒太古より日本総鎮守と仰がれる無双の古社で、神代の昔建御名方命が諏訪の地に下降される途すがら、この地にお留りになり、二柱の大神に奉仕し米粥を煮て献ぜられたと伝えられ、その古事は今も御篭祭という神事に伝えられている。

創建の年代については明らかではありませんが、神代の昔、建御名方富命が諏訪の地に下降する途すがら、この地にお留まりになり、二柱の大神に奉仕し米粥を煮て献ぜられてたと伝えられ、その故事は今も御籠祭という神事に伝えられています。
生島神は生国魂大神、足島神は足国魂大神とも称され、共に日本全体の国の御霊として奉祀され、太古より日本総鎮守と仰がれる極めて古い由緒を持つ大神であります。
当社は歴代の帝の崇敬厚く、平城天皇の大同元年(806年)には神封戸の寄進があり、醍醐天皇の廷喜の代(901年~922年)には名神大社に列せられています。
建治年間(1275年~1278年)には北条国時(陸奥守入道)が社殿を営繕し、地頭領家も祭祀料の田地を寄進しています。
戦国時代以後も真田昌幸・信之等の武将を始め、代々の上田城主も神領を寄進し、社殿を再建する等、崇敬を表しています。
必ず生島・足島の二神をその地に鎮祭される例であり、近くは明治二年、宮中にこの二柱の大神を親祭され、同三十二年勅使差遣になり国幣中社に列せられています。
御本殿は池に囲まれた島の中ににまわりを老樹に囲まれて建っています。御扉の奥には御室と呼ばれる内殿があり、内殿には床板がなく大地そのものが御神体(御霊代)として祀られています。この池を巡らせて神域とされる島をつくる様子は「池心の宮園池(いけこころのみやえんち)」と称され、出雲式園地の面影を残す、日本でも最古の形式の一つとされるものです。現在の社殿は昭和15年に国費をもって竣工したものです。内殿は平成10年9月「県宝」に指定されました。
   
 延喜式神名帳 生島足島神社 二座 (名神大) 信濃国 小県郡鎮座

現社名 泥宮神社

住所 長野県上田市本郷
 生島足島神社の南西方に鎮座する。生島足島神社は当地から下之郷に遷座したという説がある。「泥宮」の名の通り当地一帯は湿地で、古代から稲作が行なわれていたと想定される。

泥宮という名は泥を御神体として崇めたところに由来するといわれる。
泥は稲を育てる母として古来神聖なものとされてきた。泥宮はその古代からの祖先の習俗を伝える宮として、極めて貴重な存在である。

延喜式内社・生島足島神社の御神体は「大地」です。生島足島神社と泥宮の御神体は同じということになります。
 一時期、塩田平の各ため池で鯉がたくさん飼われ有名でした。その「塩田鯉」は昭和32年(1957)、この上窪池に発祥しました。
   
 山家神社

延喜式神名帳 山家神社 信濃国 小県郡鎮座
          (奥社)山家神社奥社

住所 長野県上田市真田町長 4473
     
祭神   大国主命 伊邪奈美命 菊理姫命
(配祀)日本武尊 神八井耳命
 四阿山山頂に山家神社奥宮が鎮座しており、当社は里宮にあたり、山家神社本宮と称している。
奥社は二社あり、南向きの社を信州向社(信濃社)、東向きの社を上州向社(上毛社)という。
本社はもと旧字古坊に鎭座していたが、文徳天皇天安元年(857)6月16日、暴風雨洪水にして社殿を崩壊し、神森を押し流して現在の地に遷つたという。
神迎への神事が、6月15日及び11月17日に行われ、6月15日は、本宮より親神様を涼しい奥宮へ送り、子神様を本宮へ迎へ、11月17日には、逆に親神様を本宮へ迎え、子神様を奥宮へ送るという。
一説に、始め岩井山に鎮座し、後に、旧字古坊に遷座し、天安元年(857)現在の地に遷という。

創立年は不詳であるが、延喜式神名帳収載の山家神社で、大国主神を祀って旧山家郷の産土神としたものである。景行天皇の御代(71~131)に日本武尊を合祀したと云う。社伝に、「本社の別当浄定というもの越の泰澄の徒弟にして加賀の白山比め神社を信仰し、其の神霊を勧請し、養老二年奥社を四阿山絶頂に奉遷す。」とある。この奥社は二社あり、南向きの社を信州向社(信濃社)、東向きの社を上州向社(上毛社)という。


山家神社は、後醍醐天皇の時代に編纂された延喜式(927年に完成)に登載がある由緒ある神社です。名将幸村で名高い真田氏や代々の藩主を始め、多くの人々から崇敬を受けて現在に至っています。創立年は不詳ですが、景行天皇の御代(71~131)に日本武尊を合祀したと伝わっていますので、それ以前からなんらかの形で存在したと考えられます。御神徳としましては、農業、水利、疫病、盗難、その他諸々の災厄、祈雨、祈晴に霊験あらたかな為、古来、国司、守護職、武門、武将より一般民衆に至るまで、崇敬極めて厚く、その信仰は長野県下はもとより、埼玉、群馬、遠くは兵庫県にまで及んでいました。特に真田氏代々の崇敬極めて厚く、奥社並びに本社の営繕や寄進をうけています。尚、奥社ですが、群馬県との境の四阿山山頂にあり、加賀国一ノ宮『白山比咩神社』の御分霊を合祀し、「白山さま」とも呼ばれています。四阿山は神の山であり、そこから流れ出る神川の清流は生きとしいけるものに大いなる恩恵をもたらしています。引き続き真田神社ですが、真田氏は周知の如く当地より出て、全国に名を馳せた武将です。上田城で二度にわたり徳川の大軍を撃破し、また、大阪の冬、夏の陣では幸村の活躍により徳川軍を大いに苦しめ、「真田日本一の兵」と言わしめました。一方、領主としては善政を敷き、領民を大切にしました。その遺徳を偲び、且つその神霊を慰め、地域の鎮護とする為、建てられたお社です。

