フ     ッ
   
   
   
   
   
   しばらく 冬支度・・・・
   
   迷いの中に

迷いとは 己自身の心にスキがあるからなのか・

そこに存在するものは 以下にしても自分自身の心に正しい天秤ばかりの指針を持たないから・・・迷う

人間とは浅はかなもの 何一つ迷わないことはないかもしれないが 身体の是非は己自身が決めていくこと。

迷うことではなく 欲思考をしその正しい判断を追求すべきもの。

愚かにも右往左往することが正しいのではなく 広く視野をもってものを見ることが大切。

人の一生はたった僅かな時間でしかない この霄の営みに比べれば塵に等しいかもしれないが・・・・

幾つもの迷いを自分から選択することはない。

蓮の葉の上にいつも座って水の上を漂うがごとく・・・広い視野に物事を求めていかなければならない。

煩悩は勝つか・・・・否か
 10月満月のころ 名月の光に誘われて・・・・

青い光を惜しげもなく見せている月のきりりとした姿を今宵は見ているだろうか?

遠い母を思う。

心平らに おつでも受け止められる心を持ち続ける事

人は煩悩の中に己の醜さを持ち その葛藤の中に見出すべき道を持つ

あくまでも自然に逆らうことなく あるがまま その思いを大切に進むこと。

  無名の手紙

忠告であろうか?

自分の言いたいことだけをさも人が言っているように書かれているが・・・たぶん本人が書いているのかもしれない。

自分の功績 自分がいかに頑張っているか 権利と義務を主張しているが・・・・・

私にはほとんど かかわりないことではないかと思える。

私自身の生き方を問題にされることも無く この手紙の主に迷惑をかけた覚えもない。

このような手紙を私に出すのではなく  話さなければならない人にはっきりと話せばよい。

いつかこのことについて話す機会があったが・・・「私は話さない」と言っていたように記憶する。

人は会話を持ってコミニュケ-ションをとる。話しても聞いてくれないからはなさないという・・・其れでは何も問題が解決しない。

それでいいと本人が言う・・・それ以上に私が踏み込むことはできない。

いつかは 自分もそんな時が来るのかもしれないとふと思う。

心を開くことも大切・・・今までのわだかまりは何?聞いてみたいように思うが・・・

二人の会話の中に同じニュアンスの表現があった。 「聞く気がない」「だから話さない」

二人はとてもよく似ている・・・そして 同じように表現する。

この関係をいまさらひも解くことはかないそうにないように思う。

お互いに背負ってきた時間の長さが心を縛っているのかもしれない。

伝えたい思いは 今なら伝える事もできるのに・・・・
   世界の中心は自分

そんな生き方しかできない人がいる。

見ていれば危うく・・・本当なら声を掛けてあげたいと思うが・・・きっと どのような言葉も耳に入れる気はないに違いない。

自分の世界に閉じこもり・・・自分が決めるのでもなさそうな言い訳ばかりを言い続けている。

だが その心は自分という生き物の我欲に支配されている。

まさに生き方そのものが言い訳から始まっている。

人は思い道理にならないものが8割  その中で自分が考えて大きな突起は削り 深い溝は埋めながら歩く。

生きる上で自分の理屈だけで生きていければ何も悩むことも無いが・・・おのずとその道へ足を進めている。

何故 広い視野を持たないのか・我欲に走るのか・・・・・

私にはどうしてもそのような生き方を理解できない。
   失くしたもの

失くしたものの大きさを年月が経つにつれて心の中で大きくなっていく。

今思えば・・・それは単に後悔でしかない。

言葉ではどの湯にも言えるが・・・それは言い訳でしかない。

どのように思っても 今となっては取り返す事の出来ないものなのだ。

それを失ってしまったことで 私の生き方も変わったように思う。

失くしたものの大きさを 埋めるものがなかった。そこに大きな空白を埋めたいと思う気持ちもない。

この大きな空洞を忘れないでいることが私の背負うべき道かもしれない。

どのような言葉も見当たらないが・・・その道を記した人がいる そしてそれを決断した私がいる。

この事実を消し去ることはない。

この先もずっと 

私は得る事の出来ない時間が刻まれていることだけは事実として残る。
 10月6日  見せかけのやさしさ

多くの人は表の顔 裏の顔を持ち自由にその顔を行き来する。

見せかけの顔・・・もその二つの顔以外にもう一つ持っているのかもしれない。

寄りよく見せたいという感情がそのようにさせるのか!!

