フ     ッ
 
   
言葉と心

どのように上手なことを言ってもどこかで他愛無い言葉の端に心が洗われてしまう。

悲しいかな 私の近しい人にも 自分が大学を出たことをかなり高慢に思う方がいる。

家族以外の人には自分なりに気を付けて発言をしているようであるが・・・・ふっと何かの時に自分の心が現れてしまう。

それも本人もきずかずに・・・・・

多くの人は気が付き 其れによって気を付けなければならない人のリストに挙げられる。

自分だけが可愛い・・・自分のしていることだけが正しい・・・・

そんなことがまかり通ることはない。

その一つの言葉によって傷つく人が居いる。その心痛みさえわからない。

あなたの生き方がすべてを測る物差しが間違っているのかもしれません。

人の心の痛みもわからないようでは50年生きてきても何が残ったのでしよう。

悲しいですね。寂しいですね。  いつかそのことに気が付けるといいですね。
 8月25日  銀の時代

残された時間がどのくらい在るのかは不明だ。

今ある時間を何をすべきか?何を求めたらよいか?大事なことを見逃してしまわないようにゆっくりと進む。

時間の流れは早いけれど・・・残されたこの時を豊かでありたいと願う。

人に惑わされることなく・・・穏やかな時間を得たいものだ。

人間はおおよそ他人の時間に土足で踏み込んでくる。

自分自身を正しく生きていればそんなことも無いであろうに・・・愚かな人間が多いということか?

物事の一部分だけを切り取ってそれだけが大事のように考える。広い視野を持って後先を考えなければならない。

自分の生き方が正しいとは言えないけれど 自分自身で左右を決めて歩くのだから撚り確かな道へ歩んでいきたい。

この空に輝く星の光は何万光年も昔の光・・・人の一生なんてほんのわずかなこと

齷齪と急いでも だらだらと悩んでも時間の長さは変わりはしない。

精一杯に両手を広げて触れ合う事の出来るものへ豊かさを求めて銀の時代を生きる。

豊かな時代に生き 貧しい心を持つことのないように 穏やかな時を刻まなければならない。

葉脈にたまった命という雫は大地に向かい次第に垂れていく。
   
 ターン・プッタタート講義、

誰のために生きるのか

1980年3月16日-21日 タンマサート大学学生への講義

http://space.geocities.jp/tammashart/ikiru/darenotame.html


誰のために生きるのか、命とは何か、それはどこかを問う前に、命はどこにあるのか、自分はどこにあるのかという問題があるので、質問者は、普通の意味の言葉で質問するかもしれません。私たちが七転八倒していると感じる普通の命とは、死んでいないことです。「命とはまだ死んでいないこと」というのは、誰のために死なないのでしょうか。それ自身の感覚では、自分のためです。

自然に感じる真実では、自分のためでなければなりません。自分、自分のものという感覚があるので、何でも自分のため、何でも自分のものでなければなりません。すべて自分のためです。みなさんがそう感じていれば、「みなさんは普通の人」と言います。それほど下劣で罪な心の人ではありませんが、しかし良く注意してください。普通の人の感覚は、穏やかな幸福を生じさせるでしょうか。それとも苦を生じさせるでしょうか。

 みなさんは自分、自分のものと感じる権利があります。そして自然に感じることができます。罪人、悪人とは見なしません。自然に感じるからです。しかし、そのような感覚があれば、結果はどうかという問題があります。結果は幸福でしょうか、苦でしょうか。ブッダは、教祖は、「この考えだ。この自分、自分のものという考えがすべての苦の原因だ。それが愛、怒り、嫌悪、恐怖、心配、いろんな苦を生じさせる。自分という考えが根源だ」と悟り、そう見えました。

だから、この「自分、自分のもの」は当てにならない。無明であり、ないのと変わらない知識だと、改めて見直してしまいます。「自分、自分のもの」という感覚は誤った知識です。そして強く執着するので、知識があってもないのと同じで、間違って知っていれば、心を重くする問題を生じさせます。

「自分、自分のもの」という感覚がなければ、心が自由になります。心が監獄に囚われるように囚われているのは、「自分、自分のもの」という感覚に囚われているからです。だから、輪廻に繋がれていると言います。「自分、自分のもの」という感覚がなければ解脱と言います。苦の塊から解脱しました。

