フ     ッ
   
   煩悩
 煩悩の根本に三毒がある。

「数」を突き詰めれば無限にあると考えられる。このため、「稠林」(森林のように数多の煩悩)とも表される。

俗に煩悩は108あり、除夜の鐘を108回衝くのは108の煩悩を滅するためと言われるが、実際には時代・部派・教派・宗派により数はまちまちである。

小は3にはじまり、通俗的には108、大は(約)84,000といわれる。




三毒

煩悩の根源(人間の諸悪の根源)は、貪欲・瞋恚・愚痴

の3つとされ、これをあわせて「三毒」(さんどく)と呼ぶ。三毒の中でも特に痴愚、すなわち物事の正しい道理を知らないこと、十二因縁の無明が、最も根本的なものである。

煩悩は、我執(自己中心の考え、それにもとづく事物への執着)から生ずる。この意味で、十二因縁中の「愛」は、ときに煩悩のうちでも根本的なものとされる


今更 煩悩について考えることはない。

人間を構成する根本なのだから・・・この人間が子の煩悩をいかに自分の中で成熟して 判別しながら生きるかということなのかもしれない。

善も悪もあり その中で自分がいくた拾うものがあり また捨てるものもある。

自分を映す鏡が曇ることが己を支配する煩悩によって道を誤るのかもしれない。

良きことばかりではない・・・・だからこそ人はtン便ばかりを心のうちに置きいつも図るのかもしれない。

このすべてを捨てて 世捨て人のように雲を眺め 水を眺め 風に吹かれて生きることができたら楽なのだろう。

有るがまま・・・そんな生き方ができるのだろうか?

煩悩に支配され・・・親惑わされて生きることが何よりも人間臭いのかもしれない。

生きることは生かされることの何倍もしんどく・・・その中から生きていくことの選択を判断する。

もう この先はあとわずかばかりの道を歩く。

子の煩悩を捨てるすべはない・・・・いつか この思いから脱却することを思うのみ。
 12月26日
雪降る夜
 忘れないこと・・・・忘れなければいけないこと?

忘れるべきことは中々忘れない・・・それが思いのほかに心の傷になっているのかもしれない。

何度も忘れようと思ったが・・・・忘れることができない悲しみ。

言葉に出したほうはきっとはるか昔に忘れているだろうが・・・・言われた側にすれば時折 頭の片隅をかすめていく。

限りなく悲しいように思う。

本来であれば忘れてしまいたいことなのに・・・・消し去ってしまうことができない。

人間はいくつか忘れられない悲しみがあるのかもしれない。

いつも 記憶の底にその悲しみが存在して心の痛みとなる。

できる事ならばその悲しみを捨ててしまいたいと思う。

あまりにも忘れることの痛みを伴うような気もする。

悲しみという表現を超えて この痛みをどのように表現できるのか?

思う 好みの朽ちるときまでこの思いを抱いて歩いていくのかと・・・・・

そのことのほうが悲しいようにさえ感じてしまう。

歳月が消してくれることもある。 歳月が思いを増すこともあるのだとこの頃は思う。

いつか このことを捨てる日が来るのかもしれない。
  妄想癖

そんな癖があるかは知らないけれど・・・・・・

実際に起こっていないことまでも現実に起きたことのように言う。

発言してもいないことを 発言したように言う。

この 行為・行動?思考    どのように考えたら良いのだろうか?

だがこれに手を打つ方法はないのかもしれない・・・頭の中で作り上げる仮想のもの 其れについて何を言うこともできないのだから!!

だが そのことによって事実でもないことの流布を食い止めることができない。

あまりに 惨めなように思う。

   正体見たり・・・・・

そんな言葉を心の中で幾度となく打ち消しては また苦い思いをする。

そんなはずはないと・・・だが やはりその心の内を知る。

人は 利用すようと思う人には勝てない。それは自己利益を得るためのものであれば尚のこと・・・

長い間 自分自身にも気が付かないでそんな様に暮らしてきたのだろうか?

多くの人は 当たり障りなく遠巻きに付き合いはするだろうが 本心より付き合う人は少ないであろう。

どのように正当化しても 只の言い訳や何とかしてごまかしを言うその連続なのか?

それが日常的に行われて 本人は気が付いていないのかもしれない。

なんと心貧しき人なのだろうか?

言葉でごまかしても 誤魔化し切れるものではない。

何を人は得るのか・・・ 些細な物欲だけに走り人としての評価を失うようなことがあれば悲しいことだと思う。

そして 今後はそのような関係に自分自身が用心や防御本能を持つことが悲しいように感じられるのだ。

人は 善と悪を併せ持ちその中で葛藤をしながらこの世を生きている。

生きていく以上に自分自身を偽らな帰ればならない生き方をすることは悲しいではないか?

・・・・・・・・・・・・思えば そんな出来事を何度も感じられた。

心貧しきものへ 豊かさのほんの少しの温かさを感じることができないのだろうか?

その手に掬い取るものは・・・・・・・
   法話より
 輪廻転生とは何か       http://space.geocities.jp/tammashart/si/2rinne.html




 「生死の繰り返し」と言えばタイ語で、パーリ語では「サンサーラヴァッダ=輪廻」と言います。この言葉は、繰り返す輪という意味で、「繰り返す輪」とは、生死の繰り返しです。私たちはよく、輪廻の中を泳ぎ回ると言い、泳ぎ回るのは輪廻の中です。つまり泳ぎ回る輪の中を回ります。そしてその泳ぎ回ることが輪の状態になっているので、輪廻と言います。「輪廻」は短くて便利です。

 まだ理解していない人がいるので、「輪廻と言うものは涅槃と言うものと反対」と知っていただきたいと思います。涅槃でなければ輪廻を繰り返さなければならず、輪廻を繰り返さなければ涅槃です。だから涅槃は、輪廻を繰り返すことの反対と言います。みなさん、仏教教団員として、輪廻と言うものについて何を知るか、あるいは何をするか、そして輪廻と呼ばれるものに関するどんな義務があるか、どうぞ関心をもってください。

 輪廻とは苦の呼び名で、涅槃は滅苦の呼び名です。輪廻を繰り返すとは、苦の海の中を泳ぎ回ることで、それを凡人の当たり前の状態と見なします。輪廻、あるいは輪廻転生と呼ばれるものは、ヒト語のものもあり、タンマ語のものもあります。二つの言語、つまりヒト語とタンマ語は必ず一緒でなければならず、別々にする余地はないと憶えておいてください。それぞれを、ヒト語とタンマ語の両方で知らなければなりません。そうすればそれを知り尽くすことができます。輪廻と呼ばれるものにも、ヒト語とタンマ語があります。

 

