Patrimoine de l'humanite
ムスカウ公園/ムザコフスキー公園 ムスカウ公園/ムザコフスキー公園は、ドイツの北東部とポーランドの西部、ラウジッツ・ナイセ川が流れる国境に広がる景観公園。1815〜1844年に、ヘルマン・フォン・ピュックラー・ムスカウ王子(1785〜1871年)が造園したもので、都市景観設計への新たなアプローチの先駆けであり、英国式庭園の造園技術の発展にも影響を与えた。見所としては、ドイツ側のムスカウ公園(公式名:フュルスト・ピュックラー公園)のセンター部分にある新城、マウンテン公園の中にある教会の遺跡、ポーランド側の橋梁やピュックラーの石碑などがある。ムスカウ公園/ムザコフスキー公園は、もともと一つの公園であったが、第二次世界大戦後の1945年にナイセ川をドイツとポーランドの国境とし、二か国に分割された。
ライン川上中流域の渓谷 ライン川上中流域の渓谷は、ドイツの西部、ラインラント・プファルツ州とヘッセン州のライン川中流の川幅が狭い渓谷のマインツからコブレンツまでの65kmにわたって展開する。ライン川上中流域の渓谷は、ヨーロッパにおける地中海地域と北部地域との間の2000年の歴史をもつ重要な輸送ルートの一つである。ライン川上中流域の渓谷は、人間が築いた長い歴史を物語るラインシュタイン城、ライヒェンシュタイン城、ゾーンエック城、シュタールエック城、シェーンブルク城、ラインフェルス城、グーテンフェルツ城、エーレンフェルツ城跡など伝説に包まれた古城群、白い壁に黒い屋根の家々が印象的なリューデスハイム、コブレンツ、ビンゲンなどの歴史都市、そして、ドイツ有数のワインを産するブドウ畑が、ドラマチックな変化に富んだ自然景観と共に絵の様に展開する。ライン川上中流域の渓谷には、長年にわたる歴史とローレライの岩の伝説などが息づいており、詩人のハインリッヒ・ハイネ(1797〜1856年)、作家、芸術家、そして作曲家などに強い影響を与えた。
ローマ帝国の国境界線 ローマ帝国の国境界線は、ドイツと英国の2か国にわたって分布する。ローマ帝国の国境界線は、ドイツの北西のライン河畔のバート・フニンゲンから南東のドナウ河畔のレーゲンスブルグまでの全長550kmのリーメスの長城遺跡と、ローマ皇帝ハドリアヌス帝が造らせたイングランド北部のケルト人など北方民族に対する監視所や要塞を持つハドリアヌスの城壁など、大西洋岸からヨーロッパ、そこから紅海、アフリカ北部を経た大西洋に至る5000km以上に展開する。ローマ帝国の国境界線は、要壁、堀割り、要塞、見張り塔の遺跡群からなる。防御線のある構成要素は、発掘され、あるものは再建され、いくつかは破壊された。ある部分は野外調査でのみ知られている。これらの遺跡は、900近い見張り塔、60の要塞、保塁、要壁、堀割りや、貿易、工芸、軍隊に従事した民間住居を含んでいる。2005年7月の第29回世界遺産委員会ダーバン会議で、1987年に登録された「ハドリアヌスの城壁」の登録範囲を拡大し、登録遺産名も「ローマ帝国の国境界線」に変更された。また、2008年7月の第32回世界遺産委員会ケベック・シティ会議では、英国のスコットランド中央部に残る石と土で作られたローマ時代の遺構である「アントニウスの長城」も構成資産に加え、登録範囲を拡大した。
ワッデン海 ワッデン海は、デンマーク、ドイツ、オランダの三国に囲まれ、いくつもの島々によって外洋と隔てられている。ワッデン海域の世界遺産の登録面積は、ドイツとオランダの2か国にまたがる968.4haで、ドイツ側のニーダーザクセン・ワッデン海国立公園、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン・ワッデン海国立公園、オランダ側の計画決定区域(PKB)など7つの構成資産からなる。ワッデン海は、泥質干潟、塩性湿地、藻場、水路、砂浜、砂州、砂丘など自然景観、生態系、生物多様性と様々な自然環境に恵まれている。ワッデン海には、ゴマフアザラシ、ハイイロアザラシ、ネズミイルカなどの海生哺乳類、ヒラメ、ニシンなど100種の魚類、クモ、昆虫など2000種の節足動物など多様な野生生物が生息している。また、ワッデン海域には、毎年約1000万〜1200万羽の渡り鳥の飛来地であり、東部大西洋やアフリカ・ユーラシアへの飛路の中継地となっている。ワッデン海の沿岸部では、大規模な堤防やダムが造られ、洪水を減らし、低地の人々を守り、農工業の用水の確保に役立ってきたが、一方、自然を破壊もしてきた。また、農薬、肥料、重金属、油による汚染と富栄養化、それに、漁業資源の乱獲などが進み環境が悪化している。1978年以降、オランダ、ドイツ、デンマークは、ワッデン海の総合的な保護の為の活動や方策を総括し、また、WWF(世界自然保護基金)も、ワッデン海の広大な海域を守る為、三か国ワッデン海計画の策定を進めている。将来的には、デンマーク側の世界遺産登録も望まれる。
ヴュルツブルクの司教館、庭園と広場 ヴュルツブルクは、ドイツ中央部にある中世の宗教都市、レジデンツ(司教館)は領主司教の館で、当時絶大な力を誇示していたヨハン・フィリップ・フランツ司教が、18世紀にパルタザール・ノイマンの設計で建設させたバロック様式の宮殿。1階・2階をつなぐ「階段の間」、支柱を持たない丸天井など、高い技術を駆使して建設された。世界最大のフレスコ画は1945年の戦火を免れた。
アルタの岩画 アルタの岩画は、スカンジナビア半島の最北端のノールカップの南西約170kmにあるアルタの近郊で、1973年に発見された。紀元前4200年から紀元前500年のものと推定される芸術水準が高い岩画は、イーブマルオクタ、ボッセコップ、アムトマンスネス、コーフヨルドの4つの区域で見つかり3000以上にも及び保存状態も大変良い。トナカイ、ヘラジカ、熊、鳥、魚などの動物、長髪の人物、また、槍、漁網、漁船、狩猟などの活動を示す場面などが標高10〜30m、広さ約3万平方mの山の斜面の岩石に彫り込まれており、海岸沿いや内陸部に小規模な共同体を作って暮らしていた当時の狩猟・漁労民族の生活ぶりを知ることができる。岩画のある地域は、国の所有となっており、環境省の管轄下にある。また、岩画の傍らに建つアルタ美術館では、ガイド・ツアーを実施している。
西ノルウェーのフィヨルド-ガイランゲル・フィヨルドとネーロイ・フィヨルド 西ノルウェーのフィヨル-ガイランゲル・フィヨルドとネーロイ・フィヨルドは、ノルウェーの西部、海岸線が複雑に入り組んだ美しいフィヨルド地帯。フィヨルドとは、陸地の奥深く入り込み、両岸が急傾斜し、横断面が一般にU字形をなす入り江で、氷河谷が沈水したものである。ガイランゲルフィヨルドは、オーレスンの東にあるS字形をしたフィヨルドで、ノルウェーの文学者ビョーンスティヤーネ・ビョーンソンが「ガイランゲルに牧師はいらない。フィヨルドが神の言葉を語るから」と言ったことで有名なフィヨルドで、ノルウェー4大フィヨルド(ソグネフィヨルド、ガイランゲルフィヨルド、リーセフィヨルド、ハダンゲルフィヨルド)の一つである。ネーロイ・フィヨルドは、ベルゲンの北にある全長205km、世界最長・最深のフィヨルドであるソグネフィヨルドの最深部、アウランフィヨルドと共に枝分かれした細い先端部分にあるヨーロッパで最も狭いフィヨルドである。
ヴェガオヤン-ヴェガ群島 ヴェガオヤン-ヴェガ群島は、ノルドランド地方の南部、世界で最も海岸線が美しいといわれるヘルゲランド海岸中央部の沖合いに展開する6500以上の島々からなる諸島。ヴェガ群島の厳しい環境下で、人々は、漁業、農業、それに、アイダー・ダック(Eider-duck)の羽毛(アイダー・ダウン)と卵の採集による倹約生活を営んできた。ヴェガ群島に残る漁村、農地、倉庫、アイダー・ダックの飼育場などが、石器時代初期から現代に至る島の暮らしを証明している。ヴェガオヤン-ヴェガ群島は、開かれた海の美しい光景、小島群などの自然環境と人間の営みが文化的景観として評価された。
ウルネスのスターヴ教会 ウルネスは、ノルウェーの中部、首都オスロの北西約250kmのルストラ・フィヨルド半島にある。スターヴ教会とは、太い土台梁の上に支柱を立て、厚板で周囲を覆う構造の教会の総称であり、主な構造体である木の支柱(スターヴ)に因んだ名前。北欧では、石造りより木造の教会が先行して建てられており、スターヴ教会は、ノルウェーで育まれた木造建築の最高の例といえる。12世紀後半に、ルストラ・フィヨルドを見下ろす絶好の場所に建築されたウルネスのスターヴ教会の建築様式は、これらのなかでも、最も古く注目すべきものの一つとされている。14世紀には、約800あったものが、今では、28しか残っておらず、ノルウェー古代遺跡保護協会などが、保存と維持に腐心している。
ブリッゲン ベルゲンは、ノルウェー南西部にあるノルウェー最古の港湾都市。ヴァイキング時代には、交易の中心地として栄えた港町だったが、14世紀後半には、ドイツ・ハンザ同盟の進出によって、貿易を握られた。その後、ロシアのノヴゴロド、イングランドのロンドン、フランドルのブルージュと共にハンザ同盟の重要商業都市として繁栄した。ハンザ同盟のドイツ商人の拠点であったブリッゲン地区には、木造切妻屋根の商館や住居などが建てられた。美しい木造の建物は、幾度となく大火に見舞われたが、その度に再建され、今では58の家屋が復元され、当時の面影を伝える。現在は、ブリッゲン博物館、ハンザ博物館、それに、芸術家のスタジオなどに利用されている。
シュトルーヴェの測地弧 シュトルーヴェの測地弧は、ベラルーシ、エストニア、フィンランド、ラトヴィア、リトアニア、ノルウェー、モルドヴァ、ロシア連邦、スウェーデン、ウクライナの10か国にまたがる正確な子午線の長さを測るために調査した地点である。現存するエストニアのタルトゥー天文台、フィンランドのアラトルニオ教会など34か所(ベラルーシ 5か所、エストニア 3か所、フィンランド 6か所、ラトヴィア 2か所、リトアニア 3か所、ノルウェー 4か所、モルドヴァ 1か所、ロシア連邦 2か所、スウェーデン 4か所、ウクライナ 4か所)の観測点群。シュトルーヴェの測地弧は、ドイツ系ロシア人の天文学者のヴィルヘルム・シュトルーヴェ(1793〜1864年 ドルパト大学天文学教授兼同天文台長)を中心に、1816〜1855年の約40年の歳月をかけて、ノルウェーのノース・ケープの近くのハンメルフェストから黒海のイズマイルまでの10か国、2820kmにわたって265か所の観測点を設定、地球の形や大きさを調査するのに使用された。シュトルーヴェは、北部で、ロシアの軍人カール・テナーは、南部で観測、この2つの異なった測定ユニットを連結し、最初の多国間の子午線孤となった。この測地観測の手法は、シュトルーヴェの息子のオットー・ヴィルヘルム・シュトルーヴェ(1819〜1905年 プルコヴォ天文台長)等にも引き継がれ、世界の本初子午線の制定などへの偉大なステップとなった。シュトルーヴェの測地弧は、人類の科学・技術史上、顕著な普遍的価値を有するモニュメントである。
ローロスの鉱山都市と周辺環境 ローロスの鉱山都市は、ノルウェー山間部のロア川の河口にある。ローロスには、ノルウェー国内で最も重要な鉱山の一つであったローロス銅山があり、1644年から1977年までの333年間、10万トンを超える銅と52.5万トンの黄鉄鉱を産出した。鉱山の町ローロスの特徴は、建物すべてが木造であることで、17世紀後半〜18世紀の坑夫兼農民の住宅が限りなくその原形を留めており、ローロス教会や経営者宅などと共に当時のままの雰囲気を残している。また、ローロスは、最低気温マイナス50.4゜Cの記録を持つ世界で最も寒い町の一つとしても知られている。2010年の第34回世界遺産委員会ブラジリア会議で、フェムンズヒッタ精錬所など産業と田園の文化的景観などの周辺環境を新たに構成資産に加えて、登録範囲を拡大し、登録遺産名も「ローロスの鉱山都市と周辺環境」に変更になった。
