大聖護国寺

群馬県高崎市八幡町675-1

山号 神通山

宗旨 真言宗豊山派

本尊 不動明王
   創建年 建保3年(1215年)

開山 定弘

正式名 神通山遍照院大聖護国寺


大聖護国寺は、群馬県高崎市にある真言宗豊山派の寺院である。東京の音羽護国寺の前身である。

寺伝では、建保3年、定弘の建立とされる。定弘は、山城国醍醐寺で天皇の病気平癒の祈祷を行い、祈祷の本尊である不動明王像を下賜されたのち、当地に下向してこの寺を開基したのだという。

寛永年間まで碓氷八幡宮(現在の上野國一社八幡宮)の別当寺で、現在も、上野國一社八幡宮の東に隣接している。

寛文元年、後に江戸幕府5代将軍となる徳川綱吉が、上野国館林藩に封ぜられると、綱吉の母・桂昌院は、帰依していた僧・亮賢を招き、上野国高崎の地にある当寺の第24世住職(碓氷八幡宮の別当職)に充てた。

延宝8年、綱吉が将軍となると、翌延宝9年、亮賢に幕府の有する高田御薬園の地を与えて一寺を開かせた[5]。 その寺は、当寺の名(大聖護国寺)を継いで、「神齢山悉地院 大聖護国寺」と号したが、これが東京の音羽護国寺である。なお「悉地院」という院号も、当寺の院号であったことが明徳元年書写の経奥書に見える。
     
 光厳寺(秋元家:菩提寺)

光厳寺
群馬県前橋市総社町総社
慶長6年(1601)
亮應和尚(当時は徳蔵寺の僧)
秋元長朝(総社藩初代藩主)
 山  号  秋元山
 宗  派  天台宗
 本  尊  釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩
   秋元家は嘉禄年間、宇都宮頼綱の子供である泰業が上総国周淮郡秋元荘を賜り、地名から秋元姓を名乗ったのが始まりとされます。何時頃から深谷上杉家に仕えるようになり秋元景朝の代には深谷上杉氏四天王の1人として台頭し正室には当事の関東管領上杉憲政の養女(春:光厳院)を迎えています。深谷上杉家が小田原北条家に破れると北条家に従いますが天正18年の小田原の役では長朝(景朝の子)は豊臣家に与し、さらに徳川家康の家臣となり文禄元年に上野国碓氷郡中野谷領500石が与えられています。
その後は徳川家譜代の家臣として尽力し慶長5年の関ヶ原の戦いでは東軍として行動、戦後は上杉景勝投降に功があり慶長6年には旧領である総社領(群馬県前橋市)1万石が与えられ総社藩を立藩しています。長朝は行政的にも優れ総社城の築城や城下町の町割だけでなく用水を整備する事で新田開発を積極的に行ない実石で2万7千石になったとされ領民からも慕われました。
泰朝は徳川家康の側近として重用され1万5千石に加増、家康の死後は遺骸を久能山(静岡県静岡市)から日光(栃木県日光市)への改葬を取り仕切り、日光東照宮奥之院造営にも尽力し、寛永10年に谷村藩(山梨県都留市)に1万8千石で移封となっています。秋元喬知は老中職など幕府の要職を歴任した事で度々石高加増が行われ正徳元年には5万石で川越藩に移封、涼朝も老中などを歴任し明和4年に6万石で山形藩(山形県山形市)に移封、弘化2年には志朝が6万3千石で館林藩(群馬県館林市)に移封となっています。
秋元家は度々移転しましたが菩提寺は光厳寺(前橋市)と変らず、境内には歴代当主の墓碑が建立され前橋市指定史跡に指定されています(光厳寺の正面にある宝塔山古墳が墓域)。
     
     
     
     
   2018~  
 大珠山 是字寺 龍海院(群馬県前橋市紅雲町)

龍海院 前橋藩主酒井氏の歴代墓所

曹洞宗

本尊 釈迦牟尼仏
   岡崎城主だった松平清康公は徳川家康公の祖父。ある時、「是」の字を左手に握った夢を見た清康公は、竜渓院住職の模外惟俊大和尚にその意味を尋ねると、「この字は日下人に分けられ、これを握るということは、戦国の分裂の世が統一される吉兆。君公により実現しなくとも、孫の代までに実現する」との答えでした。
 喜んだ清康公は、享禄三(1530)年、岡崎城下に模外禅師を開山とする満珠山是字寺龍海院を建立。徳川氏には既に大樹寺という菩提寺があったため、家老の酒井正親公に外護を命じ、以降は酒井氏の菩提寺になりました。
徳川家康公の江戸入城に伴って、酒井正親公の子重忠公は武州川越藩主に任命。菩提寺の龍海院も川越に移り、さらに慶長六(1601)年の前橋転封によって龍海院も前橋に移転しました。
 以降、寛延二(1749)年の酒井氏姫路転封に際しても前橋に留まり、現在に至っています。
     
 達磨寺

少林山達磨寺霊符堂.

群馬県高崎市鼻高町296

山号 少林山

宗旨 黄檗宗

本尊 十一面観音 • 北辰鎮宅霊付尊神
   達磨寺は、群馬県高崎市にある黄檗宗の寺院である。山号は少林山。「高崎のだるま市」で有名な寺である。また建築家ブルーノ・タウトが2年ほど過ごし、助監督時代の黒澤明が脚本化した「達磨寺のドイツ人」の舞台でもある。

明治14年6月14日の火災によって寺院と共に古文書の大半が焼失してしまい、創建などの詳細については不詳となってしまった。(田島武夫 1973)によれば、(戦時に供出されてしまった)煩鐘の鐘銘に「正徳2年壬竜猛夏仏生日洞山卅六世少林二世天湫出撰」と記載があったと指摘し、正徳2年には成立していたと考えてよいとしている。『上野国史』では享保7年に前橋城・酒井雅楽頭忠知の懇請をいれて開山水府公護持の霊符を謹請し鎮護国家・武運長久の祈願所としたとある[1]。 また一説には古くからこの地に観音堂があり、延宝年間(1673年~1681年)この地を訪れた一了が達磨禅師の像を彫って安置したと言う。といった具合に諸説様々である。

現在は高崎名物とされる「縁起だるま」で知られている少林山達磨寺は、前橋藩を守護する寺院である。
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
群馬県 北毛地域 東毛地域 西家地域 中毛地域
渋川市 桐生市 高崎市 前橋市
沼田市 太田市 藤岡市 伊勢崎市
北群馬郡 館林市 富岡市 勢多市
利根郡 みどり市 安中市 佐波群
吾妻郡 邑楽郡(おうら) 多野郡
甘楽郡
みちびかれて 杜の揺らぎ
風と空と雲と・・・・・・・
 次へ 1 2 3
群馬県
御朱印