長野県神社庁
   
 山家神社奥社


延喜式神名帳 山家神社 信濃国 小県郡鎮座
          (本社)山家神社

住所  長野県上田市真田町大字長字十ノ原
      
祭神  大國主命 伊邪奈美命 菊理姫命
四阿山山頂の奥社が二社あり、南向きの社を信州向社(信濃社)、東向きの社を上州向社(上毛社)と呼ぶ。両社は50mほど離れている。
神送り・神迎えの神事があり、6月15日、本宮より親神様を涼しい奥宮へ送り、子神様を本宮へ迎える。11月17日には、逆に、親神様を本宮へ迎え、子神様を奥宮へ送る
   
 大輪寺

長野県上田市中央北1-5-7

【問合せ】TEL:0268-22-0575
 曹洞宗。真田昌幸の夫人寒松院(山之手殿)が開基となったと伝えられています。山本鼎の墓や加舍家の墓地があります。
   
 信綱寺

長野県上田市真田町長

【問合せ】TEL:0268-72-2204
 真田幸隆の長男、信綱の墓がある。寺の宝物館には、血染めの陣羽織などの歴史的遺品が数多く保蔵されています。収蔵品拝観希望の場合は事前に連絡が必要。
   
 真田神社

長野県上田市二の丸(上田城跡公園内)

【問合せ】TEL:0268-22-7302
 上田城本丸跡に鎮座する当社は、真田氏、仙石氏、松平氏という歴代の上田城主を御祭神としています。
しかし、もともとは松平家の御先祖をお祀りする御宮であり、松平神社と称していました。

松平家は、真田氏、仙石氏のあと、江戸時代中期から明治の廃藩に至るまで七代百六十余年の長きにわたる上田城主でした。松平家は先祖を徳川将軍家と同じくする松平氏の一つで、藤井松平氏と呼ばれます。
上田城主となった系統の藤井松平氏の初代忠晴公は、隠退後は忠山と号しました。
寛文九年(1669年)に亡くなられた忠山公の御墓所は京都の金戒光明寺にあります。
その京都に忠山公の御霊をまつる忠山社が設けられてもいました。この御社が当社の起源になります。
   
 霊泉寺

長野県上田市平井2542

【問合せ】TEL:0268-44-2638
 金剛山霊泉寺は、安和元年(968)空也の開山、鎮守府将軍平維茂の開基と伝えられる古刹。のち鎌倉建長寺末の臨済宗に転じ、さらに永禄(1558~70)の頃に曹洞宗となった。霊泉寺温泉は、元来はこの寺の温泉だった。
   
 文殊堂

長野県上田市鹿教湯温泉1368

【問合せ】TEL:0268-44-2331
 鹿教湯温泉にあり、行基の弟子園行が創立したものと伝えられています。現在は天竜寺(曹洞宗)に属しています。はじめは正面・側面とも、柱4本の正方形の建物であったが後に背後に下屋庇をつけ、現在は側面の柱は5本になっています。屋根は銅板葺母屋造で、正面中央の向拝付近や周囲の欄間などに多くの彫刻が施されており、柱・組物などには派手に色がぬられ、天井には絵が描かれるなど、江戸中期の特色をよく現す建物です。

堂を建てた時の記録がよく残されていて、元禄14年に着工し、宝永6年に完成したことのほか、大工棟梁が諏訪郡下之原村・牛山平左衛門であったことなどがわかります。

江戸時代中期、すなわち元禄時代の仏堂の作風が明らかな、県内でも数少ない貴重な建物とされています
   
 長谷寺

長野県上田市真田町長

【問合せ】TEL:0268-72-2204
宗派 曹洞宗(本山:大本山永平寺、大本山総持寺)

本尊 釈迦牟尼仏坐像

 長谷寺は、長野県上田市にある曹洞宗の寺院である。山号は真田山。
天文16年、真田幸隆が真田本城(松尾城)内の種月庵跡地に伝為晃運を招聘して創建した。晃運は上野国後閑の長源寺の僧で、幸隆とは旧知の間柄であった。

寺は慶長5年上田合戦に巻き込まれて焼失。元和8年(1622年)には真田氏の松代移転と共に、長谷寺の6世住持が松代に移り、新たに長国寺を開山。長谷寺は長国寺の末寺となった。


往古より長谷寺の裏の山岩井堂山には白山信仰を集める修験道の霊場があり、その道筋の地には「種月庵」(創立年等詳細不詳)という無住の小寺がありました。
天文16年(1547)真田幸隆公が上州(群馬県安中市)の長源寺より、
伝為晃運和尚を招いて真田氏の菩提寺として「真田山種月院長谷寺」を建立しました。
二代目「角翁和尚」は群馬県渋川市に「龍伝寺」を建立。
三代目の「廣山和尚」は真田町本原に「廣山寺」を建立しております。
   
 安良居神社

長野県上田市上丸子1924-1

【問合せ】TEL:0268-42-1048
 良居神社(上田市)概要: 安良居神社は長野県上田市上丸子に鎮座しています。安良居神社は大鳥居には八幡宮の額が掲げられるなど源氏との関わりが強く平安時代末期、源氏の血を引く木曽義仲の挙兵の際、当社に戦勝祈願をしたと伝えられています
   