 どのように勉強すればより多くの、あるいはより必要な利益が得られるでしょうか。ヒト語で言うと、輪廻を「死んでは生まれ、死んでは生まれ、涅槃に到達するまで際限なく死んでは生まれる人がいる」と説明します。これを「言い伝えられているヒト語の知識で話す」と言います。タンマ語で言えば、執着である考え、つまり「自分、自分のもの」という考えが、人の心の中に繰り返し生まれることを意味します。何回も生まれ、生まれては消え、生まれては消え、いつまでもこのようになっていることを、「自分、自分のもの」が、人の心の中で、生滅の流れの中で泳ぎ回っている、と言います。これをタンマ語の輪廻と言います。

 次にみなさん、どちらの意味の輪廻が急いで勉強する必要があるか、あるいはどの意味の輪廻が、私たちの滅苦の実践にとってすぐに利益があるか、熟慮して見てください。私はいずれにしても、どちらの意味の輪廻にも利益があると主張します。しかし別にしなければなりません。

 生死を繰り返す人がいるヒト語の輪廻の意味も、タンマを深く知らない人にとっては必要で、一般庶民にとって道徳面の利益があります。その人には罪を恐れる気持ちが生まれ、そして徳を積むことに勇敢になり、良い輪廻をするために更に徳を積もうと決意します。

 「良い輪廻ができるように」というのは、奇妙に聞こえます。つまりその人が望む幸福があることです。彼らは幸福の海へ輪廻して行きたいと望みます。それはあり得るでしょうか。滑稽でしょうか。苦の中を泳ぎまわるのは簡単に見えますが、幸福の中を泳ぎ回るのは、あるでしょうか。これからもう一度熟慮して見ます。

 みなさんは、一般に知られている、生死の繰り返しを止める方法がない普通の人のためのものであるヒト語の輪廻の教えがなければならないと同時に、タンマ語の生死の繰り返しの話、つまり執着である考えが生まれることも知らなければなりません。この知識は、どんどん真実になるタンマの知識があり、そして輪廻を止めることができる人のためのものです。つまり生きているうちに輪廻を止める方法があります。

 

 比較して見るために、これからもう少しヒト語の輪廻についてお話します。ヒト語で話す輪廻には、「自分」「俺がいる」と感じる人がいなければなりません。ヒト語で話す時は必ず人がいなければならないので、それが輪廻をする人です。しかしタンマ語で話せば人はいません。あるのはタンマだけなので、名(抽象)のもの、つまり考えになります。

 ヒト語風に言えば、一人の人がいて、自分と呼ぶ一人一人が輪廻の中を泳ぎ回り、そして涅槃に到達したら止まると信じられています。しかしこのような輪廻は、ブッダ以前から教えられていた、あるいはブッダの時代、あるいはブッダの時代以降の、私たちがヒンドゥー側と呼ぶ教義と理解してください。ヒンドゥーは自分が生死を繰り返す教えがあるので繰り返し、繰り返すと賢くなり、更に賢くなり、最高に賢くなれば、パラマートマン、あるいはフラフマアッターと呼ぶ大きな自分と一体になるので、輪廻を止めることができます。

ヒンドゥーの輪廻は、自我が輪廻し、輪廻が善と賢さと知性を増やし、マハーアッター(偉大な自我)、マハートマー、つまり偉大な徳のある自分になります。そしてこのマハーアッター、あるいはマハートマーは、まもなくパラマートマン、あるいはパラマートマー、つまりブラフマアッターと一体になり、そして終わります。永遠に存在するのでそれ以後は変化せず、生死を繰り返しません。彼らにはこういう教義があります。そしてありました。

仏教が生まれると、原因と縁で生死を繰り返す話を受け入れました。普通の人に聞かせるヒト語で言えば、「知識が生じるまでは輪廻を繰り返す」と言い、涅槃を明らかにするには、生まれ変わる人である「自分」を消滅させてしまいます。

それがどんなに違った方向になるか、考えて見てください。「輪廻するものはない」「自分はない」と知るまで勉強することで、輪廻を止めることができます。「生まれ変わる自我はどこにも何もない。それは、自分と感じ、考え、そして輪廻する、名形である自然にすぎず、輪廻はない」と知れば、輪廻する自分がないので、輪廻は自然に止まります。輪廻する自分を消滅させてしまえば、輪廻も終わるということです。苦を終わらせる輪廻の最後は、ヒンドゥー教のような永遠のものではありません。

このように違います。つまりヒンドゥー教は、大きな自分と一体になるまでずっと自分があり、そして永遠に存在し、私たちの側は、誤解によって自分があり、「そうだ、自分はない。あるのは自然だけで、原因と縁で経過していく」と気づくまで、とりあえず「自分」と呼んで、愚かさや無明で輪廻すると説き、自分を止めれば、輪廻する自分がないので輪廻は止まります。涅槃の状態は自分の消滅なので、永遠に残るものは必要ありません。

 「涅槃は永遠であり、不死であり、涅槃を作る原因と縁はない」と言うのは、それを作る原因と縁はない状況という意味で、到達できた時に永遠の状態、つまり無為に到達したと言います。それは、作り出す原因と縁を必要とせず、何にも依存しないで永遠に存在できます。自分や自我が永遠なのではありません。しかしこう話すのを、あまり好む人はいません。

 この自分が無為、あるいは永遠である涅槃に到達すると話してやることもできますが、それは、むしろ信じさせるために宣伝する言い方です。涅槃は最高の幸福と言うのと同じで、宣伝して信じさせ、涅槃に興味を持たせるためで、本当は、涅槃は幸福よりはるか上にあります。幸福に関わらないほど幸福より上です。それが涅槃です。しかしこう話したのでは何も楽しくなく、誰も好みません。「涅槃は最高の幸福」と言うのとは比較になりません。

 これも同じで、生死の繰り返しと言えば、涅槃つまり自分が消滅します。その後輪廻する自分が崩壊して終わるので、残っているのは輪廻しない状態、つまり涅槃だけです。仏教の涅槃と、ヒンドゥー教など他の宗教の涅槃の、違いが見えるように区別することを知ってください。

 涅槃という言葉は古く、一つの宗教だけのものでなく、どの宗教でも涅槃という言葉を使っています。それには苦がなく、苦が穏やかに静まり、誰もが好むという意味があります。しかし、涅槃に到達させる教えには、いろんな方法があり、人は、自分の知性のレベルにふさわしいいろんな教義を受け入れて信じます。教え方が真実すぎても愚かな人には受け入れられないので、首を横に振って拒否します。だから愚かな人が受け入れることができ、そして満足して喜ぶレベルで教えなければなりません。