アグテレック・カルストとスロヴァキア・カルストの鍾乳洞群 アグテレック・カルストとスロヴァキア・カルストの鍾乳洞群は、ハンガリーとスロヴァキアとの国境にまたがるアグテレック、スセンドロ・ルダバーニャ丘陵、ドブシンスカー氷穴などのカルスト台地と鍾乳洞の7つの構成資産からなる。ハンガリー側は、1985年に「アグテレック・カルスト国立公園」に、スロヴァキア側は、2002年に「スロヴァキア・カルスト国立公園」に、それぞれ指定されている。ハンガリーとスロヴァキアとを繋ぐバルドゥラ-ドミツァ洞窟は、ヨーロッパで最も大きい洞窟といわれ、全長25kmに及ぶ。これまでに発見された洞窟の数は、712あるとされ、そのうちの262がハンガリー側にある。洞窟群の内部には、長い歳月の自然の営みによって造形された鍾乳石や石筍が多く並び、光によって芸術的な輝きを放っている。一方、アグテレック・カルストとスロヴァキア・カルストの鍾乳洞群は、酸性雨、それに、化学肥料や農薬による地下洞窟の水質汚染などの脅威にさらされている。
パンノンハルマの至福千年修道院とその自然環境 パンノンハルマの至福千年修道院は、ハンガリー北西部のトランスダヌビア地方のパンノンハルマの丘にある。ハンガリーのベネディクト会は、996年にパンノンハルマ修道院から始まった。1000年に及ぶ歴史が修道院の建築に独自のスタイルを継承させた。12世紀には火災で焼失、1224年にゴシック様式で再建された現存するハンガリー最古の建物は、今でも学校や修道院として使われている。写本や古文書など貴重な歴史的文献を所蔵している図書館、壮麗なフレスコ画が壁を飾る主食堂なども貴重な遺産。19世紀半ばに建てられた高さ55mの時計塔は、パンノンハルマ修道院のシンボルになっている。また、修道院の周辺には、緑豊かな森が広がっており、その自然環境も含め世界遺産に登録された。
ホッローケーの古村と周辺環 ホッローケーは、ハンガリーの北部山岳地帯のノーグランド地方にある村。ホッローケーには、パローツと呼ばれる少数民族のトルコ系のクマン人の末裔が住んでいる。ホッローケーの人口は、僅か100人程度ではあるが、その歴史は古く、12世紀のモンゴル襲来に備えて築かれた城壁が残っている。ホッローケーの集落は、17〜18世紀に地方の農村として発展した。その伝統的な民家は、木製瓦葺きの屋根、石灰を塗った白壁で、独特のパローツ様式。なかでも、木製のバルコニーを持ち、木製の鐘楼を持つ村の教会の地味な色調は、ホッローケーの女性のカラフルな民族衣装を引き立てる。ホッローケーの伝統集落は、何度も火災にあってきたが、見事に再生し、大切に保存されてきた。
トカイ・ワイン地方の歴史的・文化的景観 トカイ・ワイン地方の歴史的・文化的景観は、ハンガリーの北東部、ルーマニアとポーランド、ウクライナの国境に近いトカイ・ヘジャリア地方の多くの場所に多面的に広がる。トカイ・ワイン地方の文化的景観は、この地方の低い丘陵と川の渓谷での比類のないブドウ栽培とワイン生産の様子が絵の様に展開する。20以上のワイン貯蔵庫と歴史的に繋がりの深い、独特の香味を持つアスー(貴腐ぶどう)ができるぶどう畑、農場、小さな町が入組んだ様は、有名なトカイ・ワインの生産のすべての面を示している。琥珀色のトカイ・ワインの品質と管理は、300年近くもの間、厳格に統制されており、世界各地のワイン・コンテストでも多くの賞を獲得し、フランスの「ソーテルヌ」、ドイツの「トロッケン・ベーレン・アウスレーゼ」と共に世界三大貴腐ワインの一つとして評価されている。
フェルトゥ-・ノイジードラーゼーの文化的景観 フェルトゥ−・ノイジィードラーゼーの文化的景観は、ハンガリーの北西部のジョール・モション・ショプロン県、オーストリアの東部のブルゲンラント州に広がる。小平原キシュアルフョルドの西側にあるフェルトゥー湖はハンガリーでは2番目に大きい湖で、湖畔のショプロンは、バロック様式の教会や博物館が残る歴史のある町で、ワインの産地としても有名。一方、ノイジードラー湖は、面積が320平方kmの平原湖、流出河川はなく、平均の深さが0.8mと浅い湖で、最深部でも2mしかない。湖岸から3km以内はアシが生い茂る野鳥の天国で、280種の鳥類が生息している。ノイジードラー湖は、この湖水生態系の一部で、周辺のなだらかな丘陵地には葡萄畑が展開し、貴腐ワインなど白ワインの名産地としても知られ文化的景観を呈している。フェルトゥ−・ノイジードラーの湖水地帯は、移住者、或は征服者としてここに到着した民族が集う場所である。フェルトゥ−・ノイジィードラーゼーは、ここに8000年前に人が定住して以来、困難への挑戦と耕作地への開拓の試練を提供した。フェルトゥ−・ノイジィードラーゼー地域の多様な文化的景観は、自然環境と共生する人間、進化のプロセスなどを物語っている。
ホルトバージ国立公園-プスタ ホルトバージ国立公園−プスタは、ハンガリーの東部、ティサ川とデブレツェン市の一帯の面積70000haの国立公園。ホルトバージ国立公園では、この地域で生息してきたラッカと呼ばれる羊、長い角の牛などの独特の動物、野鳥、それに、馬術ショーなどの伝統芸を見ることができる。ここには、国によって保護されているプスタと呼ばれる面積約2000平方kmの大平原と湿地帯が広がり、かれこれ2000年以上も続く伝統的な土地利用の形態が見られる。この大平原では、一人で5頭の馬を御して、荒れ地を走る勇敢なカウボーイの遊牧のシーンが見られる。大平原は、ティサ川の両岸に広がり、景色は、とても変化に富んでおり、そこには、昔ながらの乾燥した牧草地が広がり、羊飼いが馬に乗って羊を追う牧歌的な田園風景を誇る。また、夏季に現われる蜃気楼も有名。
ドナウ川の河岸、ブダ王宮の丘とアンドラーシ通りを含むブダペスト ブダペストは、ハンガリーの中央部にあるこの国の首都で、人口約210万人を抱える東欧最大の都市。右岸の、13世紀以降ハンガリー帝国の王宮が築かれて栄えた古都ブダ、左岸の、商都ペストからなる。1873年に、これらが合併して、ブダペストとなった。右岸のブダ地区の丘陵地には、ブダ城、歴代戴冠式の場ゴシック様式のマーチャーシュ教会、漁夫の砦、軍事史博物館がある。左岸のペスト地区には、国会議事堂、聖イシュットヴァーン大聖堂、英雄広場などがある。古都ブダペストは、その美しさから、「ドナウの女王」とか「ドナウの真珠」とも呼ばれている。ロンドンまで通じるオリエント急行の起点でもあり、温泉都市としても知られている。2002年6月、アンドラーシ通りとハンガリー建国千年を記念して1896年に造られた千年祭地下鉄(地下鉄1号線)が追加登録され、登録範囲を拡大した。
ペーチュ(ソピアナエ)の初期キリスト教徒の墓地 ペーチュ(ソピアナエ)の初期キリスト教徒の墓地は、ハンガリー南部のバラニャ県ペーチュ市にある。4世紀に装飾が施された霊園が、古代ローマ帝国の属領であったソピアナエに建設された。地上は、埋葬室や礼拝堂として使用され、これらは、芸術的、構造的にも建築学的にも重要。地下は、アダムとイヴなどキリスト教から題材をとった壁画で装飾されており、芸術的価値も高い。
ローマの歴史地区、教皇領とサンパオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂 ローマの歴史地区は、イタリアの首都ラツィオ州の州都、ローマ県の県庁所在地でもあるローマ市のアウレリアヌスの城壁内にほぼ位置している。伝説によると、ローマは、紀元前753年に双子の兄弟であるロムルスとレムスによってパラティヌスの丘に創建された。ローマ歴史地区には、ローマ帝国の最盛期の1〜2世紀に政治・経済・宗教の中枢をなしたフォロ・ロマーノを中心に、パンテオン、アウレリウス記念柱、コロッセオ、カラカラ公共浴場跡などの遺跡群やヴェネツィア広場などが残されている。ローマの歴史地区は、教皇領、サンパオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂と共に、「ローマの歴史地区、教皇領とサンパオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂」としてユネスコ世界遺産に登録されている。1990年に登録範囲を拡大し、アウグストゥス霊廟、ハドリアヌス霊廟などが含められた。世界遺産の登録面積は1485.1haで、合計16の構成資産になっている。
ヴァチカン・シティー ヴァチカン・シティーは、ローマ教皇を元首とする世界最小の独立国で、全世界9億人のカトリック信者の総本山。この地で殉教した初代教皇聖ペテロ(ピエトロ)の墓上に、324年にコンスタンチヌス帝によって創建され、16世紀にミケランジェロの設計により再建された威厳と美しさを誇るサン・ピエトロ大聖堂、それに、ヴァチカン宮殿、ミケランジェロが描いた大天井画「天地創造」や祭壇画「最後の審判」で有名なシスティーナ礼拝堂、歴代教皇の膨大なコレクションを集めたヴァチカン美術館、ベルニーニが設計した30万人を収容できるサン・ピエトロ広場などがある。
サンマルラハデンマキの青銅器時代の埋葬地 サンマルラハデンマキは、フィンランドの南西部のボスニア湾に面した港町ラウマの近くにあるサタクンタ州のラッピ(Lappi)という町にある。サンマルラハデンマキにある青銅器時代の30以上の花崗岩の積石墓は、3000年以上前の北欧の埋葬の慣習など当時の宗教的、社会的な背景や仕組みを如実に物語っている。
ハイ・コースト/クヴァルケン群島
ハイ・コーストは、スウェーデンの北東、南ボスニア湾の西岸にある。ハイ・コーストの面積は、海域の800平方kmを含む1425平方kmで、国立公園、自然保護区、自然保全地域に指定されている。ハイ・コーストの地形は、海岸、渓谷、湖沼、入り江、島、高地などからなり、景観も美しい。9600年前の氷河期から100年あたり90cmのスピードで土地が隆起を続け、この間、285〜294mにもなり、地質学的にも氷河後退後の地殻上昇の現象が随所に見られる。ハイ・コーストは、1997年に開通した世界屈指の吊橋、ベガクステン橋(ハイ・コースト橋 1210m)でも有名である。また、海岸線に集積する先史時代の遺跡や人間と自然との共同作品ともいえる文化的景観など歴史・文化遺産の価値評価についても着目されている。2006年、フィンランドのクヴァルケン群島を追加し、二国にまたがる物件となった。
ヴェルラ製材製紙工場 ヴェルラ製材製紙工場は、ヘルシンキの北東約160km、キュミ渓谷地方の町ヤーラとヴァルケアラの境界の森と湖に囲まれた牧歌的な環境の中にある赤レンガ造りの製材製紙工場跡。ヴェルラ製材製紙工場は、1872年に若きエンジニアのフゴ・ニューマン(1847〜1906年)によって創設され、伝統的な製法で製材とボール紙を1964年まで製造していた。ヴェルラ製材製紙工場は、19世紀後半にスカンジナビア及び北部ロシア地方の森林地帯の中に点在していた産業基盤施設の中で、最大にして最後の工場の一つといわれる。1876年に火災で焼失したが、その後、建築家カール・エドアルド・ディッペル(1855〜1912年)の設計によって再建された。当時の砕木・板紙工場、木材乾燥場などの設備、労働者の住居などがそのままに保存され、初期の製材製紙産業の様子がよくうかがえるユニークな北欧の産業遺産。1972年からは、ヴェルラ工場博物館(Verla Mill Museum)として衣替えし、活用されている。
シュトルーヴェの測地弧 シュトルーヴェの測地弧は、ベラルーシ、エストニア、フィンランド、ラトヴィア、リトアニア、ノルウェー、モルドヴァ、ロシア連邦、スウェーデン、ウクライナの10か国にまたがる正確な子午線の長さを測るために調査した地点である。現存するエストニアのタルトゥー天文台、フィンランドのアラトルニオ教会など34か所(ベラルーシ 5か所、エストニア 3か所、フィンランド 6か所、ラトヴィア 2か所、リトアニア 3か所、ノルウェー 4か所、モルドヴァ 1か所、ロシア連邦 2か所、スウェーデン 4か所、ウクライナ 4か所)の観測点群。シュトルーヴェの測地弧は、ドイツ系ロシア人の天文学者のヴィルヘルム・シュトルーヴェ(1793〜1864年 ドルパト大学天文学教授兼同天文台長)を中心に、1816〜1855年の約40年の歳月をかけて、ノルウェーのノース・ケープの近くのハンメルフェストから黒海のイズマイルまでの10か国、2820kmにわたって265か所の観測点を設定、地球の形や大きさを調査するのに使用された。シュトルーヴェは、北部で、ロシアの軍人カール・テナーは、南部で観測、この2つの異なった測定ユニットを連結し、最初の多国間の子午線孤となった。この測地観測の手法は、シュトルーヴェの息子のオットー・ヴィルヘルム・シュトルーヴェ(1819〜1905年 プルコヴォ天文台長)等にも引き継がれ、世界の本初子午線の制定などへの偉大なステップとなった。シュトルーヴェの測地弧は、人類の科学・技術史上、顕著な普遍的価値を有するモニュメントである。
