甘楽郡下仁田町
妙義山中之嶽神社

創建819年

祭神 日本武尊 外十六柱

群馬県甘楽郡下仁田町大字小坂1248

0274-82-3752
本社は往昔元『波胡曽神』を山の主と祭られていましたが、倭建尊(日本武尊)が勅命に依り関東御巡行の際に妙義山に登嶽したと伝えれております。

大和時代の第二十九代欽明天皇の御代に妙形氏が社殿を建立、平安末期、第八十二代後鳥羽天皇の寿永二年三月藤原祐胤卿が鍛冶の名工を得て神剣を奉斉いたしました。 江戸時代に入ると、第百八第後水尾天皇の元和二年丁巳月、加藤長清(道士)が登厳し中興の開山主として神器を守り奉斉し、諸大名が崇敬を寄せ、小幡藩主織田筑前守信久侯が社殿を改築、 中之嶽奉行を設け地所を寄進いたしました。

第百十四代中御門天皇の享保五年五月、嵯峨御所より十六葉菊御紋付の幕、提灯を下賜せられ、小幡藩の鎮守社として奉斉され、織田家の後に入封した松平家の崇敬も篤く親祭されました。

総門は安永二年の建造で、元は白雲山石塔寺の仁王門であったそうです
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 安中市
  旧安中市

諏訪神社

中宿甲690番地
旧中山道沿いに鎮座し板鼻宿とは碓氷川を挟んだ対岸に位置します。此処では 国指定重要民俗文化財・中宿糸操燈篭人形芝居が保存会により継承され諏訪神社の祭礼に上演される様になりました。この芝居はは江戸時代、明暦2~3年頃(1656~1657)に始まったといわれ、かっては村に永住する農家の長男だけが演じることができたという門外不出の芸能でしたが、昭和4年に上演された後、中断。昭和25年に民家から人形が出てきたのを機会に保存会が結成され、昭和28年(1953年)に諏訪神社で復活公演が行われたという貴重な民俗芸能です。。

創建は安土桃山時代の天正年間(1573~1591)で、中宿の鎮守です。
明治10年に字在家厳島社、字下宿北菅原社、稲荷社、明治40年に字九ヶ谷神明宮、字山王白山比咩神社が合祀されました。御祭神は建御名方命・菊理比咩命 等です。

(咲前神社HPより)
 
  愛宕神社

主祭神 火産霊命

創建 元禄年間

安中1丁目3020番地
火防守護の神として信仰され、また夏祭には旧中仙道に露店が立ち並び、安中ひな市と並び賑やかである。また祭りに雨が降っても火伏せの神であるので、却って喜ばれるものである。
境内はかつて古墳であった所で『安中志』に「永禄二己未年谷間なりしを土をならして家をたつ故に谷津村となづけしとなん。 愛宕大権現 祭神伊弉冊尊迦遇突智命 本地仏将軍地蔵菩薩

創建の由来は、弘化二年の手水鉢、御神徳奉賛額の大山融斎撰文に依ると、元禄年間に祠を祀り柳沢豊昵の夢告によって手水鉢を奉納したとある。『旧市史』の記事では、文武天皇の頃、又醍醐天皇の延喜の御代に霊地として信仰を受けたとある。旧別当は本山派修験の千寿院で裏の墓地にその面影を残している。また境内は、かつて古墳であったとされ歴史を偲ばせる所である。

明治の神社合併の際、当社を熊野神社に合祀しようしたが、当社は、火の神、熊野神社の末社諏訪社は水の神であるから宜しくないという事で合併しなかったと云う逸話が伝えられている。町中では特に火災が一番心配な事であるから、火伏せの信仰は現代も脈々と続いている。
 
  熊野神社

主祭神

大穴牟遅命・少名毘古那命・櫛御気野命

創建 永禄2年(1559)以前


鎮座地 安中3丁目689番地
大穴牟遅命・少名毘古那命二柱を祀る『和名抄』に云う野後郷の鎮守であったと伝わる。永禄二年、安中忠正が安中城を築き、鬼門の守護神として越後国新発田の熊野神社を改めて祀り、その後慶長以降、安中藩の総鎮守として、歴代藩主と領内氏子と共に厚く崇敬されてきた。板倉公の時代には、藩主より正、五、九月にお初穂の奉納があり、隔年にて御神楽と御神輿渡御が行われ、大手前に桟敷が設置され、諸役人出席のもと代拝が行われたと云われる。また名君板倉勝明公は、嘉永七年五穀豊饒を祈り、唐鐘吊り灯篭を奉納された。文久二年には、皇女和宮様の無事下向祈願の大絵馬が安中宿より奉納された。
現在の「安中まつり」では、神社の御輿三基を旧道前にて祀り各地区屋台囃子の奉納がある。