 たとえば、涅槃とは欲情が最高に豊かであることと教える教義は、こういうのは、愚かな人たちがみな飛びつくと思います。しかしそこまで愚かでない人は信じないので、四禅を涅槃と教える人がいます。こういうのもブッダが生まれて、「自分が終わること、煩悩欲望執着が終わることが涅槃」と教えるまでは、信じて受け入れる人がいました。これも信じる人がいました。それもありましたが、知性のある人の中だけです。知性のある仏教教団員は、「涅槃は煩悩の終わり」という、この教義をずっと受け入れてきました。

ヒト語で言えば、生死の繰り返しが止まることが涅槃で、タンマ語で言えば、煩悩が止まること、煩悩の味付けが終わることを涅槃と言います。


普通の人、ここで聞いているみなさんたちもきっと生死の繰り返しという言葉を聞いて、生死の繰り返しは苦と見えるよう理解するよう教えられ、涅槃だけを望むよう教えられ、生死の繰り返しを恐れ、生死の繰り返しの苦に驚愕するよう教えられていると思います。

しかしそれは、本当ではなく、心の中ではどう感じているか、恐れているのは口だけで、本当には恐れていないように見えます。口では「輪廻は怖い」と言っても、心の中では本当は恐れていません。理解していないので、本当にそれを知らないので、輪廻を止めたくありません。つまり次々に生まれ続けたいと思います。

普通のレベルを基準にした人の気持ちでは、まだ生まれたいと思っています。まだ繰り返すことに満足せず、まだ新たに試したい、新しい幕を開け続けたいと思っているので、生まれるのを止めたくないうちは、生まれることは怖くありません。怖いと言うのは口だけです。だから輪廻は止まらず、これからも繰り返します。一般の人はこうです。

生きたいのは、愛するもの、執着している満足するものがあるからです。死にたくなく、死んだらもう一度これらのものに出合いたいと望みます。つまりすべての五欲がこの世界にあり、その人はまだ愛して満足していて、死ななければならなくても、それらに巡り合うためにもう一度戻って来ることを望みます。こんな状態で生死の繰り返しを止めることなど、どうしてできるでしょうか。

私たちは輪廻転生の話で自分を騙していると、良く考えて見てください。本当には知らず、本当には恐れていないのに、夢中で自分を騙して、何度も生死を繰り返す原因と縁を作ることに、熱中するばかりです。これを輪廻転生に関わる問題と言います。

ヒト語で言えば、人がいて、執着の基盤になるものへの執着の威力で輪廻し、消滅したくなく、止まりたくなく、輪廻を終わらせたくありません。

タンマ語の輪廻について言えば、タンマ語の輪廻転生は、心の中で死んでは生まれ、死んでは生まれる「生」です。肉体には関係なく、棺に入って生まれ変わることに関わる必要はなく、関わるのは、心の中で「俺、俺のもの」と執着で考える考えの、尽きることのない発生と消滅です。


次に、輪廻転生と呼ぶものはいったい何かを、基礎から見ていただきたいと思います。つまり輪廻の意味の観察点を示したいと思います。本来は回転と言うべきで、回ると出発点に戻らなければならないので「輪」と言い、ヴァッダという言葉に相当します。ヴァッダとは輪、あるいは丸く回るという意味です。

丸いこと、あるいは回転することは、自然の基本部分です。たとえば地球が丸いことは知っていて、そして地球は太陽の周りを丸く回り、月は地球の周りを回転しています。あるいは移動している他の星も、輪にするために丸く回っています。楕円でも正確な円でも、あるいは歪んだ円も円であり、回転と呼び、自然に円を描いて回転する状態があります。だから何でも簡単に回転し、考えや行動や望みも、丸く回転しやすいです。つまり元の地点に戻って繰り返します。

心の中を見ると、命の基本である潜在意識と呼ぶ心が、発生して存在して消滅し、キリもなく発生して存在して消滅するのが分かります。これも輪で、すべての意識の基礎である潜在意識の中にある、輪廻と呼ばれる輪の状態です。だから心が生じている一瞬にも輪があります。

次に一日も輪になっていると見ると、朝が来て、昼、午後、夕方、夜更け、夜明けで、ほら、輪になっています。すぐ、毎日毎日輪になります。これは毎日ある輪です。次に一年も輪であることを見れば、太陽と月を基準にして輪である一年があり、乾季から始めれば、それから雨季、寒季、それから乾季に戻って終わり、雨季、寒季で、一年の輪です。一年が輪になっています。これも輪になっている繰り返しがあります。

あるいは生全体を見ると、個々の生も輪で、誕生から始まって、それから変化して若者、中年、老人になり、そして新たに生まれるまで死んでいるので、一つ一つの生は、このように一つの輪になっています。これを「一瞬も輪であり、一日も輪であり、一年も輪であり、一生も輪である」と言います。何もかも、極めて輪に関わっています。だから、非常に輪の状態の中を回遊するのも簡単です。


次に心の面としてもっと見ると、更に微妙で深遠な輪が見えます。つまり因果律、あるいは私たちの暮らしの中の縁起の流れで調整される輪、たとえば目が形を見て視覚が生じ、目と形と視覚が一つに合わさることを「触」と言い、触が生じると受が生じ、受が生じると受にふさわしい欲望が生じ、「自分、自分のもの」と執着する感覚が生じ、そして界というものになります。取があるので界があり、界があると生があり、生があれば生老病死に関わる問題があり、何らかの苦があります。あるいは自分が思ったようにならないと、苦になると断言できます。これで目の話は終わりです。

同じ状態で、すぐに縁起の一巡である耳の話が生じます。耳が音を聞くと耳識が生じ、耳と音と耳識が一つになると触と言い、触が生じると受が生じ、欲望が生じ、執着が生じ、界が生じ、同じように生が生じます。臭いを嗅ぐ鼻の話も同じで、舌で味わう舌の話も同じで、体の接触の話、体に触れて来るものも同じで、心の中の話もみな、過去の想が心に触れると受が生じ、欲、取、界、生、俺、俺のものが、同じように生じます。

今目の輪が生じて形を見、今耳の輪が生じて音を聞き、今鼻の輪が生じて匂いを嗅ぎ、今舌の輪が生じて味わい、今体の輪が生じ体の触があり、今心の輪が生じて過去の想から掴んだ感情に触れます。

目が形を見るのは、一つだけでも一回だけでもありません。今その形を見、今この形を見、一日には幾つもの形を見るので、目の幾つもの輪です。耳も同じです。今その音をきき、今この音を聞き、この話を聞くのは、耳の話の幾つもの輪です。鼻も同じです。鼻の話の幾つもの輪があり、舌も舌の話の幾つもの輪があります。

