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 善光寺

長野県長野市元善町491

山号 定額山

宗派 無宗派

本尊 一光三尊阿弥陀如来(絶対秘仏)



本堂 御朱印
   善光寺は、長野県長野市元善町にある無宗派の単立寺院で、住職は「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務める。日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来を本尊とし、善光寺聖の勧進や出開帳などによって、江戸時代末には、「一生に一度は善光寺詣り」と言われるようになった。今日では御開帳が行われる丑年と未年に、より多くの参拝者が訪れる。

山号は「定額山」で、山内にある天台宗の「大勧進」と25院、浄土宗の「大本願」と14坊によって護持・運営されている。「大勧進」の住職は「貫主」(かんす)と呼ばれ、天台宗の名刹から推挙された僧侶が務めている。「大本願」は、大寺院としては珍しい尼寺である。住職は「善光寺上人」(しょうにん)と呼ばれ、門跡寺院ではないが代々公家出身者から住職を迎えている(浄土宗では大本山善光寺大本願の法主)。2014年(平成26年)現在の「善光寺上人」(「大本願上人」)は鷹司家出身の121世鷹司誓玉である。

古えより、「四門四額」と称して、東門を「定額山善光寺」、南門を「南命山無量寿寺」、北門を「北空山雲上寺」、西門を「不捨山浄土寺」と称する。

特徴として、日本において仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院であることから、宗派の別なく宿願が可能な霊場と位置づけられている。また女人禁制があった旧来の仏教の中では稀な女性の救済が挙げられる。

三国渡来の絶対秘仏の霊像と伝承される丈一尺五寸の本尊・一光三尊阿弥陀如来像が本堂「瑠璃壇」厨子内に安置されている[3]。その姿は寺の住職ですら目にすることはできないとされ、朝の勤行や正午に行なわれる法要などの限られた時間に金色に彩られた瑠璃壇の戸張が上がり、瑠璃壇と厨子までを拝することが通例とされる。数えで七年に一度の御開帳には、金銅阿弥陀如来及両脇侍立像(前立本尊)が絶対秘仏の本尊の分身として公開される。

また、日本百観音(西国三十三所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所)の番外札所となっており、その結願寺の秩父三十四箇所の三十四番水潜寺で、「結願したら、長野の善光寺に参る」といわれている
 御詠歌    
 びんずる尊者    
 文殊菩薩    
 おやこ地蔵    
     
  善光寺 本坊大勧進



善光寺如来の御朱印
   勧進とは人々に仏法を説き作善をなすように勧誘策進することであり、この名を寺名にした大勧進は、開山、本田善光公以来、代々善光寺如来さまにお奉えし、民衆の教化と寺院の維持管理にあたってまいりました。

弘仁8年伝教大師が信濃路巡化のみぎり、善光寺に参籠され、爾来、天台の宗風により今日に至っております。
大勧進は天台宗大本山で善光寺25ヶ院の本坊として、住職は善光寺の住職も兼ねております
 不動尊の御朱印    
     
 善光寺大本願


善光寺 本師如来  御朱印
    大本願は、善光寺の創建(西暦642年)当初からその歴史を共にしてきた尼僧寺院で、代々の大本願住職、尼公上人が善光寺上人として、その伝統を継承されてきました。

現在は浄土宗の大本山で、山内には浄土宗の宗祖法然上人留錫の伝説があり、二祖聖光上人と三祖良忠上人とが善光寺如来の夢告により法縁を結ばれたり、浄土宗西山派の祖証空上人、前記良忠上人、その他数多くの浄土宗系の高僧たちにより信濃に念仏の教えが広められました。また、孫弟子、諏訪の蓮仏が北條時頼の帰依を受けて善光寺への信仰が広められ、善光寺信仰が大衆の心に大きく生かされました。
 善光寺・大本願の御詠歌    
 文殊菩薩の御朱印    
     