 こういう真実があります。この命は誰のためかという話をしますが、誰のためと問うべきではないので、むしろ、この命は解脱のため、最終的に解脱するためと答えなければなりません。こう答えても、訳が分からなければ、答える必要はありません。もっと卑近にするべきです。

 世間一般の人、普通の人が誰のために生きるのかは、自分のためでなければなりません。つまり命のためです。私たちは生じた命があると知らなければなりません。そして自分と感じるので、それに対して道を求めると言われる、正しい対処をしなければなりません。タンマがその道です。

 仏教では、「タンマが歩む道」と言います。そして道という名前のタンマもあります。つまり聖道、八正道、八項目の正しさを道と呼びます。道というのはそのことです。自分が苦にならないために、命をその道に沿って歩かせます。つまりこのように歩きます。なぜ歩かなければならないのでしょうか。歩かなければ苦の中に沈んでいるからです。どう歩くかは、道と呼ばれる正しさで歩きます。



講義の中の一部分です。

人の思考の形は様々に・・100人いれば100の思考がある。

各々が選択する自由もある。  選択の自由とはすべて自分自身が左右を決めるということ。

つまり自分の生き方は多くの人が自分の意思で 自分の道を決めていることではないだろうか。

その意思決定が偶々であるか・・よく考えてであるかは不明だが その結論は自分自身が選択をしていること他ならない。

そしてそれは多くの場合 連鎖を結び 多くの現象を産む。

それでも 後悔という言葉を得ないように道なるものを選ばなければならない。

生きることは苦痛かもしれない・・生きることは忍耐かもしれない・・  希望なのか 夢なのか・・・

それは本人しかわからないことなのだ。

明日という日が来る確約はない。だから生きる。まっすぐに前を向き 顔をあげて歩く。
  どれ位たつだろうか・

妹の子供は大学に入り 卒業をして 就職をした。

どちらの子供も伸び伸びと育ったように感じられる。

そして

弟の結婚が決まったようである。

どちらの子も思いは強いけれど 小さかったあの子が結婚するという・・・幸せな家庭を築いてほしいと願う。

月日が過ぎるとともに 母も私も老い・・・それなりの時間を過ごすようになる。

時間がれば母に処に行き・・・母の顔を見れば安堵する。

いつまでもいつまでも元気でいてほしいと願う。

片道2時間30分の道を飛ばしていく・・・そして戻る。この繰り返しを何年続いているのか!!

母の背中が会うたびに小さくなっていくように思う。

ともに歩いてきたこの道  母には良い時間であってほしいと願うばかりだ。 


思い出の僅かな時間
 8月23日  多くの人が自己満足の生き方をする。

思いやり 譲り合い いたわり合い・・・・言葉だけの見せかけを演じながら さもそれが本当のように表現されている。

人は自分が可愛く 家族が可愛く・・・血の濃いままに広がっていく。

それは人の摂理・・誰がとがめることができよう。

出来ればほんの少し良心の片りんを見せてほしいものだ。

この世の中から自己愛をなくせば何も残らないかもしれないが・・・もう少し広い心で深い優しさでものを見られたら良いのに!!

苦し紛れの生き方が心を映していくのか・・・・・・辛いね!悲しいね!そのに何があるんだろうね!