体の接触も、体の触の形の幾つもの輪があります。心のことはもっと素早く、もっと多いです。非常に敏捷なのでたくさん作り、極めて早いので、心の話のたくさんの輪があり、合計すると一日に何百、何千、何万かも知れません。情緒不安定になりやすい人なら、更に多くの輪があります。

これが縁起の一つ一つの輪廻です。心の中にあるこの一つ一つの輪は、どんな輪廻より真実の輪廻として存在します。つまり涅槃に到達するまで、キリもなく輪の中を回転し続けます。智慧とサティがあって、縁起の手法で加工するのを止められれば、輪廻も止まり、涅槃になります。どうぞ心の中にたくさんある輪を、恐ろしい、飽き飽きする輪を、このように「心の面の加工」と見てください。


 次に、輪廻は憐れむべきであり、更に厭わしく、憎たらしく恐ろしくなるよう見えるように見ます。私たちはこの輪を、三道と呼ぶ部分に分けると、煩悩①の部分が一つあり、たとえば縁起の欲望、取などです。煩悩が生じると、それが意業のカンマを作る原因になり、口業になり、身業になる原因になります。それも煩悩の威力で行動するカンマ②です。煩悩がカンマを作る原因です。このように避けられません。

 カンマの行動をすれば、カンマの結果③が生じ、望みどおりの幸福である結果を受け取ることもあれば、望まない苦の事もあります。カンマの結果を受け取って苦になり、幸福になり、煩悩は止まりません。煩悩は、受け取ったカンマの結果である感覚の威力で、お節介にも新しいものを探し、満足すれば一つの形の煩悩が生まれ、満足しなければ別の形の煩悩が生まれ、新たな煩悩になり、カンマである行動を生じさせ、新たなカンマの結果が生じ、そしてまた煩悩に戻ります。

 心の中はこのようになっています。そして縁起の一つ一つの輪の中はこのようです。つまり欲望・取は煩悩であり、カンマつまり界を生じさせる原因であり、界はカンマなので、報い、つまり生・老・死などを生じさせます。

 一巡の縁起の中に、「煩悩(煩悩道)とカンマ(業道)とカンマの結果(苦道)」の部分があり、報いは尽きることがなく、いつまでも煩悩を作り続けるので、どこが発端か分からない輪になります。だから全体が輪に見え、どこが切るべき発端か分からないので、人は断ち切ることができません。

 本当は煩悩を断ってもいいし、カンマを断ってもいいし、結果の意味を無くして無意味にしても構いません。どこから始めてもいいです。六処を通じて一回の触があるとき、一つの感覚の中に輪廻がないようにするために、この三つの部分の威力を無力にできる、十分な知性を身に付けていただくようお願いするだけです。

 ここまでお話すれば、緻密で深遠で不可思議な輪廻はここにあると見えると思います。つまり心が煩悩の形に加工され、それからカンマを作り(行動し)、それからカンマの結果(報い)を受け取り、またカンマを作る煩悩になって、心の中でカンマの結果を受け取る点にあります。緻密な苦の形の、眼・耳・鼻・舌・体・心を通じて関わって来るもの、一つ一つの中にあります。

 これが、死んで棺に入って、もう一度生まれるよりも恐ろしい輪廻です。死んで棺に入ってまた生まれて、そしてまた棺に入るのは雑な話で、緻密な話でなく、知性のある話でないので、誰でも大雑把に括れます。

 生まれてきた子供に、「死んで棺に入り、それからカンマや徳でまた生まれ、そして死んでまた生まれる」と教えて信じさせても良いです。それは雑で、簡単で、深遠なタンマを知らないヒト語の話で、そういう状態の生死の繰り返しもあります。

 しかしタンマを知っている知性のある人の話になると、彼らはタンマ語で、「心の中に輪廻があり、棺に入る必要はない。棺に入る前に、生きているうちに、一日に何百回、何十回もの生まれ変わりがある」と話します。

 このように緻密な輪廻を知っていれば、本当の輪廻を知っていると言います。そして輪廻の流れを止められる利益があり、棺に入って棺から出る輪廻も止めることができます。何としても、心の中の本当の輪廻を止めてしまいましょう。だから緻密な輪廻を、このように勉強するべきです。



 憶えやすい譬えで、みなさん全員をお百姓と見なしてお話すると、米作りをしたいと思い、稲を育てて籾を収穫します。籾を収穫するとまた米を作りたくなり、稲を育て、そして籾を収穫します。そしてまた米を作りたくなります。これが煩悩とカンマと結果(報い)の輪です。

 米を作りたいと望むのは、煩悩と同じで、愚かさで望めばますます煩悩になり、米作りをすればカンマ、つまり行動になり、そしてカンマの結果、つまり籾を収穫します。稲作の輪廻を繰り返すと言います。それでいつ終わりになるでしょうか。自分があれば、自分に「自分」と執着すれば、終わりはありません。ご飯を食べなければならないので、このように米作りをしなければなりません。

 しかし要旨はここにはありません。要旨は、苦があるか苦がないかという点で、苦があれば損失と見なし、急いで苦がないように解決してしまいます。

稲作をするなら、煩悩でしないでください。稲作をする原因である煩悩をなくして、すべての真実を知る知性が稲作を先導します。するなら知性でし、煩悩でしなければ、収穫した籾に執着しません。煩悩の威力で迷わなければ、手に入れないのと同じです。結果としは稲作をしないのと同じで、稲作をさせる原因である煩悩の奴隷ではなく、稲作をしていないのと変わらないように暮らします。こうすれば苦はありません。

 煩悩や無明がたくさんあって煩悩ですれば、したいと思った時苦になり、している時も苦であり、籾を収穫する時も苦になってしまいます。思いきり掌握するので、心がものすごく重くなります。貧乏人は貧乏人の苦があり、お金持ちはお金持ちの苦があるのは、煩悩の力で執着するからです。

 だから、「輪廻は、本当は必ず煩悩の話だ」と、熟慮して良く見なければなりません。煩悩の話でなければ生死を繰り返さないので、輪廻とは言いません。それはヒト語の輪廻で、死んで棺に入り、そしてまた生まれ、そして棺に入り、そしてまた生まれます。「自分だ」「ヒトだ」と溺れる煩悩がなければ、輪廻はありません。

 動物を見ると、動物は輪廻を信じて迷わず、自然に死んで自然に生まれて行きます。「俺が死んだ。俺が生まれた。俺が死んでは生まれ、死んでは生まれる」。このような「同じ自分」という理解はありません。