心平らに いつでも同じ顔を持ち続けるのは凡人には無理なこと・・・だがあまりに使い分けのうまい人ほどそれが如実にわかることは悲しいことだ。

それは自分の利益や名誉のためかもしれないが・・・

唯々 本人はそれを知らない。
 10月5日  受け入れるという気持ち

多くのことを始まりが批判方始まるのではなく・・・受け止めて見ようとおもう。

物事は良い・悪い・???とその立場ごとにいろんな解釈がある。

それは自分が置かれた立場 利益・損失・・・そのどれもが判断の材料となり 正しい判断をしたかさえも不明なのかもしれない。

一度  すべて受け入れてみる。考えて見る。

誰しも天秤ばかりのないものはない・・・私なりの天秤ばかりも掛けてみる。

様々に それぞれの生き方がある。

判断を誤れば後悔しかない。 後悔という言葉が何よりも嫌いである。

自分の進む道は自分しか決めることができない。その一歩

自分を解放するためには 受け入れてみることも大切なのかもしれない。

そして 切り捨てるときは迷いなく捨てきるだけの決断と勇気が必要なのだと思う。

 10月3日 人間不信という厄介な感情

私もこの年齢までこの病にしばらくかかった時期がある。 それは今でも心の片隅に有るのかもしれない。

良き知人や よき仲間や良き同志と勝手に思っていたことが原因か?