ペタヤヴェシの古い教会 ペタヤヴェシは、首都ヘルシンキの北約300kmのケスキ・スオミ県にある。ここには、1763〜1764年にかけて礼拝堂が建てられ、その後の1821年に現在ある聖堂に改築されたルター派の古い木造教会が当時のままの姿で残っている。聖堂の形は、平面で見ると、縦と横が同じ長さのギリシャ十字架の形をしたリブ・ボールトを取り入れ、外壁は校倉造り。また、18世紀のスカンジナビア半島東部の木造教会に特徴的な魚のうろこ状の屋根をした板葺き寄せ棟造りの建築様式を踏襲している。ペタヤヴェシの古い教会の伝統建築の美しさは、1920年代にオーストリアの建築家によって見い出された。
スオメンリンナ要塞 スオメンリンナ要塞は、フィンランドの南部、首都ヘルシンキ港の沖合いにあるスシサーリ島を中心とする6つの小島からなるヨーロッパの要塞建築技術を伝える要塞の島である。当時フィンランドを治めていたスウェーデンがロシアに対する防衛拠点として、18世紀半ばに築いた「スヴェアボルグ」(スウェーデン要塞の意)と呼ぶ要塞や島々を結ぶ城壁は、難攻不落で「北のジブラルタル」と称されるほど堅固なものであった。その後、ロシア帝国の下では、ロシア軍の駐屯地となったが、1917年、ロシアからの独立後、フィンランド語で、フィンランドの城を意味する「スオメンリンナ」と改名し、軍事使用を止めた。現在は、海軍士官学校、歴史博物館、北欧芸術センター、ビーチ、レストラン、ギャラリーなどの施設が整った美しい公園になっている。
ラウマ旧市街 ラウマは、森と湖の国フィンランドの南西部にあるボスニア湾に面した港町。15世紀に、フランシスコ修道会の修道院を中心に町が出来、その後、フィンランドとスウェーデンの中継地、バルト海の交易都市として発展した。幾度か火災に遭遇したが、18〜19世紀に中世的な色彩の濃い町並みに再建され、現在に至るまで、当時の姿のままで残っている。ルター派の大本山である石造りの聖十字架教会、そして、約600の木造家屋が現存する。現在は、ネオ・ルネッサンス様式の木造建築の街並みが印象的である。
アミアン大聖堂 アミアン大聖堂は、パリの北約120km、フランス北部のピカルディ地方ソンム県アミアン市にある。アミアンの大聖堂、すなわち、アミアンのノートル・ダム大聖堂は、1220年から68年の歳月を費やして完成した。アミアン大聖堂は、シャルトル大聖堂、ランス大聖堂に並ぶフランス最大級のゴシック様式の聖堂の最高傑作で、幅70m、奥行145m、高さ42.5mの建物を126本の柱が支えている。大聖堂の外観は、西正面ファサードの中央門の柱に彫られた有名な「最後の審判」、「美しき神」という彫刻やレリーフ、一方、内部は、内陣の聖職者席の彫刻、翼廊のステンドグラスなどが壮麗である。
アルル、ローマおよびロマネスク様式のモニュメント アルル、ローマおよびロマネスク様式のモニュメントは、フランス南部、プロヴァンス地方にある古代ローマ時代から中世にかけての遺跡と建造物群で、円形闘技場、古代劇場、地下回廊とフォルム、コンスタンティヌスの公衆浴場、ローマの城壁、アリスカン(古代墓地)、サン・トロフィーム教会、小集会場などからなる。円形闘技場は、2層で60のアーチがあり2万人以上収容できる巨大な石造建築。古代劇場、大浴場、地下回廊、7世紀創建のサン・トロフィーム教会は12世紀にロマネスク様式に改築されたもので、特に教会の回廊の柱に刻まれた聖人像は素晴しい。
オランジュのローマ劇場とその周辺ならびに凱旋門 オランジュのローマ劇場とその周辺ならびに凱旋門は、フランス南部プロヴァンス地方にある。ローマのカエサル(シーザー)が、オランジュを支配し、植民地としたのは紀元前1世紀。ローマの都市計画を持ち込んで造られたこの町には、当時の遺跡が原形をとどめる。ローマ劇場は、丘の斜面を削って造られた観客席が舞台に面し、音響効果がよく、現在でも夏にはオペラが催される。凱旋門は、オランジュの北側のアグリッパ街道にあり、古代ローマ人の功績を称える彫刻がほどこされている。
サラン・レ・バンの大製塩所からアルケスナンの王立製塩所までの開放式平釜製塩 サラン・レ・バンの大製塩所からアルケスナンの王立製塩所までの開放式平釜製塩は、フランスの東部、フランシュ・コンテ地方のジュラ山脈の麓に展開する。サラン・レ・バンの名前は、塩水に由来する。サラン・レ・バンは、岩塩の地層の上に出来ており、大製塩所として栄えた。1773年にルイ16世の王室建築家に任命されたフランスの建築家クロード・ニコラ・ルドゥ(1736〜1806年)がこの町を円形の理想都市として設計した。鉱山所長邸を中心に、1775〜1778年にかけて建造され1895年まで稼働した製塩所、労働者の住宅などを同心円状に配置したが、未完成に終わった。しかし20世紀の都市に先んじた都市計画は、現代に通用する画期的なものと評価されている。王立製塩所(サリーヌ・ロワイヤル)の所長の住居だった建物は、現在は資料館になり、ルドゥが計画した理想的な産業都市づくりを模型で見ることができる。登録範囲の拡大により、登録遺産名も「アルケスナンの王立製塩所」(Royal Saltworks of Arc-et-Senans)から現在名に変更、世界遺産の登録面積は、10.48ha、バッファー・ゾーンは、584.94haになった。
サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼道(フランス側) サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼道(フランス側)は、中世後期に宗教や文化の変遷や発達に重要な役割を果たした。このことは、フランスのラングドック、ブルゴーニュ、アンジェ、ポワティエの巡礼道にある修道院、聖堂などのモニュメントに表われている。スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の旅の精神的かつ肉体的な癒しは、特殊な様式の建物によってもわかる。それらの多くは、フランス側を発祥とし発展を遂げた。ピレネー山脈を越えるサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼道は、中世ヨーロッパ諸国やあらゆる階層の人々のキリスト教の信仰と影響力の証明。
ストラスブールの旧市街 ストラスブールの旧市街は、フランスの東部、ドイツとの国境に近いライン川の支流イル川に臨む河港都市で、アルザス地方バ・ラン県の県都。ストラスブールは、ドイツ語で「街道の町」を意味し、ローマ時代以来、人や物の行き交う「ヨーロッパの十字路」として交易で栄えた。イル川の中洲に築かれたローマ軍の駐屯地がグランド・イルと呼ばれる旧市街のはじまりである。ストラスブールには、12世紀創建で、142mのゴシック様式の尖塔を持つ大聖堂、18世紀の黒い木組みの古い家並みが残るプチ・フランスなどフランスでも珍しい全時代の遺物が残っている。また、ストラスブールは、ドイツ人のグーテンベルグが印刷技術を生み出した町としても知られている。
パリのセーヌ河岸 パリのセーヌ河岸は、フランスの首都で、世界有数の文化・観光都市パリの中心部を貫流するセーヌ川の河岸である。パリのセーヌ河岸には、古代ローマから中世、近代に至るまでの様々な歴史をもつ建築物が建ち、多くの公園や橋が架かっている。世界遺産の登録面積は、365ha、シュリ橋からイエナ橋まで32の橋、その間のシテ島とサンルイ島、セーヌ河岸のサン・ジェルマン・ロクセロワ広場、ルーヴル宮とチュイルリー公園、コンコルド広場を軸にマドレーヌ教会、国会議事堂、アンヴァリッドとその遊歩道、グラン・パレとプチ・パレ、それに、エコール・ミリテール、シャン・ド・マルス公園、エッフェル塔、シャイヨ宮、トロカデロ庭園などの建造物群や遺跡群が登録されている。パリの発祥は、紀元前3世紀に、セーヌ河の中洲のシテ島にケルト系のパリシィ族が住み着いたのが始まりで、この島を中心に周辺部へと発展した。セーヌ河岸を見渡すと、フランス王室のコレクションを展示したルーヴル美術館から1889年のパリ万国博覧会の為に建てられたエッフェル塔まで、あるいはマリー・アントワネットが処刑されたコンコルド広場からアール・ヌーボー(新芸術)の傑作グラン・パレとプチ・パレまで、都市の進展とその歴史を展望できる。圧巻なのは、ゴシック建築の技術の粋を集めたノートル・ダム大聖堂。パリ最古のステンドグラスのある教会サント・シャペルなど枚挙に暇がない。
フォントネーのシトー会修道院 フォントネーのシトー会修道院は、フランス中部、ブルゴーニュ地方コート・ドール県モンバールのサン・ベルナール渓谷とフォントネー川とが合流する人里離れた森の中にある。フォントネー修道院は、1118年にクレルポーの司教サン・ベルナールによって創建されたキリスト教のシトー会の最古級の修道院である。シトー会とは、カトリック修道会の会派の一つで、1098年にディジョンの南のサン・ニコラ・レ・シトーで創建され、厳しい戒律と修道生活を求めた。フォントネーのシトー会修道院も、清貧を重んじ虚飾を排したため、装飾も殆どない聖堂、回廊、中庭、寮、食堂などが森の中に佇み、泉の囁きだけが静寂を破っている。
ボルドー、月の港 ボルドー、月の港は、フランス南西部、アキテーヌ地方ジロンド県の県都のボルドーにある港湾都市である。ボルドー、月の港は、12世紀からボルドー・ワインの輸出港として発展した三日月形に湾曲したガロンヌ川の河畔沿いに発展したことに因んで、月の港リューヌ港と呼ばれ、ボルドーの通称になっている。大西洋貿易の発展で栄えた18世紀には都市改造が行われ、証券取引所広場などによる整然とした町並みが完成した。特に、シャルトロン川の河岸沿いには豪奢(ごうしゃ)なファサードをもつ建物が建ち並んでいる。2008年の第32回世界遺産委員会ケベック・シティ会議で、橋の架け替えの監視強化が要請された。
ミディ運河 ミディ運河は、トゥールーズから発して、カルカソンヌ、ベジェを流れ、地中海沿岸のセートに至る。トゥールーズで大西洋岸のボルドーに至るガロンヌ川と、それに沿ったガロンヌ運河とつながり、地中海と大西洋とをつなぐ総延長360kmの水運の一端を担っている。17世紀に、徴税使にして技術者であったピエール・ポール・リケ(1609〜1680年)の発案で、国王のルイ14世が承認、国家プロジェクトとして、1667年に工事が始まり1694年に完成した。ミディ運河は、トゥールーズからセート港までの全長240kmの間を堰、水門、橋、トンネルなどの構造物で繋ぐ画期的な近代土木工事を通じた産業革命、それに、運河沿いにある産地サン・テミリオンなどのワインの流通革命の扉を開く交通路の役割を果たした。ピエール・ポール・リケは、運河建設にあたり、周辺環境との調和を考えて、芸術作品の域に高めた。ミディ運河を通過する船舶交通は、鉄道や道路の発達によって、その使命を終えた。
リヨンの歴史地区 リヨンの歴史地区は、フランス中東部にあるフランス第二の都市で、絹の街として知られるリヨンにある。リヨンは、ソーヌ川とローヌ川の2つの川を中心にして栄え、ローマ時代からの2000年の長い歴史を持っている。紀元前43年、ユリウス・カエサルの元副長官のルキウス・ムナティウス・プランクスがフルヴィエールの丘に町を築き、これが、後にリヨンとなった。細い道が入り組んでいる歴史地区は、ソーヌ川を境にして西側にあり、古代ガリア・ローマ時代の遺跡やフランボワイヤン・ゴシック様式のサン・ジャン大司教教会など中世からルネッサンスの建物が数多く残っている。
ヴェルサイユ宮殿と庭園 ヴェルサイユ宮殿と庭園は、パリの南西郊外、イル・ド・フランス地方のイヴリーヌ県にある。太陽王といわれたルイ14世(在位1643〜1715年)が当代一流の美術家を総動員して築かせたバロック様式の宮殿。1661年に着工、完成までに50年を要した。その後、ルイ16世(在位1774〜1792年)とその妃マリー・アントワネット(1755〜1793年)が改築、ナポレオン1世(在位1804〜1814年、1815年)も調度品の収集などを行い、富と栄華の結晶ともいうべき宮殿となった。長さ73m、幅10.5m、高さ13mの豪華絢爛な大宴会場の「鏡の間」、礼拝堂、王妃の間など華麗な装飾は、まさに富と権力の象徴。幾何学模様の庭園は、フランス式庭園の傑作で、100haと広大。