 これが、仏教の手法で「俺」を消滅させ、輪廻を止めることで、この俺を善い自分、偉大な自分にして、ヒンドゥーの教義のパラマアッターと一体になることを目指しません。

 生きているうちに何としても「自分、自分の」と迷う愚かさを止めてしまいます。生死を繰り返す主体である自分がなければ、生死の繰り返しは止まります。何でもいいです。米を作るお百姓なら、「俺が米を作っている。そして俺が米を収穫する。俺はもっと金持ちになりたい。俺はまた米を作る」という執着の基盤である自分をもたないでください。心の中にこういう自分があれば、執着の考えであり、米作りの中に輪廻があると言います。

 本当のブッダの弟子なら、不死の田を作ってしまい、「そのような自分であるものはない。あるのは名形(名色)、つまり考えることができる心と体だけ」と、勉強して知ります。間違って考えれば、自分を作り出すのでものすごく重く、正しく考えれば、自分と考えないので軽快です。このような自分をなくしてください。そうすれば繰り返すものはありません。米作りをしなければならなくても、稲を刈って米を収穫し、そしてまた米を作るのは、してください。それは米作りの輪廻ではありません。

 今述べたようにできる人は、お寺にいて「俺、俺のもの」という執着を無くせない僧や沙弥より、本当のブッダの弟子です。だから私は、輪廻しない話は、すべての人の問題と見なします。家にいて農作業をし、商売をし、どんな仕事をするにも、自分という執着でしないでください。執着ですれば行動と行動の結果を繰り返し、勉強して知って、何をするにも清潔で明るく、静かに、そして「自分、自分の」という愚かさのない心ですれば、それは執着の行動にならず、カンマにも、カンマの結果にも、煩悩にもなりません。こういうのはしても大丈夫です。

 私の教育に本当に結果があるなら、私の講義が不毛でなければ、つまりみなさんが理解して本当に実践できれば、できた分だけ、本当に生死の繰り返しを止められます。自分の知性に応じて、行動に応じて「俺、俺のもの」の輪廻を止めてしまうことができます。それを「涅槃を教え、輪廻の繰り返しを止めるよう、永遠に涅槃の涼しさで生きるよう教える仏教を信じる、仏教教団員としての結果を受け取る」と言います。


 興味がない人は理解する努力をしないで、「何の話か分からない。私たちの話ではない。私は自分があるのを望み、自分のものを作りたい。自分の感覚に美味さを生じさせるために、何かを自分のものにしたい。自分のものをもちたい」と拒否し、このように望んでいます。こう望んでいれば、いつでも煩悩の威力で輪廻し、そしてカンマを作ってカンマの結果を受け取り、そしてカンマを作るために煩悩があり、カンマの結果を受け取り、終わりがありません。

 私は、この種の人は「自分は幸福の海の中を輪廻できる」と勘違いしていて、本当は苦の海の中で輪廻していると思います。彼らの考えがどこから来ていても、彼らの自由です。彼らは幸福の海を輪廻します。だから自分の考えで、大胆にも極楽の宮殿の中を輪廻するとまで考えるほど、幸福の中を輪廻したがります。彼らは幸福の海を輪廻していると言います。

 これは迷いであり、無明の愚かさで、そうなれると考えますが、本当に幸福の海へ行くと、それに執着し、幸福の海が頭上に載っているので、山を頭上に載せているように重く苦しいです。

 考えて見てください。幸福の海を輪廻してそれに執着すれば、それは重くその人の頭上に載っています。それがどうして幸福でしょうか。苦の海を輪廻するのは、執着するからで、幸福の海を輪廻すれば、もう一度幸福に執着するので重く、執着による苦なので、重さは同じです。幸福は欺瞞の一種なので、執着した途端に苦に変わります。それで人は幸福の受を望み、受が幸福になると執着するので、苦が生じ、そして殺人ができるほど非常に大きくなります。幸福の受に執着するからです。

 本人もその間中重く、そして嫉妬や護身や疑念や、幸福の受に執着する人のいろんな考えで、ライバルを殺そうと考えます。特に欲情に傾く心のある、欲界にいるすべての生き物の情欲はそうです。

 すべての生き物はこのようです。情欲の威力で傾く心があるので、執着するために、心に覆い被さる重いものであり、苦である幸福を手に入れると言います。自分が愛し満足するもの、あるいは幸福と呼ぶものに執着するからです。

 だから、「幸福の海を輪廻することはあり得ない」と言うことができます。執着や無明の威力で輪廻するので、欲望があり執着があるからです。だから幸福の海を輪廻しようと望まないでください。輪廻をするのは苦の海で、苦でなければ輪廻は止まり、涅槃です。


 どうぞ「涅槃は輪廻と反対。生死の繰り返しと反対のもの」と理解してください。何をするにも、輪廻になるようにしないでください。何でも執着になるようにしないでください。そうすれば執着の威力で、作り出す威力で流されます。

 執着しなければ作り出さないので、止まり、そうすれば涅槃の涼しさです。体が体のことをするのは、していきます。ご飯を食べるにも、排泄するにも、水浴をするにも、田の仕事をするにも、どんな仕事をするにも、「俺、俺のもの」という執着なしでします。

 「俺、俺の」という気持ちがなければ、生死の繰り返しはありません。輪があるのは、輪廻の中の生死の繰り返しと呼ばれる輪に飛び込む、「俺、俺のもの」があるからです。ではどうしたら輪廻を止めてしまえるでしょうか。ブッダは非常に膨大な教えを説いているのに、私たちはまだ十分知らず、何の役にも立たないくらい少ししか知りません。


 明らかな知識がなければ、無明のある心なので愚かで、無明の威力によって迷うと知らなければなりません。だから心は、無明の子分である煩悩欲望の餌に満足します。欲望煩悩、どんな煩悩も無明から生まれ、そして煩悩の餌であるものに満足します。煩悩の親分である無明が、煩悩の餌に溺れさせます。

 だから輪廻の中で遭遇するいろんなものは、煩悩にとって美味しいものです。つまりすべての形・声・臭・味が、その種の心を捕えるので、輪廻の中で遭遇したものに、「俺のお金、俺の金塊、俺の妻、夫」と執着します。ジャータカ(本生経)の「耳を洗う猿」の話のようです。後ろの建物に描いてあるので、もう一度見てください。

 それには心を魅了して人の心を掴み、魅力的なものに満足させて輪廻の中に居させるものがあるので、私たちは生死の繰り返しに陶酔し満足します。生死の繰り返しを止めたくありません。輪廻の流れの中には、このように魅力的で、心を惹くものがあるからです。

 ここで聖人の言葉を聞けば、この心を魅了するものはいったい何かと、もう一度熟慮し、知性で熟慮すれば、火のように心を焼き炙るものであり、それが四方八方にあらゆる苦を生じさせると見えます。これが魅力と呼ばれるものの低劣さです。あるいは心を煽るものはこのようです。

