法隆寺地域の仏教建造物(1993年12月)  法隆寺

法隆寺地域の仏教建造物(ほうりゅうじちいきのぶっきょうけんぞうぶつ)は、奈良県生駒郡斑鳩町にある法隆寺および法起寺の建造物から構成されるユネスコの世界遺産(文化遺産)である。

この遺産には法隆寺の建造物47棟と法起寺の三重塔を加えた48棟が含まれる。法隆寺をはじめとするこの地域の仏教建築物は聖徳太子と縁が深く、中国の六朝時代の建築の影響を多大に受けている。特に、法隆寺の西院伽藍は、建築年代に諸説あるが世界最古の木造建築として国際的にも著名である。
   
 姫路城(1993年12月)姫路城  姫路城(兵庫県)
天守(連立天守群・国宝)


別名 白鷺城

城郭構造 渦郭式平山城

天守構造 連立式望楼型 5重6階地下1階

築城主 赤松貞範

築城年 1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)

主な改修者 黒田重隆、羽柴秀吉、池田輝政

主な城主 黒田氏、池田氏、本多氏、酒井氏

廃城年 1871年(明治4年)

遺構 現存天守・櫓・門・塀 石垣・堀・土塁・庭園

指定文化財

国宝(大小天守と渡櫓等8棟)
国の重要文化財(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)[7]
国特別史跡
ユネスコ世界遺産

代表紋章:揚羽蝶
姫路城(ひめじじょう[注釈 1])は、播磨国飾東郡姫路(兵庫県姫路市)にあった城である。別名を白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう。詳細は名称の由来と別名を参照)という。江戸時代初期に建てられた天守や櫓等の主要建築物が現存し、建築物は国宝や重要文化財、城跡は国の特別史跡に指定されている[8][9]。この他に、ユネスコの世界遺産に登録や[10][11]、日本100名城[12]などに選定されている
   
 古都京都の文化財(1994年12月)  世界遺産 古都京都の文化財 (日本)

鹿苑寺舎利殿(金閣)


古都京都の文化財(こときょうとのぶんかざい)は、京都府京都市・宇治市、滋賀県大津市にある寺社などから構成されるユネスコの世界遺産(文化遺産)である。1994年に日本で5件目の世界遺産として登録された。
   
 賀茂別雷神社(上賀茂神社)  賀茂別雷神社



所在地 京都府京都市北区上賀茂本山339

主祭神 賀茂別雷大神

神体 神山(神体山)

社格等 式内社(名神大) 山城国一宮 二十二社(上七社) 旧官幣大社
勅祭社 別表神社

創建 (伝)天武天皇7年(678年)

本殿の様式 三間社流造

札所等 神仏霊場巡拝の道102番(京都22番)

例祭 5月15日(賀茂祭、葵祭)

主な神事
武射神事(1月16日)
競馬会神事(5月5日)
御阿礼神事(5月12日)
烏相撲(9月9日)
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賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)は、京都市北区にある神社。通称は上賀茂神社(かみがもじんじゃ)。式内社(名神大社)、山城国一宮、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

祭神
賀茂別雷大神
賀茂氏の祖神。「別雷」は「若雷」の意味で、若々しい力に満ちた雷(神鳴り)の神という意味である
   
 教王護国寺(東寺)  東寺 五重塔(国宝)

所在地 京都府京都市南区九条町1

山号 八幡山

宗旨 東寺真言宗

寺格 総本山

本尊 薬師如来(重要文化財)

創建年 延暦15年(796年)

開基 桓武天皇

正式名
金光明四天王教王護国寺秘密伝法院
宗教法人公称:教王護国寺
正式名別称:弥勒八幡山総持普賢院

別称 左大寺

札所等
真言宗十八本山第9番
西国愛染十七霊場第8番
洛陽三十三所観音霊場第23番
京都十三仏霊場第12番
都七福神(毘沙門天)
神仏霊場巡拝の道 第84番
京都十二薬師霊場第2番

文化財
金堂、五重塔、御影堂、蓮花門
絹本著色真言七祖像、不動明王坐像ほか(国宝)
世界遺産
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東寺(とうじ)は、京都市南区九条町にある仏教寺院。真言宗の根本道場であり、東寺真言宗の総本山でもある。「教王護国寺」(きょうおうごこくじ)とも呼ばれる(名称については「寺号」の節を参照)。山号は八幡山。本尊は薬師如来。

東寺は平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。昭和9年(1934年)に国の史跡に指定、平成6年(1994年)12月には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録された。



この寺には「東寺」および「教王護国寺」という2つの名称があり、百科事典等でも東寺を見出し語とするものと教王護国寺を見出し語とするものがある[1]。さらに正式名として「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」と「弥勒八幡山総持普賢院」の2つの名称がある[2]。宗教法人としての登録名は「教王護国寺」である。

「教王」とは王を教化するとの意味であり、教王護国寺という名称には、国家鎮護の密教寺院という意味合いが込められている。宗教法人としての名称が教王護国寺であるため、寺内の建造物の国宝・重要文化財指定官報告示の名称は「教王護国寺五重塔」等となっている。ただし、「東寺」も単なる通称・俗称ではなく、創建当時から使用されてきた歴史的名称である。平安時代以降近世まで、公式の文書・記録等には原則として「東寺」という表記が用いられ、それが正式名称であり、「教王護国寺」という呼称は特殊な場合以外には用いられなかった[3]。平安時代の公式の記録や信頼できる文書類には「教王護国寺」という名称には一切見えず、すべて「東寺」である[4]。正式の文書における「教王護国寺」の初出は仁治元年(1240年)である[5]。後宇多天皇宸翰の国宝「東寺興隆条々事書」(延慶8年=1308年)、後宇多天皇宸翰「庄園敷地施入状」、豊臣秀吉が2,030石の知行を認めた天正19年(1591年)の朱印状など、寺の歴史に関わる最重要文書にも明確に東寺と表記されている。現代においても、南大門前の石柱には「真言宗総本山 東寺」とあり、南大門、北大門、慶賀門などに掲げられた寺名入りの提灯には「東寺」とあり、宝物館の名称を「東寺宝物館」とするなど、寺側でも通常は東寺の呼称を使用している。
   
 清水寺  清水寺 現在は分離している地主神社を含む



清水寺(きよみずでら)は、京都府京都市東山区清水にある寺院。山号を音羽山。本尊は千手観音、開基(創立者)は延鎮である。もとは法相宗に属したが、現在は独立して北法相宗大本山を名乗る。西国三十三所観音霊場の第16番札所である。


清水寺は法相宗(南都六宗の一)系の寺院で、広隆寺、鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ、京都では数少ない寺院の1つである。また、石山寺(滋賀県大津市)、長谷寺(奈良県桜井市)などと並び、日本でも有数の観音霊場であり、鹿苑寺(金閣寺)、嵐山などと並ぶ京都市内でも有数の観光地で、季節を問わず多くの参詣者が訪れる。また、修学旅行で多くの学生が訪れる。古都京都の文化財としてユネスコ世界遺産に登録されている。

創建伝承[編集]

清水寺の創建については、『群書類従』所収の藤原明衡撰の『清水寺縁起』、永正17年(1520年)制作の『清水寺縁起絵巻』(東京国立博物館蔵)に見えるほか、『今昔物語集』、『扶桑略記』の延暦17年(798年)記などにも清水寺草創伝承が載せられている。これらによれば、草創縁起は大略次の通りである。

宝亀9年(778年)、大和国興福寺の僧で子島寺[1] で修行していた賢心(後に延鎮と改名)は、夢のお告げで北へ向かい、山城国愛宕郡八坂郷の東山、今の清水寺の地である音羽山に至った。金色の水流を見出した賢心がその源をたどっていくと、そこにはこの山に篭って滝行を行い、千手観音を念じ続けている行叡居士(ぎょうえいこじ)という白衣の修行者がいた。年齢200歳になるという行叡居士は賢心に「私はあなたが来るのを長年待っていた。自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残し、去っていった。行叡は観音の化身であったと悟った賢心は、行叡が残していった霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。これが清水寺の始まりであるという。

その2年後の宝亀11年(780年)、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂(758年 - 811年)は、修行中の賢心に出会った。田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、延鎮より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。後に征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定を命じられた田村麻呂は、若武者と老僧(観音の使者である毘沙門天と地蔵菩薩の化身)の加勢を得て戦いに勝利し、無事に都に帰ることができた。延暦17年(798年)、田村麻呂は延鎮(もとの賢心)と協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り、ともに祀った、という。以上の縁起により、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけている。
   
 延暦寺  延暦寺は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。延暦寺の名より比叡山、また叡山(えいざん)と呼ばれることが多い。平安京(京都)の北にあったので北嶺(ほくれい)とも称された。平安時代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。

最澄の開創以来、高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心であった。天台法華の教えのほか、密教、禅(止観)、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持った。特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った。

「延暦寺」とは比叡山の山上から東麓にかけた境内に点在する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)など、三塔十六谷の堂塔の総称である。延暦7年(788年)に最澄が薬師如来を本尊とする一乗止観院という草庵を建てたのが始まりである。開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の弘仁14年(824年)のことであった。

延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍、融通念仏宗の開祖良忍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されている。比叡山は文学作品にも数多く登場する。1994年に、ユネスコの世界遺産に古都京都の文化財として登録されている。

また、「12年籠山行」「千日回峯行」などの厳しい修行が現代まで続けられており、日本仏教の代表的な聖地である。
   
 醍醐寺  醍醐寺 院家(塔頭)寺院の三宝院を含む。


醍醐寺 金堂(国宝)

所在地 京都府京都市伏見区醍醐東大路町22

山号 醍醐山、深雪山(上醍醐寺)

宗派 真言宗醍醐派

寺格 総本山

本尊 薬師如来(重要文化財)

創建年 貞観16年(874年)

開基 聖宝

札所等
真言宗十八本山第十二番
近畿三十六不動尊第二十三番(上醍醐)
西国三十三所第十一番(上醍醐)
西国薬師四十九霊場第三十九番
役行者霊跡札所

文化財
醍醐寺境内(史跡)
金堂、五重塔、木造薬師如来及両脇侍像ほか(国宝)
清滝宮本殿、絹本著色阿弥陀三尊像、木造薬師如来及両脇侍像ほか(重要文化財)
三宝院庭園(特別史跡、特別名勝)
世界遺産
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醍醐寺(だいごじ)は、京都府京都市伏見区醍醐東大路町にある、真言宗醍醐派総本山の寺院。山号を醍醐山(深雪山とも)と称する。本尊は薬師如来、開基(創立者)は理源大師聖宝である。古都京都の文化財として世界遺産に登録されている。伏見区東方に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内をもつ寺院である。豊臣秀吉による「醍醐の花見」の行われた地としても知られている。


醍醐寺の創建は貞観16年(874年)、空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が准胝観音並びに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山、聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けた。

醍醐寺は山深い醍醐山頂上一帯を中心に、多くの修験者の霊場として発展した後(この場所を「上醍醐」と呼称する)、醍醐天皇は醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を掛け、その圧倒的な財力によって醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」が発展することになる。

その後、応仁の乱など相次ぐ戦争で下醍醐は荒廃し、五重塔しか残らないありさまであった。しかし豊臣秀吉による「醍醐の花見」をきっかけに紀州などからの寺院建築の移築や三宝院の建設などにより今日見るような姿となっている。
   
 仁和寺  仁和寺


仁和寺(にんなじ)は、京都府京都市右京区御室にある真言宗御室派総本山の寺院。山号を大内山と称する。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は宇多天皇。「古都京都の文化財」として、世界遺産に登録されている。

皇室とゆかりの深い寺(門跡寺院)で、出家後の宇多法皇が住したことから、「御室御所」(おむろごしょ)と称された。明治維新以降は、仁和寺の門跡に皇族が就かなくなったこともあり、「旧御室御所」と称するようになった。

御室は桜の名所としても知られ、春の桜と秋の紅葉の時期は多くの参拝者でにぎわう。徒然草に登場する「仁和寺にある法師」の話は著名である。当寺はまた、宇多天皇を流祖とする華道御室流の家元でもある。

普段は境内への入場は無料であり、御殿・霊宝館の拝観のみ有料となる。ただし、御室桜の開花時(4月)に「さくらまつり」が行われ、その期間は、境内への入場にも拝観料が必要となる。

仁和寺は光孝天皇の勅願で仁和2年(886年)に建て始められたが、同天皇は寺の完成を見ずに翌年崩御した。遺志を引き継いだ宇多天皇によって、仁和4年(888年)に落成し、「西山御願寺」と称されたが、やがて年号をとって仁和寺と号した。宇多天皇は出家後、仁和寺伽藍の西南に「御室」(おむろ)と呼ばれる僧坊を建てて住んだため、当寺には「御室(仁和寺)御所」の別称がある。なお、「御室」の旧地には現在、「仁和寺御殿」と称される御所風の建築群が建つ。御所跡地が国の史跡に指定されている。

仁和寺はその後も皇族や貴族の保護を受け、明治時代に至るまで、覚法法親王など、皇子や皇族が歴代の門跡(住職)を務め(最後の皇族出身の門跡は、伏見宮純仁法親王、後の小松宮彰仁親王)、門跡寺院の筆頭として仏教各宗を統括していた。非皇族で仁和寺門跡になった人物に九条道家の子法助と足利義満の子法尊の2名がいるが、ともに当時の朝廷における絶対的な権力者の息子でかつ後に准后に叙せられるなど皇族門跡に匹敵する社会的地位を有していた。室町時代にはやや衰退し、応仁の乱(1467年-1477年)で伽藍は全焼した。近世になって、寛永年間(1624年-1644年)、徳川幕府により伽藍が整備された。また、寛永年間の皇居建て替えに伴い、旧皇居の紫宸殿、清涼殿、常御殿などが仁和寺に下賜され、境内に移築されている(現在の金堂は旧紫宸殿)。
   
 平等院  平等院


平等院(びょうどういん)は、京都府宇治市にある藤原氏ゆかりの寺院。平安時代後期・11世紀の建築、仏像、絵画、庭園などを今日に伝え、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。山号を朝日山と称する。宗派は17世紀以来天台宗と浄土宗を兼ね、現在は特定の宗派に属さない単立の仏教寺院となっている。本尊は阿弥陀如来、開基は藤原頼通、開山は明尊である。また鳳凰堂が十円硬貨の表の絵柄として有名である。



京都南郊の宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる左大臣で嵯峨源氏の源融が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。道長は万寿4年(1027年)に没し、その子の関白・藤原頼通は永承7年(1052年)、宇治殿を寺院に改めた。これが平等院の始まりである。開山(初代執印)は小野道風の孫にあたり、園城寺長吏を務めた明尊である。創建時の本堂は、鳳凰堂の北方、宇治川の岸辺近くにあり大日如来を本尊としていたが、翌天喜元年(1053年)には、西方極楽浄土をこの世に出現させたような阿弥陀堂(現・鳳凰堂)が建立された。

『仏説阿弥陀経』では、「從是西方 過十万億佛土 有世界 名曰極樂 其土有佛 號阿彌陀 今現在說法 舍利弗 彼土何故 名爲極樂 其國衆生 無有衆苦 但受諸樂 故名極樂[1]」と説かれている。その意は、「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて、世界あり、名づけて極楽と曰う。その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまう。舎利弗、かの土を何のゆえぞ名づけて極楽とする。その国の衆生、もろもろの苦あることなし、但もろもろの楽を受く、かるがゆえに極楽と名づく[2]」で、阿弥陀如来とその仏国土である「極楽」について説かれている。平等院の庭と建物は、その極楽浄土をあらわしており「浄土庭園」と言う。

飛鳥・奈良・平安前期に広まった仏教は、現世での救済を求めるものであった。平等院が創建された平安時代後期になると、日本では「末法思想」が広く信じられていた。末法思想とは、釈尊の入滅から2000年目以降は仏法が廃れるという思想である。しかし、天災人災が続いたため人々の不安は一層深まり、終末論的な思想として捉えられるようになり、この不安から逃れるための厭世的な思想として捉えられるようになる。仏教も現世での救済から来世での救済に変わっていった。平等院が創建された永承7年(1052年)は、当時の思想ではまさに「末法」の元年に当たっており、当時の貴族は極楽往生を願い、西方極楽浄土の教主とされる阿弥陀如来を本尊とする仏堂を盛んに造営した。

平安時代後期の京都では、平等院以外にも皇族・貴族による大規模寺院の建設が相次いでいた。道長は寛仁4年(1020年)、無量寿院(のちの法成寺)を建立、また11世紀後半から12世紀にかけては白河天皇勅願の法勝寺を筆頭に、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺のいわゆる「六勝寺」が今の京都市左京区岡崎あたりに相次いで建立された。しかし、これらの大伽藍は現存せず、平安時代の貴族が建立した寺院が建物、仏像、壁画、庭園まで含めて残存するという点で、平等院は唯一の史跡である。ただ、平等院も建武3年(1336年)の楠木正成と足利氏の軍勢の戦いの兵火をはじめ、度重なる災害により堂塔は廃絶し、鳳凰堂のみが奇跡的に災害をまぬがれて存続している。

平等院には、鳳凰堂以外に以下のような堂塔が建ち並んでいた。
法華堂 - 天喜4年(1056年)、頼通によって建立。今の平等院ミュージアム付近にあった。
多宝塔 - 康平4年(1061年)、頼通の娘の四条宮寛子(かんし)によって建立。鳳凰堂の南東方向の宇治川べりにあった。
五大堂 - 治暦2年(1066年)、右大臣・藤原師実(頼通三男)によって建立。鳳凰堂背後の浄土院付近にあった。
不動堂 - 延久5年(1073年)、右大臣・源師房(頼通養子)によって建立。鳳凰堂の南西方にあった。
   