そしてそれを取り払うすべはないことも知った。

どのように時間がたとうともその思い方は自分を解放できない事実がある。

それは信頼した者にしか抱かない感情かもしれない。

それはこの先も永遠に消えることはない。

人は生きる上で何が支えになり 何に寄り添うのか・・・・自分に問う。

多くの人に支えられて生きるという答えが出るのであろうが・・・

私はその言葉を捨てたように思う。 自分らしく自分があるがままにこの道を歩く。

雲のように 水のように 風のように・・・・

物欲にとらわれることなく すべてはこの時の中に吸い込まれて消えていく。

生きた証は・・・自分が心の中に積み立ててきた物だけを信じていたい。

捨て去ったものは大きいかもしれない・・・・二度と拾うことはない。

あるがまま・・・・それでいいのだと思う。

このことを拾うまでどんなにか長い時間を費やして苦しんだように思う。

人は朽ちていくときは何も持たない。その思いを忘れないでいたい。

 10月某日  愚かなことは いつまでも同じことにとらわれて自分が前に進めないこと

自分らしくあることは この現実の中で逃げることなくそのことに向かうことかもしれないが・・・

不可能という言葉に逃げるのは・・・不可能ではないが そこに発生する醜い人間の野心に惑わされてはならない

人は天秤ばかりをいつでも持ち そのはかりの兼ね合いで生きかたを左右に振る。

人間の醜さと欲の成せる技 いくつもの思いを折り重ねながら 自分らしい道を探す。

僅かばかりの思いやりなど イバラの棘にまみれた者には届きはしない。

この先のこの道に 自分らしい道のゆくところがあるのであれば 迷わずに手探りでもいい この思いのまま迷いはしない

強い気持ちをもって歩んでいこう。
   
   
   夢の中で追いかけても追いかけても追いつく事の出来ない優しさがほほ笑む

今一度  もう一度・・・・   その思いは消えない
   
 9月末日  秋めいて風はすっかりと冷さを帯びてきた。

悲しみということは 時間がどのように立っても消えることはない。

記憶の中で消えることも無く・・ただその記憶が日を追うごとに鮮明になるように思う。

悲しみ 悲しみ   どれだけの悲しみが心を満たすのか。

この悲しみによって 自分自身の至らなさや 悔しさや   様々なお琴が思いをよぎる。

だが そのどれもが消し去ることはできない。

この記憶の中の出来ごとは私の心のささくれが波立つ。

人間とはなんとちっぽけで 他愛のないものなのだろうか。

消えていくものの多さや 壊れていくものの多さを止めることはできはしない。

今この時を生きているだけで何ができるのか・・・それが何によって自分を支えていけるのだろうか・・・

限りなく 限りなく 悔しく悲しく   消えることのない思い。
 9月23日  
 昔話「猿が耳を洗う」

 昔大きな森の中の猿の群れに、全身の毛が白く美しいボス猿がいました。ある日猟師がそれを見つけ、褒美に欲しいと思って王様に話すと、王様はその猿を生け捕りにして連れて来るよう、家来に命じました。ボス猿を一目見た王様は、その美しさ、賢さ、気高さを愛してしまい、自由な身として宮廷に住んでくれるように頼みました。

 猿が廷内を自由に歩き回ると、聞こえてくる人間の話は、自分のこと、自分の金や、自分の家や自分の財産の話ばかりでした。日が経つごとに猿は疲れを感じ、食事も水も口にしなくなったので、飼育係が心配して王様に報告しました。

 王様がなぜ食事も水も摂らないのかと聞くと、ボス猿は、私に餌や水を摂らせたかったら、元の森に帰してくださいとお願いしました。

 森へ戻ると、部下の猿たちが喜んでボスを迎え、町や宮廷の様子や、人間が何を話しているのか聞きたいとせがみました。ボス猿は断りますが、部下たちがますますせがむので、仕方なく話して聞かせました。

「人間が話すことは、自分の物以外には何もない。あれは自分のもの。これも自分のもの。それしかない」。

 猿たちは、ボス猿の言葉をさえぎって耳をふさぎ、何かを手に入れるために他人を苦しめても、何でも自分のものにする人間には身勝手しかないと見て、汚い言葉を聞いた耳を洗うために、一斉に水に入って耳を洗いました。自分たちは小さな木も大きな木も、身勝手ではなく大切に守っているのに、身勝手しかない人間たちの汚い言葉を聞いたと感じたので、猿たちは耳を洗いました。

人間の心の中に住む自己愛の種は誰もが何かのきっかけで目を出し葉を広げていく。

何もない人は居ないかもしれない。

己をいつも映す鏡を正しく見つめていなければならない。

・・・・誰かが言う

ほかの人だってやっているじゃない!!だから同じでいいとは限らない。

己の道は 己自身が決定するしか道は開けない。

自分が選択するのであれば 振り返ってみる余裕も持種ければならない。

よく言う・・戻れば・・・と    それは簡単に戻れないことなのだ。

人は責任の伴うことを拒否し・・・さも人に決めてもらったように言うが そのすべては自分が選択し決定をすること。

その一歩が自己自己責任の中にある。

いつのビスケットを食べるのも食べないのも…自分で決める事。

毎日は他愛無いことの連続だが・・・その連続が自分自身の決定の連続でもある。

負うべきは己。
 9月20日  
ふと思うことがある

後わずかばかりの時間をどのように生きたいかと・・・・

里山の静かなところでヤギと鶏を抱いて暮らしてみたい。

何もいらない・・・・それは本当かと聞かれたら・・・一つから始めり幾つになるか分かったものではない。

望もうと望まなかろうと・・・現実の暮らしを捨てることはできないことは事実

人間は弱い  この弱さから自分の生活の何かを失うことは怖いか????

それ程思いもしないけれど・・・今以上を求めたところで後いくばくかの時間をこの世という時間翻弄されるということだけは真実なのだ。

自分らしくあること  それはどんな生き方

出来る限り穏やかに・・・風に逆らうことなく・・・流れに溺れることなく 自分自身の足でしっかりとあるくこと。

それは  母が教えてくれた生き方。
 9月17日  
  天地  http://space.geocities.jp/tammashart/rousi/tennti.html



仏教の大きな教えは、たった一つの言葉を退治する以上のものは何もありません。つまり、[サッペー タンマー ナーラン アピニヴェサーヤ]で、自分、あるいは自分のものという執着を撃退すること。れ以上のものは何もありません。