     
 信濃国分寺

長野県上田市国分1049

0268-24-1380

ご本尊 薬師如来
   宗派 天台宗

札所 中部四十九薬師霊場

「国奉らかに人楽しみ、災を除き福至る」を祈念され た聖武天皇の天平十三年(741)勅願により、国ごとに国分寺が建立されたが、信濃国分寺は信濃の国の鎮国道場として、また庶民の心のよりとこ ろとして千二百余年の法灯を今日に伝えている。  現在の国分寺は、薬師如来(行基作と伝えるが不明)・日光月光 両菩薩・十二神将を安置する県下でも善光寺に次ぐ規模の本堂薬師堂をはじめ、三重塔(国重文)・鐘楼・仁王門・宝蔵・大黒天堂・地蔵堂・観音堂等の堂塔伽藍がそろい、一月八日の縁日にちなんだ「八日堂のお薬師さん」の名で近在の信仰を集めている。安産・当病平癒・厄災除等の霊験があらたかであり、また縁日に授与される蘇民将来のお守りは、薬師如来と関係の深い蘇民信仰に基づいた護符で、家門の安泰と繁栄を願うものである。  近年、現在の境内の南方に発掘された創建当初の寺跡が国指定の史跡公園として整備され、当時の面影をしのぶことができる。

(中部四十九薬師霊場より引用)
中部四十九薬師霊場めぐりの御朱印も頂けます
     
 前山寺

長野県上田市前山300

山号 獨股山・独鈷山

宗派 真言宗智山派

本尊 大日如来
   前山寺は、長野県上田市にある真言宗智山派の寺院。山号は獨股山又は独鈷山。本尊は大日如来。独鈷山の山麓にあり、塩田城の鬼門に位置する。寺名は「ぜんざんじ」と呼ばれることもあるが、正式には「ぜんさんじ」である。

また「未完成の完成の塔」と呼ばれる国の重要文化財の三重塔がある。

名物は胡桃おはぎ。


812年弘法大師空海が護摩修行の霊場として開創したといわれる。当初は法相宗と三論宗を兼ねていたが、1331年善通寺から長秀上人が訪れ、現在の地に移し規模を拡大させたとされる。のち貞享年中に真言宗智山派に改宗された。
     
 北向観音

長野県上田市別所温泉1666

山号 北向山

宗派 天台宗

本尊 千手観音菩薩

TEL 0268-38-2023
   創建年 (伝)天長2年(825年)

開基 (伝)円仁

札所等
坂東三十三箇所番外札所
中部四十九薬師霊場2番
信濃三十三観音霊場客番
別所三楽寺
塩田平札所めぐり客番



北向観音は、長野県上田市の別所温泉にある天台宗の寺院。近隣にある天台宗常楽寺が本坊であり、その伽藍の一部として同寺が所有・管理する。

寺伝によれば、平安時代初期の天長2年円仁(慈覚大師)によって開創されたという。800年代にも火災の伝説が残る。安和2年平維茂によって大伽藍として大改修が行われたが、木曽義仲の兵火により焼失したのち、源頼朝により再興。鎌倉時代の建長4年(1252年)には北条国時(塩田陸奥守、塩田国時)によって再建されたと伝えられる。

江戸時代に至って正徳3年に焼失し、8年後の享保6年に現在の堂が再建された。その後度々修復を加え、昭和36年に増改築を施し、善光寺の本堂と同じ「撞木造り」となる。

北向観音という名称は堂が北向きに建つことに由来する。これは「北斗七星が世界の依怙となるように我も又一切衆生のために常に依怙となって済度をなさん」という観音の誓願によるものといわれている。 また、善光寺が来世の利益、北向観音が現世の利益をもたらすということで善光寺のみの参拝では「片参り」になってしまうと言われる。

観音堂に隣接する温泉薬師瑠璃殿は火災の後、文化6年(1809年)に地元の薬師講により再建された。
愛染堂の近くに縁結びの霊木として崇められている愛染かつらの巨木がある。


ご詠歌
いくばくの 人の心を 澄ますらん 北向山の 峰の松風

開山・開基 慈覚大師円仁(天長2年825)
     
  安楽寺

長野県上田市別所温泉2361

山号 崇福山

宗旨 曹洞宗

本尊 釈迦如来

創建年 不詳

開基 不詳
   安楽寺は長野県上田市別所温泉にある曹洞宗の寺院。山号を崇福山と称する。院号は護国院。開山は樵谷惟仙。本尊は釈迦如来。国宝の八角三重塔があること、また長野県で最古の禅寺であることで知られる。