 宇治上神社  宇治上神社


宇治上神社(うじがみじんじゃ、うじかみじんじゃ)は、京都府宇治市にある神社。式内社で、旧社格は府社。隣接する宇治神社とは対をなしている。

ユネスコの世界遺産に「古都京都の文化財」の構成資産の一つとして登録されている。



左殿:菟道稚郎子命 (うじのわきいらつこのみこと)
『日本書紀』では「菟道稚郎子」、『古事記』では「宇遅之和紀郎子」と表記。応神天皇の皇子。天皇に寵愛され皇太子に立てられたものの、異母兄・大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談で知られる。中殿:応神天皇
第15代。菟道稚郎子命の父。右殿:仁徳天皇
第16代。菟道稚郎子命の異母兄。


本殿は平安時代後期の建立で、神社建築としては現存最古とされる。流造、桁行5間(正面)、梁間(側面)3間、檜皮葺きの建物内に、一間社流造の内殿3棟が左右に並ぶ(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する)。内殿は左殿(向かって右)に菟道稚郎子命、中殿に応神天皇、右殿(向かって左)に仁徳天皇を祀る(左殿・中殿・右殿を順に第一殿・第二殿・第三殿ともいう)。左殿と右殿は組物が三斗で、組物間に蟇股を置くなど、形式・規模がほぼ等しいが、細部の様式から左殿の方が年代が上がるとみられる。中殿は左右殿より規模が小さく、組物を舟肘木とし、蟇股を用いないなど、形式にも違いがある。外側の桁行5間、梁間3間の建物は内殿の覆屋にあたるが、内殿と覆屋は構造的に一体化しており、左殿と右殿の側廻りや屋根部分は覆屋と共通になっている。左殿と右殿の内陣扉内側には彩絵があり、建物とは別個に「絵画」として重要文化財に指定されている。左殿の扉絵は唐装の童子像2体、右殿の扉絵は束帯・持笏の随身像2体で、剥落が多いが、平安時代にさかのぼる垂迹画の作例として貴重である[3]。国宝に指定。

拝殿は鎌倉時代前期の建立で、寝殿造の遺構といわれる。切妻造、檜皮葺き。桁行6間、梁間3間の主要部の左右に各1間の庇を付す。桁行6間のうち、向かって左端の1間は柱間が狭く、隣接する庇部分とともに閉鎖的な1室を構成する。建物右端の庇部分も1室となり、これらに挟まれた中央の桁行5間 x 梁間3間分を広い1室とする。屋根は切妻造平入りの屋根の左右端に片流れの庇屋根を設ける。切妻屋根と庇屋根の接続部で軒先の線が折れ曲がっており、こうした形を縋破風(すがるはふ)と称する。周囲に榑縁(くれえん)をめぐらし、内部は板床と天井を張り、蔀戸を多用した住宅風の構えである[4]。本殿同様、国宝に指定されている。

また境内には「桐原水」と称される湧き水があり、唯一現存する「宇治七名水」の1つに数えられる。
   
 高山寺  高山寺

高山寺(こうざんじ、こうさんじ)は、京都市右京区梅ヶ畑栂尾(とがのお)町にある寺院。栂尾は京都市街北西の山中に位置する。高山寺は山号を栂尾山と称し、宗派は真言宗系の単立である。創建は奈良時代と伝えるが、実質的な開基(創立者)は、鎌倉時代の明恵である。「鳥獣人物戯画」をはじめ、絵画、典籍、文書など、多くの文化財を伝える寺院として知られる。境内が国の史跡に指定されており、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。


高山寺のある栂尾は、紅葉の名所として知られる高雄山神護寺からさらに奥に入った山中に位置し、古代より山岳修行の適地として、小寺院が営まれていたようである。今の高山寺の地には、奈良時代から「度賀尾寺」「都賀尾坊」などと称される寺院があり、宝亀5年(774年)、光仁天皇の勅願で建立されたとの伝えもあるが、当時の実態は明らかでない。平安時代には、近隣の神護寺の別院とされ、神護寺十無尽院(じゅうむじんいん)と称されていた。これは、神護寺本寺から離れた、隠棲修行の場所であったらしい。

高山寺の中興の祖であり、実質的な開基とされるのは、鎌倉時代の華厳宗の僧、明恵である。明恵房高弁(1173-1232)は承安3年(1173年)、紀伊国有田郡(現在の和歌山県有田川町)で生まれた。父は平重国という武士であり、母は紀州の豪族湯浅家の娘であった。幼時に両親を亡くした明恵は、9歳で生家を離れ、母方の叔父に当たる神護寺の僧・上覚(1147-1226)のもとで仏門に入った。

明恵は、法然の唱えた「専修念仏」の思想を痛烈に批判し、華厳宗の復興に努めた。「専修念仏」とは、仏法が衰えた「末法」の時代には、人は菩提心(さとり)によって救われることはなく、念仏以外の方法で極楽往生することはできないという主張であり、これは菩提心や戒律を重視する明恵の思想とは相反するものであった。

明恵は建永元年(1206年)、34歳の時に後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられ、また寺名のもとになった「日出先照高山之寺」の額を下賜された。この時が現・高山寺の創立と見なされている。「日出先照高山」(日、出でて、まず高き山を照らす)とは、「華厳経」の中の句で、「朝日が昇って、真っ先に照らされるのは高い山の頂上だ」という意味であり、そのように光り輝く寺院であれとの意が込められている。高山寺は中世以降、たびたびの戦乱や火災で焼失し、鎌倉時代の建物は石水院を残すのみとなっている。

1966年、仁和寺当局による双ヶ丘売却に抗議し、真言宗御室派から離脱し、真言宗系単立寺院となった。
   
 西芳寺(苔寺)  西芳寺(苔寺)


西芳寺(さいほうじ)は、京都市西京区松尾にある臨済宗の寺院。一般には苔寺(こけでら)の通称で知られる。山号を洪隠山と称する。本尊は阿弥陀如来、開山は行基と伝え、中興開山は夢窓疎石である。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。



伝承によれば、西芳寺のある場所は飛鳥時代には第31代の用明天皇の皇子である聖徳太子の別荘があり、太子作の阿弥陀如来像が祀られていたという。

奈良時代に至って、第45代の聖武天皇の勅願を得た行基が別荘から寺へと改めたと伝える。当初は法相宗寺院で「西方寺」と称し、阿弥陀如来を本尊、観音菩薩と勢至菩薩を脇侍とした。畿内49院の一つであった。

平安時代初期の806年には第51代平城天皇皇子である真如法親王が草庵を結び修行をしたという。また真言宗開祖である空海が入山し黄金池にて放生会を行ったという。

鎌倉時代には摂津守の中原師員が再興し、西芳寺と穢土寺に分けられた。招かれた法然によって浄土宗に改宗され、本尊は金泥にされたという。 その後に親鸞は愚禿堂を建立し寺に滞在している。 鎌倉幕府第5代執権であった北条時頼が桜堂(おうどう)を建立したが、建武年間に再び寺は荒廃している。

室町時代に、近くにある松尾大社の宮司藤原親秀(ちかひで)は、暦応2年(1339年)、当時の高僧であり作庭の名手でもあった夢窓疎石を招請して禅寺として再興した。この時に西方寺と穢土寺は統一された。もとの寺名「西方寺」は、西方極楽浄土の教主である阿弥陀如来を祀る寺にふさわしい名称であるが、夢窓疎石はこれを「西芳寺」と改めた。「西芳」は「祖師西来」「五葉聯芳」という、禅宗の初祖達磨に関する句に由来する[1]。 1342年に北朝初代の光厳天皇が、室町幕府初代将軍の足利尊氏を従えて寺に行幸。 1382年に3代将軍の足利義満が西芳寺を訪れ、道服を着用し指東庵で坐禅に徹宵した。その後何度も訪れ、西芳寺を模して創建したのが鹿苑寺(金閣寺)である。

応仁の乱(1467-1477)で東軍の細川勝元の陣が敷かれた。1469年に西軍の攻撃により焼失。 1485年には洪水により被災し、本願寺の蓮如により再興された。 室町幕府第8代将軍の足利義政により指東庵が再建された。義政もその後何度か訪れ、西芳寺と鹿苑寺を模して創建したのが慈照寺(銀閣寺)である。

安土桃山時代の1568年には丹波国の柳本氏による兵乱により焼失。織田信長が天龍寺の策彦周良に命じて再建させた。

江戸時代には寛永年間と元禄年間の2度にわたって洪水にも見舞われ荒廃した。元は枯山水であった荒廃した庭園が苔でおおわれるのは江戸時代末期に入ってからのようである。すぐそばに川が流れる谷間、という地理的要因が大きい、とされる。 幕末の1862年には公卿・政治家の岩倉具視が一時湘南亭に隠棲した。

明治維新の神仏分離令の廃仏毀釈により、境内地は狭められ荒廃した。 1878年に再興されている。

1928年より庭園が一般公開された。 1969年に西来堂再建。 1928年より誰でも参観できる観光寺院であったが、1977年7月からは一般の拝観を中止し、往復はがきによる事前申し込み制となっている。 単なる観光や見学ではなく読経と写経という宗教行事に参加することが条件となっている
   
 天龍寺  天龍寺

天龍寺(てんりゅうじ)は、京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町(すすきのばばちょう)にある、臨済宗天龍寺派大本山の寺院。山号は霊亀山(れいぎざん)。寺号は詳しくは天龍資聖禅寺(てんりゅうしせいぜんじ)と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。足利将軍家と桓武天皇ゆかりの禅寺として壮大な規模と高い格式を誇り、京都五山の第一位とされてきた。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。


天龍寺の地には平安時代初期、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が開いた檀林寺があった。その後約4世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に後嵯峨天皇(在位1242年 - 1246年)とその皇子である亀山天皇(在位1259年 - 1274年)は離宮を営み、「亀山殿」と称した。「亀山」とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山のことで、山の姿が亀の甲に似ていることから、この名がある。天龍寺の山号「霊亀山」もこれにちなむ。

足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。尊氏は暦応元年/延元3年(1338年)、征夷大将軍となった。後醍醐天皇が吉野で崩御したのは、その翌年の暦応2年/延元4年(1339年)である。足利尊氏は、後醍醐天皇の始めた建武の新政に反発して天皇に反旗をひるがえした人物であり、対する天皇は尊氏追討の命を出している。いわば「かたき」である後醍醐天皇の崩御に際して、その菩提を弔う寺院の建立を尊氏に強く勧めたのは、当時、武家からも尊崇を受けていた禅僧・夢窓疎石であった。寺号は、当初は年号をとって「暦応資聖禅寺」と称する予定であったが、尊氏の弟・足利直義が、寺の南の大堰川(保津川)に金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と改めたという。寺の建設資金調達のため、天龍寺船という貿易船(寺社造営料唐船)が仕立てられたことは著名である。落慶供養は後醍醐天皇七回忌の康永4年(1345年)に行われた。

天龍寺は京都五山の第一として栄え、寺域は約950万平方メートル、現在の嵐電帷子ノ辻駅あたりにまで及ぶ広大なもので、子院150か寺を数えたという。しかし、その後のたびたびの火災により、創建当時の建物はことごとく失われた。中世には延文3年(1358年)、貞治6年(1367年)、応安6年(1373年)、康暦2年(1380年)、文安4年(1447年)、応仁元年(1467年)と、6回も火災に遭っている。応仁の乱による焼失・再建後、しばらくは安泰であったが、江戸時代の文化12年(1815年)にも焼失、さらに幕末の元治元年(1864年)、禁門の変(蛤御門の変)で大打撃を受け、現存伽藍の大部分は明治時代後半以降のものである。なお、方丈の西側にある夢窓疎石作の庭園(特別名勝・史跡)にわずかに当初の面影がうかがえる。

また、2500点余りの天龍寺文書と呼ばれる文書群を所蔵しているが、中世のものは度々の火災で原本を失ったものが多く(案文・重書案などの副本の形で残されている)、後に関係の深い臨川寺の文書が天龍寺に多数移されたこともあって、「一般に天龍寺文書といわれるが、現実には臨川寺文書が多数を占める[1]」とまで言われている。これに対して近世のものは寺の日記である「年中記録」などの貴重な文書が伝えられている。ともに、中世・近世の京都寺院の状況を知る上では貴重な史料である。

方丈の北側には、宮内庁管理の亀山天皇陵と後嵯峨天皇陵がある。
   
 鹿苑寺(金閣寺)  鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺。建物の内外に金箔を貼った3層の楼閣建築である舎利殿は金閣(きんかく)、舎利殿を含めた寺院全体は金閣寺(きんかくじ)として知られる。相国寺の山外塔頭寺院である[1]。

寺名は開基(創設者)である室町幕府3代将軍足利義満の法号・鹿苑院殿にちなむ[2]。山号は北山(ほくざん)。寺紋は五七桐[3]。義満の北山山荘をその死後に寺としたものである。舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築であったが、1950年(昭和25年)に放火により焼失し、1955年(昭和30年)に再建された。1994年(平成6年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録されている。


この地には、鎌倉時代の1224年(元仁元年)に藤原公経(西園寺公経)が西園寺を建立し、併せて山荘(「北山第」)を営んでいた。これらは公経の子孫である西園寺家が代々所有し、同氏は代々朝廷と鎌倉幕府との連絡役である関東申次を務めていたが、鎌倉幕府滅亡直後に当主の西園寺公宗が後醍醐天皇を西園寺に招待して暗殺しようとする謀反が発覚したために逮捕・処刑され、西園寺家の膨大な所領と資産は没収された。このため、西園寺も次第に修理が及ばず荒れていった。

1397年(応永4年)、足利義満が河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新した。この義満の北山山荘は、当時「北山殿」または「北山第」と呼ばれた。邸宅とはいえ、その規模は御所に匹敵し、政治中枢のすべてが集約された。1394年(応永元年)に義満は征夷大将軍職を子の義持に譲っていたが、実権は手放さず、北山第にあって政務を執っていた。1408年(応永15年)に義満が死亡すると、義持は北山第に住んでいた異母弟義嗣を追放して自らここに入ったが、翌1409年(応永16年)には北山第の一部を破却して三条坊門第に移った。その後、義満の妻である北山院日野康子の御所となっていたが、1419年(応永26年)11月に北山院が死亡すると、舎利殿以外の寝殿等は解体され、南禅寺や建仁寺に寄贈された[4]。また、1416年(応永23年)1月に義満が相国寺から移築した七重大塔が落雷で焼失すると、義持は七重大塔を相国寺に再建するように命じている[5]。1420年(応永27年)に、北山第は義満の遺言により禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられた。夢窓疎石を勧請開山(名目上の開山)としている。

応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失したが、江戸時代に主要な建物が再建され、舎利殿も1649年(慶安2年)に大修理された。

明治維新後の廃仏毀釈により、寺領の多くが返上されて経済的基盤を失ったが、当時の十二世住職貫宗承一により、1894年(明治27年)から庭園及び金閣を一般に公開すると共に拝観料を徴収して寺収入を確保した。

舎利殿(金閣)は古社寺保存法に基づき1897年(明治30年)12月28日に「特別保護建造物」に指定され、1929年(昭和4年)7月1日の国宝保存法施行に伴い(旧)国宝に指定された。また、1904年(明治37年)から1906年(明治39年)に解体修理が行われた。庭園は史蹟名勝天然紀念物保存法(文化財保護法の前身の1つ)により1925年(大正14年)10月8日に史跡・名勝、文化財保護法により1956年(昭和31年)7月19日に特別史跡・特別名勝に指定されている。

1950年(昭和25年)7月2日未明、放火により国宝の舎利殿(金閣)と安置されていた仏像等を焼失(金閣寺放火事件)。文部省文化財保護委員会と京都府教育委員会で協議が行われ、国宝指定の解除と金閣再建の援助が決定された。再建費用として、政府や京都府からの補助金、経済界や全国各地からの寄付金など約3000万円(当時)が集められ[6][7]、1952年(昭和27年)着工、1955年(昭和30年)竣工。同年10月10日に落慶法要が営まれ、創建当時の姿に復元された。

1986年(昭和61年)から1987年(昭和62年)に金閣の「昭和大修復」が行われたほか、1997年(平成9年)に夕佳亭の解体修理、2005年(平成17年)から2007年(平成19年)に方丈の解体修理も行われている。

1994年(平成6年)12月、当寺が構成要素のひとつとなった世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」が登録された。
   
 慈照寺(銀閣寺)  慈照寺(銀閣寺)



慈照寺(じしょうじ)は、京都府京都市左京区にある、臨済宗相国寺派の寺院。相国寺の境外(けいがい)塔頭である。室町時代後期に栄えた東山文化を代表する建築と庭園を有する。

足利義政が鹿苑寺の舎利殿(金閣)を模して造営した楼閣建築である観音殿は銀閣(ぎんかく)、観音殿を含めた寺院全体は銀閣寺(ぎんかくじ)として知られる。「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。

山号は東山(とうざん)。開基(創立者)は、室町幕府8代将軍の足利義政、開山は夢窓疎石とされている。夢窓疎石は実際には当寺創建より1世紀ほど前の人物であり、このような例を勧請開山という。