いくつも苦い思いの中で 繰り返すまいと思う。 そんな棘のある行為から少しでも遠いところに自分が居たい。

棘が刺さればその痛みが言えるまで どんなに長い時間かかるのか・・・

その棘の痛みは傷となり消えることがないかもしれない。

いつしか…私はその棘の痛みを知った。

すべてを受け入れることを拒否して心を閉ざす一歩手前まで行ったように思う。

ここで心を閉ざせば・・・その棘の意味が解らなくなるかもしれないとふと・・思った。

それは大きな戦いであった。

思いは平らに・・・考えは平らに・・・心は平らに・・・・心の中でつぶやく。

諦めるのではない…決してあきらめるのではない。
 8月21日  人は生きていくために様々な物差しを器用に使いこなして 自分と他の人間を図る。

その物差しは人により違い・・・それは常識さえも変えてしまう物差しである。

人はある程度加齢を重ねて人から認めてもらうために一般常識と身勝手な常識を器用に使い分けいる。

それは全て自分に有利な風が吹くように組み込まれているのだ。

生き方に上手下手があるとすれば この物差しの使い方次第なのかもしれない。

それは多くの場合  欲との絡みも大きいのではないだろうか。

人は神用に清廉潔白ではいられない。・・・神になることはできない。

僅かな誹謗を抱きながら上手に世の中を渡ることができればよいのかもしれない。

このよう抜かれてきた時も身一つで誕生し この世を去る時も身一つ位で旅立つ。

何をそれ程に欲に生きていかなければならないのか・・・・

人は自分を失い 歩くべき道さえも失ってしまう。

草の生えた道 砂利がゴロゴロした道・・・ぬかるんで足を取られそうな道   様々な道

出来ればなだらかな歩きやすい道を選びたいが 自分を曲げて生きなければならないのであるのなら世捨て人にでもなろうか。

人の煩わしさや入込過ぎた世の中に何も魅力を感じない。

雲のように風に吹かれて・・・水のように高きより引きに流れ・・・風のように季節の中を渡っていく・・・・・

そんな様に生きていきたいものだ。

 某日  後悔という言葉

私はこの言葉が嫌いだ。

人は誰しも後悔というを感じて過ぎた時間は必ずある。それだけに後悔をしないように生きたいと思う。

私自身にも後悔の念として今も心に思いをためていることが二つある。

それは父とのこと・・・もう少し心を砕いて父と交われば良かったと思う。

もう一つは母に思いについて答えられない自分のもどかしさかもしれない。

自分が生きて公開をすることの情けなさをじっと感じることだ。

だから後悔をしないように 今を精一杯に生きていきたい。

自分の生き方が自分の意思に反して曲がることのないように過ごしたい。

過ぎた時間は戻らない・・・このことを現実として感じていなければならない。

言い訳の在る生き方ほど愚かなことはない。

あるがまま その姿勢を崩さないでいたいものだ。

時間は止まることなく己の朽ちていくまで続く だがそれほど長い時間ではない。

まっすぐに見つめて 正しく物事を見極める目を持たなければならない。

いつか 自分が老いて精一杯生きたと感じられるように!!
 8月17日 母たちは懸命に働き・・・冷蔵庫を立て・自宅を建て・工場を建てた。

私が二十歳のころである。

その頃は朝も昼も夜も無く・・仕事はめまぐるしい程に多忙の時期であった。

仕事という車は止まることなく走り続けていた。

母の人生の中でこの時期が一番多忙であり父との時間の中で一番充実した時ではなかったかと思う。

父はそのころから大分体調を壊して病院に行くようになり 仕事も段々母の肩に比重が移ってくる。

父の看護  仕事の重圧 その中を懸命に生きてきた。

その時間は母を取り巻く多くの人が母を助けて働いた。

妹が大学を出て・・・良き縁を得て結婚をした。

子供が生まれしあわせの様に時間は過ぎていった。

妹の過程にはこのころはあまり行かなかった。私は小姑…あまり出入りするのは良くない。

その間は母とは電話だけの疎通となった。

妹が離婚を決意し 会社も操業を停止するということになるが・・・私は反対しない。

それまで 妹なりにあの仕事を頑張ってきたのだろう。

しばらくして 新しいお父さんが子供たちに出来た。

妹も子供たちもそして何よりも  母が穏やかな日々を取り戻せたのではないかと感じた。

また 母の許にはいかなくなった。

妹のご主人も母にはとてもよくしてくださった様である、

そのご主人が突然亡くなる。

家族の悲しみは深く ・・・・深すぎる悲しみのために声を掛けるのを躊躇われるようであった。

子供たちの心にも大きな影をぽとしたに見られる。 