境内には、推定樹齢千年とする大欅があり、『安中志』に「中うろにして近郷に珍敷大木也。」と記され親しまれている。平成十年、市の助成と氏子の奉賛により養生が施された。
昭和三七年三月二七日、社殿及び什宝が市指定重要文化財、大欅が市指定天然記念物となった。
 
   熊野神社(安中市)

北佐久郡軽井沢町峠町1

0267-42-5749
 熊野皇大神社、往古から長野と群馬の県境、日本武尊と八咫烏の伝承
     
  野後神社

鎮座地 古屋甲530番地

主祭神 品陀和気命

創建 天保15年(1844)以前
従来八幡宮と呼ばれた、古屋、高別当を氏子とする鎮守で、総代も両地区交代で就任している。
境内地は明治一二年の記録では、一、○九五坪の有していたが、現在二七六坪と縮小している。

昭和一五年、皇紀二六○○年記念の境内「合祀記念碑」によれば、天保十五年に社殿上屋が新築再興された。鳥居は、大正一一年、灯籠は明治一二年、狛犬は平成七年に建立されている。合祀の経過は、明治四十年に古屋、高別当両村協議により村内の神社が合併合祀され、昭和一五年、境内二五二坪及び立木三三本が献進された。

合祀社は、高別当字伊勢原「伊勢神宮」、同末社「八坂神社」「稲荷神社」「阿夫利神社」、字森谷戸「石神社」、字金山「竈神社」、同末社「琴平宮」、「大山祇神社」、古屋字田端「熊野神社」、字古屋「神明宮」、字山崎「白山神社」で社号が現在の「野後神社」と改称された。また平成□年以来、総代と氏子有志「平成会」の奉仕で大歳参りが行われ、県道から神社まで雪洞を灯し大晦日の夜空を美しく彩り、境内では福笹や破魔矢などの授与と、たこ焼きなどの露店を設けて参拝者を迎えている。住宅地も増加しており、これからの時代の神社形態が創造されつつある。
 
  榎下神社

鎮座地 原市3451番地

主祭神 味□高彦根命・大己貴命

創建 大永5年(1525)
安中忠清が榎下城を築き、地主神諏訪社を城の鬼門の守護として遷座して、その跡に越後国新発田より知賀戸明神を勧請して、疫病除け、武運長久を祈り祀った。その後、正徳三年に社号を近津明神に改め、明治に至り旧に復し榎下神社とした。

尚、近津明神は、陸奥国一宮都々古別神社(福島県鎮座)を本社とする。
夏祭が例大祭にあたり、盛大に行われ、現在七区域の輪番で祭典を担当し、御輿三基と子供御輿が朝八時に出御し、各地区を渡御して夕方四時頃神社に還御する。

明治の記録によれば、夏の例大祭神事には大麦醸造の神酒と小麦の強飯が供えられ、麦の豊作感謝と疫病除けが祈られ、碓氷川に御輿が渡御し喧嘩御輿により、勝った村には疫病が流行らないとされたが、これは改めて、各村々を巡幸するようにしたと記されている。

境内は、参道が長く神杉が鬱蒼とし、裏手に八咫川が流れ神寂びた神域である。社殿は、明治二七年に氏子中の篤志により、大がかりな修築が施された。また燈籠、水盤に元禄年間の古いものがある
 
  日枝神社

鎮座地 郷原2804番地

主祭神 大山咋命・建御名方命・大山祇命

創建 応永4年(1397)
神楽殿が毎年九月十九日に例祭が行われ、「花神楽」を奉納するのが旧例であった。尚、『自性寺文書』に文久二年、明治二年に太々神楽奉納の記録がある。

『安中志』
 「山王大権現 一村鎮守 祭神 大物主神 御朱印四拾壱石余一、例祭九月十九日 花神楽興行 自性寺 一、日枝山王上七社の内第一の社、大宮は祭神大国主命にませは其大宮をうつし成へし。」

安中市西部に位置する郷原の鎮守で、旧号「山王大権現」と称し、かつては一体であった旧別当職、真言宗豊山派 自性寺と隣接して鎮座する。

慶安二年徳川家光より御朱印四一石八斗の奉納を受けた。
また神仏習合の頃は、境内で護摩祈祷などを行った模様である。また山王権現のお使いが猿であることから、延宝八年の庚申燈籠を始め供養塔、青面金剛碑などの石造物がある。
 