室町幕府8代将軍足利義政は、1473年(文明5年)、嗣子足利義尚に将軍職を譲り、 1482年(文明14年)から、東山の月待山麓に東山山荘(東山殿)の造営を始めた。この地は、応仁の乱で焼亡した浄土寺のあったところであり、近代以降も左京区浄土寺の地名が残っている。

当時は応仁の乱が終了した直後であり京都の経済は疲弊していたが、義政は庶民に段銭(臨時の税)や夫役(労役)を課して東山殿の造営を進め、書画や茶の湯に親しむ風流な生活を送っていた。造営工事は義政の死の直前まで8年にわたって続けられたが、義政自身は山荘の完成を待たず、工事開始の翌年である1483年(文明15年)にはここに移り住んでいた。東山殿には会所、常御所、釣秋亭、竜背橋、泉殿、西指庵、漱せん亭、超然亭などの大規模な建物が建ち、足利義満の北山殿(後の鹿苑寺)ほどではないが、ある程度政治的機能ももっていた。ただし、現存する当時の建物は銀閣と東求堂(とうぐどう)のみである。

1490年(延徳2年)2月、同年に死去した義政の菩提を弔うため東山殿を寺に改め、相国寺の末寺として創始されたのが慈照寺である。

戦国時代末期には前関白近衛前久の別荘にもなったが、これは慈照寺の歴代住持に近衛家出身者が多かったことによる。前久の死後は再び相国寺の末寺として再興された。

1952年3月29日には庭園が 特別史跡および特別名勝に指定された。1994年12月17日には「古都京都の文化財」として 世界遺産に登録されている。
   
 龍安寺  龍安寺


龍安寺(りょうあんじ)は、京都府京都市右京区にある臨済宗妙心寺派の寺院。石庭で知られる。山号を大雲山と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は細川勝元、開山(初代住職)は義天玄承である。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。


「龍安寺の石庭」として知られる枯山水の方丈石庭で有名な龍安寺は、禅宗が盛んだった室町幕府の管領、守護大名で、応仁の乱の東軍総帥でもあった細川勝元が宝徳2年(1450年)に創建した禅寺である。衣笠山山麓に位置する龍安寺の所在地は、藤原北家の流れを汲む徳大寺実能以来、徳大寺家の山荘であったところを、細川勝元が譲り受けたものである。初代住職として妙心寺5世住持の義天玄承(玄詔)を迎えた。龍安寺の開山は実質的にはこの義天玄承とされているが、義天自身は2世に退き、自分の師の日峰宗舜を開山に立てている。創建当初の寺地は現在よりはるかに広く、京福電鉄の線路の辺りまでが境内であったという。

龍安寺は、開基細川勝元自身が一方の当事者であった応仁の乱(1467-1477年)で焼失。勝元の子の細川政元と、4世住持・特芳禅傑によって長享2年(1488年)に再興された。寺では特芳を中興開山と称している。その後、豊臣秀吉と江戸幕府が寺領を寄付して保護している。

近世の地誌類によれば、最盛期の龍安寺には塔頭が21か寺、軒を連ねていたという(現存するものは3か寺)。『都名所図会』のような絵入りの名所案内書(現代の旅行ガイドブックに相当)を見ると、当時、龍安寺の池はオシドリの名所として知られており、今日有名な石庭よりもむしろ、池を中心とした池泉回遊式庭園の方が著名であったらしい。

寛政9年(1797年)の火災で仏殿など主要伽藍を焼失したため、塔頭の1つである西源院の方丈を移築して龍安寺の方丈(本堂)とした。
   
 西本願寺  西本願寺(にしほんがんじ)は、京都市下京区にある仏教寺院。浄土真宗本願寺派の本山である。山号は龍谷山(りゅうこくざん)。

西本願寺は通称であり、正式名称は「龍谷山 本願寺」、宗教法人としての名称は「本願寺」である。京都市民からは「お西さん」の愛称でも親しまれている。真宗大谷派の本山である「東本願寺」(正式名称「真宗本廟」・下京区)と区別するため、両派の本山は通称で呼ばれることが多い。文永7年(1272)、親鸞の廟堂として京都東山の吉水の地に創建されたがその後比叡山延暦寺から迫害を受けるなど場所は転々とし、現在地には天正19年(1591)、豊臣秀吉の寄進により大坂天満から移転した(詳細は後述「歴史」の項参照)。

境内は国の史跡に指定され、「古都京都の文化財」として世界遺産にも登録されている。

本願寺住職が浄土真宗本願寺派の門主となる。

2011年4月9日より2012年1月16日まで、本願寺御影堂において親鸞聖人750回大遠忌法要が修行された。
   
 二条城  二条城




二条城(にじょうじょう)は京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある江戸時代の城である。京都市街の中にある平城で、後述する足利氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏によるものがあるが、現在見られるものは、徳川氏によるものである。城跡全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿(6棟)が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。さらに1994年(平成6年)にはユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に「古都京都の文化財」として登録されている。

徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終焉の場所でもある。



日本の歴史書において「二条城」と呼ばれることのあるものは複数ある。当時の二条大路は朱雀大路が廃れた後、都一の大路であり、足利尊氏から義満まで3代の将軍が二条に屋敷を構えたため、将軍家の屋敷を「二条陣」または「二条城」といった。のちには、二条通に面していなくても将軍家の屋敷を二条陣または二条城といった[要出典]。室町時代に平安京の左京にあった唯一の城である。ちなみに右京にも唯一、「西院城」があった。二条城と西院城を平安京の両城ともいう。
1.室町幕府第13代将軍・足利義輝の居城。「二条御所武衛陣の御構え」。
2.室町幕府第15代将軍・足利義昭の居城として、織田信長によって作られた城。二条通からは遠く離れていた。ただし平安京条坊制の「二条」(二条大路と中御門大路(現椹木通)に挟まれた地域)には城域の南部分がわずかに含まれる。義輝の「二条御所」とともに「二条」の名を冠して呼ばれるのはこのためと考えられる。
3.織田信長が京に滞在中の宿所として整備し、後に皇太子に献上した邸「二条新御所」。二条通にも面さず条坊制の二条にも属していない。二条家の屋敷跡に設けられたための呼称と考えられる[1]。
4.徳川家康が京に滞在中の宿所として造った城。

現存する二条城は4の城である。1と2は同じ場所に造られたが連続性はない。1を「二条城」と称した例は当時から現代に至るまで無いが2の前史としてここに紹介しておく。2と3は同じものと見る説[2]もあるが、『信長公記』その他の史料、及び発掘結果、残存地名などを根拠として別のものとするのが現在では通説となっている。2及び3について「二条城」と呼ぶのは4.が完成した江戸時代以降のことであり、4と区別する趣旨で「旧二条城」「二条古城」などと呼ばれることもある。この節では、近世の二条城である4.の前史として1の「武衛陣の御構え」と2と3の「二条城」について略説する。

足利義輝の二条御所武衛陣の御構え[編集]

永禄8年、戦国乱世のただなかにあって義輝は幕府の重鎮であった斯波家の屋敷跡に自らの城を築いた。武衛とは斯波氏の職名を由来とし、その屋敷は洛中洛外図にも「ぶえい」として登場する。現在の旧二条城跡地の地名が「武衛陣町」であるのはこれを由来としている。堀もあったが完成寸前(「京公方様御館の四方に深堀高塁長関、堅固の御造作有り。未だ御門の扉以下は出来(しゅったい)せず」『足利季世記』)に三好・松永らの攻撃を受け、義輝は自ら太刀を執って奮戦したがあえなく落命した。合戦後、跡地には真如堂が移された。

足利義昭の二条城[編集]

足利義昭は、織田信長の武力を後ろ盾として将軍に就任した後、六条本圀寺を居所としていたが、1569年(永禄12年)、三好三人衆による襲撃を受けた。このときは京にいた信長家臣団および義昭の側近らの奮戦により防戦に成功するが、この報を受けた信長はさらに防備の整った城の必要性を認識し、義昭のために築城をすることを決めた。場所は義輝の武衛陣の城のあった地を中心に北東に拡張して約400メートル四方の敷地に2重の堀や3重の「天主」を備える城郭造の邸宅とした[3]。信長自身が普請総奉行として現地で陣頭指揮を執り、御殿などの建築を統括する大工奉行には村井貞勝と島田秀満が任じられた。建物の多くは本圀寺から移築された(フロイス『日本史』)。古廐旧管領細川京兆家の一族細川藤賢の旧邸から、文字通り「鳴り物入り」で名石「藤戸石」が搬入された。築城は約70日という短期間で終え、その年の4月に義昭はここに本拠を移した。この城の石垣には京都中から集められた墓石や石仏も使われた。山科言経は「石くら」に驚嘆している。石くらとは石垣のことで、この城が初めて本格的に石垣を積んだ城であったことを示している。周辺からは金箔瓦も発掘されており急ごしらえにしては豪壮な殿舎であったと考えられている。当時は「武家御所」「武家御城」「公方様御構へ」などと呼ばれていた。なお元亀3年3月、信長は義昭の強い勧めもあってこの城の北方、武者小路辺に自らの屋敷を着工している(未完成)。


ところが義昭と信長の関係は徐々に悪化し、1572年(元亀3年)、義昭の信長追討令に応じた武田信玄が西上を開始し三方ヶ原の戦いで勝利を収めたのを知ると、翌1573年(天正元年)3月に義昭は二条城において信長に対し挙兵する。信長は上京の町屋を焼き払い二条城を包囲するが、城自体に対しては攻撃を控え正親町天皇の勅命を得て、和議が成立する。しかし、7月に再び義昭は宇治の槇島城において挙兵する(槇島城の戦い)。このとき、二条城には公家の日野輝資と高倉永相、義昭の側近で幕府の重臣である伊勢貞興と三淵藤英が守備のため置かれたが、信長軍に包囲されると一戦も交えず降伏した。

この際に御殿などは兵士たちによって、破壊されたと伝えられる。この直後、槙島城の義昭も降伏し畿内から追放され、室町幕府は実質的に滅ぶことになる。二条城に残った天主や門は1576年(天正4年)に解体され、安土へ運ばれ築城中の安土城に転用された。 1975年(昭和50年)から1978年(昭和53年)まで京都市営地下鉄烏丸線建設に先立つ烏丸通の発掘調査が行われ、この信長の二条城の石垣および2重の堀の跡が確認された。この際発掘された石垣にあった石仏が京都文化博物館及び西京区の洛西竹林公園内に展示されている。また、石垣の一部が京都御苑椹木口の内側及び現二条城内に復元されている。また、平安女学院の敷地の一角に「旧二條城跡」と彫られた石碑と説明板(「義昭二条城=二条新御所」説を記す)が立っている。

織田信長・誠仁親王の「二条新御所」[編集]

織田信長が烏丸-室町の御池上る付近に設けた城館。

信長は1576年(天正4年)4月に京に滞在した際、二条の妙覚寺(現在地とは異なる)に宿泊したが、寺の東側に隣接する公家の二条家の邸宅の庭の眺望を気に入った。二条邸(二条殿・押小路烏丸殿)は当時、「洛中洛外図屏風」に必ず描かれるほどの名邸であった。前住者の二条晴良・昭実(妻は信長の養女)父子は直前に信長のはからいにより報恩寺の新邸に移徙して(『言経卿記』)空き家となっていたので、信長が上洛したときの宿所とするため、この旧二条邸を譲り受けて、改修を京都所司代の村井貞勝に命じた。翌年の閏7月に信長は初めて入邸、8月末には改修が終わり、以後2年ほどはこの「二条御新造」(「武家御城」とも)に自ら居住し、京の宿所(本邸)として使用する。1579年(天正7年)には、この屋敷を皇太子誠仁親王に献上。同年11月22日に、誠仁親王とその皇子である五の宮(後の邦慶親王)がこの「二条新御所」に移徙した[4]。

1582年(天正10年)、本能寺の変が起きると、妙覚寺にいた信長の嫡男・信忠主従はそれを知るや本能寺の信長と合流するため出撃しようとしていた。しかし、そこに京都所司代・村井貞勝とその子らが駆けつけ、本能寺が既におちた旨を伝え、防御能力に優れた二条新御所へ移ることを進言した。信忠は誠仁親王らを二条新御所から出した上でここに籠城し、これを攻囲する明智勢と奮戦するが、信忠を始め貞勝ら60余名が討ち死にし、二条新御所も隣接する妙覚寺と共に灰燼に帰した[要出典]。

現在は両替町通御池上ルに「此附近 二条殿址」、室町通御池上ルに「二条殿御池跡」と彫られた石碑が建っている。付近には「二条殿町」「御池之町」及び本能寺の変ゆかりの「上妙覚寺町」「下妙覚寺町」の地名が残る。なおこの「御池」が現在の御池通の名前の由来となった。跡地には、変の直後、秀吉により信忠の菩提を弔うため大雲院が創建されたが、間もなく秀吉の京都改造に伴い寺町四条下ルに移転させられた。

この二条新御所は義昭の二条城跡に設けられたとする説があるが、山科言経が天正4年9月13日(1576年10月5日)に「右大将家二条新邸を見物」、翌14日(10月6日)には「武家古城を見物」し石垣の取り壊し・搬出されている様子を目撃したことが『言経卿記』に記されているから、明らかに別の場所にあったと考えられる。また誠仁親王当時、禁裏「上の御所」に対し「下の御所」と呼ばれていたから二条新御所は禁裏南方にあったと思われ、御所西にあった義昭の二条城跡に築かれたとするのは不自然である。さらに本能寺の変の際、信忠は陣を妙覚寺から二条御所へ移しているから両者は近傍に在ったと推測される[5]。同じ時、信忠恩顧の小沢六郎三郎は二条新御所に駆けつけたが明智軍に囲まれていたため「町通り二条(二条通のこと)」へ「上が」って御構えに駆け込んだと『信長公記』に記されているから、二条新御所は二条通南方にあったことが明らかであり、この点からも義昭の二条城とは別であったと判断できる。また、先に触れたように乱後、この地に信忠の菩提寺大雲院が建築されていることも有力な傍証となる。

羽柴(豊臣)秀吉の「二条第」[編集]

羽柴秀吉(豊臣秀吉)も二条に城を構えている。秀吉は信長在世中にも二条御新造の隣接地に屋敷を有していたが、1580年(天正8年)に信長によって没収されてお気に入りであった前関白・近衛前久に献上されている(『兼見卿記』)。皮肉にも本能寺の変の際、近衛家家人が逃げ出したこの屋敷を占拠した明智軍がここから二条新御所を攻撃したという話があり(『明智軍記』)、やがてそれに尾ひれが付いて前久が光秀に加担したとの風説が流された。その後1583年(天正11年)、本拠地を大坂に定めた秀吉は京都における拠点として「二条第」を構えた。妙顕寺を移転させその跡地に建設されたことから「妙顕寺城」とも呼ばれる。周囲に堀を巡らし天守もあった。聚楽第完成まで秀吉の政庁として使われ普段は前田玄以が在城した。所在地は二条城の東200メートル、現中京区小川押小路付近、地名に「古城(ふるしろ)町」「下古城(しもふるしろ)町」をのこしている。天正少年使節を引き連れて聚楽第の秀吉を訪ねた巡察使ヴァリアーノは前日に豪華な「秀吉の旧屋敷」に泊ったとあるが、位置、時期から言ってこれがこの二条第であった可能性が高い。

江戸時代の二条城[編集]

創建[編集]

幕府は二条城と称したが、朝廷側はこれを二条亭と呼んだ。
1601年(慶長6年)5月 関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は上洛時の宿所として大宮押小路に築城を決め、町屋の立ち退きを開始、12月に西国諸大名に造営費用および労務の割り当てを行った(天下普請)。造営総奉行に京都所司代板倉勝重、作事(建築)の大工棟梁に中井正清が任じられた。
1602年(慶長7年)5月 御殿・天守の造営に着工。
1603年(慶長8年)3月 落成。但し、天守は1606年(慶長11年)に完成。
1603年(慶長8年) 2月12日家康は伏見城において征夷大将軍補任の宣旨を受け、3月12日に竣工間もない二条城に入城、同月25日室町幕府以来の慣例に基づく「拝賀の礼」を行うため、御所への行列を発した。それに続き、同月27日二条城において重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。この将軍就任の手順は2年後の1605年(慶長10年)に第2代将軍・秀忠が、1623年(元和9年)に第3代将軍家光が踏襲するが、第4代将軍・家綱以降は行われなくなった。
1611年(慶長16年) 二条城の御殿(現在の二の丸御殿)において家康と秀頼の会見(二条城会見)が行われる。このとき家康は秀頼の成長ぶりに驚き徳川家の天下が覆されるかもしれないとの危機感を抱き、豊臣家を滅ぼすことを決意したともいわれている。
1614年(慶長19年) 大坂の役が勃発。二条城は大御所(家康)の本営となり、伏見城から出撃する将軍秀忠の軍勢に続き、家康は二条城から大坂へ駒を進めた。
1615年(元和元年) 夏の陣においては二条城に火をかけ、混乱の中で家康を暗殺しようとした陰謀が明らかとなり、徳川方についていた古田織部の家臣が捕縛された。このため、古田織部は切腹、家財没収となる事件もあった。
1619年(元和5年) 秀忠は娘・和子(まさこ)の後水尾天皇への入内に備え、二条城の改修を行う。このときの縄張(基本設計)は秀忠自らが藤堂高虎と共に行った(秀忠は2つの案から一方を最終選定しただけだが、将軍自らの縄張りであると高虎に持ち上げられたのだった)。
1620年(元和6年)6月18日、徳川和子は二条城から長大な行列を作り、後水尾天皇のもとへ入内した。
   