なんとか続いた工場も商売も廃業することとなり・・・そのことを母に伝えたのは私だ。

母はきっと様々のモイを抱きながら父との時間を振り返り その思いを切ってくれたのだろう。

妹のためにつらい決断をさせてしまった。



思い出のわずかな時間・・・・・・
   人間とは都合よくできているところ・・・不都合なところそのどちらもともに共有している処が何とも言えない。

痴呆症と今話題になっている・・・確かに自分の歴史を忘れていくことは苦痛

でも そればかりでなく・・・苦痛だった人生の思い出を忘れていくことは良いのかも・・・とさえ思う。

だがそんな思い出だから忘れることはできないようだ。

母は子供の頃の思い出もかなりはっきりと覚えている。

姉との時間 父親との時間・・・・それなのに母の記憶の中に私との時間の記憶がない。

私自身にの母と過ごした時間の思い出がない。

母はいつも仕事をしていた。いつも背中しか見えなかった。

遊ぶことも無く 祭りやどこかに出かけることも無かった。

ただ有ったのは本を読む時間だけが無限にあったこと。

朝自分で朝食の支度をした。学校に行く前には家の掃除をしていく。

妹ができても11歳も離れている・・・ほとんど話もせずに生活している時間・・さえ別のものに感じている。

母と交わり よく話をするようになったのは父が亡くなってからかもしれない。

私たち親子は空白の時間を超えて・・・今やはり母を思う。

母が歩んできた時間はその背中を見れば母に求めることの無理なことが十分にわかるから・・・

今私が母にして挙げる事の出来ることのすべてを手を差し伸べてあげたい。

母の記憶の中にはやはり妹の部分が大きい。

私と妹は11歳の年齢差がある・・・・母と父にとっては自慢の妹である。

その頃には母は妹をよく送り迎えしていた。・・・・・私には無かった事!!

私は一人であった。そして本のや本の山だけが友人で会った。


思い出の本のわずかな時間・・・・・・
 8月16日  
 ターン・プッタタート講義、あるいは法話より
http://space.geocities.jp/tammashart/kouhuku/kuutosittenao.html




空を知ってなお苦しみありや


はすべてのものに同じだけあり、すべては同じだけの益と害を含んでいます。半分は黒、半分は白で、太極図のようにぴったりと組み合っています。この対のない物は何もありません。小さな埃の粒子から、草や植物、動物、人間、天人、悪魔、梵天、指輪や金銀などの物質から、名誉や権力や幸福、不幸、徳や罪、善悪に至るまで、すべてこの二つの要素、益と害でできています。

益と害のどちらもマヤカシにすぎないなら、すべてのものはマヤカシ、仮のものです。『すべてのものに執着するべきではない』あるいは『何物にも執着することはできない』という教えがあるように。

 害と益の対は、二つ一緒にあることで互いに価値が生じる正反対の対を意味します。切り離してしまえばどちらも価値を失って、空っぽになってしまいます。害と呼ばれるものは、益と呼ばれるものがなければ何の意味もなく、益と呼ばれるものは、害と呼ばれるものがなければ何の意味もないので、誰も欲しがりません。

  一緒にあればどちらにも価値が生じ、すべての世界を同時に混迷させる毒があります。一方は好きにさせ、もう一方は嫌いにさせ、無明がこの真実を隠すので妄想が生まれます。つまり好きになったり嫌いになったりします。

 好きなら手に入れて自分のものにしたいと望み、嫌いなら遠ざけたい、あるいは自分の障害にならないように攻撃したいと思います。欲と名がつけば何欲であろうと、混乱や苛立ち、重圧など、苦であるすべてのものを生じさせます。

あれが欲しい、これが欲しいであろうと、ああなりたい、こうなりたいであろうと、ああなりたくない、こうなりたくないであろうと、すべて同じだけ苦です。欲に勝つことができた時が、『欲がすべてなくなれば、すべての苦に勝つ』という教えにふさわしく苦が終わる時です。

 私たちが欲に勝てないのは、枚挙できないほどたくさんある対の価値の、どれか一つに騙されているからです。すべての対の代表は、一番初めの対である益と害です。益と害の一対は、必要に応じていろんな名前の対を生みます。

善と悪、徳と罪、苦と幸福、地獄と極楽、暑いと寒い、短いと長い、高いと低い、往くと来る、上と下、勝ちと負け、正と負、男と女、美しいと醜い、甘いと苦い、芳香と悪臭、つるつるとガサガサ、満足と不満足等々、本当に枚挙に暇がありません。いずれにしても、どの対も初めの対、つまり益と害、あるいは中国の陰と陽に集約することができます。