  稲荷神社

鎮座地 簗瀬甲651番地

主祭神 宇迦之御魂神

創建 文化年間
往古、原市字鍛冶村の真下幾太郎氏の邸内に鎮座していたが、文化初年、有志により社殿玉垣等を新築し現在地に遷座した。
以来、中御門家(楽道、笙を司る公家)の祈願所となり殷賑を極めた。社宝に文政七年同家奉納の抱柏御葉牡丹の紋の「紫縮緬幕」を蔵する。その後、天保年間に社頭は一時衰微するが、明治一六年に至り村民信徒が奮起して修築を施し、境内風致を改めると共に「簗瀬の市」を開き再興した。

本殿は文化年間に造営され、拝殿は文政六年の造営であり、天井格子には奉納者の家紋が描かれている。そして信仰の証である絵馬の中には、祭礼の様子が美しく描かれている物を蔵する。

また境内地は、安中氏の出張城であったと伝えられ「城山」と称す。『安中志』によれば建治元年四月の頃に安中氏の祖、二位中納言惟基が築城し応永六年三四世の後の重国の時に越後国へ移ったとする
 
  赤城神社

鎮座地 磯部1丁目12番地の21

主祭神 大己貴命・豊城入彦命・磐筒男命

創建 元慶年間(877~885)
秋畑村より伝授の柳葉流獅子舞が、秋祭に当社境内並びに新寺旧諏訪社跡(合祀社)で奉納される。又、当社蔵に「式三番人形」があり、これは字金井八幡社(合祀社)の芸能で、演技は途絶えた。


当社は平安期の創建と伝わる古社で、旧上磯部村、西上磯部村の鎮守である。明治期に上磯部村字諏訪辺諏訪社、字向山諏訪社、西上磯部村字杉木八幡宮、字寺前白山社、字荒神竈社等が合祀された。
 磯部温泉に鎮座していることから、明治以来多くの文人が当社を参詣したようで、岡本綺堂の大正六年四月発表作『葉桜まで』には春祭の様子が描かれているので、一部を記す。

「明日はいよいよお祭で、今夜は宵宮だというので、町の家では軒ごとに提灯をかけた。近在からも花見がてらの参詣が多いのを見越して、町もおのづと景気づいていた。」
 
  磯部神社

鎮座地 下磯部甲137番地

主祭神 健御名方命

創建 慶長元年(1596)
往古に鷺宮村より遷座したと伝わる上諏訪社で、更にここから元禄年間、字馬場に下諏訪社を分祠した。隣接の佐々木盛綱祈願所とする普門寺も、鷺宮村字文殊寺より移転したとの伝えを有する。

社殿は、碓氷川を背に鎮座し、境内には末社愛宕、八坂、大国、八幡、疱瘡、産泰、菅原、絹笠、青麻、三峯、榛名、琴平、秋葉社他の三十数社の石宮が林立する。また、文政一○年(一八二七)石龍斎守典筆なる「伊勢の海」が描かれた伊勢両宮并津島、太々御神楽執行の奉納額を社蔵し、当地方の伊勢参宮の様子が窺われる。他に天保七年(一八三六)小見貞邦門人、大塚弥三郎敬則、萩原為五郎吉重、堀口東作佳海、茂木友五郎征幸、同長吉住久の奉納算額などがある。

明治一四年下磯部字馬場「諏訪社」末社五社、同字水口久保「稲荷社」末社神明宮、大竹村字西前「八幡宮」末社四社、同字天神前「菅原社」末社二社、同「神明宮」、東上磯部字神明「神明宮」末社一一社が合祀され「礒部神社」と社号を改称した。前掲の神明宮跡地には、日本武尊が東征の折行在し、冠を掛けた「冠石」、御腰を掛けた「腰掛石」や市指定天然記念物の御神木「ヒイラギ」があり、今も神明地区の氏子により行事が行われている。又享保八年灯籠は、ここに寄寓した大野九郎兵衛と目される「林氏信親」奉納の物である。
 