アルビの司教都市 アルビの司教都市は、フランスの南西部、ミディ・ピレネー地方のタルヌ川に面した都市で、タルヌ県の県庁所在地である。アルビは、ローマ帝国によって建設され、その後、アルビガと呼ばれた。12世紀、13世紀にキリスト教の異端として迫害を受けたアルビジョワ派は、この都市名に由来している。1208年、ローマ教皇とフランス王が結んで、独自のキリスト教観を発展させていたカタリ派を攻撃した。弾圧は徹底し、この地域のいたるところで火あぶり刑が行われた。カタリ派に対するアルビジョワ十字軍の大混乱の後、13世紀に、ベルナール・ド・カタヌ司教が、城壁のある司教館のベルビー宮殿、それに、南仏ゴシック様式の荘厳なレンガ造りのサント・セシル大聖堂(全長113m、高さ40m、幅35m)を建設した。1450年から1560年の間、アルビは、藍色染料の原料として広く知られている“ホソバタイセイ”の栽培による商業的な繁栄の時代を謳歌した。優れたルネサンス様式の木骨組みの民家は、パステル画の商人によって蓄えられた巨万の富を物語っている。アルビの司教都市は、レンガとタイルの色調が調和した統一感のある町並みの旧街区など、大規模な修繕、修復作業がなされ、テラス状のフランス式庭園、アルビで最も大きなロマネスク様式の教会サン・サルヴィ参事会教会、タルン川に架かる橋ヴィユ・ポンなど華々しい時代の豊かな建築遺産を保存している。また、アルビは、19世紀の有名な画家トゥールーズ・ロートレックの生誕地としても有名で、ベルビー宮殿に、トゥールーズ・ロートレック美術館が入っている。
アヴィニョンの歴史地区:法王庁宮殿、司教建造物群とアヴィニョンの橋 アヴィニョンの歴史地区:法王庁宮殿、司教建造物群とアヴィニョンの橋は、フランスの南東部、プロヴァンス地方のローヌ川の下流沿岸にあり、14世紀に建造された城壁で囲まれている。アヴィニョンは、1309〜1377年のローマ法王庁の一時的な移転、いわゆるアヴィニョン捕囚によって宗教都市として発展した。童謡「アヴィニョンの橋」で有名なサン・ベゼネ橋、岩山にそびえる法王庁宮殿、プチ・パレ美術館、それに、ロマネスク様式のノートル・ダム・デ・ドン大聖堂があり、14世紀のヨーロッパにおけるキリスト教世界の重厚さを色濃く残している。
カルカソンヌの歴史城塞都市 カルカソンヌの歴史城塞都市は、フランス南部のオード県にあるローマ時代に軍事基地として建設された町である。スペインとフランスを結ぶ戦略的な位置にあり、領土争いが起こる度に要塞として利用されたヨーロッパ最大の城壁の町。12世紀の建造で、石造りのコンタル城、ロマネスクとゴシック様式のサン・ナゼール寺院が城塞内にある。1659年、スペインとの国境を変えるピレネー条約の締結により、領土争いに終止符が打たれ、要塞の役目も終わり、城塞も荒れ果てた。その後、その歴史的価値が認められ、建築家ヴィオレ・ル・デュックの修復活動により復旧した。城塞の中は「シテ」と呼ばれ、今も1000人以上が生活する生きた町である。ナルボンヌ門とオード門の2つの門から出入りできる。
サン・サヴァン・シュル・ガルタンプ修道院付属教会
サン・サヴァン・シュル・ガルタンプ修道院付属教会は、フランス南西部、ポワトゥー・シャラント地方ヴィエンヌ県、ガルタンプ川の左岸のサン・サヴァン村にある、811年にカール大帝が建立した教会である。サン・サヴァンは、5世紀の殉教聖人のサヴァンの名前に由来し、11世紀に再建された教会堂や尖塔が残っている。サン・サヴァン・シュル・ガルタンプの教会の主聖堂の身廊や地下聖堂は、旧約聖書を題材にした12世紀のロマネスク様式の36点のキリスト教の壁画群で飾られており、1989年に国際壁画研究センターが併設されている。1983年の世界遺産登録時には、「サン・サヴァン・シュル・ガルタンプ教会」という登録遺産名であったが、2007年に、より正確な現在名の「サン・サヴァン・シュル・ガルタンプ修道院付属教会」に変更された。
シャルトル大聖堂 シャルトル大聖堂は、パリの南西90km、フランス有数の穀倉地帯のボース平野の小高い丘に建つ聖母マリアに捧げられた優美な大聖堂である。もとは、ロマネスク様式の建築だったが、858年、1020年、1134年、1194年と4度の火災に遭い、1194年の大火後、僅か30年で再建され、中世ヨーロッパのキリスト教世界を代表するゴシック様式の建築物となり、アミアン大聖堂やランス大聖堂のお手本となった。シャルトル大聖堂の内外を飾るゴシック彫刻の最高傑作といわれる19人の国王像が彫られた円柱などの彫刻群、それに、12〜13世紀に、肖像、聖書からの題材、聖人の生涯等が「大バラ窓」、「北のバラ窓」、「南のバラ窓」などに描かれた175枚の美しい色ガラス絵の総計2000平方mを超えるスケールのステンドグラスは見逃せない。そのなかでも、「美しき絵ガラスの聖母」など陽光がステンドグラスを照らし、暗い聖堂内が独特な深いブルー、いわゆる、シャルトル・ブルーの美しい色調で彩られる光景は見事。
中世の交易都市プロヴァン 中世の交易都市プロヴァンは、パリの南東約80km、イル・ド・フランス地方のシャンパーニュ領内にある11〜13世紀の中世に交易で繁栄した要塞都市の典型的な事例。プロヴァンは、北欧と地中海世界とを結ぶ中欧での国際交易の発展を先導する重要な交差路であった。交易制度は、ヨーロッパと東洋間の絹や胡椒などの商品の長距離輸送を可能にし、また、銀行、為替、製鞄、染色、毛織物等の産業活動の発展をもたらした。また、これらを通じて、家内制手工芸は、工業化へと発展した。プロヴァンに残る中世の都市計画と建築は、白い石灰石の壁と赤茶けた切り妻屋根の古びた商家、穀物の倉庫、工場などの建物、それに、13世紀の騎士の衣装に身を包み勇壮なショーが繰り広げられる広場などに見られ一体感がある。それは、交易を守る為に造られた屈強な石の城壁に囲まれた要塞など小さな町の防御の仕組を見ればわかる。別名、「バラの町」ともいわれている。プロヴァンへは、パリの東駅から約90分プロヴァン駅下車。
ピレネー地方-ペルデュー山 ピレネー地方-ペルデュー山は、スペインの東部、アラゴン自治州とフランスの南西部、ミディ・ピレネー地方にまたがるペルデュー山を中心とするピレネー地方の自然と文化の両方の価値を有する複合遺産である。ペルデュー山は、アルプス造山運動の一環によって形成された石灰質を含む花崗岩を基盤とした山塊で、スペイン側では、ぺルディード山(標高 3393m)、フランス側では、ペルデュー山(標高 3352m)と呼ばれる。世界遺産の登録面積は、スペイン側が20134ha、フランス側が10505haで、オルデサ渓谷、アニスクロ渓谷、ピネタ渓谷などヨーロッパ最大級の渓谷群、北側斜面の氷河作用によって出来た、ピレネー山脈最大のガヴァルニー圏谷(カール)などから構成され、太古からの山岳地形とその自然景観を誇る。また、ピレネー地方は、ヨーロッパの高山帯に広がる昔ながらの集落、農業や放牧などの田園風景は、自然と人間との共同作品である文化的景観を形成している。1988年にスペイン・フランス両国間で、ペルデュー山管理憲章が締結されているが、二国間協力が不十分である。
ブールジュ大聖堂 ブールジュ大聖堂は、フランス中部、イェーブル川とオロン川とが合流するサントル地方シェール県にある中世の面影を残す町ブールジュにある。ブールジュ大聖堂は、12世紀末から14世紀にかけて創建された5つの入口と2つの塔を持つゴシック様式の司教座聖堂である。正面入口の中央の彫刻「最後の審判」は、ゴシックの傑作。また、内陣を飾る見事なステンドグラスは、12〜17世紀に製作されたもので、特に13世紀頃のものが美しい。度重なる修復によって、ゴシック様式とルネッサンス様式とが入り交じった建物となっている。現在は、サン・テティエンヌ大聖堂(Cathedrale Saint-Etienne)と呼ばれている。サン・テティエンヌ大聖堂は、「サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼道(フランス側)」の構成資産の一つでもある。
ポルト湾:ピアナ・カランシェ、ジロラッタ湾、スカンドラ保護区 ポルト湾:ピアナ・カランシェ、ジロラッタ湾、スカンドラ保護区は、地中海の西部にあるコルシカ島にある。コルシカ島は、火山活動で出来た島で、中央には2000mを越える脊梁山脈が南北に走り、山地はマキと呼ばれる灌木林で覆われている。ポルト湾は、島の西部、ジロラッタ岬からポルト岬に至る変化に富んだリアス式海岸で、海から垂直に切り立った花崗岩の断崖が壮観。珊瑚礁や海洋生物などの貴重な自然や動植物が保護されており、カワウ、ヒメウ、ハヤブサ、ミサゴ等の鳥類も数多く生息している。コルシカ島は、ナポレオンの生地としても知られている。
モン・サン・ミッシェルとその湾 モン・サン・ミッシェルは、フランス北西部、ノルマンディー半島のつけ根モン・サン・ミッシェル湾にある全周約900mの小島にある修道院。709年司教オヴェールの夢に聖ミカエルが現われ、大天使を奉る聖堂建築を命じた。その命に従い、建築が開始され、難工事の末、16世紀に完成した。14世紀には、英仏百年戦争の戦火の渦に巻き込まれ、修道院の周囲に城壁や塔を築いて要塞化されていった。ロマネスク、ゴシック、ルネッサンス様式が併存。干潟に築かれた堤防で、陸と繋がる奇岩城。19世紀になって防波堤が築かれ、安全に島に渡れるようになった。現在は、ベネディクト派の修道院として使われており、今でも祈りをささげる修道士の姿が見られる。年間250万人もの人が訪れる観光地でもある。急激な陸地化により、かつての景観が失われたとして、2009年には、岸との間の道路が取り壊され、新たな橋を架ける工事を行っている。
ヴェズレーの教会と丘 ヴェズレーの教会と丘は、フランス中部のブルゴーニュ地方イヨンヌ県の県都ヴェズレー市にある。ヴェズレーは、西のシャルトル、東のヴェズレーと言われる中世キリスト教の巡礼地である。この地で、聖ベルナールが第2次十字軍を提唱した。スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼もここヴェズレーが起点の一つとなり、町の通りには、ホタテ貝の文様が埋め込まれている。昔、要塞があった丘に建つサント・マドレーヌ大聖堂は、マグダラのマリアを祀ったロマネスク様式の巡礼教会で、861年にベネディクト会の修道士たちが建立し、見事な柱頭彫刻などが残っている。フランス革命で破壊されたが、19世紀に再建された。
ヴォーバンの要塞群 ヴォーバンの要塞群は、フランスの西部、北部、東部の国境沿いの12の要塞建造物群と遺跡群からなる。それらは、フランス国王ルイ14世の軍事技師であったセバスティアン・ル・プレストル・ヴォーバン(1633〜1707年)の要塞群の最も素晴らしい事例である。その連続的な要塞群は、ヴォーバンによる攻防から建てられた町、平原に建てられた城塞、都市の要壁群、要塞塔、それに住居などで、山の要塞群、海の要塞群、山の砲台と2つの山を繋ぐ構造などである。ヴォーバンは、古典的な要塞群、西洋の軍事建築など近代的な稜堡式の要塞の築城法を体系化し、ヴォーバン式要塞を確立した。また、ヴォーバンは、フランスだけではなくベルギー、ルクセンブルグ、ドイツ、イタリアなどのヨーロッパ諸国、アメリカ大陸、ロシア、東アジアにおける要塞史においても、重要な役割を演じた。日本の函館の五稜郭もヨーロッパにおける稜堡式(りょうほしき)の築城様式を採用したものである。