 白川郷・五箇山の合掌造り集落(1995年12月)  白川郷・五箇山の合掌造り集落(1995年12月)


白川郷・五箇山の合掌造り集落[1](しらかわごう・ごかやまのがっしょうづくりしゅうらく)は、飛越地方[注釈 2]の白川郷と五箇山にある合掌造りの集落群である。1995年12月9日にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録され、日本では6件目の世界遺産となった。




白川郷(岐阜県大野郡白川村)と五箇山(富山県南砺市)は、いずれも飛越地方庄川流域の歴史的地名で、白川郷は上流域、五箇山は中流域である。白川郷は荘白川(しょうしらかわ)ともいい、現在は岐阜県白川村と高山市荘川町に分かれている。五箇山は富山県の旧平村、上平村、利賀村の3村に含まれていたが、現在はいずれも南砺市に属する。

この地域は白山信仰の修験者や平家の落人伝説とも結びつきが深い。白川郷の地名は12世紀半ば、五箇山の地名は16世紀にはそれぞれ確認できるが[3][4]、合掌造りがいつ始められたのかは定かではない。江戸時代中期にあたる17世紀末に原型ができたと推測されている[5]。

江戸時代の白川郷は金森藩領と浄土真宗照蓮寺領となり、前者はのちに天領となった。一方の五箇山は加賀藩領となり、塩硝生産が保護されていた[6]。塩硝は火薬の原料となる硝酸カリウムで、五箇山では雑草と蚕の糞を利用して抽出する培養法が行われていた。五箇山は流刑地にもなっていた陸の孤島である分、原料調達の長所のほかに秘伝の漏洩を防ぐという意味でも適しており[7]、稲作に不向きな土地柄で養蚕とともに発達した家内工業の一つであった[8]。一帯では現在は水田が見られるが、それらのうち少なからぬ部分が戦後に転作されたものであり、もともとの農業の中心は、焼畑によるヒエ、アワ、ソバ、および養蚕のための桑である。ヒエやアワの収穫は自給分が精一杯であったから、その分家内工業の存在が大きくなった[8]。

合掌造りは、そうした家内工業の発展にあわせて、大型化、多層化していったと考えられている[9]。なお、合掌造りが普及する以前の住居形式については、まだはっきりしていない
   
 原爆ドーム(1996年12月)  原爆ドーム(1996年12月)




原爆ドーム(げんばくドーム、英: Atomic Bomb Dome)の名で知られる広島平和記念碑(ひろしまへいわきねんひ、英: Hiroshima Peace Memorial)は、日本の広島市に投下された原子爆弾の惨禍を今に伝える記念碑(被爆建造物)である。元は広島県物産陳列館として開館し、原爆投下当時は広島県産業奨励館と呼ばれていた。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されており、「二度と同じような悲劇が起こらないように」との戒めや願いをこめて、特に負の世界遺産[1]と呼ばれている。




1945年8月6日午前8時15分17秒(日本時間)、アメリカ軍のB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」が、建物の西隣に位置する相生橋を投下目標として原子爆弾を投下した。投下43秒後、爆弾は建物の東150メートル・上空約600メートルの地点(現島外科内科付近)で炸裂した。

原爆炸裂後、建物は0.2秒で通常の日光による照射エネルギーの数千倍という熱線に包まれ、地表温度は3,000℃に達した。0.8秒後には前面に衝撃波を伴う秒速440メートル以上の爆風(参考として、気温30℃時の音速は秒速349メートルである)が襲い、350万パスカルという爆風圧(1平方メートルあたりの加重35トン)にさらされた。このため建物は原爆炸裂後1秒以内に3階建ての本体部分がほぼ全壊したが、中央のドーム部分だけは全壊を免れ、枠組みと外壁を中心に残存した。

ドーム部分が全壊しなかった理由として、
衝撃波を受けた方向がほぼ直上からであったこと[2]
窓が多かったことにより、爆風が窓から吹き抜ける(ドーム内部の空気圧が外気より高くならない)条件が整ったこと
ドーム部分だけは建物本体部分と異なり、屋根の構成材が銅板であったこと。銅は鉄に比べて融点が低いため、爆風到達前の熱線により屋根が融解し、爆風が通過しやすくなったこと

などが挙げられている。ドーム部分は全体が押し潰される程の衝撃を受けなかったため、爆心地付近では数少ない被爆建造物(被爆建物)として残った。

原爆投下時に建物内で勤務していた内務省(建設省)職員ら約30名は、爆発に伴う大量放射線被曝や熱線・爆風により全員即死したと推定されている[3]。なお、前夜宿直に当たっていた県地方木材会社の4名のうち、1名は原爆投下直前の8時前後に自転車で帰宅し自宅前で被爆し負傷したものの、原爆投下当日に産業奨励館に勤務していた人物の中で唯一の生存者となった。

その後しばらくはまだ窓枠などが炎上せずに残っていたものの、やがて可燃物に火がつき建物は全焼して、ついに煉瓦や鉄骨などを残すだけとなった。
   
 厳島神社(1996年12月)  厳島神社(1996年12月)


厳島神社(いつくしまじんじゃ、嚴島神社)は、広島県廿日市市の厳島(宮島)にある神社。式内社(名神大社)、安芸国一宮。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「三つ盛り二重亀甲に剣花菱」。

古くは「伊都岐島神社」とも記された。全国に約500社ある厳島神社の総本社である。ユネスコの世界文化遺産に「厳島神社」として登録されている。


広島湾に浮かぶ厳島(宮島)の北東部、弥山(標高535m)北麓に鎮座する。厳島は一般に「安芸の宮島」とも呼ばれ日本三景の1つに数えられている。

当社は平家からの信仰で有名で、平清盛により現在の海上に立つ大規模な社殿が整えられた。社殿は現在、本殿・拝殿・回廊など6棟が国宝に、14棟が重要文化財に指定されている。そのほか、平家の納めた平家納経を始めとした国宝・重要文化財の工芸品を多数納めている。

当社の平舞台(国宝:附指定)は日本三舞台の1つ[1]に数えられるほか、海上に立つ高さ16mの大鳥居(重要文化財)は日本三大鳥居の1つ[2]である。また、夏に行われる例祭は「管絃祭」として知られる。


社伝では、推古天皇元年(593年)、当地方の有力豪族・佐伯鞍職(さえきのくらもと)が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に社殿を創建したのに始まるとされる。

当社の鎮座する厳島(宮島)は「神に斎く(いつく = 仕える)島」という語源[4]のように、古代から島そのものが神として信仰されたと考えられている。厳島中央の弥山(標高535m)山頂には巨石が連なっており、山岳信仰の対象であったとされる
   
 古都奈良の文化財(1998年12月)  古都奈良の文化財(1998年12月)


古都奈良の文化財(ことならのぶんかざい)は、奈良県奈良市にある寺院などから構成される世界遺産(文化遺産)である。1998年12月2日に京都市で開催されたユネスコ世界遺産委員会で、日本で9件目の世界遺産(文化遺産)として登録された。



東大寺 - 現在は宮内庁管理となっている正倉院を含む

東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。

金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら[1])ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁である[2]。現別当(住職・221世)は、筒井寛昭。

奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、現存する大仏殿は江戸時代の18世紀初頭(元禄時代)の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けられた。

東大寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。
   
 興福寺  興福寺


興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。

藤原鎌足夫人の鏡大王が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)山背国山階(現京都府京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。

和銅3年(710年)の平城遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた。この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。

その後も、天皇や皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ整備が進められた。不比等が没した養老4年(720年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになった。
   
 春日大社  春日大社(かすがたいしゃ)は、奈良県奈良市にある神社。旧称は春日神社。式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「下がり藤」。

全国に約1000社ある春日神社の総本社である。武甕槌命が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿を神使とする。ユネスコの世界遺産に「古都奈良の文化財」の1つとして登録されている。


奈良・平城京に遷都された710年(和銅3年)、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山(みかさやま)に遷して祀り、春日神と称したのに始まる[要出典]。社伝では、768年(神護景雲2年)に藤原永手が鹿島の武甕槌命、香取の経津主命と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したのをもって創祀としている。ただし、近年の境内の発掘調査により、神護景雲以前よりこの地で祭祀が行われていた可能性も出てきている。

藤原氏の隆盛とともに当社も隆盛した。平安時代初期には官祭が行われるようになった。当社の例祭である春日祭は、賀茂神社の葵祭、石清水八幡宮の石清水祭とともに三勅祭の一つとされる。850年(嘉祥3年)には武甕槌命・経津主命が、940年(天慶3年)には、朝廷から天児屋根命が最高位である正一位の神階を授かった。『延喜式神名帳』には「大和国添上郡 春日祭神四座」と記載され、名神大社に列し、月次・新嘗の幣帛に預ると記されている。

藤原氏の氏神・氏寺の関係から興福寺との関係が深く、813年(弘仁4年)、藤原冬嗣が興福寺南円堂を建立した際、その本尊の不空絹索観音が、当社の祭神・武甕槌命の本地仏とされた。神仏習合が進むにつれ、春日大社と興福寺は一体のものとなっていった。11世紀末から興福寺衆徒らによる強訴がたびたび行われるようになったが、その手段として、春日大社の神霊を移した榊の木(神木)を奉じて上洛する「神木動座」があった。

1871年(明治4年)に春日神社に改称し、官幣大社に列した。1946年(昭和21年)12月に現在の春日大社に改称した。
   
 元興寺  元興寺




元興寺(がんごうじ)は、奈良市にある、南都七大寺の1つに数えられる寺院。蘇我馬子が飛鳥に建立した、日本最古の本格的仏教寺院である法興寺がその前身である。法興寺は平城京遷都に伴って飛鳥から新都へ移転し、元興寺となった(ただし、飛鳥の法興寺も元の場所に残り、今日の飛鳥寺となっている)。奈良時代には近隣の東大寺、興福寺と並ぶ大寺院であったが、中世以降次第に衰退して、現在は元興寺と名乗る寺院は次の2つに分かれている。

(1) 奈良市中院町所在の元興寺。1977年までは「元興寺極楽坊」と称していた。西大寺の末寺で、宗派は真言律宗に属する。本尊は智光曼荼羅である。

(2) 奈良市芝新屋町所在の元興寺。東大寺の末寺で、宗派は華厳宗に属する。本尊は十一面観音である。

奈良市中院町の元興寺は「古都奈良の文化財」の一部として、世界遺産にも登録されている。上記2つの元興寺は、もともと同じ寺院の一部であるので、本項ではまとめて述べることとする。

また、かつての元興寺を起源とする寺院は他に奈良市西新屋町に所在する真言律宗の小塔院がある。ここは現在は奈良市中院町所在の元興寺内の収蔵庫内に現存する国宝の五重小塔を安置する堂が存在した場所として1965年に国指定の史跡・「元興寺小塔院跡」に指定されている。現在は江戸時代に建立された虚空蔵堂があるだけである。


現在、「史跡元興寺」として指定されている地域は(1)奈良市中院町の「元興寺極楽坊」、(2)同市芝新屋町の「元興寺(塔跡)」(3)同市西新屋町の「元興寺小塔院跡」の3か所である。これらはいずれも、蘇我馬子が6世紀末、飛鳥に建立した日本最古の本格的寺院、法興寺(現在の飛鳥寺)の後身である。

和銅3年(710年)の平城京遷都に伴って、飛鳥にあった薬師寺、厩坂寺(のちの興福寺)、大官大寺(のちの大安寺)などは新都へ移転した。法興寺は養老2年(718年)平城京へ移転したが、飛鳥の法興寺も廃止はされずに元の場所に残った。通常、飛鳥にある寺を「法興寺」「本元興寺」、平城京の方の寺を「元興寺」と称している。「法興」も「元興」も、日本で最初に仏法が興隆した寺院であるとの意である。

奈良時代の元興寺は三論宗と法相宗の道場として栄え、東大寺や興福寺と並ぶ大伽藍を誇っていた。寺域は南北4町(約440メートル)、東西2町(約220メートル)と南北に細長く、興福寺の南にある猿沢池の南方、今日「奈良町(ならまち)」と通称される地区の大部分が元は元興寺の境内であった。猿沢池南東側にある交番のあたりが旧境内の北東端、奈良市音声館(奈良市鳴川町)のあたりが旧境内の南西端にあたる。

奈良においては東大寺、興福寺が勢力を増す一方で、元興寺は律令制度が崩壊する10~11世紀以降徐々に衰退していった。 長元8年(1035年)の「堂舎損色検録帳」という史料によると、金堂をはじめとする元興寺の伽藍は、この頃には荒れ果てて見る影もなかったという。この頃、元興寺の別当が修理のために、玄象(絃上)と並ぶ名物とされた寺宝の琵琶「元興寺」を後朱雀天皇に売却したという話が「江談抄」「古今著聞集」に見え、寺宝の琵琶を手放さなければならなかった元興寺の窮状を伝えている。なお寛元四年(1246年)の記録では、この頃までに五重塔の四、五重目と相輪が失われ、南大門、鐘楼が大破していたという。

元興寺には奈良時代の学僧・智光が描かせた阿弥陀浄土図(智光曼荼羅)があったが、平安末期の末法思想の流行や阿弥陀信仰の隆盛とともにこの曼荼羅が信仰を集めるようになった。曼荼羅を祀る堂は「極楽坊」と呼ばれて、次第に元興寺本体とは別の寺院として発展するようになった。これが現在、奈良市中院町にある元興寺、通称元興寺極楽坊である。現存する元興寺極楽坊の本堂と禅室は、奈良時代に智光をはじめとする僧たちが住んでいた僧房を鎌倉時代に改築したものである。

このほか当時の元興寺では、中門に安置されていた二天像(持国天・増長天)とその眷属である夜叉像八体、同じく中門に安置され、中門観音と呼ばれていた十一面観音像が多くの信仰を集めていた。

このうち二天像と夜叉像については9世紀前半頃に元興寺の僧であった義昭がまとめた「日本感霊録」や「今昔物語集」(巻十八第五十話)などの仏教説話集に霊験あらたかな像として喧伝されており、後に運慶も神護寺中門の二天像造立の際にこの元興寺中門二天像を摸刻している(『神護寺略記』)。

また中門観音は長谷寺の観音像と同じ木で造ったと伝えられ、長谷寺に参詣する者はまずこの中門観音に詣でるべきことが鎌倉時代初めに成立した「建久御巡礼記」(『當麻寺』の項参照)「護国寺本諸寺縁起集」などに見え、実際に、時期はさかのぼるが天禄二年(971年)、正暦元年(990年)にそれぞれ長谷寺参詣を行った藤原道綱母や藤原実資らがその途次、元興寺に参詣して灯明などを献じたことがそれぞれ「蜻蛉日記」(132段)、「小右記」(正暦元年九月七日条)に見える。

二天像は応仁元年(1467年)に落雷のため失われたが、この頃すでに元興寺観音堂に移されていた中門観音は難を逃れ、元興寺観音堂の後身である元興寺(奈良市芝新屋町)の本尊として現在でも祀られている。(なお、二天像の模刻が運慶によって製作され、明治時代初頭に焼失するまで教王護国寺に伝来していた。)

室町時代の宝徳3年(1451年)、土一揆のあおりで元興寺は炎上し、五重塔などはかろうじて残ったが、金堂など主要堂宇や智光曼荼羅の原本は焼けてしまった。この頃を境に、寺は智光曼荼羅を祀る「極楽院」、五重塔を中心とする「元興寺観音堂」、それに「小塔院」の3つの寺院に分裂した。極楽院は奈良西大寺の末寺となって真言律宗寺院となり、中世以降は智光曼荼羅、弘法大師、聖徳太子などの民間信仰の寺院として栄えた。

一方、極楽院の南にある「元興寺観音堂」の方は東大寺の末寺となり、五重塔を中心とする寺院であったが、室町時代の火災に焼け残った創建遺構の五重塔と観音堂は、江戸時代末期の安政6年(1859年)に近隣火災の類焼で焼失し、以後は「元興寺」の寺号は継ぐものの衰退している。

極楽院は明治以降は荒れ果て、現在国宝に指定されている本堂も1950年ころまでは床は落ち、屋根は破れて「化け物が出る」と言われたほどの荒れ方であった。第二次世界大戦中の1943年に極楽院の住職となった辻村泰圓は戦災孤児のための社会福祉事業に尽力するかたわら、境内の整備や建物の修理を進めた。1962年には辻村により境内に財団法人元興寺仏教民俗資料研究所が設立され(1978年に元興寺文化財研究所と改称)、1965年には寺宝を収蔵展示する収蔵庫が完成するなど、徐々に整備が進んだ。元興寺仏教民俗資料研究所は、本堂解体修理中に屋根裏から発見された数万点の庶民信仰資料(板塔婆など)を研究することを当初の目的として設立された。極楽院は1955年に「元興寺極楽坊」と改称、さらに1977年に「元興寺」と改称されている。2010年8月禅室の一部に使用されている木材が世界最古の現役木製建築部材であることが確認された。
   
 薬師寺  薬師寺

薬師寺(やくしじ)は、奈良県奈良市西ノ京町に所在する寺院であり、興福寺とともに法相宗の大本山である。南都七大寺のひとつに数えられる。本尊は薬師如来、開基(創立者)は天武天皇、道昭、義淵である。1998年(平成10年)に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。現・管主は山田法胤である(2009年8月着任)。