  中野谷神社

鎮座地 中野谷3069番地

主祭神 建御名方命・速玉之男命・伊弉那美命・事解之男命

創建 慶長年間(1596~1615)以前
「諏方大明神 熊野三所大権現両社」の二社並立で鎮座し、往古、上野国神名帳従五位上、下田明神が合祀されたと伝わる。比定地を字下田もしくは字松原とする説がある。
また当地は、中野谷陣屋と呼ばれ、慶長年間秋元長朝氏が二千石で当地に封ぜられ、慶長七年に総社に転封した後、屋敷跡に清元寺が創建し、山号を熊野山としている。
 
明治四年に「熊野大神 諏訪大神」となり、明治一一年に中野谷神社と改称された。明治二四年に拝殿が焼失し、明治二六年再建された。
 中野谷は、古来より一之宮貫前神社の式年遷宮に、竹と縄を納める慣例があり、往古咲前神社より一之宮貫前神社へ御遷宮の際の神事に関係ありとする注連引原、明戸の地を有する。

明戸の地名説話に「大古信州諏訪明神健御名方命香取明神軽律主命(ママ)ノ命ヲ奉ゼズ命大ニ憤リ自ラ大将軍トシテ之を征ス鹿島明神之ニ副タリ榎下明神(原市町ニアリ)及ビ咲前明神北甘楽郡神成宇藝明神之ニ属シ荒船山ニ出陣セル時暫時鷺宮ニ滞在シ後注連引原ニ移リ払暁此地ヲ出デ明戸ニ至リテ夜明ケレバ之ヨリ明戸トハ云フナリト天ノ戸明ケシ意味ニモヤアラン」とある。

付近は中野谷地区遺跡群があり、古代祭祀遺跡や牧の存在が注目される。
 
  白山比咩神社

鎮座地 岩井616番地

主祭神 菊理比咩命

創建 慶長6年(1601)以前
安中市東部に位置する岩井は、『和名抄』の「石井 伊波井」と記された地であり、碓氷郡地方の要害の地である。
 
中世には多くの武将が当地を獲得しようと鎬を削った。
碓氷川と岩井川に挟まれた地に鎮座する。
安中志』には白山権現、一村之鎮守と書かれている。
旧別当は御朱印地とされた常楽寺であった。
 
明治六年に村社となり、同一○年、字西菅原社、稲荷社、八坂社、大山祇社、諏訪社、同四一年、字中平白山比咩神社、赤城神社、末社神明宮、稲荷、八坂、大山祇、秋葉、住吉社、字砂子富士浅間神社、末社若宮、大山祇、諏訪、菅原、疱瘡、石、日枝、池鮒鯉、を合祀した。
 
宵宮に法判流(甲山流とも)獅子舞が奉納されるが、その昔、安中城内に招かれ演じて「祝いの獅子」であると藩主に大変喜ばれた。
何度かの中断があったが、昭和五二年の保存会が結成され続けられている。
法螺貝の三声と仕掛け花火で始まる貴重な獅子舞である。
 
  白山比咩神社

鎮座地 野殿1910番地

主祭神 伊弉冉命

創建 永禄6年(1563)
戦国期創建の古社で字白山平に鎮座する。

野殿の地名は、横野原の末であるからとも、羊太夫宗勝を征した、安芸国住人鹿嶋宿祢長利の本営を野に構えたからともいわれる。
 
明治六年、村社となり、同四一年、字宮沢白山社、末社八坂、大山祇、阿夫利、住吉、諏訪、稲荷、愛宕、池鮒鯉、字北神明宮、末社八坂、菅原社、同四四年、字蛇坂白山社を合祀した。
 
合祀社の字宮沢白山社は大永年間国峯城主小幡氏の家臣白石出雲勧請と伝わる。境内に明治一八年建立の神楽殿があり、昭和四○年には太々神楽三百年祭が奉納され、逆算すると寛文五年創始とされる。
その後休止し今日に至るが、かつては鷺宮の太々神楽と共に有名で、市内各社にも奉納された。
 
現在は、雨乞い祈願から始まったといわれる、中野殿の稲荷流獅子舞が、秋祭に奉納されている。
奉納の庭は、公民館、白石のお堂、天神様、そして水境集荷所、境内、鳥居前、宗泉寺などである。
 
  白山比咩神社

鎮座地 大谷267番地1

主祭神 菊理比咩命

創建 天正11年(1583)以前
天正一一年二月二五日、平柳大隅守が「白山妙理大権現」に子孫繁栄を祈り、祈願所となったと伝わる。
また承応四年の木札と元禄一二年の木札と木箱を社蔵する。そして天保四年の天神像が祀られる。合祀社の字裏菅原神社は承応四年七月、福泉寺慶雲勧請と伝わる。明治六年には村社となり、境内末社諏訪、秋葉、山神、疱瘡、同一○年、字坊貝戸稲荷社同年、字長坂大山祇社、末社熊野社、字裏菅原神社、末社神明宮が合祀された。境内には、三坪程の神楽殿があり、かつては神事芸能が行われたようである。
 