 中禅寺

長野県上田市前山1721

【問合せ】TEL:0268-38-4538
 中禅は、長野県上田市前山にある真言宗智山派の寺院。平安時代末期から鎌倉時代初期頃の建立とされる薬師堂は重要文化財に指定されている。  

国重要文化財 中禅寺薬師堂(真言宗智山派)

中禅寺の創建は天長年間(824~34)空海が雨乞いの祈祷をする為に草庵を結んだのが始まりと伝えられています。

その後、源頼朝、塩田北条氏などに庇護され寺運が隆盛したとも伝えられていますが永享年間、寛文5年、享保5年と火災にあい多くの堂宇、寺宝、記録などを焼失し詳細は不明な点が多いとされています。享保19年)に祐精法印が中興開山し現在の本堂を建立しています。
   
 芳泉寺

長野県上田市常磐城3-7-48

【問合せ】TEL:0268-22-1595
 芳泉寺は長野県上田市にある浄土宗鎮西派の寺院。号は松翁山円覚院。本尊は阿弥陀如来。

天正11年、真田昌幸が上田城の築城に際して小県郡下之条村(後の上田市大字下之条)にあった全称院を上田城下に移転して、常福寺と号したのが始まりとされている。

慶長5年、関ヶ原の戦いの終結後、昌幸の嫡男・真田信之が上田城主となると、当寺を真田氏の菩提寺とした。元和6年、信之の妻・小松姫が亡くなると、当寺を含む三か寺に分骨され一周忌の際に当寺に御霊廟が設けられた。

元和8年、信之の松代移封に伴い、小松姫の御霊廟も松代城下の大英寺に移転した。その後、上田に小諸城主・仙石忠政が入封すると、仙石氏の菩提寺である宝仙寺を当地に移転し、真田氏の庇護にあった常福寺を小県郡下之条村に戻した。 寺号が宝仙寺から芳泉寺に改められた時期については定かではないが、忠政の嫡男・仙石政俊の死後とも、小諸から移転した直後からともされている。

江戸期には浄土宗の総本山である知恩院の末寺として、上田領の触頭の役割を担っていた。
   
 龍光院

長野県上田市前山553

【問合せ】TEL:0268-38-2561
 塩田北条氏の菩提寺。格式ある黒門と樹齢600年のケヤキが見事です。鐘楼の棟には北条氏の紋である寺紋「三ツ鱗」が飾られています。
   
 白鳥神社

長野県東御市本海野1204-1

【問合せ】TEL:0268-62-1949

旧郷社

御祭神 日本武尊
 創祀年代は不詳。

治承五年(1181)木曽義仲が「白鳥河原」で挙兵したことから平安時代にはすでに現在の地にあったものと考えられる古社。

主祭神は日本武尊。
第十二代景行天皇の第二皇子・日本武尊は、東征の帰りに当地、海野郷にご滞在になったと伝えられ、その後、伊勢の国でお亡くなりになり、白い鳥に化身された。
海野にもこの白い鳥が舞い降り、里人が遺徳を偲んで祠を建てて祀り、仲哀天皇の二年、勅命により 白鳥大明神と御贈号されたという。

配祀の貞元親王は、第五十六代清和天皇の第四皇子。
眼病を患い祢律の山の湯で養生され、白鳥大明神で祈願され、平癒されたと伝えられている。
善淵王は貞元親王の孫。醍醐天皇より滋野姓を賜わったと伝えられてい。
この滋野氏の後裔が海野氏で、海野広道はその初代。当社は海野氏の氏神であった。
また、海野氏を本家とする真田氏も当社を氏神として崇敬し真田信之が上田から松代への移封にあたり崇敬していた当社を松代に勧請。
伝説によると、真田信之の駕籠の上に白い鳥が舞い降りて、信之と共に松城へ移りたいと訴えたという。
安政五年、海野神社と改称したが、明治十三年(神社名鑑では明治六年)、郷社に列格して白鳥神社と改称した。
   
 両羽神社

長野県東御市下之城337
 古代御牧の惣社として崇敬を集めた宮社。平成17年12月1日に太刀及び経筒が市の有形文化財に指定される
   
 正眼院

長野県小諸市八満624

【問合せ】TEL:0267-22-3095
 今からおよそ九百八十年前、後一条天皇の勅願仏として、定朝仏師によって造られた拈華微笑の釈迦牟尼佛をご本尊様としてまつられたところより始まります。
 天台宗二十五代、臨済宗三代を経て、明応三年(1494年)平原城主依田全真により天英祥貞禅師を請待されて曹洞宗のお寺として開基されました。
 天文十八年、武田信玄の平原城攻めの際、兵火により諸堂は焼失し、現在の本堂は宝暦十一年 十九世無庵祖心和尚の代に再建立されたものです。
   
 光岳寺

長野県小諸市荒町1-3-4

【問合せ】TEL:0267-22-0981
 元小諸城の足柄門が旧北国街道に面して立つ

 阿弥陀如来をまつる浄土宗の古刹。江戸中期のものという楼門の造作がみごとです
   
 宝性寺

長野県北佐久郡軽井沢町長倉2331-14

【問合せ】TEL:0267-45-6128
 追分原に400年の時をきざむ中山道の宿場町として栄えた追分宿。北国街道との分岐点あたり、とくに文化文政の時代(1800年代)には大いに賑わったといわれています。その追分宿の栄枯盛衰とともに泉洞寺も時を刻み檀信徒の篤い信仰のもと現在に至っています。