 次に、私たちがこのように執着と一体になっている時、どうしたら良いでしょうか。誰が助けてくれるでしょうか。あるいは心がこうなってしまって、誰が心を助けてくれるでしょうか、でもいいです。

 このように問題にすれば、それは他でもない心です。タンマ以外には何もないとお話したので、間違いもタンマ、正しさもタンマ、苦もタンマ、滅苦もタンマ、滅苦をする道具もタンマ、体もタンマ、心もタンマで、それ自体が変化していくメカニズムで、それ自体で経過するタンマ以外にありません。こういうのを、徳と呼ぶか、罪と呼ぶかは場合次第です。

 世界との接触が増えて知性の方向になれば、こういうのは徳で、世界との接触が増えて愚かな方になり、迷いが増えれば、こういうのは罪です。

 観察して見れば、誰も損をする人はいないということが分かります。誰でも生まれた時はこうです。つまり誰でも目があり、耳があり、鼻があり、舌があり、体があり、心があり、そして外部には、誰でも形・声・香・味・触・タンマーロム(法界。想念)があり、そして誰にもこれらが触れ合う機会があり、触れ合い方もみな同じです。しかしなぜか愚かな方になったり、賢い方になったりと分かれるので、賢い方向へ分かれれば徳、あるいは善と見なし、愚かな方へ分かれれば悪、不善と見なします。

 しかし多少良いのは、このタンマは、苦を体験すると、懲りて二度としない原則で、本当に人を護るように見えることです。火を掴んだことのある子供は、懲りるので、二度と火を掴もうとしないのと同じです。これは物質の問題なので簡単です。もう一つの火を掴むこと、つまり執着、あるいは貪り、怒り、惑溺は、ほとんどは火を掴んだと感じないので、懲りて二度としない症状がなく、反対にその陶酔を、愛すべきもの、望ましいものと見ます。

 一つだけ解決方法があります。つまり「このタンマは何か。このタンマは火だ」と、つまり「執着してはいけない」と、正しく知ることです。そうすれば知性になり、何かを「自分、自分のもの」と執着すれば火になると知り、懲りることを知ります。それは、手でhなく心を焼く火ですが、時には深く焼きすぎて、火だと、熱いものだと感じません。だから人は火の固まり、あるいは溶鉱炉より熱い火である輪廻に沈んでいます。

 大人も、一度火を掴んだら二度と火を掴まない子供のように見えれば、そのようにすることができます。だからブッダはこの項目を、「執着の害が見えれば、心は執着を弛める」と説明しています。

 これです。私たちには、執着の害が見えるかどうかという問題があります。まだ見えなければ、まだ弛まず、弛まなければ空ではありません。マッジマニカーヤ(中部)に、このようなブッダの言葉である金言があります。そしてまた別の場所で、「空が見えれば涅槃に満足する」と言っています。もう一度繰り返すと、「執着の害が見えれば、その時心は執着が緩む」。執着が緩めば、空と呼ぶもの、つまり自分がないことを見るチャンスです。

 自分がなくなっていくのが見え始めるだけで、心は列になってその処入(アーヤタナ)、つまり涅槃に満足します。その処入とは涅槃です。つまり涅槃もただ単に、私たちが知ることができるものでしかないという意味です。眼・耳・鼻・舌・体・心で私たちが知ることができるものを、すべて処入と言います。

 ブッダは涅槃を下ろしてきて、他のすべての処入と同じ、処入の一つにしています。私たちは、それでもまだこの処入を知らない愚か者でいることはできません。それは、自分がないことが見えた時にあります。執着が緩むので、その処入つまり涅槃に満足します。



人間は愚かな生き物だ

欲に塊  自分により良いという判断を何から得るかがその人間の価値を決める。

人間の価値とは何か?