隣接する岩井、野殿も白山比咩神社を鎮守とし、戦国期に武門の崇敬がすこぶる篤かったようである。
 
御本社は、白山本宮加賀一ノ宮白山比咩神社(石川県鎮座)で、崇神朝に霊峰白山の麓に鎮座し、養老元年僧泰澄の開山以来、修験道場として盛え、今も多くの人が登拝する。また、水源の神として「お水取り」のの信仰があり、全国に三千社の御分霊が祀られている。
 
  鷹巣神社

鎮座地 板鼻2650番地

主祭神 大物主命・火産霊命・伊勢三郎義盛公

創建 慶長19年(1614)以前
碓氷川を見下ろす鷹巣山に鎮座する板鼻の鎮守で、従来金比羅宮であった。
 
依田新六郎光慶の古城祉で、山頂に祀られた石神を母体に慶長年間、旧別当本山派修験三宝院鷹巣寺祐善により境内の造営がなされ、二世祐尊の代に酒井雅楽頭祈願所となり、額殿、神楽殿、神門が整備され、西上州の山伏を統括する正年行事職に就いた。
 
江戸期には、中仙道板鼻宿の発展と共に当社も栄え、多くの崇敬者と旅人の憩いの神域となった。
 
明治六年、村社となり、同四二年、本町八坂神社、神明宮、愛宕、管沢稲荷、関口取勝明神等を合祀して鷹巣神社と改称された。
その中で神明宮は伊勢殿と呼ばれ、ここから西上州に伊勢の神宮大麻が頒布された。
 
取勝明神は、伊勢三郎義盛公を祀り、付近に屋敷跡が伝わる。また現在、板鼻の夏祭(祇園祭)には旧道に多くの露店が並び、合祀社八坂社跡で茅の輪神事の後、御輿渡御が盛大に行われ、各区御旅所で町内安全が祈願される。
 
  飽馬神社

鎮座地 西上秋間1851番地

主祭神 大日命・倭建命・豊受毘売命

創建 景行天皇の御宇
境内に神楽殿があり、昭和十年頃まで鷺宮の太々神楽を招き春祭に奉納していた。

 当社は、安中市西北の山間部に位置する東上秋間の鎮守で『上野国神名帳』従三位飽馬明神と記される古社である。鎮座の由来は、倭建命(日本武尊)御東征の時、この伊勢森に憩い御馬に飽かせ給いて、伊勢の大神を祀り「飽馬ノ神社」と称し鎮座した。『和名抄』にも「飽馬 安木末」とあり「秋間」の地名の起こりとされている。
 
秋間にはかつて「秋間七騎」と呼ばれる武士団があり、『吾妻鏡』にも飽馬太郎の名も見え、武門の崇敬の厚い神社であった。
 
南北朝時代には、「貞和正平の乱」によって一時社殿が衰廃したが、応永二年(一三九五)三月、真砂淡路守の尽力により再建された。この時、倭建命を合わせ祀り御偉功を顕彰した。その後、慶長年間には、井伊兵部少輔、永銭六貫の奉納があり、明治以降も倭建命に肖り、武運長久の祈願が大いになされ、社額に「源朝臣希典(乃木希典)書」が掲げられている。
 
また、早くから復古神道が強く影響し、氏子の大部分が神葬祭にて祖霊祭祀を行う地域ある。
尚、字平に鎮座していた鹿島神社は『上野国神名帳』従五位鹿島明神と記され、明治期に合祀されている。
 
  東神社

鎮座地 東上秋間1729番地

主祭神 建御名方命・八坂刀売命・日本武命

創建 天福元年(1233)
諏訪神社で、明治四年神社明細書に「字上組鎮守飽馬神社諏訪大神」とある。明治四二年、字野村前諏訪(応永元年創建)、字西上長岩八坂(文禄三年創建)、字下久保熊野(慶長二年創建)、字伊豆村谷津榛名(慶長八年創建)、字野村神明宮(文禄二年創建)、字十二大国(元和元年創建)、字岩戸岩戸神社(寛喜二年創建)を合併し、東神社と改称した。明治四四年祝神社合併俳句奉納額があり、此頃神社合祀事業が完了したものと思われる。合祀社は、中世の創建の社が多数あり、当時の武門がいかに隆盛していたかが想像できる。また平成一一年、字神水山神社(元和八年創建)が境内社として遷座した。