泉洞寺は今から約410年前の、慶長3年(1598年)3月、上州(現在の群馬県長野原町)常林寺第5世・心庵宗祥禅師によって開創されました。
御開山である心庵宗祥禅師は三河国の人で元は武士。俗名を林主人といい天正3年(1575)長篠の戦いに遭遇、数多くの戦死者を目のあたりにして無常心をいだき、当時敵方であった武田軍の本陣地、長篠の曹洞宗医王寺にて剃髪し出家をさたといわれている。
泉洞寺は、寺名「仙洞寺」であったが江戸時代、火災に遭遇したことから、火災等の災難を除けるようにと祈願して「仙洞寺」から、水を持って寺を守る様にと「泉洞寺」と改名して寺の安全を願った。当山の御本尊様は聖観世音菩薩様です。
   
 神宮寺

長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢646

【問合せ】TEL:0267-42-3192
 神宮寺は、長野県北佐久郡軽井沢町にある真言宗智山派の寺院。山号は表白山、院号は釈迦院。本尊は大日如来。碓氷峠にある熊野神社の別当寺であった。

元々は、旧碓氷峠の熊野神社付近にあったが、寛文2年(1662年)に現在の地に移されたという。
   
 泉洞寺

長野県北佐久郡軽井沢町追分1259

【問合せ】TEL:0267-45-1354
 
   
 円満寺

長野県佐久市岩村田430

【問合せ】TEL:0267-67-3886
 円満寺は、長野県佐久市岩村田の寺院。真言宗、智山派で山号は大悲山。天長5年、廣瓣が開山。藤の名所としても知られる。

天長5年岩村田の小平地区に律宗大悲山信光寺があり三十六房を有し、その中の一寺院が円満寺である。信光寺は廃寺となり、円満寺は岩村田の大井城付近に移り真言律宗となり、三重塔もあったが大永年間(1521年 - 1528年)に兵火により焼失、廃寺となるも、紀伊国の僧侶勇伝が再興。武田信玄の武運祈願を斎行する。観音堂や天満宮を境内に建立し、梅樹を植し、山号を「梅霊山」とした。子供が六院誕生したため、六供の地名がある。再び戦乱に遭遇し、荒寺となるも、延享4年再興し、山号を「大悲山」に復す。領主内藤氏は観音堂を再建し、鬼門鎮護祈願を執行。境内には立川雲平像、宗吾祠などがある。観音堂は境内北にあり、本尊は京都清水寺と同体観音菩薩。
   
 西念寺

長野県佐久市岩村田1188

【問合せ】TEL:0267-67-2378 ; FAX:0267-67-8018
 
   
 金台寺

長野県佐久市野沢106

【問合せ】TEL:0267-62-2111
 西念寺は、長野県佐久市岩村田にある寺院。浄土宗、知恩院の末寺。山号は一行山。

永禄3年、岌往により開山。信濃国五カ寺の宗頭となる。牧野氏の菩提寺。

本尊 - 阿弥陀如来坐像 1959年、長野県宝に指定。藤原末期、定朝様式の一典型。像高は半丈六を超える。膝の裏に墨書による修理銘がある。それによると年代は永禄6年、願主は岌往・円誉、大工は宗観・即阿弥。佐久市の伊勢林あたりで雨ざらしとなっていたという伝承がある。

仙石氏の墓 - 小諸城主・仙石秀久は岌往と親交をもっていた。
吉沢好謙の墓
   
 福王寺

長野県佐久市協和1054

【問合せ】TEL:0267-53-2652
 福王寺は、長野県佐久市にある真言宗智山派の寺院。山号は雫田山、院号は竹仙院。

寺伝によれば大同2年、当時この地を治めていた豪族によって創建されたという[1]。延暦20年、東山道を陸奥国に向かう坂上田村麻呂が通った際、豪族の妻が病に伏していたことから田村麻呂に同道していた僧侶が薬を与えたり祈祷をするなどしたものの亡くなった。それを知った田村麻呂は墓を造りその場所から見て一番良い場所に寺を造るように言い残して旅立ったことから、現在の場所に寺が建立されて福王寺と名づけられた。

鎌倉時代になると望月氏の庇護を受け、本尊阿弥陀如来坐像が造立されて信仰を集めたが、江戸時代初期の寛永年間(1624年 - 1645年)に発生した山火事によって阿弥陀如来坐像と日光菩薩・月光菩薩、毘沙門天、雨宝童子など僅かを除いて全山を焼失。古文書などの記録や寺宝の多くが失われたものの、宝永6年までには現在も残る本堂や仁王門などが再建された。

1975年収蔵庫が建てられ、それまで阿弥陀堂に安置されていた阿弥陀如来坐像はこちらに移されたほか、1992年(平成4年)には観音堂が建立されている[1]。また、境内には樹齢300年以上とされるシダレザクラがあり、現在では桜の名所としても広く知られている。
   
 閼伽流山 明泉寺

長野県佐久市香坂

【問合せ】TEL:0267-68-3802
 天長3年に第3代天台座主の円仁(宗慈覚大師)が開基したと伝わる古刹。
大師が諸国を巡錫した平安朝初期、この香坂地域一帯には湖が広がり、その美しい眺望に比叡山から琵琶湖周辺の風光を重ね、同寺を建立したといわれる。
寺の背後にそびえる閼伽流山の「閼伽」は、サンスクリット語で「清らかな水」を意味し、かつてはこの山から清冽な水が湧き出るとともに、仏道修行の霊地として知られていた。
大正12年には当時摂政宮であった昭和天皇も行啓された山で、ふもとの明泉寺から山頂まで1丁(約109メートル)毎に石塔が建てられ、30分程登った12丁目の崖下の観音堂や鐘楼の脇には百観音石仏が立ち並び、そのスケールに圧倒される。
   
 新海三社神社  古くから佐久3庄36郷の総社といわれ、また武神として崇敬あつく、源頼朝による社殿修理再興の口碑、武田信玄の戦勝祈願の願文も残されている。広大な境内にある三重の塔及び東本社は、ともに室町時代の建築で、国の重要文化財に指定されている。
   