 普通の人のように、「愛するもの、満足するもの、心を魅了するものがある人は、溺れて全身全霊で執着し、愛らしい、満足すべきだ」と見て、命の伴侶にし、もう一人は、「ああこれが日も夜も絶えず暑くしているものだ。自分のものと執着する価値のある物には見えない」と見ると言うこともできます。一人は愛すべきもの、満足すべきものと見、もう一人は心を突き刺し焼き炙るものと見、このように違います。

 「愛や満足の基盤であるものは心に害のある危険なもの」と見えれば、考えは執着するものや溺れるものが何もない方向へ変わります。惚れこんで愛してしまうものは何もなくなるくらい、考えの傾向が変わります。これを、「輪廻に縛りつけるものから逃れるタンマを知り始めた」と言います。つまり家主(体の所有者という意味)である愚かさ、惑溺、煩悩、欲望、無明が輪廻に縛り付け、満足させます。

 それらの煩悩がなくなると、人は輪廻に満足しなくなります。知性が最高に増えれば、「自分」「自分の」「私の自分」という感覚が止まってしまうので、輪廻も止まります。輪廻が瓦解するのは、今まで「輪廻する人」だった人が瓦解するからです。真実はその人はマヤカシであり、影にすぎず、誤解にすぎないのに、心に誤解が生じると、このように「自分」と理解する心になります。

 無我の話、自分ではなく、名と形(心と体)、あるいは名と形に関わるものと教えることは、このように役立ちます。

 前回も無我についてお話しました。その無我の知識で、自分があると理解させて執着させ、生と死の流れの中を輪廻すると理解させる心を熟慮します。つまり、輪廻転生、あるいは生死の繰り返しとは何かという要旨をまとめることができると言うことです。


 暴言をお許しいただけるなら、生死の繰り返しは最高にバカな話、最高に愚かな人の話で、最高に愚かな行動なので、俺である自分がいると迷って、「俺は何が欲しい」と望み、それを手に入れるために行動し、今まで以上に陶酔するために手に入れ、今まで以上に苦になります。欲しがることがあり、行動があり、行動の結果があり、そして欲しがり、行動があり、行動の結果があり、繰り返してますます欲しくなります。もっと、もっと、もっと。いつまでもこのようになっています。これを、最高に愚かな行動である輪廻と言います。絶えず苦の海にいるからです。

 愚かさを捏ね固めて自分を作って「俺」と呼び、そして執着し、心はそのような考えや感覚を作り出します。つまり欲しがる自分、欲しくて行動する人、望みどおりに得る人、そしてまた欲しくなり、輪になっています。今心の中にある輪廻であり、生死の繰り返しであり、毎日、一日で幾つの輪廻があるか分かりません。

 これが、輪廻とは何か、生死の繰り返しとは何か、輪廻の中を泳ぎ回るとは何か、という問いの答です。みなさんに、今は非常に落ちてしまった仏教教団の名誉を回復できる、十分な知識があることを望みます。少し高めて、教祖の弟子である仏教教団員として、最高の智慧があり、煩悩がなく、そして苦のない人にふさわしいくらい高くしてください。

 


法話の中にある輪廻転生   それは恐ろしい事のように思える

望むこと 朽ちて土にかえるその現実の中で 再びこの世とあの世の道をたどりたいとは思わない。

あるがままに 自分の生に対する思いを朽ちるときには静かに終わることだけが望み。

得たいものはない  

あくまでも 有るがまま ・・・・・・・・
   
  知足 (ちそく) 〈遺教経〉 足るを知る    http://jyofukuji.com/10zengo/2002/09.htm



「足るを知る」と言えば、石庭で知られる竜安寺に有る「吾唯足知」のつくばいを思い出すが、これは竜安寺が専売特許ではない。

遺教経に「若し諸の苦悩を脱せんと欲せば、まさに知足を観ずべし。知足の法は即ち富楽安穏の処なり。知足の人は地上に臥すといえども、安楽なりとなす。

不知足の者は富むといえども、しかも貧し。不知足の者は常に五欲のために牽かれて、知足の者のために憐憫せらる。是を知足と名づく」とある。


当寺の伝道掲示板に私が好んで掲げる言葉に『貧乏とは何も持っていない人のことでなく、多くを持ちながらまだまだ欲しい欲しいと満足できない人のこと

である』と言う文句がある。足る事を知る人は不平不満が無く、心豊かであることが出来る。ひところ、清貧のと言う言葉が流行ったが、足るを知ることは、

欲望が制御され、煩悩妄想による迷いもおのずと消え、心清き状態でおれると言うことである。



現代は「物で栄えて心で滅ぶ」と言われるように、私たち生活の中では物質的

にはもう十分なくらいに潤ってきた。更にブランド志向でより高価なもの、より味のいいものが求められてきた反面、使い捨て、食べ残しが常態化して

勿体無いと言う言葉が死語となりつつある。

こんな時代背景に偽松坂牛肉が出、偽装事件が次々に発覚し、その事件を知りながら、その同じ手口でまた騙し行為が続くと言う、なんとも心貧しい話を聞かさ

れる。まさに「不知足の者富むといえども、しかも貧し」である。

今の物質社会に「足るを知ってむさぼるな」というほうが時代遅れに思われそうだが、今の時代だからこそ「足るを知る」こと、また茶人利休の茶道理念とする足

ることを知って分に安ずるという「知足安分」の精神が生かされなければならないのではなかろうか。

「南方録」巻頭覚書に「家は漏らぬほど、食事は飢えぬほどにて足る事也。是仏の教え、茶の湯の本意也。

水を運び、薪をとり、湯を沸かし、茶をたてて、仏に供へ、人に施し、我ものむ。花をたて香をたく。

みなみな仏祖の行ひのあとを学ぶ也。」と述べられている。

必要な分を必要なだけ用意して茶をたてまず仏に供え、人に差し上げ施しして、最後に自分も頂くと言う、謙虚で思いやる、自利利他の精神が生きている。

これは古くて、また新しい思想なのである


自分を知れば、今の自分ができることと、できないこと、やってはいけないことがハッキリしてくる。

そして、もし自分のやりたいことが、自分のやれる範囲を超えていそうでも、気持ちのうえでは諦めてはいけない。

何故なら、己を知ることと、分を知ることは、似ているようではあるけど、決定的に違うから。

分を知るということは、「分をわきまえる」ということだと思うのですが、現在では死語に近いというか、「分をわきまえない」人が多いかも知れません。

「分をわきまえる」とは「その人に相応しい行動をとっている」という意味で、その人にふさわしくない言動、服装などをする人や、身を飾る、自分を過大評価して大

きな事ばかり言う。

つまり「身のほど知らず」と批判されたものだと思うのですが、現在は「何でもあり」の風潮があるせいか、ほとんど注意されませんし、それを教えてくれる人も少な

い時代かも知れません。

分を知る、ということは決して自分を否定することではなく、むしろ今の自分はこうだということを肯定したうえで、物事に向かうということでよいのではと思います。

しかし、自分を知るということは、常に自分の過去や、今の自分をみつめ、必要とあらば自分を改めるという心の勇気を持つことだろうと思いますし、諦めることと

は違う。


欲に渇望すれば またその浴によって己のみじめさを知るのかもしれない。

己の心の中に表裏一体となり存在する善悪の所業を 切り捨てることはできないかもしれないが・・・ただ等しく思う事の出来ることは

その浴に自分自身が惑わされたり 左右されたりすることがどれだけ愚かな生き方になるか?