 岩戸神社跡境内地には赤穂四十七士義士石像がある。これは、片岡源五右衛門高房の若党元助が刻し、岩戸山の険しい中腹に建立されたもので、維新後現在地に移された。毎年、同地で慰霊祭が行われている。
 
  大森神社

鎮座地 中秋間741番地

主祭神 大荒希女命

創建 寛永3年(1626)以前
鎮座地、秋間の歴史は古く、『和名抄』に「飽馬 安木馬」とあり、鎌倉期、『吾妻鏡』元久二年六月廿日の条に安達景盛従者として飽馬太郎の名が見える。弘治年間に「秋間」の文字になり、慶長八年に東、西上秋間、中、下秋間の四村となった。当社は、もと秋間川辺の字宮貝戸に鎮座し、飽馬神社と称していたが、大洪水により社殿が三町余川下の女男石に留まり里人が樫木に繋ぎ、傍らの現在地に遷座し、大森神社と改称した。社伝に上野国神名帳従三位飽馬明神と主張する。慶長年間、井伊直勝より 永銭六貫文の奉納があり、更に寛永年間、水野元綱により反別四反歩を免除される。

 市内に飽馬神社は、西上秋間鎮座を始め、かつて同字般若沢(正治元年創建)にも鎮座し、東神社も旧は飽馬神社諏訪明神と称した。棟札に寛永三年のものがあり、大工小藤金左衛門、石井久四郎とある。また正徳二年に吉田家より正一位の宗源宣旨を受けている。明治四○年、諏訪神社、石神社、八幡宮、金山神社、神明宮、大山祇神社、蚕神社、八坂神社、稲荷神社、疱瘡神社が合祀された。
 
  威徳神社

鎮座地 下後閑1247番地

主祭神 菅原道真公

創建 応永2年(1395)
旧別当威徳山吉祥院北野寺に隣接し、字北野に鎮座する。
 
創建の由来は、建治二年当山の麓の白梅が一夕にして紅梅に変じた奇瑞が起こり、北野天満宮を祀るべしとの神託を受けた一童子が出現した事に依る。また彦根城主井伊直孝幼少の頃、別当秀算に付き当地に修学され、のち大坂の役の際、祈願により偉功を立てられたので、寛永三年その御礼に天満宮大造営をなすと共に、明治初期まで毎年使者を派遣した。
 
明治に至り村内諸社を合祀し、別当寺の山号に因み威徳神社と改称した。現在の祭典は、春祭を四月一日に行い、夏越祭が八月一日で大祓人形を焼納し、秋祭が十月一五日、除夜祭が十二月三一日で、おみくじや甘酒奉仕が行われている。
 
そして飽馬神社から合祀社、宮貝戸大宮神社に伝来した獅子舞や御輿、屋台の渡御については年度始めの会合で奉納するかどうかが決定される。
 
  中後閑神社

鎮座地 中後閑1479番地4

主祭神 伊邪那美命・速玉之男命・事解之男命

創建 文安4年(1447)
字田屋(旧三ツ木)に鎮座する旧諏訪神社で、明治四三年字坂詰村社熊野神社、末社八坂社、字塚原大山祇神社、末社秋葉社、八坂社、字長足金山神社、末社大山祇社、八坂社、字原浅間神社、末社稲荷社、琴平社、字西久保稲荷神社、末社八幡社、秋葉社八坂社、字久保諏訪神社、字大沢諏訪神社、末社八坂社、琴平社、大山祇神社、末社八坂社を合祀し中後閑神社と改称した。
 
『安中志』には「字三ツ木 諏訪大明神 祭神前所見 一、例祭 七月廿七日 家数五拾三軒程の鎮守 同佐左衛門持」とあり、中後閑村の中で一番氏子軒数が多かった。また合祀社中の字坂詰熊野神社は、室町中期に後閑城を築城した依田政知が、鎮守として峠の熊野神社から勧請した社で、北条政時を始め後閑氏を名乗る新田景純、信久、真純などの歴代城主、領主の崇敬があり、江戸期には安産信仰により菱餅が奉納され、祭りに際し散与された。また当社境内には、大正一四年の聖徳太子碑があり太子講が行われたようだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
風と空と雲と・・・・・・・
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