伝承では天平年間、行基の建立とも言い、平安時代の天長年間の創立とも言うが、鎌倉時代以前の歴史は判然としない。

安楽寺の存在が歴史的に裏付けられるのは、鎌倉時代、実質的な開山である樵谷惟仙が住してからである。樵谷惟仙は、信濃出身の臨済宗の僧で、生没年ははっきりしないが、13世紀半ばに宋に留学し、著名な禅僧の蘭渓道隆(鎌倉建長寺開山)が来日するのと同じ船で寛元4年、日本へ帰国したという。2世住職の恵仁は宋の人で、やはり樵谷惟仙が日本へ帰国するのと同じ船で来日した。

鎌倉時代の安楽寺は塩田荘を領した塩田流北条氏の庇護を得て栄えたが、室町時代以降衰退し、古い建物は八角三重塔を残すのみである。室町時代、天正8年頃、高山順京によって再興され、以後曹洞宗寺院となっている。
     
 常楽寺

長野県上田市別所温泉2347

0268-37-1234




御朱印は書置きです
   別所温泉・北向観音の本坊。鎌倉時代には天台教学の道場として栄えました。境内には国の重要文化財に指定されている石造多宝塔があります。

常楽寺は北向観音堂が建立された天長2年(825年)、※三楽寺の一つとして建立されました。

北向観音の本坊であり、ご本尊は『妙観察智弥陀如来で全国的にも珍しい阿弥陀様です。

その後、正応5年(1292年)4月、信乃国(信濃国)塩田別所常楽寺で書写された と記述のある「十不二門文心解)」が金沢文庫に遺されており、また、本堂裏の北向観音の霊像が出現した場所には、弘長2年(1262年)の刻銘のある石造多宝塔(重文)が保存されていて、鎌倉時代に天台教学の拠点として大いに栄えた常楽寺の歴史を証する貴重な文化財となっています。

(※長楽寺、安楽寺、常楽寺を指して三楽寺といいます。長楽寺は焼失し北向観音堂の参道入口に碑を遺すのみです。)

階段を上がって最初に目に飛び込んでくるのは茅葺の本堂です。平成15年に修復工事を行った際、建立当時の建築様式に改めました。

堂内には当時そのままの色彩を残す格天井が美しく、又、ご本尊の妙観察智弥陀如来は、阿弥陀如来には珍しい宝冠を頂く阿弥陀様です。
     
 牛伏寺

長野県松本市内田2573

山号 金峯山

宗派 真言宗智山派

本尊 十一面観音

創建年 756年(天平勝宝7年)

正式名 金峯山牛伏寺
   札所等
信濃三十三観音霊場27番
信州筑摩三十三カ所観音霊場9番

牛伏寺は、長野県松本市内田にある真言宗智山派の寺院。山号は金峯山。本尊は十一面観音。鉢伏山の西側中腹に位置する。

古くから修験道の寺として知られ、県下で屈指の規模と文化財を誇る寺院である。 寺が所有する文化財や歴史、周辺の自然をまとめた寺誌(牛伏寺誌)を歴史編と自然編の2分冊で編纂し、2013年に発行した。


寺伝では聖徳太子が42歳の時に自ら刻んだ観音像を本尊として鉢伏山に安置したのが始まりという。寺名については、756年(天平勝宝7年)、唐からもたらされた大般若経600巻を善光寺へ奉納する途中、経典を運んでいた2頭の牛が倒れたことから「牛伏寺」の名が付いたという。なお、参道途中に建つ牛堂には2頭の牛が祀られている。

以上はあくまでも伝承であって、牛伏寺創建の時期や事情については確たる史料がなく、鎌倉時代以前の沿革は定かでない。牛伏寺が位置する鉢伏山の山頂には牛伏権現と称して蔵王権現を祀っており、元来、山岳修行、修験道の山だったと思われる。寺はもとは裏山に位置し、現在地に移ったのは1534年(天文3年)である。

1612年と1796年大火で堂宇が焼失し、現存する建物はその後の再建である。
     
 大法寺

長野県小県郡青木村当郷

山号 一乗山

宗旨 天台宗

本尊 釈迦如来
   大法寺は、長野県小県郡青木村にある天台宗の寺院。山号は一乗山。開基は藤原鎌足の子・定恵と伝える。本尊は釈迦如来。国宝の三重塔があることで知られる。

 寺伝である一乗山観院霊宝記によると、大法寺は奈良時代の大宝年間に藤原鎌足の子である定恵によって創立されたとされる。その後、平安時代の大同年間に坂上田村麻呂の祈願により、義真(天台宗座主)によって再興された。