薬師寺は天武天皇9年(680年)、天武天皇の発願により、飛鳥の藤原京(奈良県橿原市城殿〈きどの〉町)の地に造営が開始され、平城遷都後の8世紀初めに現在地の西ノ京に移転したものである。ただし、飛鳥の薬師寺(本薬師寺、北緯34度29分33.88秒東経135度48分0.95秒)の伽藍も10世紀頃までは引き続き存続していたと見られる。

『日本書紀』天武天皇9年(680年)11月12日条には、天武天皇が後の持統天皇である鵜野讃良(うののさらら)皇后の病気平癒を祈願して薬師寺の建立を発願し、百僧を得度(出家)させたとある。薬師寺東塔の屋上にある相輪支柱に刻まれた「東塔檫銘」(とうとうさつめい、「さつ」は木扁に「察」)にも同趣旨の記述がある。しかし、天武天皇は寺の完成を見ずに朱鳥元年(686年)没し、伽藍整備は持統天皇、文武天皇の代に引き継がれた。

「東塔檫銘」には、「清原宮に天の下を統治した天皇(天武)の即位八年、庚辰の歳、中宮(後の持統天皇)の病気のため、この伽藍を創り始めたが、完成しないうちに崩御したので、その意志を継いで、太上天皇(持統)が完成したものである」という意味のことが記されている。ここでいう「天皇即位八年、庚辰之歳」は、『書紀』の「天武天皇9年」と同じ年を指している。すなわち、『書紀』は天智天皇の没した翌年(壬申年、西暦672年にあたる)を天武天皇元年とするが、天武が正式に即位したのはその翌年(西暦673年にあたる)であり、「天皇即位八年」とは即位の年から数えて8年目という意味である[1]。

持統天皇2年(688年)、薬師寺にて無遮大会(むしゃだいえ)という行事が行われたことが『書紀』に見え、この頃までにはある程度伽藍が整っていたものと思われる。『続日本紀』によれば、文武天皇2年(698年)には寺の造営がほぼ完成し、僧を住まわせている。この創建薬師寺は、藤原京の右京八条三坊の地にあった。大和三山の畝傍山と香久山の中間にあたる橿原市城殿町に寺跡が残り、「本薬師寺(もとやくしじ)跡」として特別史跡に指定されている。
   
 唐招提寺  唐招提寺



唐招提寺(とうしょうだいじ)は、奈良市五条町にある鑑真が建立した寺院。南都六宗の1つである律宗の総本山である。本尊は廬舎那仏、開基(創立者)は鑑真である。井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった中国・唐出身の僧鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂を始め、多くの文化財を有する。

唐招提寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。


『続日本紀』等によれば、唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部親王(天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものである。寺名の「招提」は、サンスクリット由来の中国語で、元来は「四方」「広い」などの意味を表す語であったが、「寺」「院」「精舎」「蘭若」などと同様、仏教寺院(私寺)を指す一般名詞として使われていた。つまり、唐招提寺という寺号は、「唐僧鑑真和尚のための寺」という意味合いである。
   
 平城宮跡  平城宮跡




平城宮(へいぜいきゅう、へいじょうきゅう)は奈良の古都平城京の大内裏。1998年(平成10年)12月、「古都奈良の文化財」として東大寺などと共に世界遺産に登録された(考古遺跡としては日本初)。


平城京の北端に置かれ、天皇の住まいである内裏即ち内廷と、儀式を行う朝堂院、役人が執務を行う官衙の所謂外朝から成り、約120ヘクタールを占めていた。周囲は5メートル程度の大垣が張り巡らされ、朱雀門を始め豪族の姓氏に因んだ12の門が設置され、役人等はそれらの門より出入りした。東端には東院庭園がおかれ、宴等が催された。この東院庭園は今日の日本庭園の原型とされている。

ただし、平城京に都が置かれていた70年余りに間に何度か大規模な改築[1]が実施されており、その間に平城宮内部の構造も変化している部分もあったが、そのことが後世の研究家に認識されることは少なく、実際に本格的な発掘が実施されるまで誤った推定が行われる遠因となった。

784年(延暦3年)に長岡京に遷都され、その後平城上皇が大極殿(第一次)跡地に新しい宮(平城西宮)を造営して居住したこともあったが、その後平安京が都としての地位が確定すると放置され、しだいに農地となっていった。しかし南都と呼ばれ、あくまでも本来の都は奈良と云う認識が大宮人の間にはあった。

1852年(嘉永5年)、奉行所の役人であった北浦定政が『平城宮大内裏跡坪割之図』を著し、平城京の跡地を推定した。明治時代に建築史家、関野貞が田圃の中にある小高い芝地が大極殿(第二次)の基壇である事を発見、1907年(明治40年)に『平城京及大内裏考』を奈良新聞に発表した。ただし、関野の研究は大極殿(第一次)の恭仁京への移転を含む平城宮の度重なる改築の事実を認識できず大極殿(第一次)を内裏の遺構と誤認したこと、中宮(中宮院とも、聖武・淳仁天皇が御在所とした)を無条件で内裏の別称と解したこと、内裏位置の誤認のために実際の内裏区域に対してはほとんど関心を払わなかったことなど、今日からみれば問題となる部分を含んでいた[2]。この研究記事がきっかけとなり、棚田嘉十郎・溝辺文四郎らが中心となり平城宮跡の保存の運動が起こった。1921年(大正10年)には、平城宮跡の中心部分が民間の寄金によって買い取られ、国に寄付された。その後、「平城宮址」は1922年(大正11年)に国の史跡に指定された(後に特別史跡)。この時、上田三吉を中心として発掘作業が実施されて大極殿(第二次)の北方(すなわち実際の内裏区域)にも遺構があることを確認した。ただし、上田もこれが内裏の一部であるとする認識には至らなかった。1928年(昭和3年)にも岸熊吉の発掘調査で今日内裏の東大溝として知られている部分を発見しているが、岸も内裏との関連性に気付くことはなかった。その後、1953年(昭和28年)・1955年(昭和30年)にも大規模な発掘調査が実施したが、内裏に関する関野説の誤りを指摘して正確な内裏の跡地の推定をしたのは、1960年(昭和35年)の奈良国立文化財研究所の発掘調査に参加した工藤圭章であった[3]。戦後に「址」(し・あと)が常用漢字外である為「平城宮跡」と書かれる様になる。1960年代に近鉄電車の検車庫問題と国道建設問題に対する二度の国民的保存運動が起こった。現在は、ほぼ本来の平城宮跡地が指定され保存されている。

なお、唐招提寺の講堂(国宝)は平城宮朝堂院にあった建物の一つである東朝集殿を移築した物である。切妻屋根を入母屋にしたり、鎌倉時代の様式で改造されている箇所もあるが、平城宮唯一の建築遺構として貴重である。
   
 春日山原始林  春日山原始林


春日山原始林(かすがやまげんしりん)は、奈良県奈良市の市街の東方に位置する原始林で約250haの広さがある。春日大社の神域として古来より狩猟や伐採が禁止され、積極的な保護により原始性を保ってきた。奈良の景観保全上においても重要な役割を果たしており、ユネスコの世界文化遺産「古都奈良の文化財」の一要素となっている[1][2]。


春日山は春日大社の山として神聖視され、樹木伐採が841年(承和8年)から禁じられてきたため、森林が極相に達した原生林が広がっている。暖帯北部に属する地域であるが、暖帯南部の植物が非常に多く、繁殖もさかんである。主な樹種はナギ・ヤマモモ・シイノキ・アラカシ・ツクバネガシ・イチイガシ・カゴノキ・アオガシ・イスノキ・サカキ・クロバイなどである。林中には蔓性植物も多く、とくにカギカズラの群生が多い。このほかビナンカズラ・ウドカズラ・テイカカズラ・オオイタビ・ヤマイバラ・ゴトウヅル・フジなども多い。暖地性シダのナチシダ・オオバノハチジョウシダ・ヘラシダ・ウラジロなども多い[3]。また、このような暖地性の草木の中に温帯性のホオノキ・タラノキ・リョウブ・クマノミズキ・ウリハダカエデ・シナノガキ・イモノキなどの樹木が分布錯綜しており、林相的にも興味深い[3]。

市街地(奈良市)に近接して原生林が存在することは極めて珍しく、学術上の価値も高いことから1924年(大正13年)に国の天然記念物に、1955年(昭和30年)2月に特別天然記念物に指定された[3]。また春日山の照葉樹林は国の名勝にも指定されている。1998年(平成10年)12月には古都奈良の文化財の一部として世界遺産に登録された。
   
 日光の社寺(1999年12月)  日光の社寺(1999年12月)



日光の社寺(にっこうのしゃじ)は、栃木県日光市にある寺社などから構成されるユネスコの世界遺産である。日光山内(にっこうさんない)、二社一寺(にしゃいちじ)とも称される。

1998年(平成10年)5月14日、世界遺産登録推薦にさきがけて国の史跡に指定された。指定名は「日光山内」、管理団体は日光市である。従来、建造物については国宝や重要文化財に指定され、保護が図られている山内地区であったが、面的な保護策は講じられていなかった。そこで、文化庁、栃木県教育委員会、専門家、学識経験者が協議し、二社一寺をはじめとする土地所有者、土地占有者ならびに関係者等の協力を得て日光山内50.8ヘクタールが文化財保護法にもとづく史跡指定を受けた。


日光東照宮


日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)は、日本の関東地方北部、栃木県日光市に所在する神社。江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現(とうしょうだいごんげん)を祀る。日本全国の東照宮の総本社的存在である。正式名称は地名等を冠称しない「東照宮」であるが、他の東照宮との区別のために、「日光東照宮」と呼ばれることが多い。

その歴史は少なくとも源義朝による日光山造営までさかのぼり得るもので、源頼朝がその母方の熱田大宮司家の出身者を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて、東国の宗教的権威となっていた。こうした歴史を背景に、徳川氏は東照宮を造営したと考えられる。


文化財 本殿側から見る陽明門

神厩舎。三猿の彫刻が描かれている。

上神庫。例祭等に使用する道具が収められている。

唐門




奥社 唐門と銅宝塔(徳川家康墓)
建造物[編集]
国宝(8棟)
以下の5件8棟の建造物が国宝に指定されている[2]。
本殿、石の間及び拝殿(1棟)
正面及び背面唐門 2棟
東西透塀 2棟
陽明門
東西回廊 2棟(附 潜門)
重要文化財(34棟)
(*)印の2棟は東照宮と輪王寺のいずれに帰属するか未決着である[3]。
上社務所(祈祷殿)
神楽殿
神輿舎
鐘楼
鼓楼
(*)本地堂
(*)経蔵(輪蔵)
上神庫
中神庫
下神庫
水屋
神厩
表門(附 簓子塀)
五重塔
石鳥居
坂下門
奥社宝塔(銅製)(附 銅製華瓶・燭台・香炉)
奥社唐門(銅製)(附 銅製狛犬2躯)
奥社石玉垣
奥社拝殿
奥社銅神庫
奥社鳥居(銅製)
奥社石柵(附 石狛犬2躯)
仮殿本殿、相之間、拝殿(1棟)
仮殿唐門
仮殿掖門及び透塀 2棟
仮殿鳥居(銅製)
仮殿鐘楼(附 石燈籠2基)
御旅所本殿(附 石舞台、東遊再興記石碑)
御旅所拝殿
御旅所神饌所(附 渡廊)
旧奥社唐門(石造)
旧奥社鳥居(石造)
旧奥社唐門と旧奥社鳥居の2棟は、17世紀半ばの地震で倒壊した後、山中に埋められ、銅製の鳥居と門に建て替えられた。その後1967年に発掘され、東照宮宝物館脇に復元・再建された。
(以下は「附」(つけたり)指定物件)
参道(石鳥居以内)
鐘舎(鐘楼前)
燈台(鐘楼前、蓮燈籠)
燈台穂屋(鼓楼前、回転燈籠)
燈台穂屋(鼓楼前、釣燈籠)
銅神庫
渡廊(陽明門東方回廊の東)
銅庫門(附 板塀)
非常門(附 銅板塀)(中神庫北方)
鳥居(銅製)(水盤舎前)
内番所
西浄
東通用御門(下神庫東方)
石柵(陽明門前、鐘楼・鼓楼前、非常門脇、表門前、五重塔周囲)
銅燈籠16基
鉄燈籠2基
石燈籠104基
   
 日光二荒山神社  日光二荒山神社(別宮本宮神社、別宮滝尾神社を含む)



日光二荒山神社(にっこうふたらさんじんじゃ)は、栃木県日光市にある神社。式内社(名神大社)論社、下野国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

正式名称は「二荒山神社」であるが、宇都宮市の二荒山神社(宇都宮二荒山神社)との区別のために地名を付して「日光二荒山神社」と呼ばれる。古くは「日光三社権現」と称された[1]。

ユネスコの世界遺産に「日光の社寺」の1つとして登録されている。



本社 - 日光の社寺最奥に鎮座

日光の社寺(にっこうのしゃじ)は、栃木県日光市にある寺社などから構成されるユネスコの世界遺産である。日光山内(にっこうさんない)、二社一寺(にしゃいちじ)とも称される。

日光東照宮
日光二荒山神社(別宮本宮神社、別宮滝尾神社を含む)
日光山輪王寺(大猷院霊廟を含む)
   
 中宮祠  中宮祠 - 中禅寺湖畔



中宮祠 中宮祠中門(重要文化財) 後背に男体山。

中宮祠は、男体山中腹の中禅寺湖畔に鎮座する。「中宮祠」とは、本社と奥宮との「中間の祠」の意である。

勝道上人による782年(天応2年)の男体山登頂ののち、784年(延暦3年)に建立されたという。この時、同時に中禅寺も当社の神宮寺として創建された。古くは「男体中宮」「男体権現」「中禅寺権現」とも称された[4]。棟札の写しによれば、1096年(永長元年)、1155年(久寿2年)、1161年(永暦2年)の社殿造営が確認されている[4]。その後、現在の社殿が1699年(元禄12年)に造営された。

当地は古くから男体山登山の表口とされ、現在も登拝口(登山口)が本殿横に位置している。入り口の登拝門は開山時(5月5日-10月25日)のみ門が開く。7月31日-8月8日の登拝祭の間は、中宮祠本殿から奥宮に神像が遷される[4]。

境内は本殿を始めとして7棟が重要文化財に指定されているほか、イチイが栃木県指定天然記念物に指定されている。また宝物館では、二荒山神社が所有する刀剣等の多くの宝物を展示している。
   
 奥宮 - 男体山山頂  奥宮


奥宮社殿
男体山山頂に鎮座する。勝道上人により782年(天応2年)に創建された。

奥宮近くの太郎山神社[5]付近からは奈良時代から近世に至る祭祀遺物が出土し、一帯は「男体山頂遺跡」と言われる。出土品の多数は重要文化財に指定されており、中宮祠宝物館にて保管されている。


別宮





本宮神社 本殿(重要文化財)
別宮の2社は、本社とともに「日光三社」とされ、かつては「日光三社権現」とも総称されていた[1]。
本宮神社 鎮座地:栃木県日光市山内
祭神:味耜高彦根命 - 太郎山祭神

社寺の建つ「日光山内」の入り口に鎮座する。鎮座地は本社の旧鎮座地と伝わる。山を拝することのできるよう、本殿裏側には扉が設けられている。滝尾神社 鎮座地:栃木県日光市山内(位置)
祭神:田心姫命 - 女峯山祭神

「日光山内」の北奥、白糸の滝付近に鎮座する。本宮神社同様、山を拝することのできるように本殿裏側には扉が設けられている。滝尾神社境内社
滝尾高徳水神社 - 祭神:罔象女大神。1979年(昭和54年)丹生川上神社より勧請、1998年(平成10年)現在地に遷座
滝尾稲荷神社
   
 日光山輪王寺  日光山輪王寺(大猷院霊廟を含む)

103棟(国宝9棟、重要文化財94棟)の「建造物群」と、これらの建造物群を取り巻く「遺跡(文化的景観)」が登録されている。




輪王寺(りんのうじ)は、栃木県日光市にある寺院で、天台宗の門跡寺院である。

創建は奈良時代にさかのぼり、近世には徳川家の庇護を受けて繁栄を極めた。明治初年の神仏分離令によって寺院と神社が分離されてからは、東照宮、二荒山神社とあわせて「二社一寺」と称されているが、近世まではこれらを総称して「日光山」と呼ばれていた。

「輪王寺」は日光山中にある寺院群の総称でもあり、堂塔は広範囲に散在している。国宝、重要文化財など多数の文化財を所有し、徳川家光を祀った大猷院霊廟や本堂である三仏堂などの古建築も多い。境内は東照宮、二荒山神社の境内とともに「日光山内」として国の史跡に指定され、「日光の社寺」として世界遺産に登録されている。






日光山内の社寺は、東照宮、二荒山神社、輪王寺に分かれ、これらを総称して「二社一寺」と呼ばれている。東照宮は徳川家康を「東照大権現」という「神」として祀る神社である。一方、二荒山神社と輪王寺は奈良時代に山岳信仰の社寺として創建されたもので、東照宮よりはるかに長い歴史をもっている。ただし、「二社一寺」がこのように明確に分離するのは明治初年の神仏分離令以後のことであり、近世以前には、山内の仏堂、神社、霊廟等をすべて含めて「日光山」あるいは「日光三所権現」と称し、神仏習合の信仰が行われていた。現在、輪王寺に属する建物が1箇所にまとまっておらず、日光山内の各所に点在しているのは、このような事情による。「経蔵」「薬師堂(本地堂)」など、一部の建物については21世紀の現在も東照宮と輪王寺のいずれに帰属する建物であるか決着を見ていない。