 これらが自分の望みと一致した時には益に見え、望みと一致しない時には害に見えます。その物自体には、益も害も感じません。だからそのもの自体では、益も害もただのマヤカシであり、あるいはそれ自体は空です。

 しかし愚かさだけが 、「マヤカシ」あるいは「空」と見えなくします。そしてすべては害や益のある変化しないものに見えてしまいます。だから愛らしく感じ、憎らしく感じ、愚かさの性(サガ)で何らかの願望が生まれます。そして望みどおり「苦の連続」です。

 益も害も、いつでもすべてはマヤカシ、つまり空という真実を見てください。そうすれば妄想もなく、苦が生じることもありません。世界を空のものと見なさいと、ブッダが苦に勝つ方法を提示されているように。


これは法話の一部である。

すべての心の中に介在する物は表裏一体の形をしている。

人は物欲の在るがままに 自己中心的になりその教えさえも解釈の在り方を 都合よさだけに生きる。

それは人間の持つ特異な部分なのであろうか。

自己顕示欲が強い 自分だけが・・・・そんな思いの中で生きることへの信を失うのだ。

欲を捨てなければならない。

己の心に分を知ること 分を知ればその生き方もおのずと穏やかになる。

人をうらやむことなく 良き繋がりを求めて過ごすことが可能であれば己の思考も正される。

あるがまま・・・・その姿を追い求めていかなければならない。

失うものは無い。多くを拾うこともない。人をねたむこともない。

いつでも己を映す鏡を持ち 己の姿を信じて進んでいかなければならない。

  8月15日  
ターン・プッタタートの講義と著作・翻訳・タイの仏教書の法施小屋                プッタタート訳パーリ三蔵「ブッダヴァチャナ・シリーズ」全四冊

http://space.geocities.jp/tammashart/index.html

webの中に道教の教えについての翻訳が乗っている。

時折尋ねる 読む・・・・

人々の目線の位置を目の前でなく この世のすべてのものを見渡すくらい天井より見たならば 些細なことも本当に針の穴のようなことになる。

風のように 雲のように…捉われることなく 自分の心を映す鏡に向き合うように生きる。

そんな 生き方ができたらどんなにか安らかなのではないかと思う。

 8月14日  天気予報は雷雨とあったが・・・相変わらず雨はない。

月が中天に白く輝いている。

本日読んだ本の中に戒めについて書かれている鋼があった。


五戒とは、仏教において女性・男性とを問わず、在家の信者が守るべきとされる基本的な五つの戒のこと。
不殺生戒 生き物を殺してはならない。また他人に殺さしめてはならない。また他人が殺害するのを容認してはならない。
不偸盗戒 他人のものを盗んではいけない。また他人をして盗らせてはならない。また他人が盗るのを認めてはならない。
不邪婬戒 不道徳な性行為を行ってはならない。これは、特に強姦や不倫を指すが、他にも性行為に溺れるなどの行為も含む。
不妄語戒 嘘をついてはいけない。また他人をして偽りを言わせてもならない。また他人が偽りを語るのを容認してはならない。
不飲酒戒 酒を飲んではいけない。また他人をして飲ましめてもならない。また他人が酒を飲むのを容認してはならない。現代においては、麻薬物などを使用してはならない意。



子供のころは親に教えられ誰しもがその言葉を聞きながら大きくなる。

次第に社会の赤や雑減に惑わされて教えを自分勝手な認識へ変えていく。

それは自分を守るための虚言でしかない。

人間はいつも迷い いつも誘惑にかられ いつも失念をする。 それゆえに心に戒めを持たねばならない。

神・仏にすがることのない人はいないのだ。気が付いた時に自分の手を取ってくれる神を誰もが救いとする。

穏やかな心を持つということ・・その中にいつでも自分を映す鏡を持つこと。人間は弱い その弱さゆえに惑うことの多いことも事実。

五戒の本文に書かれていることは 誰しもがいつか聞いたことのある言葉

忘れてはならない生きる上に置きその道を歩くための導。

愚かな生き方こそを切り取ることも 己に正しく生きていくことの道筋になる。
今何が大切なのか?