 大宝年間と定恵が生きたとされる間は一致しない。歴史資料や地理的事実からは、大法寺が近くに存在した東山道の浦野駅に関係する寺として創建されたと考えるのが妥当とされており、いずれにしても奈良時代に創建された信州でも有数の古刹である。

 平安時代に周辺地域が牧場として栄えたことから、大法寺は牧場関係者による崇敬を受けた。重要文化財に指定されている十一面観音菩薩立像、普賢菩薩立像などはこの間に造られ、平安時代独特の作風を伝えている。

 鎌倉時代に入いると大法寺は、周辺に住んだ有力地頭による崇敬を受けた。特に国宝に指定されている三重塔や、重要文化財に指定されている厨子、須弥壇などの文化財は、浦野氏、北条氏などの地頭の支援により造られた。

 江戸時代、大法寺は戸隠の勧修院の末寺となっており、天台修験による山岳仏教の寺として栄えた
     
 長久保宿(信濃路) 長安寺

宗派は曹洞宗。

本尊:釈迦如来像。
   長安寺の創建は元和4年依田川辺にあった宮昌庵(阿弥陀堂)を曹洞宗の道場としたのが始まりと伝えられています。寛永4年に当時の小諸城主松平憲良が開基となり「於大の方」(徳川家康の生母)の位牌を安置、さらに寛永7年洪水で大破した堂宇を現在地に再建し長安寺と改称しています。現在の経蔵は江戸時代末期に建てられたもので土蔵平屋建て、切妻、桟瓦葺、平入、外壁は白漆喰仕上げ、明治4年の火事で本堂他多くの堂宇が焼失する中唯一当時の建物として残されています。経蔵の天上は格天井で狩野派絵師の武重桃堂など多くの絵画で彩られ内部には朱塗りの八角輪蔵(内部には大般若経600巻が収められています。)が収められています。長安寺経蔵は昭和53年に長和町指定有形文化財に指定されています。
     
 小諸善光寺(立志山大雄寺)    小諸善光寺の本尊は、一光三尊佛(善光寺仏)の「銅像阿弥陀如来及両脇侍立像で、昭和45年3月31日に小諸市宝文化財に指定され、さらに、昭和62年8月11日に長野県宝文化財に指定されている。

鎌倉時代造仏の特徴である銅造鍍金(金を用いて銅に焼付けメッキすること)、善光寺式一光三尊仏(善光寺に伝わる三尊像の模刻像が鎌倉時代に流行し、善光寺式と呼ばれ、左右に観音・勢至の菩薩を安置し、如来像を中央に中尊として配する方式)で、中尊の螺髪(仏の髪が右に旋屈して螺状にしたもの)は大きめで、彫眼には幾分うねりがあり、僧の着る衣は左肩から右肩にかかり、左手を下げ、右手を前に出して、両足は爪先をそろえているなどの特徴が解説されています。高さは47.5センチ、脇侍は30センチとのことです。

  伊豆の豪族・河津祐泰が、一族の工藤祐経に殺されたために、その子・曽我十朗五郎兄弟が仇討ちによって恨みを果たした物語は有名ですが、ところが源頼朝に曽我兄弟は切腹を命じられ果てました。残された十朗の妻・虎御前と五朗の妻は剃髪して、夫の菩提の為、信濃善光寺如来に百度参りの参詣を志したのですが、相模から信濃までは女子の足では遠く大変であったので、佐久郡大井の郷に小庵を造りここから往還して志を成就したとのことです。

その後、この地に善光寺の建立を志し、寛元二年に阿弥陀如来本尊を祀り、佐久善光寺を草創したといいます。地方豪族の支援もあり、伽藍12坊も有する大寺院となったといいます。しかし、その三百年後の天正年間の武田・村上氏の戦乱時に焼失する運命となったとのことです。豪族から寄進された大梵鐘も野ざらしにされたと言いますが、これはその後、松原湖畔の諏訪神社に運ばれ「野ざらしの鐘」と言われています。佐久善光寺は信玄によって再興されたのですが、慶應二年に再び焼失され、大正七年に、大雄寺大圓和尚によって、本尊が東京にあることが分かり、大正10年に引きとられ、昭和5年、小諸善光寺の宿願がなり、落慶法要がなったということです。数奇な運命を感じさせる本尊です。
     
     
     
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