輪王寺は、下野国出身の奈良時代の僧・勝道上人により開創されたと伝承されているが、当時の歴史書にそのような記録は見られない。下野国には当時、東国一の寺院と言われた下野薬師寺があり、早くから仏教文化の栄えた土地であったこと、また平安時代初期には当時の日本の中央政府が下野国二荒神(延喜式神名帳に拠ると下野国河内郡に座す)の国家への多大な貢献に報いていたことは六国史より容易に推察できるが、日光や勝道の文字は一切見られない。輪王寺の寺伝によれば、当寺の開創の様子は以下のとおりである。

天平神護2年(766年)、勝道と弟子の一行は、霊山である日光山の麓にたどりついたが、大谷川(だいやがわ)の激流が彼らの行く手をはばみ、向こう岸へ渡ることができずに困っていた。そこへ、首から髑髏(どくろ)を下げた、異様な姿の神が現われ「我は深沙大王(じんじゃだいおう)である」と名乗った。深沙大王は2匹の大蛇を出現させると、それらの蛇はこちら岸と向こう岸を結ぶ橋となり、勝道ら一行は無事対岸へ渡ることができたという。現在、日光観光のシンボルでもある「神橋」(しんきょう)は「山菅蛇橋」(やますげのじゃばし)とも呼ばれ、その伝承の場所に架かっている。深沙大王は「深沙大将」とも呼ばれ、唐の玄奘三蔵が仏法を求めて天竺(インド)を旅した際に危機を救った神であるとされ、神橋の北岸には今も深沙大王の祠が建っている。「2匹の大蛇」の話は実話ではなく伝説であるが、この伝説が日光山が古くから山岳信仰の聖地であったこと、日光山が近付きがたい場所であったことを投影しているものと推察される。

勝道は、大谷川の対岸に聖地を見付け、千手観音を安置する一寺を建てた。紫の雲たなびく土地であったので、「紫雲立寺」(しうんりゅうじ)と言ったが、後に「四本龍寺」(しほんりゅうじ)と改めたという。現在の輪王寺の本堂(三仏堂)は、大谷川からかなり離れた土地にあるが、四本龍寺の旧地にも観音堂と三重塔(いずれも国の重要文化財)が建っている。翌神護景雲元年(767年)、勝道は四本龍寺に隣接する土地に男体山(二荒山)の神を祀った。二荒山神社の始まりである。現在、「本宮神社」と呼ばれている社地がこれに当たる。なお、勝道がこの神を祀ったのは、延暦9年(790年)だとする説もある。

天応2年(782年)、勝道は日光の神体山である男体山(2,486メートル)の登頂に成功した。観音菩薩の住処とされる補陀洛山(ふだらくさん)に因んでこの山を二荒山(ふたらさん)と名付け、後に「二荒」を音読みして「ニコウ=日光」と呼ばれるようになり、これが「日光」の地名の起こりであるという。男体山の山頂遺跡からは、奈良時代にさかのぼる仏具など各種資料が出土しており、奈良時代から山岳信仰の聖地であったことは確かである。

延暦3年(784年)、勝道は、四本龍寺西方の男体山麓にある湖(中禅寺湖)のほとりに中禅寺を建立した。これは、冬季の男体山遥拝所として造られたものと言われている。「立木観音」の通称で知られる中禅寺は現存しているが、当初は湖の北岸にあった堂宇が明治時代の山津波で押し流されたため、現在は湖の東岸に移転している。

創建以後、平安時代には真言宗宗祖の空海や天台宗の高僧・円仁(慈覚大師)らの来山が伝えられる。円仁は嘉祥元年(848年)来山し、三仏堂、常行堂、法華堂を創建したとされ、この頃から輪王寺は天台宗寺院としての歩みを始める(現存するこれらの堂は、いずれも近世の再建)。「常行堂」「法華堂」という同形同大の堂を2つ並べる形式は天台宗特有のもので、延暦寺や寛永寺にも同名の堂が建てられた。

鎌倉時代の日光山は幕府や関東地方の有力豪族の支援を受け隆盛した。男体山、女峰山、太郎山の三山の神を「日光三所権現」として祀る信仰はこの頃に定着したようである。三山、三所権現、祭神(垂迹神)、三仏(本地仏)の対応関係は次のとおりである。
男体山(2,486メートル)=新宮権現=大己貴命(おおなむちのみこと)=千手観音
女峰山(2,464メートル)=滝尾(たきのお)権現=田心姫命(たごりひめのみこと)=阿弥陀如来
太郎山(2,386メートル)=本宮権現=味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)=馬頭観音

以上のように日光山では山、神、仏が一体のものとして信仰されていたのであり、輪王寺本堂(三仏堂)に3体の本尊(千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音)を安置するのは、このような信仰形態によるものである。

輪王寺は戦国時代の間に壬生綱房の謀略によって事実上壬生氏の傘下に入ることになる。

輪王寺は天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際、北条氏側に加担したかどで寺領を没収され、一時衰退した。しかし、近世に入って、天台宗の高僧・天海が貫主(住職)となってから復興が進んだ。元和3年(1617年)には徳川家康の霊を神として祀る東照宮が設けられた(現存の東照宮社殿はこの時のものではなく、20年ほど後に建て替えられたもの)。承応2年(1653年)には3代将軍徳川家光の霊廟である大猷院(たいゆういん)霊廟が設けられた。東照宮と異なり仏寺式の建築群である大猷院霊廟は近代以降、輪王寺の所有となっている。その翌年の明暦元年(1655年)には後水尾上皇の院宣により「輪王寺」の寺号が下賜され(それまでの寺号は平安時代の嵯峨天皇から下賜された「満願寺」であった)、後水尾天皇の第3皇子・守澄法親王が入寺した。以後、輪王寺の住持は法親王(親王宣下を受けた皇族男子で出家したもの)が務めることとなり、関東に常時在住の皇族として「輪王寺門跡」あるいは「輪王寺宮」と称された。親子による世襲ではないが宮家として認識されていた。寛永寺門跡と天台座主を兼務したため「三山管領宮」とも言う。のちに還俗して北白川宮能久親王となる公現法親王も、輪王寺門跡の出身である。輪王寺宮は輪王寺と江戸上野の輪王寺及び寛永寺(徳川将軍家の菩提寺)の住持を兼ね、比叡山、日光、上野のすべてを管轄して強大な権威をもっていた。東国に皇族を常駐させることで、西国で天皇家を戴いて倒幕勢力が決起した際には、関東では輪王寺宮を「天皇」として擁立し、徳川家を一方的な「朝敵」とさせない為の安全装置だったという説もある(「奥羽越列藩同盟」、「北白川宮能久親王(東武皇帝)」参照)。

だが、戊辰戦争の後に明治政府によって輪王寺の称号を没収されて、(明治2年(1869年))旧称の「満願寺」に戻される。さらに、追い討ちをかけるように輪王寺宮本坊が焼失した。だが、明治15年(1883年)に栃木県のとりなしによって輪王寺を正式の寺号とすることが許されたのである。
   
 琉球王国のグスク及び関連遺産群  琉球王国のグスク及び関連遺産群(2000年12月)





琉球王国のグスク及び関連遺産群(りゅうきゅうおうこくのグスクおよびかんれんいさんぐん)は、沖縄本島南部を中心に点在するグスクなどの琉球王国の史跡群から構成されるユネスコの世界遺産(文化遺産)である。2000年に日本で11件目の世界遺産として登録された。

なお、各グスクの登録の名称は下記のとおり「じょうあと」で、「ぐすくあと」、「じょうせき」とはしていない。
   
 今帰仁城跡  今帰仁城跡


今帰仁城(なきじんぐすく、なきじんじょう、別名:北山城(ほくざんじょう、ほくざんぐすく))は、沖縄県国頭郡今帰仁村に位置する城跡である。14世紀、琉球王国成立以前に存在した北山の国王・北山王の居城であった。国の史跡に指定されている。



城内からは中国や東南アジアなどの陶磁器が多く出土し、往時の繁栄をうかがわせる。北山は尚巴志に1416年(応永23年・永楽14年。1422年(応永29年・永楽20年)説もある)に滅ぼされるが、北山が滅ぼされた後も旧北山統治の要所として引き続き使用され、北山監守が派遣された。1609年の薩摩藩による琉球侵略の際には、その攻撃の第一目標となった。

現在も石垣などの遺構の整備が進み、今帰仁城跡として1972年(昭和47年)5月15日に国の史跡に今帰仁城跡として指定される[1]。門から城の中心部へと向かう階段(戦後に造られたもの)の左右にはカンヒザクラの並木があり、毎年1月末 - 2月始めに開花する。本部町の八重岳などと並び、桜の名所として知られている(日本トランスオーシャン航空作成の壁掛けカレンダーの1月は最近数年間この桜景色が写真を飾っている)。城内には志慶真乙樽歌碑や山北今帰仁城監守来歴碑記などの碑もある。

2000年(平成12年)11月に首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された(登録名称は今帰仁城跡)。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(98番)に選定された。

2010年(平成22年)2月22日に国の史跡地域が追加され、史跡名称が今帰仁城跡 附シイナ城跡へ改められた
   
 座喜味城跡  座喜味城跡


座喜味城(ざきみぐすく・ざきみじょう)は、沖縄県中頭郡読谷村にあるグスク(城)である。

1416年-1422年に読谷山の按司護佐丸(ごさまる)が築城したとされている。城門のアーチに楔石を用いており、アーチ門では古い形態とされる。

沖縄戦前には日本軍の砲台や、戦後には米軍のレーダー基地が置かれたため一部の城壁が破壊されたが、城壁の復元が行われた。

1972年(昭和47年)5月15日、沖縄の本土復帰と同時に国の史跡に指定されたが、米軍基地として使用されていた部分は指定し得なかったため、返還を機に追加指定された。ただし、現状変更のあった部分(西側道路部分)についてはのちに指定を解除している。

2000年11月首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されている(登録名称は座喜味城跡)。城内で演劇が行われるなど、広く利用されている。城跡の高台から西側を望むと残波岬や、晴れた日には慶良間諸島も眺めることができる。
   
 勝連城跡  勝連城跡




勝連城(かつれんぐすく・かつれんじょう)は、沖縄県うるま市にあるグスク(城)である。阿麻和利の城として知られている。


城は勝連半島の南の付け根部にある丘陵に位置する。南城(ヘーグシク)、中間の内、北城(ニシグシク)で構成されている。北城は石垣で仕切られた一から三の郭が階段状に連なり、一の郭が最も高く標高約100mの丘陵上にある。

13世紀-14世紀に茂知附按司により築城されたという。この城の最後の城主が阿麻和利である。阿麻和利はクーデターを起こしてこの地方の按司となり、琉球の統一を目論んだが1458年に琉球王府によって滅ぼされた。

城内からは中国、元代の陶磁器(染付)が出土しており、『おもろさうし』からも当時の繁栄をみることができる。

城壁の石は道路工事の石材などとして持ち去られたが、現在は復元工事により往時の姿を取り戻しつつある。

1972年(昭和47年)5月15日、国の史跡に指定された。2000年(平成12年)11月首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されている(登録名称は勝連城跡)。登録されたグスクの中では最も築城年代が古いグスクとされている。

2010年(平成22年)、沖縄本島近海地震で城壁の一部が崩落する被害を受けた
   
 中城城跡  中城城跡


中城城(なかぐすくじょう)は、沖縄県中頭郡北中城村・中城村に存在した日本の城。15世紀の琉球王国・尚泰久王代、護佐丸のグスク(城)として知られる。城壁の増築により現在みられる規模になったと考えられるが、築城の時期は不明。


中城城は当時貿易港であった屋宜港から2キロメートルほど離れた標高約160メートルの丘陵上にあり、中城村の北西から南側に伸びていく丘陵の東崖縁を天然の要害とし、グスクの中で最も遺構がよく残っていることで知られている。 石垣の上に立つと西に東シナ海、東に中城湾(太平洋)、さらには洋上の島々まで見渡せる。
   
 首里城跡  首里城跡


首里城(しゅりじょう、スイグスク)は、沖縄県那覇市首里にあり、かつて海外貿易の拠点であった那覇港を見下ろす丘陵地にあった城。

琉球王朝の王城で、沖縄県内最大規模の城(グスク)であった。戦前は正殿などが国宝であったが、1945年(昭和20年)の沖縄戦と戦後の琉球大学建設により完全に破壊され、わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っている。1980年代前半の琉球大学の西原町への移転にともない、本格的な復元は1980年代末から行われ、1992年(平成4年)に、正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元された。1993年(平成5年)に放送されたNHK大河ドラマ「琉球の風」の舞台になった。1999年(平成11年)には都市景観100選を受賞。その後2000年(平成12年)12月、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されたが、登録は「首里城跡(しゅりじょうあと)」であり、復元された建物や城壁は世界遺産ではない。

周辺には同じく世界遺産に登録された玉陵、園比屋武御嶽石門のほか、第二尚氏の菩提寺である円覚寺(えんかくじ)跡、国学孔子廟跡、舟遊びの行われた池である龍潭、弁財天堂(べざいてんどう)などの文化財がある。



首里城の創建年代は明らかではない。近年の発掘調査から最古の遺構は14世紀末のものと推定され、三山時代には中山の城として用いられていたことが確認されている。おそらく、13世紀末から14世紀のグスク造営期に他の沖縄の多くの城同様に成立したものと考えられる。 尚巴志が三山を統一し琉球王朝を立てると、首里城を王家の居城として用いるようになった。同時に首里は首府として栄え、第二尚氏においても変えられることはなかった。

史書で記録されている限りでも、首里城は数度にわたり焼失しており、そのたびに再建されてきた。その度に木材の調達が問題となり、薩摩藩からの木材提供で再建を行ったり、将来の木材需要を見越して本島北部での植林事業を行ったりしている。一度目の焼失は1453年(享徳2年)に第一尚氏の尚金福王の死去後に発生した王位争い(志魯・布里の乱)であり、城内は完全に破壊された。二度目の焼失は1660年(万治3年)のことであり再建に11年の年月を要した。しかし1709年(宝永6年)に三度目の火災が起き正殿・北殿・南殿などが焼失した。この時は財政が逼迫しており、1712年(正徳2年)に薩摩藩から2万本近い原木を提供された。現在見る首里城の建築は、三度目の火災の後再建された1715年(正徳5年)から1945年(昭和20年)までの姿を基にしている。なお、1712年(正徳2年)発行の「和漢三才図絵」(寺島良安・編)には首里城が「琉球国」の項の挿絵(地図)のなかに描かれている[1]。

1879年(明治12年)の沖縄県設置に至る琉球処分以後は、正殿など首里城の建物は政府の所在地としての役割を喪失し、日本陸軍の第6師団(熊本)の軍営として、その後は首里区(後の首里市)に払い下げられ、学校などとして利用された。

王宮でなくなった首里城は急速に荒廃が進み、老朽化が激しく崩壊寸前の状態になった。既に門のいくつかは取り壊されており、正殿の取り壊しも検討された。しかし、伊東忠太、鎌倉芳太郎ら関係者の奔走により保存が決定され、昭和初期(1928年(昭和3年) - 1933年(昭和8年))に正殿の改修工事が行われて国宝に指定され、県社沖縄神社の社殿となり源為朝と歴代国王が祀られた(源為朝が琉球へ逃れ、その子が初代琉球王舜天になったという説がある[2])。

太平洋戦争中の沖縄戦において日本軍が首里城の下に地下壕を掘り陸軍第32軍総司令部を置いたこともあり、1945年5月25日から3日間に渡りアメリカ軍艦ミシシッピなどから砲撃を受け、27日に焼失したとされる。(今も、龍潭池には、地下壕の入り口や弾痕などが確認できる)さらに日米両軍の激しい戦闘で、首里城やその城下の町並み、琉球王国の宝物・文書を含む多くの文化財が破壊された。宝物庫は奇跡的に戦災を免れたが、中の財宝は全て米軍に略奪された。戦後しばらくして一部が返還され、また所在が明らかになり返還に向け交渉中のものもある。また近年尚家が保有していた琉球王国関連の資財が寄贈され、沖縄県立博物館・美術館などで保管・展示されている。

戦後、首里城跡に琉球大学が置かれたことで、多くの遺構が撤去あるいは埋められたが、首里城の再建は戦後間もなくから多くの人々の悲願だった。

1958年(昭和33年)、守礼門が再建されたのを皮切りに円覚寺門など周辺の建築から再建が始まる。1972年(昭和47年)、日本復帰後に国の史跡に指定(1972年5月15日指定)され、城の入り口に当たる歓会門と周囲の城郭が再建された。1979年(昭和54年)に琉球大学が首里城跡から移転すると1980年代に県および国による首里城再建計画が策定され、本格的な復元がはじまった。1989年(平成元年)11月より[3]、遺構の発掘調査や昭和初期の正殿改修図面・写真資料、古老の記憶などを元に、工芸家や職人を動員した当時の装飾・建築技術の復元作業が行われて正殿他の再建が始まった[4]。屋根瓦については色についてさえ記録がなく、当時を知る老人を集めて話を聞いても赤~黒まで意見がバラバラで難航した。すでに琉球瓦を生産しているのは奥原製陶ただ1軒だけであり、4代目主奥原崇典の尽力によって首里城の瓦が復元された[5]。