アルプス山脈周辺の先史時代の杭上住居群 アルプス山脈周辺の先史時代の杭上住居群は、オーストリアのケルンテン連邦州とオーバーエスターライヒ連邦州、フランスのローヌ・アルプ地方とフランシュ・コンテ地方、ドイツのバーデン・ヴュルテンベルク州とバイエルン自由州、イタリアのフリウリ・ヴェネツィア・ジュリア州、ロンバルディア州、ピエモンテ州、ヴェネト州、スロヴェニアのイグ市、それにスイスのベルンやチューリッヒなど14の州の6か国にまたがって分布している。これらは、紀元前5000年から紀元前500年にかけて、アルプス山脈や周辺のモントゼー湖やアッターゼー湖(オーストリア)、シャラン湖(フランス)、コンスタンツ湖(ドイツ)、カレラ湖(イタリア)、ツーク湖(スイス)などの湖群、リュブリャナ湿原(スロヴェニア)などの湿地群の畔に建てられた先史時代の杭上住居(或は高床式住居)の集落の遺跡群で、現認されている937のうち111(スイス 56、イタリア 19、ドイツ18、フランス11、オーストリア5、スロヴェニア 2)の構成資産からなる。杭上住居群は、多数の杭によって湖底や河床から持ち上げられ独特の景観を呈している。幾つかの場所で行われた発掘調査では、新石器時代、青銅器時代、鉄器時代初期にかけての狩猟採集や農業など当時の生活や慣習がわかる遺構が発見されている。アルプス山脈周辺の先史時代の杭上住居群は、保存状態が良く、文化的にも豊富な遺物が残っている考古学遺跡群である。
オーギュスト・ペレによって再建された都市ル・アーヴル オーギュスト・ペレによって再建された都市ル・アーヴルは、フランス北西部、セーヌ川河口の大西洋に臨むノルマンディ地方の港湾都市で20世紀の近代都市のパイオニア。ル・アーヴルとは、フランス語で「港」を意味する。古い港が泥の堆積によって使用出来なくなった為、1517年に建設され、当初は、フランソワ1世の名前に因んでフランシスコ・ポリスと命名された。その後、ル・アーヴル・ド・グラースと改名された。ル・アーヴルは、第二次世界大戦中の1944年6月6日に行われた連合軍によるノルマンディー上陸作戦で破壊され都市の大半が廃虚と化したが、戦後、鉄筋コンクリートを活用し革新的な近代建築を設計したフランス近代建築の創始者として有名なオーギュスト・ペレ(1874〜1954年)によって再建され、ヨーロッパ屈指の規模を誇る港湾都市として復興した。ル・アーヴルは、画家のクロード・モネの出身地としても有名である。
コース地方とセヴェンヌ地方の地中海農業や牧畜の文化的景観 コース地方とセヴェンヌ地方の地中海農業や牧畜の文化的景観は、フランスの中南部、ラングドック・ルシヨン地方のガール県、エロー県、ロゼール県とミディ・ピレネー地方のアヴェロン県に展開する。コース地方は、中央山塊の南西部にあり、石灰岩のカルスト地形の高原で羊の放牧が行なわれ、羊乳チーズが有名である。セヴェンヌ地方は、中央山塊の南東部にあり、頁岩と花崗岩で出来た山地で、山間部にある貝の形をした瓦屋根の石造の農家が印象的である。これらの地方では、古くから地中海農業や牧畜が行われ、家畜の群れが通る道など牧歌的な文化的景観が特色である。セヴェンヌ地方の北部の花崗岩でできた高地であるロゼール山は、夏の移牧が現在も行われている数少ない場所の一つである。
サン・テミリオン管轄区 サン・テミリオン管轄区は、ボルドー市の東北東約35km、ガロンヌ川に北から流入するドルドーニュ川の右岸の高台を形成するところにある中世の面影と文化的景観を誇る美しい村。12〜13世紀にイギリス国王によって確立されたサン・テミリオン管轄区は、8つの自治体(コミューン)からなる。温暖で湿潤な気候に加えて水はけのよい丘陵地帯にある為、古くから葡萄とワインの生産地として発展してきた。サン・テミリオンは、シャトー・オゾーヌ、それにシャトー・シュヴァル・ブラン、シャトー・ボーセジュール・ベコなど特一級といわれる13のシャトーがあることでも知られている。
シュリー・シュル・ロワールとシャロンヌの間のロワール渓谷 シュリー・シュル・ロワールとシャロンヌの間のロワール渓谷は、フランスの中央部、首都パリの南約120kmのサントル地方とペイ・ド・ラ・ロワール地方にある。ロワール川は、大西洋に注ぐ全長1020kmの川で、この地域の文化や交易の発展には欠かせない存在であった。シュリー・シュル・ロワールとシャロンヌの間のロワール渓谷は、2000年にもわたる自然環境と人間の活動とが調和した「フランスの庭」とも呼ばれる見事な文化的景観を呈している。ロワール渓谷沿いには、ブロア、シノン、オルレアン、ソミュール、トゥールなどの歴史都市、それに、古城(シャトー)、カテドラル、修道院などの歴史的建造物が数多く残っており、西ヨーロッパのルネッサンスや啓蒙思想の時代の理想を示す顕著な事例である。それらは、ロワール地方の最大の城であるシャンボール城をはじめ、シュノンソー城、アンボワーズ城などに代表される。 1981年に世界遺産登録された「シャンボールの城と領地」は、この物件の一部と見なされ統合された。
ナンシーのスタニスラス広場、カリエール広場、アリャーンス広場 ナンシーのスタニスラス広場、カリエール広場、アリャーンス広場は、フランス北東部ロレーヌ地方にあり、12〜18世紀のロレーヌ公国の首都。ポーランド王のスタニスラス公が建築家のエマニュエル・エレと金具工具職人のジャン・ラムールに命じ18世紀に作らせたスタニスラス、カリエール、アリャーンスの3広場が新旧市街を繋ぐ。華麗な金装飾を施した鉄格子門があるロココ建築の傑作であるスタニスラス広場、市庁舎、ロレーヌ宮殿(ロレーヌ歴史博物館)など町全体が美術館のような美しい町並みを作る。
フォンテーヌブロー宮殿と庭園 フォンテーヌブロー宮殿と庭園は、イル・ド・フランス地方、パリの南東57kmに広がる面積が170平方kmもあるフォンテーヌブローの森の中にある。中世以来、王侯の狩猟場であったが、16世紀、フランソワ1世によって古典様式の新たなフォンテーヌブロー宮殿が建てられて以後、歴代のフランス王が改装・増築を行った。ナポレオンは、フランス革命で荒廃した宮殿の西側の建物を取り壊して開放的にし、頻繁に訪れた。内部にある歴代の王やナポレオンゆかりの家具・調度、装飾など、いずれも贅をつくした見事なもの。フォンテーヌブロー宮殿の正面の中庭は、退位したナポレオンがエルバ島に送られる前、近衛兵に涙の別れをしたことから「別れの中庭」とも呼ばれる。
ベルギーとフランスの鐘楼群 ベルギーとフランスの鐘楼群は、ベルギーとフランスの2か国にまたがって分布する。1999年に「フランドル地方とワロン地方の鐘楼群」として登録されたベルギーの32の鐘楼群の登録範囲が拡大され、フランス北部の23の鐘楼群とベルギーのガンブルーの鐘楼が2005年の第29回世界遺産委員会で追加され、連続するグループとして登録された。ベルギーとフランスの鐘楼群は、11〜17世紀にかけて建設され、ローマ、ゴシック、ルネッサンス、バロックの建築様式を示すものである。ベルギーとフランスの鐘楼群は、市民の自由の勝利のきわめて重要な証しである。イタリア、ドイツ、イギリスの町のほとんどがタウン・ホールを建てる様に、フランス、ベルギー、オランダなどの北西ヨーロッパの一部では、建物に鐘楼群を設置することが強調された。もともと鐘楼は、地方自治の独立のしるしとして、また自由の象徴として建てられた。領地が、封建領主の象徴、鐘塔が教会の象徴である様に、都市景観の第3の塔である鐘楼は、地方自治体の首長の権力を象徴するものである。ベルギーとフランスの鐘楼群は、何世紀にもわたって、町の威光と富を代表するようになった。
ポン・デュ・ガール(ローマ水道) ポン・デュ・ガール(ローマ水道)は、フランス南部のガール県、ニームとアヴィニヨンの中間のガルドン川に、紀元前19年、アウグストゥス帝の腹心アグリッパの命によって古代ローマ人によって架けられた水道橋。世界遺産の登録面積は、コア・ゾーンが0.326ha、バッファー・ゾーンが691haである。このローマ水道橋は、精巧な土木建築技術を顕わす巨大な石造3層のアーチを持ち、川面から最上層部まで49m、長さは275mである。3層の最上層は、35アーチ、中層は11アーチ、最下層は6アーチの構造になっている。現在、水は流れていないが、建設時は、1日に2万立方mもの水が流れていたといわれている。当時の水路の全長は、ユゼスからニームまでの約50km、ポン・デュ・ガールはその中間にあたる。年間数mmずつ傾いており、倒壊の危険をはらんでいる。ローマの水道橋で世界遺産になっているものは、スペインの「セゴビアの旧市街とローマ水道」の構成資産である全長728m、高さ28mのセゴビア水道橋や、同じくスペインの「タラコの考古学遺跡群」の構成資産である長さ217m、高さ26mのラス・ファレラス水道橋がある。
ランスのノートル・ダム大聖堂、サンレミ旧修道院、トー宮殿 ランスのノートル・ダム大聖堂、サンレミ旧修道院、トー宮殿は、フランスの北東部、シャンパン醸造の一大中心地、シャンパーニュ・アルデンヌ地方にある。ランスのノートル・ダム大聖堂は、1211年に着工、100年の歳月をかけて完成したゴシック建築の華。なかでも、西外壁の北扉の彫刻 「微笑む天使」像は著名で、ランスの微笑みと呼ばれている。1825年まで、フランスの歴代の国王の25人の戴冠式は、この大聖堂で行われた。サンレミ旧修道院は、11〜12世紀に創建されたロマネスク様式の本堂が残っているが、現在は、ローマ時代のコレクションを所蔵する博物館になっている。また、トー宮殿は、大司教の館であったが、現在は、博物館になっている。
ヴェゼール渓谷の先史時代の遺跡群と装飾洞窟群 ヴェゼール渓谷の先史時代の遺跡群と装飾洞窟群は、アキテーヌ地方の東北部、ドルドーニュ県の県都ペリグーの東南部のヴェゼール川沿いにある。ヴェゼール渓谷に沿った約20kmに及ぶ一帯には、1万〜3万年前の先史時代の遺跡が散在している。なかでも、1940年に発見された旧石器時代末期の洞穴遺跡であるラスコー洞窟の壁面や天井には、クロマニヨン人が描いたものと思われる牛、馬、鹿などの動物の彩色画が100以上もある。1948年に公開されたが、照明や人間の出す細菌、湿気などにより損傷が進み、1963年には立入禁止となった。現在は、洞窟のそばに複製洞窟「ラスコーII」が作られ、レプリカが一般に公開されている。
イワノヴォ岩壁修道院 イワノヴォは、ブルガリア第五の都市ルセの南21kmにある。岩壁修道院は、13世紀にビザンチンのギリシャ正教の修行僧ヨアキムが、地上32mの岩を掘って教会を建て、大天使ミカエルに捧げたのが起源。その後、ブルガリア正教として独立し、初代総司教にヨアキムが就任すると、この岩壁修道院には多くの人々が訪れるようになった。ブルガリアを代表する聖地となり、最盛期には、300を超す教会が建てられた。しかし、14世紀のオスマン・トルコの侵攻により、次第に衰退した。放棄された修道院群は、風雨にさらされ、当時の3分の1程しか残っていないが、ユダの裏切りなど聖書の場面等が、見事な壁画やイコン画としてブルガリア王国の栄華を物語っている。
スベシュタリのトラキア人墓地 スベシュタリは、ブルガリア北部にある。トラキア人は、紀元前4世紀頃には既に王制をしき、貨幣を鋳造し農林業を営むなど高度な文化を誇っていた。この紀元前3世紀の王族の墓は1982年に発見されたもので、直径70m、高さ12m、3室からなるヘレニズム美術の貴重な遺産である。
ボヤナ教会 ボヤナ教会は、首都ソフィアの近郊にあるヴィトシャ山地の山麓にある。この地域は、王や貴族の別荘地として栄えた所。ボヤナ教会は、11世紀、13世紀、19世紀の3つの時代に建てられた3つの聖堂からなる。特に、第2王国時代の1259年に建てられた中央にある聖パンティレイモン聖堂は、13世紀のビザンチン様式の珍しい壁画で覆われており、3つの聖堂の中では、最も大きい建物。作者不明のボヤナ教会の肖像画は、イコン(聖像画)の真の傑作。「最後の晩餐」、「受胎告知」などの壁画の画風は、ルネッサンスの前兆を示している。
カザンラクのトラキヤ人墓地 カザンラクは、ブルガリア中央部のバルカン山脈とスレドナゴラ山脈の狭間にある。ローマ帝国時代、セウトポリスの町があったところ。トラキア人の墓地は、この町の北東にある紀元前4世紀の古墳で、第二次世界大戦中に偶然発見された。発見時、宝飾類は盗掘されていたが、3室からなる墓の内部には「弔いの宴」と呼ばれる貴重な彩色壁画が残っていた。2000年以上も前のものとは思えないような鮮やかな色彩で、トラキヤ芸術の最高峰とされる。現在は、墳墓の隣に精緻なレプリカが設置され、公開されている。