自分の都合の良さや 利益だけを優先する生き方の己の愚かさや醜さを知ることこそ足ることにつながる。

自己利益だけを追うものは己の見えない愚かさに時の中を泳ぐことになる。

   
悩みという不可解な思考

釈迦の言葉の中に 悩みは己が作るもの 悩みを解消するのには己が悩みを受け入れる事

そんな器用なことができるかはわからない?

悩みがあるようで本当はないのかもしれない・・・それは悩みなのだろうか?

其れさえも定かではない。

確かに 存在するいら立ちや解決できない問題は悩みなのだろうか?

悩みとは人間の心の中に存在する煩悩が作り出す欲望か。

多くのものにとらわれて自分を失うほどに悩むことが人の道を外される。

悩む時間をもっと多くのことに割くこと 己は肉体という形をもってこのように生きているが・・・・心は壁のない大空を泳ぐように万物にとらわれることない

今を 生きる事

この先の20年  いや 10年を命を生きていくには多くのものに触れながら自由にあるがままに過ごすこと

自分がこの世界の生きるという時間の中でいつかは朽ちて消えていく だからこそ多くのものにとらわれるのではなく 己の心の中に様々な思いだけを消化して過

ごすこと  人としてこの宇宙の成り立ちの時間の中に本のごみほどの時間を生きて限りある時間あればこそ 悔いない時間を得たいものだ。

 12月8日 悲しみという時間

心の中に人はいくつも悲しみという時間を抱いている。

それは日々表に出ることはない。なぜなら楽しい思いに覆い隠しているからかもしれない。

悲しみは言えることはない、ほんの一瞬 その思いだけを忘れるのかもしれない。

母が抱く悲しみやくやしさ・・・・それは母を見ながら歩んできた私には心の痛みのように思えることがある。

だが母にそのことを投げかけたことはない。

投げかけるだけの勇気がない。

母が抱く悲しみ・・・

私にも消えることのない悲しみがいくつか心にある。

消えることのない悲しみ この悲しみがあるからこそ自分の道が見えるのかもしれない。

間違うことない歩き方をしたいと強く思う。

母も同じようにその悲しみから得たものが生き方をまっすぐに見てきたのか。

悲しみを悲しみだけで終わるのではなく 悲しみの上に自分を映す鏡を絶えず持って歩んでいきたい。

母は母なりにそれを超えることはできないかもしれないと思いながら 向き合っている。

私も母のようにそれに負けることのない歩き方をしたい。
  少し時間が空いてしまいました・・・・・

思いということを少し書いておこうかと思います。

父が亡くなり暫くたちます。父の終焉の言葉に父の思いが限りなく詰まっているように思う。

その言葉が表すものは母へのいたわりや 母に対する優しさを含んでいたのかもしれない。

嫁ぎ先の父も1日前には我が家に来て随分とゆっくりと話をした。

それは息子への思い 何よりも子供たちへの思いが溢れていたように思う。

思いとは旅立つときだけではなく 言葉の端はしににじみ出るような感情があるのだろう。

母は老いて・・・日増しに老人化する自分を戸惑いながら過ごしている。

日々の中に 母の生き方が詰まっているかのように私には感じられてならない。

父の思いに包まれてきた人生・たくさんの友人たちに囲まれてきた時間・兄弟や親せきのかかわりの中にある豊かな時間

どれもが母にとっては掛けがえのない時間に違いない。

思いはあふれて・・・・溢れるほどに豊かな時間と変わっていく。

この時間は止めることができないが・・・投げられた思いだけは失うことなく大切に受け止めておきたい。

母との時間を何にもまして尊く思う。

この母に寄り添いながら背中のやっしさを見つめながら豊かな時間を築いていきたい。

老いた手は皴がいっぱい 背中も丸くなり 髪も随分と白くなった。

足運びも少し危うい 母の過ぎた時間を取り戻すことはできはしない。

母と約束をしたこの先の夢  それまで母の手を繋ぎながら歩んでいきたい。

今年も残り少ない日 母の時間はゆっくりと刻まれていく。
  何時だっただろうか?  昔読んだ本に己を養えば他もまた見えることがある。

そんな文章を読んだことがある。

自己の内面を磨くこと・・・それは  別の本でもいくつか読んだ。

静かな思いで自己を見つめていると自分の周辺やその人々の凡そ起こしそうなことが見えてくる。

それはあくまでも自分が穏やかな平らな心でいなければならない。

多くのことは周りの雑踏にまみれて見えないことが多いが・・・不思議と心穏やかにすればそれは知らず知らずに得られるように思う。

自分中心で物事が回っている人は中々これができない。

それは すべて自分の正当性から成り立つ行為が支配をしているからなのだろう。

謙虚であること 自分というものをしっかりと維持し 物事に流されないこと。

周りをしっかりと見極める事

人はたやすく流され 都合の良い方向に向きやすい。

些細なことかもしれないが 足元を明確に 何よりも自分の意思を尊重すること

相手の話をよく聞くこと・・・・・・

己を見つめることにより 己自身の心のすましに行き当たるのか?