執着心・・・・・

水のように…雲のように・・・風のように・・・あるがまま ありのまま

いつも自分を映す鏡をもって生きたい。

生きる価値とは 生きるという行為を終わるとき生きたと思える事・・・たったそれだけの事

 9月14日  輪廻転生とは何か   http://space.geocities.jp/tammashart/si/2rinne.html
 「涅槃は輪廻と反対。生死の繰り返しと反対のもの」と理解してください。何をするにも、輪廻になるようにしないでください。何でも執着になるようにしないでください。そうすれば執着の威力で、作り出す威力で流されます。

 執着しなければ作り出さないので、止まり、そうすれば涅槃の涼しさです。体が体のことをするのは、していきます。ご飯を食べるにも、排泄するにも、水浴をするにも、田の仕事をするにも、どんな仕事をするにも、「俺、俺のもの」という執着なしでします。

 「俺、俺の」という気持ちがなければ、生死の繰り返しはありません。輪があるのは、輪廻の中の生死の繰り返しと呼ばれる輪に飛び込む、「俺、俺のもの」があるからです。ではどうしたら輪廻を止めてしまえるでしょうか。ブッダは非常に膨大な教えを説いているのに、私たちはまだ十分知らず、何の役にも立たないくらい少ししか知りません。



 明らかな知識がなければ、無明のある心なので愚かで、無明の威力によって迷うと知らなければなりません。だから心は、無明の子分である煩悩欲望の餌に満足します。欲望煩悩、どんな煩悩も無明から生まれ、そして煩悩の餌であるものに満足します。煩悩の親分である無明が、煩悩の餌に溺れさせます。

 だから輪廻の中で遭遇するいろんなものは、煩悩にとって美味しいものです。つまりすべての形・声・臭・味が、その種の心を捕えるので、輪廻の中で遭遇したものに、「俺のお金、俺の金塊、俺の妻、夫」と執着します。ジャータカ(本生経)の「耳を洗う猿」の話のようです。後ろの建物に描いてあるので、もう一度見てください。

 それには心を魅了して人の心を掴み、魅力的なものに満足させて輪廻の中に居させるものがあるので、私たちは生死の繰り返しに陶酔し満足します。生死の繰り返しを止めたくありません。輪廻の流れの中には、このように魅力的で、心を惹くものがあるからです。

 ここで聖人の言葉を聞けば、この心を魅了するものはいったい何かと、もう一度熟慮し、知性で熟慮すれば、火のように心を焼き炙るものであり、それが四方八方にあらゆる苦を生じさせると見えます。これが魅力と呼ばれるものの低劣さです。あるいは心を煽るものはこのようです。

 普通の人のように、「愛するもの、満足するもの、心を魅了するものがある人は、溺れて全身全霊で執着し、愛らしい、満足すべきだ」と見て、命の伴侶にし、もう一人は、「ああこれが日も夜も絶えず暑くしているものだ。自分のものと執着する価値のある物には見えない」と見ると言うこともできます。一人は愛すべきもの、満足すべきものと見、もう一人は心を突き刺し焼き炙るものと見、このように違います。

 「愛や満足の基盤であるものは心に害のある危険なもの」と見えれば、考えは執着するものや溺れるものが何もない方向へ変わります。惚れこんで愛してしまうものは何もなくなるくらい、考えの傾向が変わります。これを、「輪廻に縛りつけるものから逃れるタンマを知り始めた」と言います。つまり家主(体の所有者という意味)である愚かさ、惑溺、煩悩、欲望、無明が輪廻に縛り付け、満足させます。

 それらの煩悩がなくなると、人は輪廻に満足しなくなります。知性が最高に増えれば、「自分」「自分の」「私の自分」という感覚が止まってしまうので、輪廻も止まります。輪廻が瓦解するのは、今まで「輪廻する人」だった人が瓦解するからです。真実はその人はマヤカシであり、影にすぎず、誤解にすぎないのに、心に誤解が生じると、このように「自分」と理解する心になります。

 無我の話、自分ではなく、名と形(心と体)、あるいは名と形に関わるものと教えることは、このように役立ちます。

人は生きる上で何によって生かされるのか?