1992年(平成4年)11月2日には正殿を中心とする建築物群、そこへ至る門の数々と城郭が再建され首里城公園が開園した。現在は、首里城を中心とした一帯が首里城公園として整備・公開がすすめられており、正殿の裏側にあたる城郭や建築物群の再建事業も引き続き行われている。2000年(平成12年)には「首里城跡」(しゅりじょうあと)として他のグスクなどとともに「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の名称で世界遺産に登録された。2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(100番)に選定された。
   
 園比屋武御嶽石門  園比屋武御嶽石門



園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)は16世紀の琉球王国・尚真王時代の御嶽で、沖縄県那覇市首里真和志町一丁目に位置する。沖縄県指定史跡。


石門の背後にある森が園比屋武御嶽である。この御嶽は国王が各地を巡航する旅に出る際必ず拝礼した場所であり、また聞得大君が就任する時にまず最初に拝礼した、いわば国家の聖地だった。王家尚氏ゆかりの島である伊平屋島の神「田の上のソノヒヤブ」を勧請し、祭っている。もともとは今よりも広範な森であったが、現在では小学校の敷地となっている部分もあり、残されているのは一部である。

首里城歓会門と守礼門との間にある園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)がこの御嶽の礼拝所である。園比屋武御嶽石門は、1519年に第二尚氏王統第3代王の尚真のときに造られた。オヤケアカハチの乱(1500年)で王府軍が八重山へ出兵した際に、将の一人であった大里親方に見込まれ首里に連れてこられた西塘により創建されたという。

1933年1月23日旧国宝に指定されたが、沖縄戦の戦禍によって王城などとともに荒廃し、指定解除。1957年に復元され、さらにその後旧石門の残欠を再利用して修復作業が行われた。現在の石門を注意深く見てみると、明らかに摩耗の度合いが異なる部分があるのは、このためである。園比屋武御嶽石門は1972年にあらためて国の重要文化財に指定され、2000年11月首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録された。

また、西塘によって作られた竹富島の国仲御嶽は、園比屋武御嶽の神を勧請した御嶽である。
   
 玉陵  玉陵


玉陵(たまうどぅん、玉御殿または霊御殿とも)は、琉球王国、第二尚氏王統の歴代国王が葬られている陵墓。所在地は沖縄県那覇市首里金城町。そもそもは第3代尚真王(在位1477年 - 1526年)が父、尚円王を葬るために建築したものである。世界遺産のひとつで沖縄県最大の破風墓。なお「玉陵」と名付く墓所はほかに「伊是名玉陵」、「山川の玉陵」がある。
玉陵は中室、東室、西室の3つの建築物に分かれる。中室は葬儀の後、当時の琉球の葬制に基づき遺骸が骨になるまで放置し、数年後に骨を取り出して洗骨した。洗骨した後に遺骨を骨壺に収め、王及びその妃の骨は東室に納められ、他の王族は西室に納められた。建造物の外は外庭、中庭に石壁で仕切られ、中庭には珊瑚の破片が敷き詰められている。

第二次世界大戦末期には、日本軍総司令部に近かった玉陵は首里城と共に集中砲撃の巻き添えに会い、東室・西室が破壊されるなど大きな被害を受けた。現在見られる大部分は第二次世界大戦後に復元されたものである。また第二次世界大戦で亡くなった旧制沖縄県立第一中学校(現・首里高等学校)の生徒を弔うための「一中健児の塔」などが近くに建立されている。

2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録された他、全体が国の史跡、玉陵墓室石牆が国の重要文化財(建造物)、石彫獅子と玉陵碑が県の有形文化財(彫刻)に指定されている。



尚真王
おぎやか (尚円王の妃、尚真王の母)
聞得大君・音智殿茂金 (尚真王の妹)
佐司笠按司・真鍋樽 (尚真王の長女)
尚清王 (尚真王の世子)
尚韶威・今帰仁王子朝典 (尚真王の三男)
尚龍徳・越来王子朝福 (尚真王の四男)
尚享仁・金武王子 (尚真王の六男)
尚源道・豊見城王子 (尚真王の七男)

の子孫だとされるが、これは尚真王が生存中は守られていたであろうが、子の尚清王は即位ののち、すぐにこの碑文の内容に反し、廃嫡された兄:尚維衡・浦添王子朝満を玉陵に移葬している。また、各王子の子孫もここには葬られず、それぞれ各家で墓所をもっている。

例外を除き、基本的に被葬者は歴代王と王妃であると思って良い。

1931年、尚家20代当主尚典の夫人:祥子(野嵩按司加那志)の入棺の後、新たな被葬者はいない
   
 識名園  識名園



識名園(しきなえん)は沖縄県那覇市識名にある琉球庭園の一つ。

識名の御殿(しちなぬうどぅん)とも、また首里城の南にあることから南苑(なんえん)とも呼ばれた。造園は琉球の第二尚氏王朝、尚穆(在位・1752年 - 1795年)の時代に始まったと言われるが定かではない。完成は尚温の時代の1799年。

中国の様式と沖縄独自の様式の折衷様式で建築されている。完成当時は中国皇帝からの使者(冊封使)をもてなす、現在でいう迎賓館として使われた。「勧耕台」と称する展望台があるが、海を望むことはできない。これは琉球をより大きな国に見せるためともいわれている。

第二次世界大戦で園内のほとんどの建造物が破壊されたため、現在見られるものは復元(工期:1975~1995年)である。

1941年、国の名勝に指定され、戦禍で壊滅後、1976年に再指定。2000年には国の特別名勝に指定され、同年12月にユネスコの世界遺産に登録。

1999年以来、毎年11月3日(文化の日)には園内で識名園歌会(花ゆうな短歌会主催・那覇市教育委員会共催)が開かれ、短歌を楽しむ人達でにぎわう。また11月第4日曜日には、識名園友遊会(識名園友遊会実行委員会主催:真和志自治会長連絡協議会、那覇市教育委員会共催)が開催され、地域の伝統芸能発表が行なわれている。

なお、敷地内に「育徳泉(いくとくせん)」という泉が湧く。そこに生える淡水産の紅藻類「シマチスジノリ」は国の天然記念物である。
   
 斎場御嶽  斎場御嶽


斎場御嶽(せーふぁうたき/サイハノうたき)は現在の沖縄県南城市(旧知念村)にある史跡。15世紀-16世紀の琉球王国・尚真王時代の御嶽であるとされる。「せーふぁ」は「最高位」を意味し、「斎場御嶽」は「最高の御嶽」ほどの意味となり、これは通称である。正式な神名は「君ガ嶽、主ガ嶽ノイビ」という。


敷地内には首里城内の施設名と同じ拝所が複数ある。 3つの拝所が集中する最奥部の三庫理(さんぐーい)には「チョウノハナ(京のはな)」という最も格の高い拝所があり、クバの木を伝って琉球の創世神であるアマミクが降臨するとされる。 なお、三庫理からは王国開闢にまつわる最高聖地とされている久高島を遥拝することができるが、これについては史書には記述がない。これは、近世になって三庫理の岩壁の一角が崩れたことによるもので、かつての三庫理は三方を岩壁に囲まれた空間だった。
   
 紀伊山地の霊場と参詣道  紀伊山地の霊場と参詣道(2004年7月)



紀伊山地の霊場と参詣道(きいさんちのれいじょうとさんけいみち)は、和歌山県・奈良県・三重県にまたがる3つの霊場(吉野・大峰、熊野三山、高野山)と参詣道(熊野参詣道、大峯奥駈道、高野山町石道)を登録対象とする世界遺産(文化遺産)。2004年7月7日に登録された。
   
 石見銀山遺跡とその文化的景観  石見銀山遺跡とその文化的景観(2007年6月)




石見銀山(いわみぎんざん)は、島根県大田市にある、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山(現在は閉山)である。上述の最盛期に日本は世界の銀の約3分の1を産出したとも推定されるが、当銀山産出の銀がそのかなりの部分を占めていたという[1]。大森銀山(おおもりぎんざん)とも呼ばれ、江戸時代初期は佐摩銀山(さまぎんざん)と呼ばれた。明治期以降は銅などの鉱物が主に採鉱された。


鉱脈は石見国東部、現在の島根県大田市大森の地を中心とし、同市仁摩町や温泉津町にも広がっていた。日本を代表する鉱山遺跡として1969年(昭和44年)に国によって史跡に指定。2007年(平成19年)6月28日にニュージーランドのクライストチャーチで開催されていた世界遺産委員会でユネスコの世界遺産(文化遺産)への登録が決まり、7月2日に正式登録された。一般に銀山開発においては銀の精錬のため大量の薪炭用木材が必要とされたが、石見銀山では適切な森林の管理がなされたことにより環境への負荷の少ない開発がなされ、今日に至るまで銀山一帯には広葉樹などを含む森林が残されてきている点が特に評価されている[2](後述の「登録までの経緯」の節参照)。2007年には日本の地質百選にも選定されている。

初期には仙ノ山山頂付近から自然銀に富む福石(ふくいし)が主に産出し、開発が進行するにつれ地下深くなり、銀を多く含む黄銅鉱、黄鉄鉱、方鉛鉱などの永久鉱床(えいきゅうこうしょう)の採掘に移行していった。



登録対象

和名は島根県教育庁文化財課世界遺産登録推進室による公式サイトの表記、英語表記と数字はユネスコ世界遺産センターによる世界遺産登録物件名と世界遺産登録ID。

銀鉱山跡と鉱山町
銀山柵内 (Ginzan Sakunouchi, 1246-001a) 大久保間歩 - 江戸時代から明治時代にかけて開発された坑道大久保長安が、槍を持って馬に乗ったまま入ったという伝承からついた間歩[31]
金生坑(きんせいこう)- 大久保間歩の排水、精錬所までのトロッコ跡
釜屋間歩(かまやまぶ)- 露天掘跡

上記史跡は2008年(平成20年)よりガイド付きのツアー形式で(完全予約制)で一般公開されている[32]。代官所跡 (Daikansho Site, 1246-001b)
矢滝城跡 (Yataki-jô Site, 1246-001c)
矢筈城跡 (Yahazu-jô Site, 1246-001d)
石見城跡 (Iwami-jô Site, 1246-001e)
大森銀山伝統的重要建造物群保存地区 (Ômori-Ginzan, 1246-001f)
宮ノ前地区 (Miyanomae, 1246-001g)
重要文化財 熊谷家住宅 (House of the Kumagai Family, 1246-001h)
羅漢寺五百羅漢 (Rakan-ji Gohyakurakan, 1246-001i)
佐毘売山神社

石見銀山街道
鞆ヶ浦道 (Iwami Ginzan Kaidô Tomogauradô, 1246-002a)
温泉津沖泊道 (Iwami Ginzan Kaidô Yunotsu-Okidomaridô, 1246-002b)

港と港町
鞆ヶ浦 (Tomogaura, 1246-003a)
沖泊 (Okidomari, 1246-003b)
温泉津重要伝統的建造物群保存地区 (Yunotsu, 1246-003c)
   
 平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群  平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―(2011年6月)



平泉(ひらいずみ)は、岩手県南西部にある古くからの地名であり、現在の平泉町の中心部にあたる[1]。

この地域一帯には、平安時代末期、奥州藤原氏が栄えた時代の寺院や遺跡群が多く残り、そのうち5件が「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」の名で、2011年(平成23年)6月26日(現地時間:6月25日)にユネスコの世界遺産リストに登録された[2]。日本の世界遺産の中では12番目に登録された文化遺産であり[注釈 1]、東北地方では初の世界文化遺産となった。



世界遺産と関わりのある範囲で歴史的背景を概説する。

平泉は北を衣川、東を北上川、南を磐井川に囲まれた地域である。この地を11世紀末から12世紀にかけて約90年間拠点としたのが、藤原清衡に始まる奥州藤原氏である。「平泉」という地名を史料的に確認できる最古の例は『吾妻鏡』の文治5年(1189年)の項目で、時期的に重なっている[3]。その語源は、泉が豊富だったという地形的要因に基づく説がある一方で[4]、仏教的な平和希求の理念に基づくという説もある[5]。

清衡は康和年間に平泉に本拠地を移し、政庁となる「平泉館」(ひらいずみのたち、現 柳之御所遺跡)を建造した。さらに中尊寺を構成する大伽藍群を建立していったが、この時点の平泉にはその2つの建造物群しかなく、都市機能は衣川を挟んだ対岸の地区にあった[注釈 2][6]。

中尊寺金色堂建立の頃を境に建造物は南へと伸長していくようになり、2代基衡の時代には、平泉館での新しい中心地となる大型建物の新築、毛越寺の建立やそれに合わせた東西大路の整備などが行われ、都市機能が着実に整備されていった[7]。3代秀衡の時代には、平泉館の大改築、無量光院の建立やそれにともなう周囲での新市街の形成など、平泉全体の都市景観が大きく様変わりした[8]。初代から3代のそうした変化を、順に「山平泉」「里平泉」「都市平泉」と位置付ける者もいる。

奥州藤原氏は4代泰衡の時に源頼朝によって滅ぼされ、平泉に込められた独自の仏教理念が引き継がれることはなかったが、平泉の建造物群については保護された[10]。それに関連し、頼朝は平泉陥落直後(1189年)に中尊寺や毛越寺の僧侶に対し、報告書の作成と提出を命じた。それが『吾妻鏡』に収録された「寺塔已下注文」(じとういかちゅうもん)で、当時の平泉を窺い知る上での一級史料と評価されている[11]。

後の時代の火災などによって失われた建造物群も少なくないが、昭和から平成にかけての発掘調査などによって、寺院跡などが発見・復元されるようになっている。
   
 中尊寺  中尊寺



中尊寺(ちゅうそんじ)は、平泉町にある天台宗東北大本山である。国宝の金色堂、重要文化財の経蔵などを含み、境内は国の特別史跡に指定されている。世界遺産登録IDは1277rev-001 (Chûson-ji) である。

寺伝によれば開山は9世紀の円仁で、中尊寺の寺号は清和天皇より下賜されたものという[39]。ただし、中尊寺の寺観が整ったのは、12世紀の藤原清衡による伽藍造営時である。清衡は前九年の役、後三年の役で相次いで家族を亡くしたこともあり、敵味方を区別せずに戦没者の魂を浄土へ導くことと、東北に優れた仏教文化を根付かせることを目指し伽藍を建立した。

清衡は12世紀初頭に多宝堂(最初院)を建立したのを皮切りに、多くの建造物群からなる大伽藍を建立した。二階大堂という巨大な堂宇は後に鎌倉の永福寺のモデルにもなったが、それらの建造物群は1337年の火災であらかた焼失した。金色堂は当時の姿のものが残っているが、本堂は1909年に再建されたものである。


金色堂




金色堂
金色堂(こんじきどう)は国宝に指定されている阿弥陀堂である。藤原清衡によって建立され、棟木銘から1124年(天治元年)に完成したことが判明する。高さ8m、平面の一辺が約5.5m で、堂内外の全面に金箔を張り、柱や須弥壇には蒔絵、螺鈿、彫金をふんだんに使った華麗な装飾がほどこされている[42]。須弥壇上には阿弥陀如来を中心に多くの仏像を安置し、須弥壇内部には清衡、基衡、秀衡のミイラ化した遺体や泰衡の首級が納められている。このミイラの存在はかつてアイヌの習俗と結び付ける見解も提示されていたが、現在では、当時の京都でも見られた仏教の様式を取り入れたものと理解されている。

当時の建造物群があらかた焼失した中尊寺にあって、創建当初の姿を伝える貴重な建造物であり、2006年に行われた巻柱の年輪年代学による年代鑑定の結果からもそれは裏付けられた


覆堂




覆堂
国宝の金色堂は現在コンクリート造りの覆堂(さやどう、おおいどう)で守られ、ガラスケースの中に納められている。これは1970年に建造されたものであり、室町時代中期に建造されたそれ以前の旧覆堂は境内の別の場所に移築され、「金色堂覆堂」の名称で重要文化財指定を受けている。

結果的に登録に差し支えることはなかったが、ICOMOS の勧告では、コンクリート製の新覆堂が景観の真正性の観点から若干問題視されていた[34]。
経蔵
経蔵(きょうぞう)は、清衡によって奉納された『紺紙金銀字交書一切経』(こんしきんぎんじこうしょいっさいきょう、国宝)をはじめとする写経群を納めていた建造物である。1126年(天治3年)の「中尊寺落慶願文」には「二階瓦葺経蔵一宇」とあり、当初は2階建てであった。1337年(康永2年)の「中尊寺梵鐘銘」によれば、この年、中尊寺の伽藍は金色堂を残して焼失した[46]。現存する経蔵は、平安時代の古材を再用して中世に再興されたものと推定される。『紺紙金銀字交書一切経』などは現在寺内の讃衡蔵に移管されているが、経蔵の建物は重要文化財の指定を受けている
   
 毛越寺  大泉が池・洲浜


毛越寺(もうつうじ)は平泉町の寺院である。1226年の火災で多くの伽藍が失われ、1573年に完全に焼失した[49]。そのため、当時の本堂は残っていないが、浄土式庭園は特別名勝に、境内は特別史跡に指定されている。特別史跡と特別名勝の二重指定は、国内には8例しかない[50][注釈 4]。世界遺産登録IDは 1277rev-002 (Môtsû-ji) である。