 城光院  平安時代よりこの地に根をはった豪族、望月氏と関係する寺。文明7年(1475)の開基と寺に伝わっている。望月氏の宝篋印塔や境内に佇む青面金剛像の姿に、過ぎ去った年月が偲ばれる。
   
 蕃松院  曹洞宗の古刹である蕃松院は、田口城跡の麓にあり、武田信玄・勝頼に仕えた後、徳川家康の支援のもと佐久地方の平定を目指していた依田信蕃のぶしげの墓がある。
信蕃は、天正11年(1583年)の岩尾城攻めで討ち死にしたが、長男の康国が信蕃の菩提を弔うために蕃松院を建立した。
   
 取出町百番観音

長野県佐久市取出町

【問合せ】TEL:0267-62-3285
 
   
 蓮華寺  平安時代中期治暦3年(1067)に創設されたと寺に伝わる真言宗派の寺院。本尊として祓られる木造不動明王像は江戸時代初期の作品と言われる。
   
 園城寺

長野県佐久市内山5795

【問合せ】TEL:0267-62-6513
 
   
 安養寺

長野県佐久市安原1687

【問合せ】TEL:0267-67-4398
 武田信玄が残したという六百巻の「大般若経」があり、県宝に指定されている。
また、鎌倉時代、覚心かくしん上人が中国から味噌作りを伝えたといわれ、「信州味噌発祥の地」としても名を馳せている
   
 貞祥寺

長野県佐久市前山1380-3

【問合せ】TEL:0267-62-0325
 大永元年(1521年)、この地を治めた前山城主の伴野貞祥公が、祖父と父の追善のために開山した曹洞宗の寺。
七堂伽藍しちどうがらんを整え、信濃毎日新聞社刊「信州百寺」に選ばれた佐久を代表する古刹である。
   
 八幡神社    高良社

長野県佐久市八幡101

【問合せ】TEL:0267-58-2001
 延徳3年(1491)望月城主滋野遠江守光重を中心に御牧郷の総社として建立。社殿は3間社、流造、こけら葺、庇門、手挟の絵模様、木鼻の模様など室町時代の特徴的な美術がよく現れている。
国の重要文化財に指定されている。
「高良社」とは周辺に定着した朝鮮からの渡来人の社、高麗社の意。


八幡神社

旧本殿高良社のほかに、瑞籬門みずがきもんが宝永5年(1708)、本殿と拝殿は天明3年(1783)、随身門ずいじんもんは天保14年(1843)に建立された。
また、額殿には、1780年に奉納された県下最古といわれている算額がある。
   
 英多神社

長野県佐久市安原

【問合せ】TEL:0267-62-3285
 延喜式神名帳 英多神社 信濃国 佐久郡鎮座

現社名英多神社
 
祭神 健御名方命


佐久市安原区の英多神社の秋季例祭に合わせて行われる「お舟祭り」は18日に開いた。佐久市望月の「榊祭り」、御代田町の「龍神祭り」と並び、佐久地方の3大奇祭のひとつと言われる祭りだ。
舟をかたどった神輿(お舟様)に「御霊代(みたましろ)」と呼ばれるご神体を乗せ区内を巡幸。▽宿▽馬場▽原―の区内の3つの「お旅所」を巡った後、御霊代はお舟様から神官の懐へ移し、一足先に里宮まで戻る。
御霊代が不在となったお舟様は、担ぎ手の若衆が地面に落とすなどして壊しながら里宮まで戻るが、御霊代のあった祠が壊れれば壊れるほどその年は豊作になると言われていることから、担ぎ手が激しくお舟様を担いで落とす様子は、祭りの大きな見どころのひとつでもある。戻ったお舟様は里宮にいったん安置。翌19日に祠を組み直し、再び御霊代を納めてから本殿に戻して祭事を終えた。
お舟様を担ぐ若衆は、お旅所のある3つの地区が当番で行っていたが、最近は人数不足もあり、「英優会」(中澤隆弘代表)なる担ぎ手の集まりを組織。年齢制限などもなく、「地域住民で担ぎたい人が担ぐ」体制を整えている。
神輿が舟の形である理由は諸説あるが、かつて同地区は湖があり、舟を使うことが日常的であったことが有力とされている。
   
 延喜式神名帳 大伴神社 信濃国 佐久郡鎮座

大伴神社

住所 長野県佐久市望月 227
       
祭神 月読命 須佐之男命 天忍日命 天道根命 大己貴命 少名彦命 木花咲耶姫命
 平安時代の延喜式に記載されている佐久の3社内の一つ。毎年8月15日に開催される信州の奇祭「榊祭り」は大伴神社の例祭ともいわれ、4基の神輿が激しくぶつかり合うクライマックスを境内で迎えた後、奉納されます。


社の祭神が馬に乗つてこの地に来られ鎭座し、乗つて来られた優秀な馬を種馬として駒の改良繁殖をはかり、この地に多数の馬が飼育されるようになつた。
元は現在鎮座地の北へ数百メートル、鹿曲川を渡った望月古宮(こみや)の地区にあったという。

大宝年間(701-4)諸國に牧場(官牧)が設定され、千曲川・鹿曲川に境した700メートル乃至800メートルの高原台地に牧草に適した草が繁茂し、その広さ3000余町歩、これが朝廷直轄の牧場となり、所謂望月牧である。これを維持、管理する牧監(もくげん)が即ち早くこの地に土着して一大豪族となつた大伴氏を祖とする望月氏が朝庭より任命され、長倉牧・塩野牧の長官をも望月氏が兼任した。牧場を維持管理しだ主体の所在地が望月に在り、牧監望月氏の根拠地も望月にあり、望月氏また氏神として大伴神社を奉齋してゐた。