生きるということの中で自己愛・虚栄心・慢心・・・・それらの中に自分を映し満足感を得ても 生きたという証にはならない。

天秤というはかりに全てをかけるような人間。

自分の都合よい物差ししか持ち合わせない人間。

人は醜さをまったく持たない人間なぞ居ない。その醜さを己の中でいかに浄化することができるかが人間としてての本質を形成する。

あるがままに思うままにと…私は思う

それは全てが自由ではないことを知る

その道に確かな導をもって生きるために心を解きほぐす・・・それがあるがまま・・

自分を見失い事の愚かさを知ることができれば 生きる意味も見えてくる。

 9月12日  ・・・・少し時間が空いてしまった。

この頃 都合の良い人間が随分と多くなったようである。

私の身の回りにも・・・自己愛???が強いのか?  風見鶏のように自分に吹く風を察知して様々な場所でご自分の見識をひけらかし…挙句の果てに同じお仲間の悪口さえも言っていることが 元仲間に知れてしまったらしい。

ご本人はそのことにおきずきではない様子・・・口は災いの許  言葉は一度口から出ると尾ひれがついてどんなようにも膨らんで一人歩きをする。

こんなようなことが 世間では沢山あるだろうが小さな町の小さな団体の出来事を知らレないようにするのには・・・最も注意しなければならない。

流言を吐いているものは・・・最後にはどちらに行っても信用を無くす。

己の確たる信念がなく ただ噂話だと気を許すことで人間性を疑われるのだ。

口は禍の元・・・・他愛無い言葉だがそこに潜むものは大きいことなのだ。

自分が積み重ねてきた大事な環境や大事な友人さえも失う。

そんな天秤ばかりに乗るも乗らないもその人の判断によるのだが・・・おだてられて乗るようであればそれだけの人間でしかない。

植物は水を得れば成長し 日照り人れば枯れる。

我が家の庭も  ジャングルは卒業できたが雨のたびごとに草の丈が伸びている。

人間の都合でこの草の生育も根ごと断ち切られる 人はきれいになったと喜ぶ。

それは人間のエゴで美しいという感覚を追うから草の根を切るのだ。

だが  これが本当に良いかと言えば・・・・草の種をこぼせば農業を営む人へ迷惑がかかるかもしれない。

自己満足は 己だけのもの・・・

いやいや  草が生え放題だとみっともないという虚栄心が草をむしらせるのか?

どちらにしても草は様々な思惑と わずかばかりの労力でその問題を解決したように見せる。

TVで流れた闘牛の開催を動物虐待だという・・・・それは文化?ではないという。

人間は古来より 脳の神を敬いながらそのものを食し 海のもの山のものを食して暮らす。

今は養殖や繁殖の技術が広がりそれらも難なく手に入れられる。

どちらも・・・命を奪うことで食べる。   ここの違いは様々あるが生きるものと祖rを必要とするものがある限りその問題は消えない。

日本の国にも陶業鵜を行うところがいくつかある  闘鶏・・・・

野山に暮らすさまざまな動物も増えすぎれば駆除という名の行為を行う。

それぞれの勝手でそれぞれが正当化して行為を主張する。

農耕民族 狩猟民族・・・どちらも命を頂きこの世を生きる。

いずれ・・・命あるものを殺すことが罪悪になるのか?
 9月10日  水清ければ魚棲まず




自らの身を正しくして清廉潔白なのは、よいことには違いないが、あまり度がすぎると、他人のあらを見つけてはとがめだてするようになり、しまいには友人を失い、孤立してしまうようになる恐れがあります。



 出典の「漢書」「宋名臣言行録」によれば、「水至って清ければ、則ち魚なし。人至って察なれば則ち徒なし」となっています。つまりあまりきれいな水には魚が住めないし、潔白すぎて、他人をとがめだてするような人は、仲間がなくなると述べています。
 また、「後漢書」には次のようなストーリーが語られています。「西域の総督の班超はなかなかの人物で、人情の機微に明るい人でもあったが、後任の任尚が、統治の心得をたずねたところ、『君はあまり潔癖すぎるから何ごとももう少し大まかな態度を取る方がよい』と教えました。しかし、任尚はこの教えに従わず厳しい方針で臨んだため辺境の平和を失うことになった」とのことです。このとき、「水清ければ大魚なし」と言いました。こちらの方は、官僚の統治上の政策論、方法論上の教訓になっています。
 いずれにしても、人間社会では、許される範囲での寛容さが必要であるということです。