凡人だからこそ  ・・・・・・・・・・・・
 12月某日  慌ただしく12月になる。

分を知るということの中に・・・ではいかに自分を認めるかということがあるのか。

己を知るには  己を認めなくてはならない。

都合よき事・便利なこと・利の在ること・・・・・それを図る天秤ばかりがどの程度自分に有利になるかの判断を即時に計算する。

それが 世渡り上手と言えば言葉良く・・・計算高いことの生き方でしかない。

それもよし  其れもその人なりの生き方でしかない。

己が見えないのだから仕方がない・・・・かわいそうにと思う。

己を映す鏡をいつでも心の中に持つことの大切さを…自分の生き方に重ねる。

欲を捨てることの根本は何だろうか・・・天秤の張りが左右に振れないこと  心穏やかに自分を見つめられること

自分の分を知る・・・それは己の宇津にある真実の姿を見つめて生きることの他にない。

益を選び 全てが心地よくあることが最良であることはない。

時には雨風の日もあり また穏やかな日もある。

いつも心のうちに潜む・・・波風の中で漂い続ける己を確かな目で見つめていかなければならない。

どのような言い訳も 自己保身の満足だけに生きれば  結果はそれだけしか結ぶことなない。

誰が選択するのではない 己のうちにある鏡と天秤の示す方向が 己自身を形成する。

自己満足ほど怖いものはない。
   
 11月末  欲しい欲しい病

人の持っているものを何でも欲しがる病のようだ。

それを作った人・それを購入した人・・・その人たちの思いを踏みにじり 欲しいともらっていく。

私の知っている人もこの病にかかっている人がいる・・・・

自分の姿は見えないから 本人だけは得をしたように思っているのだろう。

上げるわ・・・どうぞ・・・・  持って行って・・・・

その言葉の温かさを裏切るように欲をかいて手に入れている人。

人間は愚かな生き物で  ありがとうという言葉ですべてを帳消しにする。

分をわ決めて・・手に入れなければならない理由がなければ必要以上に益を求めてはならない。

そして何よりも・・・心のお返しをする

心のお返しとはとなのだ お金や物ではない・・・その頂き物に対して得た喜びを返すという言事。

どんなに上手な言葉を並べても その後の姿勢で人ははかられてしまうのだ。
   老いるという現実

義理の母を送り また父も送り・・・この2年はあわただしく過ぎた。

今老いるという現実を両親の中に見てきたように思うが・・・その時は夢中に過ごすことだけで時が過ぎた。

介護という現実は時の切れ目のない時間・・・ある日それはぷつっと切れた。

心のj中に大木jな大きな空洞が埋めることもできないまま過ぎた。

そしてまた・・自分の母と向き合う時間となる。

会うたびに 母の老いを感じている。

言葉の端端に・・・そしてこの母との時間を惜しみなく大切に過ごそうと思う。

父になし得なかった時間 母に手は握る都度に小さく しわの深まった柔らかな手  背中も小さくなって 変わらないのは笑顔

過ぎた時間は 母にとって辛い時 うれしい時 幸福な時 悲しい時  どんな小説よりも深いものがあるだろう。

ここ母の老いた手を決して放すことなく今は歩んでいきたい。

命を受けて 私も64年がたつ  母との歴史も同じ年数を過ぎ何を母に返すことができただろうか?

母の子供であることの誇りを忘れはしない。母の背中をいつまでも追いながらその笑顔の回数をたくさんたくさん増やしてあげたい。

電話の声も 少し寂しそうであるが毎日のように効いて 毎日のように優しさをもらうのは私。

老いるということの一つずつをともに豊かでありたい。
   分を知る

己の力量を知るということも確かに大切であるが・・・

社会の中で自分の生き方の分 それはどれだけの生き方ができているのかを知ること。

日々日常的な連続に追われて降りける事の出来ないこと…が言い訳にならないように・・・・

価値ということは 自分の立つ場所 自分が行ってきた結果 そしてこれから行おうとする事柄

そのすべてから生まれる。

その中で欲 虚栄 見え・・・様々な事柄に押し流されて見失うこと

何のために来ているのか?  只生かされているのか・・・・

全ては自分自身が決定をしてその足を出しているという事実は変わりない。

明と暗を見に抱えながら人は生きる

それは 人としてあるべき姿を追うよりも その時だけの都合だけが優先権を得やすい。

何故 選択したのかという理由が後付けになる。

結果由だけのその場しのぎを 人間は綱渡りのように歩く。

自分に被害が来なければ 中傷されなければ 文句を言われなければ  安全な道を選択しながら・・・・

この大空の中の自分は  何万光年の塵に等しい・・・

心病んで生きることは その塵にも劣るのだ。
   上手に生きる

なんと心地よい言葉だろうか・
私は不器用にしてこの言葉を活かして生きることは到底できはしない。
だが この言葉を絵に描いたように 上手に生きている人も多いのかもしれない。

上手に生きるとは・・・やはり八方美人にならなければ成らないか?
己の思うままがまに 己の信ずるままに・・・
上手に生きるとは 他人が感じている表現でしかない。
己の生きざまを貫いてこそ 己が上手に生きたと言う・・・終焉の時を迎えられるのかもしれない。
私は不器用でも良い・・・自分なりに自分の道を自分自身の足で歩いていきたい。
 某日  分を知る

己の身の丈を知る・・・

己自身が何様かと問う・・・

何が帰ってくるのか?

己を知ることの中で得られるものの確かさを認めるという行為によってはじめて明白になる。

人は己自身の行動正当性は述べるが間違いはきずくのか?

己の間違いにきずいたときにその習性ができるか否かにおいてその人間の価値は決まる。

良きこと・・・それは当たり前のことに会って特別なことではない。

悪しきことこそ 自分の歩んでいく道筋にどれだけの認識と修正する意思と そこから生まれすひずみを 修正しることができるかが問われる価値となる。

多くのことが 只だらだらと日常を過ごしていく中で通過してしまいがちになる。

人は自分自身の行動にどれだけの責任を追うのだろうか・

何か大きな問題が起きない限り・・・・何事もないという結果に至る。



過ぎたという意識は自己防衛で・・・その中に損じした事実は消える。

何かをとどまってみるという気持ちを持ちながら 歩んでいかないといずれは失敗してしまう。

人は多くの出来事の中で流されながら わずかばかりの時間を社会の一片に置きかかわりという時間の中で生きている。

激流の時間の中で正しい正しくないという判断を成り行き任せに過ごしているのがほとんどでしかない。

今一度 己の分を知り 樽を知ることこそ大切に思う。


己自身に過ぎたることの多くを求めずに 己のし幅に合う生き方こそが大切。
表と裏

確かに者には表と裏が存在する。
人はこの表と裏を上手に使い分けている。  だがその隙間を垣間見れば人という生き物のさもしさが見えてくる。
僅かなことを天秤にかけて自分の存在を否定する結果になる事・・・気がつかないかもしれないが貴方こそ秤にかけられているのだと・・・
哀れ・・・自分がしたことの結果は全て己に帰る。いくら 己の正当性を解き明かしても行動はうそをつかない。
人という人格を己自身が汚していることにならないか?
多くの言葉はいらない  かわいそうに 本当にかわいそうに・・・・ただそれだけでしか無い。

表だけの顔をもって生きることは難しいだろう
裏の顔だけも持って生きるのも難しいだろう。

心の中で自分を律して生きる事こそ大切 間違いは誰にでも起きうる‥それをどのように超えて己を律して生きるかが人としての価値になる。
11月1日~ 3日 浜松へ