何が必要なのか!

もう60歳を過ぎ残される時の刻みもそれ程のことはない。

この頃は人間であることのむなしさや絶望を抱くことがある。

神より与えられた時間を 多くの人が自分だけのことのように自己自慢に走り どれだけよい人生を送っているとか!

家族がどんなに素晴らしいとか!恵まれた生活であるとか!

自慢話ばかり聞く。・・・・・・・・・・・・・

生きることの目的は何だ。

人間らしくあること・・・では人間とは何だ。

何もわからないといって逃げるな・・・それでも自分らしくあることの一つを追い求めていたいと思う。

虚飾の表を身にまとっても 道化師みたいな世界しかない。

人はいつも表裏の中にあり 上手に行き来し そこに世渡りが上手という・・・・

不器用でもいい 自分らしいその一言の中にすべて鏡をもって生きること

おいていく時間の中で 振り返れば同じように思ったことの多いこと。

人はその表裏を天秤ばかりに掛けながら生きていくむなしさや後悔を抱くことはないのか。

明日がまた来るとは限らない 今日が我が道の終わりかもしれない。

だからこそ 道化師を辞めなければならないと気が付くべきなのだ。
   我欲

人はだれしも老い 朽ちていく。

何を求め 何に支配されてこの世を生きるのか?

我欲  その醜い心に我を失い 支配されて・・・失うものは大きい。

誰しもが過ぎていくときの中で 様々なものを拾い様々なものを失っていく。

失うものが大きいほどに我欲は強くなるのだろうか?

いやそればかりではないだろう。失うものが大きいだけに欲を捨てるものもいる。

自分だけが正当性を主張する人間の悪しき心が大きく支配をするのだろう。

人はわずか80年ほどの人間界を生きるだけ・・・そんな中で何をあくせくとものに執着をしなければならないのか?

人は神の掌の上で生きているだけに過ぎない。たった僅かな時間の中で自己を見失うような生き方が必要なはずはない。

あるがまま それが本来の姿ではないか?

時の刻みの中で欲に支配されるような生き方を繰ることこそが貧しいことなのではないかと思う。

平凡であることの大切さを知るべきなのだ。

この大地のどこかに戦の中を生きる人々がいる・・・この国に生まれたことを穏やかな生活の送れることを感謝すべきなのだ。

すべてを失へば己の醜い姿が見える。

人はたった80年の命 あるがまま

 某日 欲に支配された人間ほど哀れに 寂しく愚かな生き方はない。

人はだれでも物欲に支配され その支配の大小により人間としての生き方をする。

己の欲が品格を支配してその支配の中で 自己の生き方さえも曲がってしまうことが時に見られる。

それほどまでに物欲の支配が大きいのか?

それを成しえて何を感じるのか。

人として生きるために・・在るがまま そのままの生き方を選択できないのか。

人は希望やかすかな望みを抱き その営みの中で自分の分を知る。

その中から見出すものは 決して無欲とは言えないかもしれないが・・・あるがまま ありのまま

それぞれの道を究めればいい。生き方はそれぞれ 些細な物欲が己の破滅にならないか?

悲しいかな 悲しいかな・・・愚かにおのれの道を踏み外して己を映す鏡を失う。

欲の成せる業に おのれっを映すことができないことの愚かさ・・・人は迷い 人は苦しみ そして人は嘆く

すべて 欲が支配した中で自分の身に余ることから生まれすもの・・・・

それぞれに それぞれの生き方がある・何よりもそれが大切のように思う。

水のように高きより低きへ…雲のように風に運ばれて あるがままの中から自分を見出すことが良き事。

欲は その形を変えて己を育てるように・・・・

形あるものはすべて壊れる。 自分の足取りに豊かであることを求めたい。
 8月12日  母が連日高校野球を見ているという。

それなりに健康管理もしているようだ。・・・・

自分で病院に行き薬ももらってきたと聞く、・・・

家族とは何のために共に暮らしているのか。お互いの健康を図りながら母の介護に手を貸すことが必要な時期に差し掛かっているはずだが・・・自分のことしか見えない・自分のことだけが正しく 他の人の思いを無視するだけが良いことなのか。

世話を焼けば疎んじられる・・・健康であればそれも煩わしく感じるのかもしれないが やはり介助が必要な年に来ているのに 見て見ぬふりをするだけでいいのか。

休まらない・・・何が休まらないのか?それほど自分の時間を割いて必要であることを行っているといえるのだろうか?