 人生航路を円滑化するための秘訣として、よく「大人になる」ということがいわれます。そのくせ子供の教育の徳目には、「正直であれ」とか「真面目で清く正しく」などがあります。この教えが、実社会に入ったとたんに、「清濁あわせ飲む」とか「長いものには巻かれろ」とかいうような処世訓に変わってしまうのですから、学生生活を終えたばかりの人が戸惑うのは無理のないことです。
 
「いつまでたっても学生気分が、抜けないね」とか「もう少しは世間ずれしないとやっていけないよ」などと先輩からのアドバイスがあっても、なかなか頭の切り替えができないのが実情だと思います。だからといって実社会に入ってからも、子供の論理から抜け切れず、「書生論義」を振りまわすと、「とかくこの世は住みにくい」ということになりかねないのです。
 「大人になる」ということは、現実の世界に生きていくための知恵を身に付けるということで、理論を学ぶということではないということを知りましょう。
 このような現実論は一応は分かっていても、いざ実地にのぞんでみるとなかなか判断がつかないことに遭遇します。

 また、格言のなかには「類は友を呼ぶ」とか「朱に交われば赤くなる」というものがあります。倫理観の乏しい企業の一員となって、長年働いていれば、「倫理上価値判断ができなくなる」ように、悪い仲間と交際すると自分もスポイルされ、悪い集団の一員となることを警告しています。
人間は怒る動物だ

怒りによって行動も感情も様々に変化する。

中々手ごわくそれをコントロ-ルするのは容易でない・・・ま-私は人間ができていないこともある。

出来れば穏やかに心平らに過ごせれば何も言うことはない。

毎日様々なことが起き その中で時間の許す限り自分の出来ることをする。

世の中の流れはその時間よりもはるかに速い流れで過ぎ その中にいくつも怒りという感情が頭を持ち上げる。

怒ったところで・・・それは怒るべきことでないのではなく大いに怒らなければならないことなのだ・・・・

だが 怒ってもこの怒りに対して回答はない・・・だから怒る自分自身がむなしいように感じてしまう。

怒るべき時に怒らなければ・・・・まっすぐに進むことはできないのだ。

私の心の中に大きなゴム風船が張れる思想に膨らむ。

人間はみな同じ物差しをもって生きているんではなく 各々が様々な物差しを持ち常識を図るのだ。

私の物差しは足りなかったり余ったり・・・・
9月8日  上善は水のごとし


じょうぜんはみずのごとし・・・・・
最高の人生のありかたは、水のように生きるということです。水は自分の存在を主張しないで、低い方へ自然に流れていきます。水のようにしてこそ心穏かにすごすことができ、また円満な人間関係を創り上げることができます。



  「老子」の八章に見える有名な言葉です。その本文をたどってみると、次のようになっています。
「上善は水のごとし、水はよく万物を利して争わず、衆人の恵む所に処る。」つまり「最高の善は水のようなものでなければならない。
水は万物を助け、育てて自己を主張せず、だれもが嫌うような低い方へと流れて、そこにおさまる」と、述べています。

やや、難解かもしれませんが、老子の生き方を知るための鍵として取り上げてみました。 この他「水は方円の器に従う」「流水先を争わず」など水の性質を、「自由で流動的なものであるとする格言がみられます。
いずれにしても、なにが人間にとって大切かといえば、自由無碍でフリーに動け、しかも自分の存在を主張しないで、人のいやがることも自然に受け止めることだと教えてくれる格言です。

老荘の思想といえば、ともすれば消極的で受け身の教えとして受け取られています。つまり,水の流れにまかせて、無理をせずに自然の摂理に従うことが、人間の道にかなっているということから、「受動的で、積極的に動かない人生観である」と受け止められています。終局的には、山にとじこもっている隠者や仙人の教えが道教の真髄であり、人間の努力や執念から遠ざることが人間の生き方の目標であると理解されているのです。