開山は円仁と伝えられるが、再興したのは藤原基衡で、当時としては最大級の規模を誇る寺院であった。『吾妻鏡』の「寺塔已下注文」によれば、中尊寺が「寺塔四十余宇、禅坊三百余宇」に対し、毛越寺は「堂塔四十余宇、禅房五百余宇」とされていた[注釈 5][51]。

現在残る浄土式庭園は平安時代の様式をそのまま残すもので、特に遣水の遺構は平安時代の様式を伝える唯一のものであり、その規模の大きさとともに特筆されている。

常行堂(じょうぎょうどう)は当時のものではなく、1732年に再建された宝形造の堂宇だが、そこで毎年1月20日に行われる「延年の舞」(えんねんのまい)は重要無形民俗文化財となっている。世界遺産推薦に当たっても、当時の浄土思想を伝える無形文化財としての価値に触れられていた
   
 観自在王院跡  観自在王院跡


舞鶴が池・中島
詳細は「観自在王院跡」を参照

観自在王院跡(かんじざいおういんあと)は、平泉町に残る遺跡で、名勝に指定されている。世界遺産登録IDは1277rev-003 (Kanjizaiô-in Ato) である。

観自在王院は藤原基衡の妻によって建立された寺院だが、1573年に焼失した。昭和時代の二度にわたる発掘調査(1954年 - 1956年、1972年 - 1977年)と、修復事業(1973年 - 1978年)によって、当時の姿を偲ばせる庭園が復元された。毛越寺とは南北道路を隔てて隣接しているが、その毛越寺の庭園に比べ、優美ではあるものの簡素な意匠であることが指摘されている。

現在も基衡の妻の命日である5月4日には、その死を悼んで始まったという「哭き祭り」(なきまつり)という祭事が行われている。
   
 無量光院跡  無量光院跡


無量光院跡(むりょうこういんあと)は特別史跡に指定されている巨大な阿弥陀堂跡で、世界遺産登録IDは1277rev-004 (Muryôkô-in Ato) である。

『吾妻鏡』は藤原秀衡が宇治の平等院鳳凰堂を模して建立したと伝えており、1952年の発掘調査の結果もそれを支持するものであった。平泉で京都の様式を全面的に模した寺院が建立されたのはこれが初めてで、京都に比肩する北の王都を建造しようという秀衡の意図の表れと指摘されている。

もちろん、浄土思想の色彩が強い平等院の模倣は、浄土を表現する意思の現われとも指摘されている[54]。建立に当たっては、当初から西方極楽浄土が強く意識され、庭園、阿弥陀堂、背後の金鶏山が東西方向に並ぶように配置されている。その空間配置は、世界遺産への推薦に当たっても浄土式庭園の最も発展した形とされた。
   
 金鶏山  金鶏山


金鶏山(きんけいざん)は、平泉町にある標高 98.6 m の山である。2005年に史跡に指定された。世界遺産登録IDは1277rev-005 (Mt Kinkeisan) である。

金鶏山は奥州藤原氏の都市計画において基準点をなしたと推測されており、山頂の真南には毛越寺境内や幹線道路と直行する道路の端が存在している。また、彼岸の時期に無量光院の堂宇を庭園の中島から眺めると、堂宇の背景で金鶏山の山頂と日没が重なるように見ることができたとされ、単なる基準点にとどまらず、西方極楽浄土を想起させる空間設計上も重要な位置を占めた。
   
 柳之御所遺跡  柳之御所遺跡


柳之御所遺跡(やなぎのごしょいせき)は、平泉町に残る史跡である。1988年以降の調査で、堀に囲まれた敷地に大規模な建造物群跡や膨大な遺物群が発見された。『吾妻鏡』に記録された3代秀衡の居館・政庁の「平泉館」だった可能性が当初指摘されていたが、現在では初代清衡のときから使われていた可能性が高いとされている[57]。なお、「柳之御所」という名称は、後代に源義経にまつわる伝説が元になって付けられたものと推測されており、奥州藤原氏の時代に由来するものではないという。

世界遺産推薦に当たっては、奥州藤原氏の政庁跡という重要性から推薦物件に含まれていた。2008年以降の再検討でも除去されることはなかったが、2011年の世界遺産委員会では浄土思想そのものとの関連性は希薄として、登録物件からの除外が決議された。
   
 達谷窟  達谷窟毘沙門堂 「達谷窟」

達谷窟(たっこくのいわや)は、平泉の南西に位置する寺院を含む史跡である。現在は達谷西光寺があり、そこには伝承上坂上田村麻呂に遡る窟毘沙門堂が含まれる(ただし窟毘沙門堂自体は1961年に再建されたもの)。また、窟毘沙門堂のある岩壁には磨崖仏が刻まれており、奥州藤原氏の時代には有力な寺院であったことが推測されている
   
 白鳥舘遺跡  白鳥舘遺跡(しろとりたていせき)は、奥州市に残る城館跡で、2005年に史跡「柳之御所遺跡・平泉遺跡群」に加えられた。北上川の水運の要衝に位置しており、10世紀から16世紀にかけて、様々な建造物群が建てられていたことが分かっている。安倍氏(清衡の母方の祖先)や奥州藤原氏の時代の利用状況については未解明だが、彼らにつながる伝承をもつ中世城館の遺跡として、最初の世界遺産推薦時には推薦物件に含まれていた。
   
 長者ヶ原廃寺跡  長者ヶ原廃寺跡


長者ヶ原廃寺跡(ちょうじゃがはらはいじあと)は、奥州市に残る寺院跡で、2005年に史跡「柳之御所遺跡・平泉遺跡群」に加えられた。

約1000年前の寺院跡と推測されているものの、寺号も建造者も伝わっていない。ただし、発掘調査の結果によって、かなりの権力者が建造させたと推測できることから、安倍氏にゆかりのある寺院と考えられている。空間配置上も十分に配慮して建てられていたことが推測でき、平泉以前の東北の仏教文化を考察する上で重要な史跡である。

最初の世界遺産審議(2008年)の時点では、平泉の歴史的背景との関連から推薦物件に含まれていたが、翌年にかけての再検討の中で除外された。
   
 骨寺村荘園遺跡と農村景観  「骨寺村荘園遺跡」

骨寺村荘園遺跡(ほねでらむらしょうえんいせき)は、一関市本寺(ほんでら)地区に残る中世の荘園跡で、2005年に一部が史跡に指定された。現在の地区名「本寺」は「骨寺」が変化したという説もある。

藤原清衡の時代、骨寺村の荘園は蓮光(れんこう)という僧侶の私領だったが、蓮光が中尊寺経蔵の別当に任命されると、経蔵の所領として寄進したという[63]。この荘園遺跡の特殊な点は、中尊寺所蔵の重要文化財『陸奥国骨寺村絵図』(むつのくにほんでらむらえず)との関係にある。この絵図は鎌倉時代の成立と推測され、『吾妻鏡』の叙述とも一致する要素を含んでいる。本寺地区は大規模な開発にさらされることがなかったため、いまなおその絵図に描かれた荘園景観と一致する景観を多く保存しているのである。この景観を構成する山王窟、駒形根神社、伝ミタケ堂跡、大師堂、要害館跡など11件が史跡に指定されている。
一関本寺の農村景観
骨寺村荘園遺跡が残る本寺地区は、冬の北西からの季節風を防ぐためのイグネ(屋敷林)を備えた農家が散在する景観など、昔ながらの農村景観が保存されている地区でもある。この「一関本寺の農村景観」(いちのせきほんでらののうそんけいかん)は、2006年に重要文化的景観として選定された。

最初の世界遺産推薦前には、中世の絵図の姿がそのまま残る地区としての特殊性が日本国内の専門家から評価され、文化的景観としての推薦に欠かせない要素として、国や県が地元に参加を求める形で構成資産に加えられた[66]。しかし、2008年のICOMOSの評価では、荘園遺跡の景観が顕著な普遍的価値を持っているという証明が不十分とされた上、中尊寺経蔵と結びつきがあるだけでは浄土思想と結びついていると言うには足りないとして、否定的見解が示された[67]。この結果、2008年から2009年の構成資産の再検討の中で、推薦物件から一度除外し、拡大登録を目指すことが決定された。
   
 富士山―信仰の対象と芸術の源泉  富士山―信仰の対象と芸術の源泉(2013年6月)



「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」[注釈 1](ふじさん-しんこうのたいしょうとげいじゅつのげんせん)は、2013年にUNESCOの世界遺産リストに登録された日本の世界遺産である。静岡県と山梨県にまたがる日本最高峰の富士山は、古来富士信仰が育まれた霊峰であるとともに、葛飾北斎の富嶽三十六景などに代表される芸術上の主要な題材として、日本国内のみならず国際的にも大きな影響を及ぼした文化的景観を形成している。


富士信仰の明確な定義はないが、富士山を神体山として、また信仰の対象として考えることなどを指して富士信仰と言われる。特に富士山の神霊として考えられている浅間大神とコノハナノサクヤビメを主祭神とするのが浅間神社であり、全国に存在する。浅間神社の総本宮が麓の富士宮市にある富士山本宮浅間大社(浅間大社)であり、富士宮市街にある「本宮」と、富士山頂にある「奥宮」にて富士山の神を祭っている。また徳川家康による庇護の下、本殿などの造営や内院散銭取得における優先権を得たことを基に江戸幕府より八合目以上を寄進された経緯で、現在富士山の八合目より上の部分は登山道・富士山測候所を除き浅間大社の境内となっている。登山の大衆化と共に村山修験や富士講などの一派を形成し、富士信仰を形成してきた。

富士参詣の人々を「道(導)者」といい、例えば『妙法寺記』の明応9年(1500年)の記録に「此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須走へ皆導者付也」とある。また、登山における案内者・先導者を「先達」といい、先達の名が見える道者帳(『公文富士氏文書』、文中に「永録6年」とあり)などが確認されている。

登山口は末代上人が開いた登山道を起源とし、登山道が完成されたそれが最初の登山道と言われる村山口である。これにより富士修験が成立したとされる。次第に他の登山道も開削されてゆき、13世紀には大宮・村山口、吉田口、須山口の3登山道の存在が確認されている[1]。後に須走口が出来たとされる。15世紀後半には他の登山口と比べ吉田口を利用する道者が目立つようになっていたと考えられ、特に富士講の隆盛が見られた18世紀後半以降では、他の登山口の合計と同程度であったという[1]。1883年(明治16年)に御殿場口登山道が、1906年(明治39年)に新大宮口が開削された。

神仏習合は富士山も例外ではなかった。山頂部は仏の世界と考えられるようになり、特別な意味を持つようになった[1]。遺例としては正嘉3年(1259年)の紀年銘である木造坐像が古いとされ、これは大日堂(村山)の旧本尊であった。鎌倉時代の書物である『吾妻鏡』には神仏習合による「富士大菩薩」や「浅間大菩薩」という呼称が確認されている。富士山頂の8つの峯(八神峰)を「八葉」と呼ぶことも神仏習合に由来し、文永年間(1264年〜1275年)の『万葉集註釈』には「いただきに八葉の嶺あり」とある。その他多くの書物で「八葉」の記述が確認できる。

しかし、慶応4年(1868年)に神仏分離令が出されると、これら神仏習合の形態は大きく崩されることとなる。富士山中や村山における仏像の取り壊しなどが進んだ[2]。富士山興法寺は分離され、大日堂は人穴浅間神社となり大棟梁権現社は廃されるなど改変が進んだ。北口本宮冨士浅間神社では仁王門や護摩堂などが取り壊されることとなった[1]。仏教的な名称なども改称され、「八葉」の呼び名も変更された。
   
 富士山域  富士山域

富士山域 (Fujisan Mountain Area, 1418-001) の登録面積は19311.9 haである。これには、
山頂の信仰遺跡群
大宮・村山口登山道(現富士宮口登山道)
須山口登山道(現御殿場口登山道)
須走口登山道
吉田口登山道
北口本宮冨士浅間神社
西湖
精進湖
本栖湖

が含まれる[26]。所在地は山梨県富士吉田市、身延町、鳴沢村、富士河口湖町、静岡県富士宮市、富士市、裾野市、御殿場市、小山町にまたがり、県境未確定地を含む。

富士山本宮浅間大社[編集]

詳細は「富士山本宮浅間大社」を参照

富士山本宮浅間大社 (Fujisan Hongu Sengen Taisha Shrine, 1418-002) の登録面積は4.8 ha である。 所在地は静岡県富士宮市。

山宮浅間神社[編集]

詳細は「山宮浅間神社」を参照

山宮浅間神社 (Yamamiya Sengen-jinja Shrine, 1418-003) の登録面積は 0.5 ha である。所在地は静岡県富士宮市。

村山浅間神社[編集]

詳細は「村山浅間神社」を参照

村山浅間神社 (Murayama Sengen-jinja Shrine, 1418-004) の登録面積は 3.6 ha である。所在地は静岡県富士宮市。

須山浅間神社[編集]

詳細は「須山浅間神社」を参照

須山浅間神社 (Suyama Sengen-jinja Shrine, 1418-005) の登録面積は 0.9 ha である。所在地は静岡県裾野市。

冨士浅間神社(須走浅間神社)[編集]

詳細は「東口本宮冨士浅間神社」を参照

冨士浅間神社(須走浅間神社)(Fuji Sengen-jinja Shrine (Subashiri Sengen-jinja Shrine), 1418-006) の登録面積は 1.8 ha である。所在地は静岡県駿東郡小山町。

河口浅間神社[編集]

詳細は「河口浅間神社」を参照

河口浅間神社 (Kawaguchi Asama-jinja Shrine, 1418-007) の登録面積は 1.6 ha である。所在地は山梨県南都留郡富士河口湖町。

冨士御室浅間神社[編集]

詳細は「冨士御室浅間神社」を参照

冨士御室浅間神社 (Fuji Omuro Segen-jinja Shrine, 1418-008) の登録面積は 2.6 ha である。所在地は山梨県南都留郡富士河口湖町。

御師住宅(旧外川家住宅)[編集]

御師住宅(旧外川家住宅)(“Oshi” Lodging House (Former House of the Togawa Family), 1418-009) の登録面積を世界遺産センターは明記していない。所在地は山梨県富士吉田市。

御師住宅(小佐野家住宅)[編集]

御師住宅(小佐野家住宅)(“Oshi” Lodging House (House of the Osano Family), 1418-010) の登録面積は 0.1 ha である。所在地は山梨県富士吉田市。

山中湖[編集]

詳細は「山中湖」を参照

山中湖 (Lake Yamanakako, 1418-011) の登録面積は698.1 ha である。所在地は山梨県南都留郡山中湖村。

河口湖[編集]

詳細は「河口湖」を参照

河口湖 (Lake Kawaguchiko, 1418-012) の登録面積は 592.8 ha である。所在地は山梨県南都留郡富士河口湖町。

忍野八海[編集]

詳細は「忍野八海」を参照

忍野八海は池ごとに構成資産IDが割り振られている。所在地はいずれも山梨県南都留郡忍野村。

忍野八海(出口池)[編集]

忍野八海(出口池)(Oshino Hakkai springs (Deguchiike Pond), 1418-013) の登録面積は 0.048 ha である。

忍野八海(お釜池)[編集]

忍野八海(お釜池)(Oshino Hakkai (Okamaike Pond), 1418-014) の登録面積は 0.002 ha である。

忍野八海(底抜池)[編集]

忍野八海(底抜池)(Oshino Hakkai (Sokonukeike Pond), 1418-015) の登録面積は 0.006 ha である。

忍野八海(銚子池)[編集]

忍野八海(銚子池)(Oshino Hakkai (Choshiike Pond), 1418-016) の登録面積は 0.005 ha である。

忍野八海(湧池)[編集]

忍野八海(湧池)(Oshino Hakkai (Wakuike Pond), 1418-017) の登録面積は 0.078 ha である。

忍野八海(濁池)[編集]

忍野八海(濁池)(Oshino Hakkai (Nigoriike Pond), 1418-018) の登録面積は 0.031 ha である。

忍野八海(鏡池)[編集]

忍野八海(鏡池)(Oshino Hakkai (Kagamikke[sic.] Pond), 1418-019) の登録面積は 0.014 ha である。

忍野八海(菖蒲池)[編集]

忍野八海(菖蒲池)(Oshino Hakkai (Shobuike Pond), 1418-020) の登録面積は 0.042 ha である。

船津胎内樹型[編集]

船津胎内樹型 (Funatsu lava tree molds, 1418-021) の登録面積は 8.2 ha である。所在地は山梨県南都留郡富士河口湖町。

吉田胎内樹型[編集]

吉田胎内樹型 (Yoshida lava tree molds, 1418-022) の登録面積は 5.8 ha である。所在地は山梨県富士吉田市。

人穴富士講遺跡[編集]

詳細は「人穴富士講遺跡」を参照

人穴富士講遺跡 (Hitoana Fuji-ko Iseki, 1418-023) の登録面積は2.8 ha である。所在地は静岡県富士宮市。

白糸ノ滝[編集]

詳細は「白糸の滝 (静岡県)」を参照

白糸ノ滝 (Shiraito no Taki waterfalls, 1419-024) の登録面積は 1.8 ha である。所在地は静岡県富士宮市。

三保松原[編集]

詳細は「三保の松原」を参照

三保松原 (Mihonomatsubara pine tree grove, 1418-025) の登録面積は 64.4 ha である。所在地は静岡県静岡市清水区。前述のようにICOMOSの勧告では除外が相当とされていたが、世界遺産委員会の場では、多くの委員国の賛同を得て登録が認められた。
   
文化財
日本の文化遺産