スレバルナ自然保護 スレバルナ自然保護区は、ブルガリアの北部、ルーマニア国境に近いシリストラの町の西16kmのドナウ川の河岸にある。絶滅の危機にさらされているダルマチア・ペリカン、カワウ、トキ、白鳥、サギなどの複数の種を含め、アジサシ、ガランチョウ、オジロワシ、イヌワシ、ブロンズトキなどの貴重な渡り鳥約100種類が生息する。ドナウ川の南1kmの下流域近くにある自然保護区内には、スレバルナ湖などの湖が点在し、汚染を免れた湖水が、水鳥の繁殖を助けている。1975年にラムサール条約登録湿地、1977年にユネスコMAB生物圏保護区、1989年にBirdlife International Programmeによる重要な鳥類生息地(IBA)に登録、指定されている。1992年、湿原の乾燥化の惧れから危機遺産に登録されたが、その後水量の確保や管理計画の策定など改善措置が講じられた為、2003年に解除された。
マダラの騎士像 マダラの騎士像は、ブルガリア第一王国の遺跡の一つで、シュメンの東18kmマダラ高原の山中の岩壁に残るレリーフ。断崖の中程、高さ23mのところに彫られており、誰が、どのようにして、何の目的で彫ったのか、未だに判明していない。猟犬を従えた馬上の騎士がライオンを槍で突き刺している。傍らに残されたギリシャ語の碑文から8〜9世紀の戦勝記念と見られ、ブルガリアの伝説の騎士として名高いテルヴェル・ハーン(在位701〜718年)がモデルではないかという説が有力。レリーフの風化が進み、ユネスコの援助による修復作業が行われている。
古代都市ネセバル 古代都市ネセバルは、ブルガリアの東部、黒海の岩肌の半島にある3000年の歴史をもつ都市で、もともとは、トラキア人の居住地、メネブリアであった。それから、ギリシャの植民地、それから、ビザンチン帝国の最も重要な要塞の一つになった。古代よりコンスタンチノーブルとドナウ川沿いの都市との中継地として争奪の対象とされた為、城壁に囲まれ、ヘレニズム期のアクロポリス、アポロ神殿、それに、アゴラ、10〜14世紀のビザンチン様式の聖ステファン教会、ヨハネ教会、大主教教会、19世紀のスタラ・ミトロポリア・バシリカ聖堂や木造家屋など各時代の遺跡が残る。
ピリン国立公園 ピリン国立公園は、ブルガリアの南西部にある同国最大の自然公園。ギリシャとマケドニアの国境に接するピリン山脈は、深い針葉樹林に覆われ、最高峰のヴィーヘン山(標高2914m)を擁する。ピリン山脈は、ヨーロッパ氷河期に出来た山脈で、カール(圏谷)、U字谷、約70もの氷河湖など変化に富んだ景観を誇る。生態系も豊かで、オウシュウモミやエーデルワイスなどの植物、ヒグマ、オオカミ、キツネ、ムナジロテンなどの動物の種類も多い。1934年には自然保護区として指定され、ブルガリアにおける自然保護のテストケースにもなった。2010年の第34回世界遺産委員会ブラジリア会議で、新たに、ピリン山の標高2000m以上に位置する草原、岩屑、頂上の高山帯も登録範囲に加えた。
リラ修道院 リラ修道院は、ソフィアから南へ123km、リラ山地の山あいにあるブルガリアで最も代表的な修道院で、ブルガリアの東方正教会であるブルガリア正教会の大本山。隠遁修道僧のイワ ン・リルスキー(876〜946年)が僧院を営んだ9〜10世紀に建てられた。14世紀のフレリョの塔の内部の木彫とイコンで装飾された壁画、聖書の140の場面を描いた「修道士ラファエルの十字架」などのコレクションが豊富。敷地の中央部に建てられた聖母聖堂は、ギリシャ十字の三廊式。白黒の縞模様のアーチの内部の天井や壁には、聖書の36の場面とこの地方の生活風景をモチーフにしたフレスコ画が数多く描かれている。1883年には大火災でほぼ全焼したが、その後、再建された。
シュトルーヴェの測地弧 シュトルーヴェの測地弧は、ベラルーシ、エストニア、フィンランド、ラトヴィア、リトアニア、ノルウェー、モルドヴァ、ロシア連邦、スウェーデン、ウクライナの10か国にまたがる正確な子午線の長さを測るために調査した地点である。現存するエストニアのタルトゥー天文台、フィンランドのアラトルニオ教会など34か所(ベラルーシ 5か所、エストニア 3か所、フィンランド 6か所、ラトヴィア 2か所、リトアニア 3か所、ノルウェー 4か所、モルドヴァ 1か所、ロシア連邦 2か所、スウェーデン 4か所、ウクライナ 4か所)の観測点群。シュトルーヴェの測地弧は、ドイツ系ロシア人の天文学者のヴィルヘルム・シュトルーヴェ(1793〜1864年 ドルパト大学天文学教授兼同天文台長)を中心に、1816〜1855年の約40年の歳月をかけて、ノルウェーのノース・ケープの近くのハンメルフェストから黒海のイズマイルまでの10か国、2820kmにわたって265か所の観測点を設定、地球の形や大きさを調査するのに使用された。シュトルーヴェは、北部で、ロシアの軍人カール・テナーは、南部で観測、この2つの異なった測定ユニットを連結し、最初の多国間の子午線孤となった。この測地観測の手法は、シュトルーヴェの息子のオットー・ヴィルヘルム・シュトルーヴェ(1819〜1905年 プルコヴォ天文台長)等にも引き継がれ、世界の本初子午線の制定などへの偉大なステップとなった。シュトルーヴェの測地弧は、人類の科学・技術史上、顕著な普遍的価値を有するモニュメントである。
ミール城の建築物群 ミール城の建築物群は、首都ミンスクの南西80km、コレリチ地方のグロドノ地域にある中欧の優れた城郭建築。ミール城は独特の漆喰装飾の外壁など珍しい形態を示す石造建築で、16世紀に、ユーリー・イリイニチ公によって建造されたのが始まり。ミール城の所有者は、その後、何度か変わったが、1569年に、ユーリー・イリイニチ公の親戚の貴族、ミコラ・クリシュトファル・ラジビル・シロトカ公が継承し、その子孫へと引き継がれた。それは正方形の敷地の四隅に 独特の装飾を施された美しい塔を持ち、40の部屋がある3階建ての回廊式の宮殿であった。宮殿と東塔はルネサンス様式で、それ以外はゴシック様式で、外敵に備えて城壁や濠も造られ、難攻不落の要塞となった。しかし、ミール城は17〜18世紀の度重なる戦火で破壊され、1812年の戦争後に再建された宮殿や塔の一部などであるが、その後も2度の世界大戦で少なからず被害を受けた。この城で建造物と並んで重要なのが17世紀に造られた中庭。19世紀の後半にはイタリア風に改造され、海外からの植物などが植えられ人造湖も作られた。ゴシック、ルネサンス、バロックといった連続した文化によるデザインと配置による調和は印象的。ミール城は、1938年に最後の城主、ニコライ・スヴャトポルク・ミール公が後継もないまま亡くなり、国が管理する貴重な文化財となり、博物館としても活用されている。
ネスヴィシェにあるラジヴィル家の建築、住居、文化の遺産群 ネスヴィシェにあるラジヴィル家の建築、住居、文化の遺産群は、ベラルーシの中央部、ミンスク州のネスヴィシェ地域の中心部にある。16世紀から1939年まで続いたラジヴィル家は、ヨーロッパの歴史と文化における最も重要な個性的な足跡を残した。彼らの努力で、ネスヴィシェの町は、科学、芸術、工芸、建築の分野で大きな影響を受けた。それらは、住居、城郭、それにキリスト聖体教会である。1587〜1593年に建てられたキリスト聖体教会は、世界的で最も初期のイエズス会の教会の一つであり、その建築デザインは、各地に大きな影響を及ぼした。城郭は、内部が繋がっている10の建物が一つの建築物になっており、周囲には6つの中庭がある。宮殿や聖体教会は重要な原型になり、それは、ベラルーシ国内のみならず、ポーランド、リトアニア、それにロシアの建築の発展に尽くした。
ベラベジュスカヤ・プッシャ/ビャウォヴィエジャ森林 ビャウォヴィエジャ国立公園とベラベジュスカヤ・プッシャ国立公園は、ポーランドの東部とべラルーシの西部の国境をまたいで広がる面積930平方kmのヨーロッパ最大の森林で、かつては、ポーランド王室の狩猟場であった。ポーランド側は、1931年に「ビャウォヴィエジャ原生林国立公園」、べラルーシ側は、1993年に「ベラベジュスカヤ・プッシャ国立公園」 に、それぞれ指定され保護されている。いまだ手付かずの原生林が残る森林には、絶滅しかかっていたヨーロッパ・バイソンを動物園から移動させて繁殖に成功し、現在は、約300頭が生息している。このほかにも、オオアカゲラ、ヘラジカ、クマ、キツネ、オオヤマネコ、小型野生馬のターバンなど50種類以上の哺乳類が生息している。ビャウォヴィエジャ国立公園とベラベジュスカヤ・プッシャ国立公園は、べラルーシ側の国境フェンスによる動物の自由な移動の妨げ、シカやバイソンによる植生への影響、外来種のレッド・オークの繁殖、森林伐採、森林火災などの脅威にさらされている。
ストックレー邸 ストックレー邸は、ブリュッセル首都圏地域にある。ストックレー邸の世界遺産の登録面積は、0.86ha、バッファーゾーンは、21.84haである。ストックレー邸は、20世紀の初頭に「ウィーン工房」(Wiener Werkstatte)を主宰した、ウィーン分離派の中心メンバーの一人で、オーストリアの建築家のヨーゼフ・ホフマン(1870〜1956年)によって、1905〜1911年に、ブリュッセルで設計され建設された。ストックレー邸は、オーストリアで登山鉄道を運営していたオーストリア、ベルギーの合弁の鉄道会社の顧問であったアドルフ・ストックレーの邸宅で、ブリュッセルの別邸である。ストックレー邸は、直線的な装飾を用いたウィーン分離派の特徴が随所に表現されており、建築史上に残る代表作品の一つで傑作である。ストックレー邸は、ヨーゼフ・ホフマンの指針の下に、コロマン・モーザー、グスタフ・クリムト、フランツ・メッツナー、リチャード・ルクシュ、ミヒャエル・ボヴォルニーなど数多くのウィーン工房の芸術家が、内外の建築、装飾、家具、調度品、庭園、花壇などあらゆる分野を含んだ総合芸術作品に仕上げた。ストックレー邸は、アール・デコ(Art deco)と建築の近代運動の先駆けとなり、内外の建築家の関心を集め、影響を与えた。
ブルージュの歴史地区 ブルージュは、13世紀に西ヨーロッパ随一の貿易港となり水路交通による商業都市として繁栄した西フランダース州の州都である。現在もその名(オランダ語ではブルッヘで橋という意味)の通り、50を越える橋が運河にかかり、中世の面影が今も色濃く残る水の都で、北の小ベニスとも称賛されている。中世の時代には、その経済力を背景に、時を告げるカリヨン(組鐘)が鳴り響く鐘楼や教会、ギルドハウスなど数々の華麗な建築物が、マルクト広場を中心に建てられ、赤レンガの美しい街並みを形成した。また、ヤン・ヴァン・エイク(1395〜1441年)、ハンス・メムリング(1433〜1494年)といったフランドル派絵画の巨匠も輩出した。ブルージュは、街そのものが中世の生き証人ともいえ、その歴史的な重要性はきわめて顕著である。世界遺産の登録面積は、コア・ゾ−ンが410ha、バッファー・ゾーンが168haである。登録範囲には、ベルギーの他の2つの世界遺産「フランドル地方のベギン会院」と「ベルギーとフランスの鐘楼群」に登録されている物件も包含している
プランタン・モレトゥスの住宅、作業場、博物館 プランタン・モレトゥスの住宅、作業場、博物館は、フランドル地方アントワープにある印刷出版関係のモニュメント。クリストフ・プランタン(1520〜1589年)が、16世紀に印刷所跡にオフィシーナ・プランティニアーナという印刷所を設立、その後、出版業に転じ多言語訳聖書など数多くの書籍を出版した。プランタン・モレトゥス博物館は、6〜19世紀に活躍した印刷業者のプランタン一族と後継者のモレトゥス家の貴族の邸宅であったのものを博物館として活用したもので、建築学的にも16〜17世紀の古典的なフランドル・ルネッサンス様式を色濃く残し、貴重なものである。プランタン・モレトゥス博物館は、世界有数の印刷出版関係の博物館で、15世紀以降の貴重な書籍、活字、現存する世界最古の2つの印刷機械などを数多く所蔵・展示しており、印刷の歴史や近世の出版文化を研究するうえで、計り知れない価値を有している。尚、プランタン印刷所のビジネス・アーカイヴスは、世界記憶遺産に登録されており、プランタン・モレトゥス博物館に収蔵されている。