   
 松原諏方神社

長野県南佐久郡小海町豊里松原

【問合せ】TEL:0267-93-2005
 
   
 真楽寺

長野県北佐久郡御代田町塩野142

【問合せ】TEL:0267-32-2056
 
   
 諏訪神社(長野県)

長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢865

【問合せ】TEL:0267-42-5538
 神社名 諏訪神社

北佐久郡軽井沢町大字軽井沢字諏訪森865番地

本社祭神名 健御名方富命

創立年代不詳なれど、当軽井沢開発当初 信州一の宮諏訪大社の御分霊を載き、奉斎せられたものである。
軽井沢の鎮守産土の神として、古来より厚く崇敬される。
御本殿は中仙道軽井沢宿が最も繁栄した元禄期の再建であって優れた彫刻が施されており、立派な建築である。
明治6年村社に列せられ、昭和21年神社制度変革により神社本庁所属、昭和55年8月10日長野県神社庁献幣使参同指定神社に昇格する。
   
 密蔵院

長野県北佐久郡軽井沢町発地2215

【問合せ】TEL:0267-48-2377
 
   
   
 遠近宮

延喜式神名帳 長倉神社 信濃国 佐久郡鎮座

現社名 遠近宮

住所 長野県北佐久郡軽井沢町長倉 4751
       
祭神 岩長姫命 木花開耶姫命 大市姫命
 祭神 磐長姫命

現在地の社殿は里宮であり、本体は浅間山。古い山岳信仰の形を伝えている。

創立年代不詳なれど古来より当地区の鎮守産土の神として崇敬せられる。現在の棟札によると、京保年間には社殿鳥居等が整備せられたことが分るが、それより遥かに古く、当借宿地方開発の当初守護神として奉祀せられたものである。“信濃なる浅間の山に立つ煙遠近人のみやはとがめん”といふ在原業平作の有名な歌によって、遠近宮と奉稱せられたものと思う。祭神、磐長姫命は浅間山の守り神であって、富士山の木花咲耶姫命の御姉姉にあたる長寿健康の神であり。又、特に安産の守護神として御神徳高く現在も遠近よりの祈願参拝者が多い。
   
 熊野皇大神社  熊野神社

延喜式神名帳 長倉神社 信濃国 佐久郡鎮座

現社名 熊野皇大神社

住所 長野県北佐久郡軽井沢町大字峠町字碓氷峠1
 
住所群馬県安中市松井田町峠1
       
祭神 伊邪那美命 日本武尊 事解男命 速玉男命
 ヤマトタケルが東征の帰路鎮祭

熊野皇大神社(長野県)
    熊野神社(群馬県)

江戸時代は「熊野大権現」と称していた

かつては長倉神社熊野宮または長倉山熊野大権現と称した、また碓氷神社、熊野大権現とも呼ばれたが、1868年(慶応4年)に熊野皇大神社に改称した。
第二次世界大戦後に宗教法人法が制定された際、都道府県ごとに宗教法人の登記がされることになったため、ひとつの神社でありながら県境を挟んで、長野県側が熊野皇大神社、群馬県側が熊野神社という別々の宗教法人となった。そのため、一つの神社だが、宮司や社務所、賽銭箱、お守り、ご祈祷は別々である。
式内社長倉神社の論社である。
古代の東山道は当社の南方の入山峠を通っていたと考えられ、中山道にあたる新道が開通した時に現在地に遷座したという説もある。


由緒記によれば「人皇12代景行天皇の御宇日本武尊東夷征伐凱旋の際、武蔵、上野を経て碓氷山嶺に登り給う途、坂本に到り餉いし給える時き、荒ぶる山神白鹿に化けし尊を苦しめんと御前に来たりしを、其眼に蒜を打付け殺し給う。(徳側幕府の時北山中に住める白鹿禁役の制ありしは之に起因す)此の時雲霧忽ち道を遮り咫尺を弁ぜず(霧積山の唱今にあり)尊道に迷い給える八咫烏紀の国熊野山の梛の葉を噛み持ち来たりて尊の御前に落とし、尊を嚮導する状なれば夫れに随いて嶺上に達し給う。
時に雲霧全く晴れる。尊東南の方を望観し紀橘媛を偲び給い、三嘆して曰く「吾嬬者耶」と。是より坂東の諸国を吾妻と云う事起これり(日本書紀及び諸史に見ゆ)。しこうして尊曰く大祖神武天皇八咫烏の嚮導により熊野山を越え大和の士賊を全滅し玉えり、今我東夷を平定しここに八咫烏の瑞相に応ぜしは、正しく熊野神霊の加護ならん事を知食し、熊野三社を勧請し給えり。時は景行天皇40年10月なりしという。夫れに例し毎歳10月15日当社の大祭典を行う。ここに奇異なる神業ありしは、古来毎年6月15日当時大祭典の早曉紀の国熊の山より当社内へ椰の葉降り来たれり。又10月15日朝当社の笹紀州熊野神社へ降るという云う。彼八咫烏止りし岩を烏岩と呼び(当社近傍東北方にあり)其岩より流出する河流を烏川と云う。当社神璽として古来日本太一熊野午王と称し烏の群れたる形の刷り物を出す、是れ其八咫烏の因縁なり、尊の登山の古事を伝えて頂上を止夫山と云い、又尊の嘆き給いしを以て『ナゲキアル山』の略語にや当社の裏山を長倉山と唱う」とある。
古来当社は災厄消除農作増産の守護神として公卿、武人農家の尊崇厚く殊に当嶺中仙道の嶮所として江戸時代交通の要所となるや参勤交替の諸大名をはじめ衆庶の参詣ひきもきらず「碓氷峠の権現様は主の為には守り神」と追分節に唄われて其御神徳をたたえ奉った。特に農家においては当神社の御神符烏午王を受け毎年春、田の水口に串にはさんで立て増産を祈るを例とする。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁


熊野皇大神社

軽井沢の氏神当神社は碓氷峠頂上 標高1200mに位置し、自然豊かな軽井沢に鎮座する神社です。また、当神社は、全国的にも珍しい県境、お社の中央で長野県と群馬県に分かれた神社です。
ですので、一つの神社でありながら2つの宗教法人がけんざいし長野県熊野皇大神社と群馬県熊野神社に分かれております。その為、神社をお護りする宮司も2人おりそれぞれ神社のお祀りを行っており、御祈祷・お守り・社務所も別になっております。
由緒
神社に伝えられている由緒記また、古事記 日本書紀によると、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が碓氷嶺に登った際、急に濃霧で進めなくなった。そのとき一羽の八咫烏(ヤタガラス)が現れ、紀州熊野の梛木(ナギ)の葉をくわえ、落としながら先導し、それについて行き山頂まで登ることが出来た。日本武尊は碓氷峠の山頂から遠くの海を眺め、相模灘で荒波を静める為に海中に身を投じた最愛の妻、弟橘姫(オトタチバナナヒメ)を偲び「吾嬬者耶(アヅマハヤ)」「ああ、いとしき我が妻よ」と三嘆したと伝えられている。この事から、この山を「長く悲しんだ山」と言うようになり、それがにごり長倉山になり 軽井沢では、[長倉]の地名が多い。また日本武尊にちなんだ地名として[霧積][吾妻][嬬恋]もある。日本武尊はこの八咫烏の導きを熊野神霊の御加護によると考え、ここに熊野三社を祀った。人皇十二代景行天皇の御代に勧請した。
   
 長倉神社

延喜式神名帳 長倉神社 信濃国 佐久郡鎮座

現社名 長倉神社

住所 長野県北佐久郡軽井沢町長倉 2283
       
祭神 誉田別尊 息長足姫尊 玉依姫命
 天長年間の創建とする。 天明3年(1783)淺間山大噴火の際古文書等焼失
江戸時代は「長倉神社八幡」と称していた

長倉神社由緒書

天長年間當地方開発當初守護神トシテ奉祭以来一千七百有余年長倉御一帯ノ鎮守産士神トシテ崇拝セラル。中世、長倉神社八幡宮トモ奉稱セリ。長倉ノ駅.長倉ノ牧ト共ニ延喜式神明帳記載ノ神社ナリト伝ヒ傅フ。現在氏子五百有余戸。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 


天長年間 当地方開発当初守護神として奉斎以来、一阡七百有余年 長倉一帯の鎮守産土神として崇敬せられる。
中世長倉神社八幡宮とも奉稱せり 長倉駅と長倉の牧と共に延喜式神明帳記載の神社なりと云い傅ふ。
現在は中軽井沢(沓掛)、離山、古宿、千ヶ滝の集落の氏神さまとして氏子に崇敬されている。

長野県神社庁
   
 厄除観世音

長野県南佐久郡北相木村岩ノ岩


【問合せ】TEL:0267-77-2422
 
   
 大龍寺

長野県南佐久郡北相木村久保

【問合せ】TEL:0267-77-2422
 
   
   
   
   
 新海三社神社

延喜式神名帳 英多神社 信濃国 佐久郡鎮座

現社名 新海三社神社

住所 長野県佐久市田口宮ノ沢2394
       
祭神 興波岐命 健御名方命 事代主命 譽田別命
 御祭神
興波岐命(東本社)健御名方命(中本社)事代主命、誉田別命(西本社)

健御名方命の御子興波岐命は新開神・大県神・八県宿禰神等とも称され、田口に本拠を構えて千曲川等の河川の氾濫原や平地を開拓した集団の長であり、佐久地方開拓の祖神として古墳時代にこの地に祀られた。八県宿禰神は貞観10年正五位下を授けられている。田口には古墳が多く、神社付近の英田地畑古墳から蕨手刀が昭和40年に出土し、有力高貴な方が住んで居たことが証明された。神社周辺の社地にも古墳が三つある。
新海三社神社と称し佐久郡の総社であったこと
健御名方命と事代主命は国土経営に大功をたてられ、興波岐命の御父神、御叔父神であらせられるのでともに齋祀して新海三社神社と称するに至った。佐久郡の人々は興波岐命の神恩に感謝し、祭典も盛大に行われ佐久郡の社家は佐久郡三庄三十六郷の総社である当神社の祭典に出仕した。
御神幸は往時、岩村田・春日・志賀・上平尾・余地等に出掛け、古くは東部町本海野への御神幸があった。神主が御霊代を奉じて騎馬にて御神幸(巡行)し御神幸先には御仮屋を建て神事を行った。延喜式内社の英多神社であるという説もある。


創立 健御名方命の御子興波岐命は新開神、大県神、八県宿弥神とも称され、田口に本拠を構えて千曲川等の河川氾濫原や平地を開拓した集団の長であり、佐久地方開拓の祖神として古墳時代にこの地に祀られた。
佐久郡の総社であって、昔は祭典も盛大に行われ、佐久郡の社家は当社の祭典に出仕した。
文化財 東本社(国指定重要文化財)-間社流れ造向拝、母屋の木鼻に特色がある。
三重塔(国指定重要文化財)神宮寺の塔で和様を主とするが、禅宗様もまざっている塔その他文化財多数あり。