母は一日一日年を重ねていく。その背中に私たちは育てられてきたのではないかと思う。
 8月某日  
稲の穂が天を仰ぐように見える。

花粉の季節がやってきた・・・・憂鬱である。

斬月の残る空は静かな秋の気配を感じる様に澄んでいる。

友人と楽しい時間を過ごして来た。  

やはり夏休み・お盆のこのシ-ズンは車が多く 混雑の様子 母と父の一周忌・新盆の準備を始める。

月日の過ぎていくのは早い・・・永遠という現実はない。

今 正しく 今 確かのもいで日々過ごしていきたいものだ。
  朝夕の気温が少しづつ変わってきた。

今朝の空気の肌寒いように感じられる。夏が去っていく・・・・そんな気配を漂わせているかのようだ。 

 8月8日 久しぶりに父の夢を見た。

そして私はいつも感じたことのない・・・「父に会いたいと」思うのだ。

夢の中の父は何も言わない いつものように穏やかに私を見ているだけなのに・・・・

いくつも 父と過ごした小さな思い出が心をよぎっていく。

きっと母のことを案じているのであろうか?

声に出して お父さんと呼びかけたい思いをこらえる。

今少し 母をたわしが守っていく・・・・



今朝は菱野の小林さんよりたくさんのとうきびを頂く。母にもにも一箱送る。
家に残ったとうきび…18本  大きなお鍋を出してゆでる・・・・・身をもいで冷凍した。感謝 感謝
 
8月7日
 以前より 懸案であったものが段々見えてきた。

たどればたどるほど 身近な人間からその声が出されているようである。

利害という存在が彼女の思考を狂わせているのかもしれない。

発言の中にそれらしき発言をした記憶はないのに・・・なぜか さも私が言ったかのように流言を吐くのはその何物でもない欲望からなのだろうか?

解らなと思っているその考えを正すことができれば生き方も変わるのであろうが・・・・このような発言をすることがその人間性を表しているのかもしれない。

自分が見えないということは哀れなこと・・・・寂しいこと・・・・人として何が見えているのか。

噂は時には曲がるけれど・・必ず正しい処に行き当たる。決して隠し通して居られることはない。

明白になったとき そのとき自分を振り返ることができるのか・・・・・

道は見えてきた(叔父から→友人へ→ご近所さんへ)(地域の誰かから→ご近所さん→近い友人へ→親しい仲間へ・・・・)

私にも今は遠くなってしまったがその地域にも友人が数名いる・・・そのことを知らないのか?

それとも うわさが広がっていることを本人が知らないのか??疑問だ。

心配して友人たちが数人連絡をくれた。  そこから聞いた名前は驚く氏名であった。



****先日 本屋で見つけた「言ってはいけない」橘 玲  新潮     人間の原点を見るような本であった。
             「コンビニ人間」 村田沙耶香 
 8月某日  中天に三日月が美しく見える。

こんな静かな夜を・・・頭によぎることの一つは 思いやりとは何だ!!

人は人とのつながりの中で思いやりを繋ぎあい過ごしていく。それは肉親であれば尚のことではないだろうか。

兄弟という繋がりは 思うほどに限りなく希薄な繋がりでしかない。

忙しいであろう時間を私が埋めてあげることはできないようだ・・・・休めないというそれは何であろうか。

それほどに多忙なのか・・・?それほどに気を使うことがあるのか?