ルヴィエールとルルー (エノー州) にあるサントル運河の4つの閘門と周辺環境 ベルギーのエノー州のルヴィエールとルルーは、エノー州の州都モンスの東十数kmのところにある。サントル運河は、1888〜1917年に、ムーズ川とエスコー川のドックを連絡して、ドイツからフランスへの通行を実現する為に建造された。4つの巨大なボート・リフトがある閘門は、ルヴィエールとティウ間にある67mの高低差を内部の水位を調節することで解消する目的の為に設けられたもので、現在も稼働している。サントル運河の4つの閘門は、19世紀のヨーロッパにおける運河建設や水力利用技術の一つの頂点を示す産業遺産であり、運河上の橋梁、付属建築物なども含めて世界遺産に登録された。
トゥルネーのノートル・ダム大聖堂 トゥルネーのノートル・ダム大聖堂は、ワロン地方エノー州を流れるエスコー川に臨むベルギー最古の町トゥルネー(人口7万人)にある。トゥルネーの町の起こりは、ローマ時代に始まり、3世紀に聖ロアがキリスト教をこの町に広め、フランク族が台頭していた5世紀には、一王国の首都として、政治・経済の中心を担った。トゥルネーのノートル・ダム大聖堂は、12〜14世紀に建てられた5つの尖塔をもつロマネスク様式の部分とフランスのゴシック様式の部分が見られるベルギーを代表する建造物の一つ。トゥルネーが誇る全長134mの堂々としたノートル・ダム大聖堂は、イル・ド・フランス、ライン地方、それに、ノルマンディーなど北セーヌ学派の影響を受け、ゴシック建築開花の先駆けとなった、ノートル・ダム大聖堂は、内部のステンドグラスも素晴らしく、6世紀の初代司教であった聖エルテールゆかりのタペストリーや遺物も素晴らしく、見学者の目を引いている。
ブリュッセルのグラン・プラス ブリュッセルは、ベルギーの首都で、プチ・パリといわれる美しい都市。1965年にフランスの国王ルイ14世の命令で砲撃され町は壊滅、1402〜1455年に建造され、頂上には、ブリュッセルの守護神である聖ミカエル像がある高さ96mの尖塔が象徴的な市庁舎だけが残った。ただちに町の再建が開始され、グラン・プラス(大広場)は、建築・芸術面においても、世界で最も美しい公共広場の一つに甦った。グラン・プラスには、市庁舎をはじめ、16世紀に、パン市場として建てられ、その後、用途が転々とし、現在は市立博物館になっている「王の家」、7世紀に、ビール醸造業者、パン職人、肉屋、油商、小間物屋、大工・家具職人、塗装工、船頭など商人や職人のギルド(同業者組合)のハウスとして建てられ、現在は博物館等になっている「ブラバン公爵の家」など公共や民間の建築物が立ち並び、社会的にも文化的にも、市民や観光客の間で親しまれている。
ベルギーとフランスの鐘楼群
ベルギーとフランスの鐘楼群は、ベルギーとフランスの2か国にまたがって分布する。1999年に「フランドル地方とワロン地方の鐘楼群」として登録されたベルギーの32の鐘楼群の登録範囲が拡大され、フランス北部の23の鐘楼群とベルギーのガンブルーの鐘楼が2005年の第29回世界遺産委員会で追加され、連続するグループとして登録された。ベルギーとフランスの鐘楼群は、11〜17世紀にかけて建設され、ローマ、ゴシック、ルネッサンス、バロックの建築様式を示すものである。ベルギーとフランスの鐘楼群は、市民の自由の勝利のきわめて重要な証しである。イタリア、ドイツ、イギリスの町のほとんどがタウン・ホールを建てる様に、フランス、ベルギー、オランダなどの北西ヨーロッパの一部では、建物に鐘楼群を設置することが強調された。もともと鐘楼は、地方自治の独立のしるしとして、また自由の象徴として建てられた。領地が、封建領主の象徴、鐘塔が教会の象徴である様に、都市景観の第3の塔である鐘楼は、地方自治体の首長の権力を象徴するものである。ベルギーとフランスの鐘楼群は、何世紀にもわたって、町の威光と富を代表するようになった。
フランドル地方のベギン会院 フランドル(フランダース)地方は、ベルギーの西部地方にあたる。12〜13世紀の中世に始まったベギン会は、一人の指導者のもとに質素で敬虔な生活を送る婦人たちの修道会で、ベギン会院(ベゲインホフ)のなかで起居していた。ベギン会院は、住居、教会、付属建築物、中庭などからなり、宗教建築と伝統建築とが見事に融合し町並みを形成している。現在、ベギン会は存在しないが、フランドル地方のリール、ディースト、コルトレイク、メッヘレン、ブルージュ、ルーヴェン、ゲントなどの町に、当時のベギン会院の建物が点在している。なかでも、ディーストにあるベギン会院は、町の様な造りの建築タイプで、最も美しいとされる。繊維の町コルトレイクにあるベギン会院は、町の中心のマルクトからすぐの距離なのに、中に入ると賑わいが遠くの世界のように感じられる静寂なたたずまい。1245年にフランドル伯夫人によって設立されたブルージュのベギン会院は、中庭を中心に設計されたタイプで、現在はベネディクト会女子修道院として活用されている。
ブリュッセルの建築家 ヴィクトール・オルタの主な邸宅建築建築家ヴィクトール・オルタの主な邸宅建築は、ブリュッセル市内の様々な場所にある。ヨーロッパ初のアール・ヌーヴォー建築で、曲線が美しい植物装飾が特徴であるタッセル邸をはじめ、オルタ邸、ヴァン・エートヴェルト邸、ソルヴェイ邸の4軒が登録されている。これらの住宅建築は、アール・ヌーヴォーの巨匠ヴィクトール・オルタ(1861〜1947年)による高度な近代建築および芸術的偉業で、19〜20世紀の過渡期における芸術・思考の様子を示すアール・ヌーヴォー建築を手がけ一時代を築きあげた顕著な例。オルタが1906年に建てた荘厳な建築物の自邸は、今はオルタ博物館になっている。また、建築家ヴィクトール・オルタの偉業を称えるベルギーの2000フラン札には、オルタの肖像と、曲線の美しいアール・ヌーヴォーのデザイン、彼のデザインによる小さな椅子が象徴的に描かれている。
モンスのスピエンヌの新石器時代の燧石採掘坑 モンスのスピエンヌの新石器時代の燧石(スイセキ)採掘坑は、ワロン地方のエノー州の州都モンスにある。100ヘクタール余の面積に広がる新石器時代の鉱山発掘地で、まとまった古代採石場としてはヨーロッパ最大かつ最古の遺跡。スピエンヌの新石器時代の燧石採掘坑は、その技術の多彩さと、現代の集落のスタイルにも少なからず影響を与えている。
モスタル旧市街の古橋地域 モスタル旧市街の古橋地域は、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ南西部、首都サラエボの南100km、ネレトヴァ川の深い渓谷にある。モスタルは、15〜16世紀にはオスマン帝国の前線の町として、そして、19〜20世紀のオーストリア・ハンガリー期に発展した。モスタルは、古いトルコの家屋群とモスタルの名前の由来である古橋のスタリ・モスト(長さ30m、幅8m)で知られている。しかし、1990年代の旧ユーゴスラヴィアの内戦であるボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争で、モスタル旧市街のほとんどとオスマン帝国の偉大な建築家シナンによって設計された古い石橋は、ネレトヴァ川の西側に居住するクロアチア人の武装勢力により東側に逃れたムスリムを帰さないようにするため1993年に破壊された。ユネスコによって設立された国際的な科学委員会の貢献で、アーチ型の古橋は近年に再建され、旧市街の建物の多くが回復し再建された。前オスマン帝国、東オスマン帝国、地中海、そして西欧の建築様式の特徴がある古橋地域は、多文化都市の顕著な見本である。再建された古橋とモスタルの旧市街は、民族の和解、国際協力、多様な文化、民族、宗教のコミュニティの共存のシンボルでもある。
ヴィシェグラードのメフメット・パシャ・ソコロヴィッチ橋 ヴィシェグラードのメフメット・パシャ・ソコロヴィッチ橋は、ボスニアの東部、ボスニアとイスタンブールとの間の主要路上のドリナ川に架かる全長約180m、幅約4mの11連アーチの石造橋である。世界遺産の登録範囲は、核心地域が1.5ha、緩衝地域が12.2haである。ヴィシェグラードのメフメット・パシャ・ソコロヴィッチ橋は、オスマン帝国の建築家シナンによって設計され、1571〜1577年に建造された。国の史跡に指定されている。橋の名前は、ヴィシェグラードの町の近くのソコロヴィッチに生れたオスマン帝国の大宰相メフメット・パシャ・ソコル(ソコロヴィッチ)に由来する。ノーベル賞作家のイヴォ・アンドリッチの文学作品「ドリナの橋」でも知られている。
アウシュヴィッツ・ビルケナウのナチス・ドイツ強制・絶滅収容所(1940-1945) アウシュヴィッツ・ビルケナウのナチス・ドイツ強制・絶滅収容所(1940-1945)は、ポーランド南部、クラクフの西約70kmのオシフィエンチム(ドイツ語で、アウシュヴィッツ)にある。アウシュヴィッツとビルケナウの2つの収容所からなり、それは、ポーランド人によって「死の収容所」と呼ばれていた。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツが、ユダヤ人、ジプシー、ポーランド人など罪なき多くの人々を捕虜として収容し、強制労働をさせたあげくに、ガス室での毒殺など残虐な方法によって大量虐殺した。その数は、400万人に上るともいわれている。広島の平和記念碑(原爆ドーム)などと共に、二度と繰り返してはならない人類の負の遺産といえる。現在は、アウシュヴィッツ・オシフィエンチム博物館になっている。2007年の第31回世界遺産委員会クライストチャーチ会議で、「アウシュヴィッツ強制収容所」から現在の名称に変更になった。
ザモシチの旧市街 ザモシチは、ポーランド南東部、首都ワルシャワの南東約220kmにあるザモシチ州の州都で要塞化されたルネッサンス様式の小都市。バルト海とロシアを結ぶ交易路として栄えた。この街の名はポーランドの総司令官兼大学学長であった貴族ヤン・ザモイスキの名前に由来する。ザモイスキが、16世紀後半に、イタリアの優秀な建築家ベルナンド・モランドを呼び寄せて、自分の領地にルネッサンス様式を模して街を築いた。この旧市街には、ザモイスキ宮殿、難攻不落の要塞跡、100m四方の中央広場、ルネッサンス様式の市庁舎、ビザンチン様式のレデエメル修道院、聖トマスコレジオ教会、ザモイスキの墓が地下にあるオルデナツカ礼拝堂、新旧のルヴゥヴ門などが残っている。
マルボルクのチュートン騎士団の城 マルボルクは、ポーランド北部、グダニスクの南東約40kmにある。13世紀に、チュートン(ドイツ)騎士団がマリーエンブルクに移った際に、拡張、装飾され中世を代表する赤色の煉瓦造りの巨大な城塞となった。一時期、荒廃したが、19世紀から20世紀にかけて再建された。第二次世界大戦時にドイツ軍の爆撃で被害を受けたが再び修復された。現在は博物館として一般に公開されている。
ヤヴォルとシフィドニツァの平和教会 ヤヴォルとシフィドニツァの平和教会は、ロアー・シレジア地方のブロツワフ市近郊にある。14〜15世紀に発展したヤヴォル・シフィドニツァ公国は、領土の西の境界が現在のドイツのベルリンの郊外辺りに達するくらいまで拡大していた。当時シフィドニツァは、シレジア地方でブロツワフ市に次ぐ第2の都市であった。ヤヴォルとシフィドニツァの平和教会は、ヨーロッパにおける特殊な政治的、そして、精神的な発展を証言するもので、建築業者や社会に伝統的な技術を使って顕著な技術と建築に見合うものを造らせるといった困難な状況にあった。ヤヴォルとシフィドニツァの平和教会は、宗教社会の信仰の建築と芸術を代表するもので、その意志は今も引き継がれている。プロテスタントは、カトリックが主流のシレジア地方で、1648年のウェストファリア条約で宗派上の30年戦争(1618〜1648年)も終り宗教平和も回復した為、ヤヴォルとシフィドニツァの福音ルーテル教会などこの種の教会堂を3つだけ建てることを許された。この様な困難な環境の下に、この社会が前代未聞の傑作を創造した。ヤヴォルとシフィドニツァの平和教会は、丸太の木材を使った熟達した手工芸作品である。