長野県神社庁
   
 津金寺

長野県北佐久郡立科町山部279

【問合せ】TEL:0267-56-0505
 津金寺は、長野県北佐久郡立科町にある天台宗の寺院。山号は慧日山。院号は修学院。

 佐久十四番札所として、平林觀音さまで知られている千手院は、天台宗に属し比叡山を総本山とし、仁寿年間(紀元一五十一年頃)第三世天台座主を勤められました慈覚 大師「圓仁」の開基で、現在まで七十六代、一千百五十余年の法統を守る古刹であります。

 山號を平林山、寺號を津金寺と称し、千手觀世音菩薩を本尊とし日本三津金寺の一寺です。日本三津金寺とは、北佐久郡立科町山部の津金寺、甲州津金の津金寺(現在の海岸寺)と當山の三箇寺で、ひとり寺號を同じくするのみでなく、ともに行基菩薩御手造りの三躰觀世音菩薩像を各々本尊としています。 千手院の前身は、はじめ蓼科山麓にあったとされ再三移転して佐久穂町栄地区小山澤(当時上村亦は神楽村ともいい、津金寺で神楽を演じたことからの地名という)に移り、室町時代の応永年中(紀元二〇五四年頃)栄地区の宿岩を経て、青沼村(現佐久市)十日町の東方木伐窪に移った。宿岩の地名も移転の際、巨岩の上に一時「本尊千手觀世音菩薩」を宿したので宿岩と改められたと伝えられています。現在佐久市十日町の道端にある六地蔵尊(現在国指定重要文化財)等も昔は千手院の大門先であり、十日毎に市場が開きなかなかに賑やかな町となったため十日町といわれています。
   
 蓼科神社

長野県北佐久郡立科町大字芦田

【問合せ】TEL:0267-56-2311
 里宮 北佐久郡立科町芦田高井424

本社祭神名 高皇産霊神
大己貴命
木花佐久夜毘売

里宮 延喜式内社英田神社とも言う。
推古天皇の12年に奉斎すといはれる、中世社領三千余貫を領したこともあるが、だんだん衰微し、寛永年中当村今井治兵衛なる者奪励し、現状に再興せりと
   
 蓼科神社

奥社 北佐久郡立科町芦田蓼科5154
 奥社

高皇産霊神
倉稲魂神
木花佐久夜毘売

本宮は(奥宮)は蓼科岳頂上にあり、三代実録に陽威天皇の元慶2年7月16日の條に蓼科神に従王位下を授けた記述がある。
伝説には武居夷神が領土を諏訪大神に譲って蓼科山に登ったとか、小雄命東夷征代に来た時奉斎したとか、坂上田村慶が当社修理したとか言われる。
   
 光徳寺(長野県北佐久郡立科町)

長野県北佐久郡立科町大字芦田

【問合せ】TEL:0267-56-1193
 南嶽山光徳寺
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光徳寺は、文明年間(1469~1487)に芦田城二代城主芦田右衛門(えもん)太郎「光玄」が父の芦田備前守「光徳」(芦田城初代城主)の追福のために建立したもので寺号も父の法号とした。曹洞宗で開山は「鷹林」である。天正18年(1590)「光玄」の嫡流(ちゃくりゅう)松平(芦田)右衛門太夫「家貞」が上州藤岡に移封される。七世「猶国(ゆうこく)」もまた伴って越前木元にも光徳寺を建立した。

松平(芦田)氏が佐久地方を去るとこの地方は仙石秀久(小諸)の領土に属し多くの社寺が没収され光徳寺も一部を残すだけとなったが慶長末期「猶国」は君主「家貞」に従い故山に帰り光徳寺を再興し、寺田を設けた。
   
 無量寺

所在地長野県北佐久郡立科町茂田井1577

宗旨・宗派天台宗
 来迎山 無量寺(立科町茂田井)

立科町茂田井にある来迎山無量寺は、天台宗比叡山延暦寺の末寺で長保5年(1003)に創立されたという古刹。寺の開山は第18代座主良源大僧正とされ、本尊の薬師如来は室町時代の初期の作といわれている。毎年1月18日に「開運護摩講」が行われている。
   
 正明寺

所在地長野県北佐久郡立科町芦田峠反2470

宗派真言宗智山派
 
   
 頼洞寺

所在地長野県北佐久郡立科町藤沢341

宗派真言宗智山派
 
   
 光明寺

所在地長野県北佐久郡立科町宇山二反田道上927
 
   
   
   
   
   
   
伊和神社 (松本市)


長野県松本市大字惣社539

主祭神 大己貴命

社格 (推定)信濃国総社 旧村社
伊和神社は、長野県松本市にある神社。信濃国総社と推定され、旧社格は村社。

正式名称は「伊和社」であるが、一般には「伊和神社」と表記される。



主祭神大己貴神
『播磨国風土記』の記載では、播磨国の神である伊和大神と葦原志許乎命(大己貴神の別称・葦原醜男)は同神とみなせる。配神少彦名神

『風土記』では伊和大神は出雲から来たという。「伊和」の語源について『風土記』では神酒(みわ)から、或いは大己貴神が国作りを終えて「於和(おわ)」と呟いたためとする。
成務天皇14年(成務天皇甲申年)または欽明天皇25年(欽明天皇甲申年)(564年?)の創祀と伝わる。
『延喜式神名帳』には、「伊和坐大名持魂神社」(伊和に鎮座する大己貴神の社)とあり、正暦2年(991年)、正一位の神階に叙せられた。播磨国一宮とされ、幾度か火災にあって焼失する度に朝廷、国司、守護赤松氏、近隣の藩主などの庇護で再建された。なお、鎮座地である一宮町(現・宍粟市)の地名は、播磨一宮の当社に由来する
風と空と雲と・・・・・・・
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