どちらをとっても理由がつかない。

介護をするという時間は それぞれが助け合ってこそお互いをおもやるということになる。

彼女が考えていることが皆目わからない。

月は変わりなく中天で輝いている。 私の心の葛藤は消えることはない。
 8月5日  いつものように 鉢植えの水やりから朝がスタ-トする。

叔母から頂いた柿の植え込みに頂いた時には3ミリほどのハチの巣があった。

今はそのハチの巣が1.5ミリほどに大きくなり 黒い小さな蜂が3匹ほどいる。

卵を産んで次の世代を育てている。

今朝はその植え込みの中にホウセンカが赤く1本咲いているのを見つけた。

蛯谷柿の10本ほど植えられて隙間なさそうな場所にひょろっと芽生えているホウセンカ  種は叔母の家の庭から運ばれてきたのだろう。

どんな生物も植物も一粒の種から次の世代を繋げて生きていく。

叔母がくれた蛯谷柿の植え込みには小さな世界がある。

小さなハチの巣・ホウセンカ・・・・・・すべてのものがこの世界に作られた自然を大切にできたらよいと思う。

人間だけがこの世を支配しているのではない。すべて万物この自然の中で精いっぱい命をつなぐ。
 8月4日  昨日 甥っ子のA君のHPを聞いた。

MGT難民の終結  http://blog.livedoor.jp/downfallcob-000/author/downfallcob

若者たちの手記を理解するのには少し難がある年齢になってしまったが 何かを自分の力で試してみようとすることは良いことだと思う。

マイナス思考の中で否定するだけが今の時代では通用しないものがある。

チャレンジするという勇気に拍手を送ろう。


不思議な体験
この体験をするのは何度目になるのだろうか??
精進湖から甲府南へ帰る途中に最初のトンなるがある、そのトンネルになると声がする。
「一緒に行きましょう」   それは女性の声
今回もまたその声がした。その声を聴いても不安もなく穏やかな身持ちでいる自分がいる。
私の守護霊は左肩に老人がいると聞いた。だが・・・声は確かに涼やかな女性。




夜になり松本周辺に 短期間集中豪雨の注意報が出たようだ。

ネットを見ていたら 飯島氏の処も雷が入ったとか・・・明日は電話をしてみよう。
 8月3日  明日は小諸に帰るという前夜

母は思いついた様に一枚のコぴ-された写真を出した・

それは古い母と姉のが並んだ写真・自分の20歳くらいの写真・父親の写真

これを写真に焼いてほしいという・・・・・出来るかわからないが預かることにした。

昼には母の実家のお膳を出したり 田中屋の古いお膳を出したり・・・・長い年月の中漆塗りのお膳も風化してくすんでいるが・・・修理に出すことになりそうだ。

母の思いの中には 色あせた者たちはそのころにまま 鮮明な色の中で息づいているのかと思う。

その思いをつなげられたら良いと思うのだが・・・・・
   生き方はそれぞれ 様々

それを変えることはできない。そこに在るのはそれぞれの生き方のつながりの在り方なのではないか?

人はその在り方の中に存在や赤置換の共鳴を見出しながら繋がりを作り 其の繋がりの中で自分とぴう存在を見出していく。

孤独とは・・・己自身の心の持ち方や その持ち方の中で己が繋がりを求められない何かが存在する・・・・・

人はだれしも孤独 人はだれしも寂しい

だからこそ 多くのつながりの中で自分を見出して行くのかもしれない。

それは 優しさや思いやりや向上心や・・・・・それらの中でこそ育つので花だろうか?

メモの中に見えるものは 何もない・・・・唯々むなしいように感じてならない。
 8月のある日  ある出来事があった。

ある日小さなメモを拾う・・・そのメモの持ち主に心当たりがある。

そこに書かれている文字は衝撃的であった。

人は一人では生きていけない・・・だから多くのつながりを大切に生きる。

孤独とは何から生まれるのだろうか?

そこに連なる文字の悲しみや痛さやそして限りない寂しさを感じた。

その時間を生きてきたのだろうか?


私の中にもそれぞれの生き方があり それぞれに己の生き方を生きる。

そんな思いがあるが・・・このメモとは少し違う。
 7月30日  主人から電話

従弟の友人(菱野)よりトウモロコシを頂いたと聞く。

従弟のお友達ということで 私たちはそれほどのお付き合いも無かったのに・・・季節の贈り物をありがとうございます。

後から主人に聞いたところ・・・・お塩を購入してきて自分で湯がいたそうだ。

私が帰るまでトウモロコシがあるだろうか??
   
   
   このペ-ジは

あるがまま 水のように  雲のように 川のように 風のように・・・・