しかし、「自然の摂理に従う」ということは簡単に実行できるようなことでしょうか。人生の目的は、「出世して名声博すること」「財をなして広大な邸宅に住み、美人を従え美酒・美食の贅を尽くすこと」「未知の外国を見聞すること」など、どれを取っても、自然にまかせるだけでは出来そうなものはなく、他人との競争に勝ちぬき、多くの人を犠牲にして、相当な無理をしなければかなえられない種類のものです。

また、欲望ははてしなく大きくなるのが特徴で、これでよいという満足の境地にはなかなかなれないものです。つまり、人間臭の多い、「欲望という電車」に乗った生活の方が「人の性」に近いのであって、生き方としては安易なものだと思えます。

しかし、「人の性」に従って、財をなし歓を尽したあとで、果たしてなにが残るのでしょうか。「歓多くして哀愁深し」ということが起こり、結局は人生を悔いることにもなりかねないといえます。
某日 夏風邪を頂き 少し時間が空いた。

北朝鮮が核実験をしたという その前にはミサイルを発射・・・・

この小さな日本が大きな虚位の横で何ができるのか。

確かなことは 安全でないということ。 

万が一 日本の国が戦わなければならない状態になったらこの国の人はどれだけ国を守ることができるのだろか?

逃げる場所はない・・・・武器もない・・・・どうする

考えている間にこの国は征服される。

この国を守ろうとする覚悟を持っているか?   この国を守りたいのであればこの国のことをもっと政治をもっと身近に考えなくてはいけない。

そこかの国のように汚職と賄賂と癒着の成れの果てに・・・まったく遠い国の話ではない。

僅かな国土とこの国の財政と・・・それを何十年間も官僚や政治家が思いのままに取り返す事の出来ないお金を湯水のように使う。

それでいいのか! このままでいいのか!

自分たちの暮らしは!   老後は!

うまい言葉を並べて老人の介護とか 保育所問題とか・・・政治家はそのたびに何かを徴収し国民にどのように還元できたのか?

僅かばかりのお金を養育する人 老人に配ってみたところでこの現状は変わらない。

何処かしこで様々な税金の無駄づかいが露呈していても  何も感じない国民・・・それは長い間の又か! 同じ事ばかり!そんなあきらめが生んだ罪悪

もう少しこの国を守りたいと思う気持ちを持て!!

悪いことは悪いと声を出せ!!

何年も何年も税金を収めても・・・国の借財は変わらないどころか 年々 ますます増えている。

無駄使いを良しとする長い蓄積がこんなに国をだめにしている。

これだけの資金があれば 国民はもっと豊かなはず・・・・・   この国にそれでも住む

母国という苦い言葉の上に許せない思いだけが広がるのは私一人か?
己を知らないと怖い・・・

己の何を知り 何を知らないのか?

己とは何者か・・・何処からきてどこに行く・・・・

この世のほんの一粒に過ぎない人間としての命 その命は誰が為に存在する  その意味は・・・・

己の存在こそが生きることの意義につながらなければならない。

自分を知ること  自分を映す鏡をいつも自分の手の中にもてる事

この霄の中で屑ほどの寿命を生きるということに見出す価値・・・それは何か?

何万光年のはるかかなたの星もこの地球に光は届く  蛍ほどの光も輝く力が持てるのか?

欲という感情に支配されて・・・己を見失うもの   虚栄という衣を求めてうごめく者

人間は欲を食べ 虚栄を身にまとい 己をひたかくしに生きるものなのか?

この世の果てに 欲のない 虚栄のない 憎しみや怒りのないそんな世界があるだろうか

日を送るだけでいい 飢えをしのぐだけの職をするだけでいい きれいであれば纏う衣もしのぐだけ有れば良い。

いつか人はそんな場所に落ち着くのだろうか?

いつか朽ちていく自分自身も 野の土になり やがて草が生え花が咲き大地の彩りになる。

穏やかな日々がおとづれる。

舞い散る木の葉を私も大地となってこの体で受け止める。
   
9月 月日の過ぎるのは早い・・

人の思いは揺らぎながら 迷いながら大海を泳ぐ

思えども思えども その思いは届かない。

強い思いがあるからこそ この先を案じてならない。

道を間違えないようにと願うばかりだ。

どうぞ・・あなたもこの先を幸せに過ごしてほしい。