ヴロツワフの百年祭記念館 ヴロツワフの百年記念館は、ポーランド西部、シロンスク地方ドルヌィ・シロンスク県の県都にある。百年記念館(ポーランド語では、ハラ・ルドーヴァ)は、鉄筋コンクリート建築物の歴史上のランドマークであり、建築家のマクス・バーグによって1911〜1913年に、解放戦争での同盟軍の勝利を記念して建立された。百年記念館は、多目的の建物で、展示場の中央に計画された構築物であり、構造は、6000人が座れる直径65m、高さ42mの広い円形の建物で、高さ23mのドームは、鉄とガラスの天窓で頂上を覆っている。窓は、エキゾチックな硬材で造られ、音響を改善する為、壁は木とコルクが混合したコンクリートの絶縁層で覆われている。百年記念館の西側には、古代の公共広場の様な記念広場が、北側には、歴史的な展示物を所蔵する為に、1912年に建築家のハンス・ペルツィヒによって設計された4つのドームのパビリオンがある。百年記念館は、現代の土木工事と建築の先駆けとなる作品であり、後の鉄筋コンクリート造りの参考になっている。
カルヴァリア ゼブジドフスカ:マニエリズム建築と公園景観それに巡礼公園 カルヴァリア・ゼブジドフスカは、ポーランドの南部、マーウォポルスカ地方、ビエルスコ・ビャワ州クラクフ市の南西30kmにある巡礼の聖地。カルバリア・ゼブジドフスカは、教会や修道院などの多くの建築物から構成されている。1600年にニコライ・ゼブジドフスキが最初にこの地に聖十字礼拝堂を作り、その後息子らによって教会等が建てられた。カルヴァリア・ゼブジドフスカのマニエリズム建築と公園景観それに巡礼公園は、自然と調和した美しい建物配置と周辺のバロック様式の庭園が美しく、精神的な質の高さを備えた文化的な景観を呈している。カルヴァリア・ゼブジドフスカは、17世紀初期にエルサレムのカルヴァリアの丘(通称ゴルゴダの丘)を模して、イエス・キリストの受難と聖母マリアの生涯を描いた絵画を配置したのを契機に、神を崇拝する場所としては欠かせない巡礼地の一つになった。カルヴァリア・ゼブジドフスカは、聖なる地として今日も巡礼者の心の拠り所となっている。
トルンの中世都市 トルンは、ポーランド中央部にあるトルン県の県都。イスラエルのチュートン修道院のドイツ騎士団がプロシアの征服と伝道を目的に、13世紀にヴィスワ川沿いに城を築き拠点とした。やがて、ハンザ同盟に加盟し、北バルト海で産出された琥珀をワルシャワやクラクフに輸送する交易都市として繁栄した。14〜15世紀に建てられた旧市庁舎は、巨大な長方形で中庭と一つの塔があるゴシック様式の建物で、トルンのシンボル。同じくゴシック様式の聖母マリア教会、聖ヨハネ教会、倉庫群、邸宅など中世の建物が今も当時の姿を留める。トルンは、地動説を唱えた有名な天文学者のコペルニクスの生誕地としても有名。
南ポーランドの木造教会群 南ポーランドの木造教会群は、ポーランド南部のビナロワ、デブノ、ムロワナなどの町にある15〜16世紀に建てられた地方色豊かな木造教会群である。南ポーランドの木造教会群は、中世の教会建設の伝統とは異なった側面をもつ顕著な事例である。中世以来、東欧・北欧に共通する水平な丸太を巧みに使用しての建設は、貴族がスポンサーになって建てられ、そのことが名士としてのステイタス・シンボルになった。
ワルシャワの歴史地区 ワルシャワは、ポーランドの首都で、ヴィスワ川が流れるポーランド中部にある第二次世界大戦で戦禍を受けた復興都市。「北のパリ」と呼ばれた芸術・文化の都ワルシャワは、中世ヨーロッパの美しい街並みを誇っていたが、対独抵抗戦争で、ナチス・ドイツによって、壊滅的な被害を被り、なかでも、旧市街の建物は完全に近い形で破壊された。戦後40年間、市民のたゆまぬ努力によって、旧市街は、戦前に記録された詳細な建築図面や写真を手掛かりに300〜400年前の中世の街並みに復元された。当時の面影を見事なまでに取り戻した旧市街広場、ザムコヴィ広場、石畳の街路、煉瓦建築の教会、邸宅、旧王宮、砦などの美しい都市景観が印象的である。2010年5月、東ヨーロッパでの異常気象による、大雨、洪水での被害が深刻化している。尚、ワルシャワ再建局の記録文書は、世界記憶遺産に登録されており、ポーランド国立公文書館(ワルシャワ)に収蔵されている。
クラクフの歴史地区 クラクフは、ポーランド南部にあるクラクフ州の都市で、千年の歴史を誇る。クラクフは、14世紀から300年間、ポーランド王国の首都として栄えた。奇跡的に戦火を免れた旧市街には、中世からの中央市場広場、広場の中央にあるルネッサンス様式の織物会館、1222年に建造されたゴシック様式の聖マリア教会があり、また、ヴィスワ川の川辺のヴァヴェル丘には、レンガ造りの華麗なルネサンス様式のヴァヴェル城がそびえている。その中のジグムント礼拝堂の塔には、ポーランド史の最大の出来事の時にしか聞くことの出来ない11トンの重さのジグムントの鐘が据えられている。クラクフは、コペルニクスやローマ法王であった故ヨハネ・パウロ2世が卒業したヤギェウオ大学があることでも有名である。2010年5月、東ヨーロッパでの異常気象による、大雨、洪水での被害が深刻化している。
ベラベジュスカヤ・プッシャ/ビャウォヴィエジャ森林 ビャウォヴィエジャ国立公園とベラベジュスカヤ・プッシャ国立公園は、ポーランドの東部とべラルーシの西部の国境をまたいで広がる面積930平方kmのヨーロッパ最大の森林で、かつては、ポーランド王室の狩猟場であった。ポーランド側は、1931年に「ビャウォヴィエジャ原生林国立公園」、べラルーシ側は、1993年に「ベラベジュスカヤ・プッシャ国立公園」 に、それぞれ指定され保護されている。いまだ手付かずの原生林が残る森林には、絶滅しかかっていたヨーロッパ・バイソンを動物園から移動させて繁殖に成功し、現在は、約300頭が生息している。このほかにも、オオアカゲラ、ヘラジカ、クマ、キツネ、オオヤマネコ、小型野生馬のターバンなど50種類以上の哺乳類が生息している。ビャウォヴィエジャ国立公園とベラベジュスカヤ・プッシャ国立公園は、べラルーシ側の国境フェンスによる動物の自由な移動の妨げ、シカやバイソンによる植生への影響、外来種のレッド・オークの繁殖、森林伐採、森林火災などの脅威にさらされている。
ムスカウ公園/ムザコフスキー公園 ムスカウ公園/ムザコフスキー公園は、ドイツの北東部とポーランドの西部、ラウジッツ・ナイセ川が流れる国境に広がる景観公園。1815〜1844年に、ヘルマン・フォン・ピュックラー・ムスカウ王子(1785〜1871年)が造園したもので、都市景観設計への新たなアプローチの先駆けであり、英国式庭園の造園技術の発展にも影響を与えた。見所としては、ドイツ側のムスカウ公園(公式名:フュルスト・ピュックラー公園)のセンター部分にある新城、マウンテン公園の中にある教会の遺跡、ポーランド側の橋梁やピュックラーの石碑などがある。ムスカウ公園/ムザコフスキー公園は、もともと一つの公園であったが、第二次世界大戦後の1945年にナイセ川をドイツとポーランドの国境とし、二か国に分割された。
ヴィエリチカ塩坑 ヴィエリチカは、クラクフの南東13kmにある小さな町で、世界有数の岩塩坑で知られる。10世紀に採掘が始まり、13世紀以降は、王室が所有し、採掘権と販売権を独占、ポーランドの重要な財源となった。地下坑道は、深さが320m、長さが4km、幅が1kmにも達し、現在もわずかながら採掘は続けられている。地下の「大伝説の間」には、採掘道具を使って彫られた岩塩の彫刻、また、地下101mの採掘場跡には、「塩のマリア像」を祀る豪華な聖キンガ礼拝堂、岩塩の彫刻とレリーフ、岩塩の結晶から創られたシャンデリアがある。地下の採掘跡を通る見学コースは、約2.5時間で、岩塩の彫刻、塩水の湖と桟敷が多く見られる。また、14世紀以降、岩塩坑を守っていた地上にある城は、現在、博物館になっており、ヨーロッパ最古の岩塩坑採掘道具を保管している。結露により坑内の彫刻などに被害がおよび、1989年には「危機にさらされている世界遺産」に登録されたが、その後保全状態が改善されたため、1998年に解除された。
アソーレス諸島のアングラ・ド・エロイズモの町の中心地区 アソーレス諸島のアングラ・ド・エロイズモの町の中心地区は、ポルトガルの西部、約1500kmの大西洋に浮かぶ9つの島を中心にした火山群島であるアソーレス諸島の中で3番目に大きい、テルセイラ島にある。アングラ・ド・エロイズモは、大航海時代の新旧大陸の中継地として、特に、スペイン統治時代に繁栄を誇り、軍事建築技術を駆使したサン・セバスティアン要塞やサン・ジョアン・バティスタ要塞が築かれた。聖フランシスコ修道院や宮殿、聖サルバドル大聖堂などは、この時代の建造物群である。ノッサ・セニョーラ・ダ・ギア教会には、バスコ・ダ・ガマが初めてインドに航海した時に同行した兄のパウロ・ダ・ガマが埋葬されている。1980年の地震により建物やモニュメントが破壊され、再建が進められてきた。
ギマランイスの歴史地区 ギマランイスの歴史地区は、ポルトガルの北部、ポルトの北東約60km、サンタ・カタリナ山脈の麓にある石と木が上手く調和した中世の町並みである。ギマランイスは、ポルトガルの初代国王のアフォンソ・エンリケス(在位1143〜1185年)の生誕地として知られ、町の中心であるトゥラル広場の壁にはポルトガル建国の地の文字が書かれている。ギマランイスの歴史地区には、中世の城や町並みがよく保存されている。初代国王アフォンソ・エンリケスが生まれた10世紀建造のギマランイス城(カステロ)、12世紀のロマネスク様式のサン・ミゲル礼拝堂、15世紀のゴシック様式のブラガンサ公爵館、また、古いたたずまいのオリヴェイラ広場には、ポザーダになっているサンタ・マリーニャ・ダ・コスタ修道院、アルベルト・サンパイオ美術館として利用されているノッサ・セニョーラ・ダ・オリヴェイラ教会などが残っている
トマルのキリスト教修道院 トマルのキリスト教修道院は、ポルトガルの中部、首都リスボンの北約120km、ナバオン川の中流、サンタレン県のトマルにある。トマルは、12世紀に十字軍のテンプル騎士団が建設した町である。トマルのキリスト教修道院は、丘の上にあり、12世紀に着工し500年後に完成した。テンプル騎士団の本部としての機能を持つと同時に、対ムーア人の最前線となった。12世紀の礼拝堂は、テンプル・ロトンダと呼ばれるドームをもつ。1314年、ローマ教皇は、全ヨーロッパでのテンプル騎士団の活動の禁止を布告するとディニス1世は、テンプル騎士団の代わりに、キリスト騎士団が新たにトマルを統治するようになった。トマルのキリスト教修道院の回廊は美しい模様をもつマヌエル様式の窓が特徴である。トマルは、4年ごとに開催されるタブレイロスの祭りで有名である。
ポルトの歴史地区 ポルトの歴史地区は、ポルトガルの北西部、大西洋岸にある港湾・商業都市で、リスボンに次ぐポルトガル第2の都市ポルトの旧市街である。ポルトは、ローマ帝国時代の港町ポルトゥス・カレに起源をもち、ポルトガルの国名もポルトに由来する。この町は、ドウロ川の河口を望む丘陵に建設され、1000年の歴史を誇り、大航海時代の先駆者、エンリケ航海王子(1394〜1460年)の生誕地でもある。この町の成長は常に海と結びついており、ローマ風の聖歌隊席を持つ大聖堂、18世紀に建てられたバロック様式で、シンボリックな塔(高さ 76m)のある聖グレゴリウス聖堂、外部はゴシック様式、内部はバロック様式の聖フランシスコ聖堂、宮殿に似た外観の新古典派様式のボルサ宮(旧証券取引所)、典型的なポルトガル様式のサンタ・クララ教会などが点在する。18〜19世紀にポルト港から特産ワインがイングランドに盛んに輸出され、ポート・ワイン(ポルト・ワイン)と呼ばれて有名になった。日本の長崎市とは姉妹都市の関係にある。ポルトは、英語では、伝統的にオポルトととも言う。
ワインの産地アルト・ドウロ地域 ワインの産地アルト・ドウロ地域は、ポルトガルの北部、ドウロ川の上流からスペイン国境方面に広がる中山間地域に展開するポート・ワインの産地。アルト・ドウロ地域は、周囲を標高1000mに近い山々に囲まれたドウロ渓谷など、夏暑く冬寒い、雨量の少ない気象が特色。花崗岩質と片岩質、粘板岩質の土壌の畑では、背の低い垣根づくり、地面の幅の狭いところでは株づくりの耕法で、ぶどうが栽培され、収穫したぶどうを原料にワインが2000年もの間、生産されてきた。そして、18世紀以来、その主産物となったポート・ワインの品質は、香りの高さとしっかりした味わいが世界的に高く評価され、一躍有名になった。ポート・ワインの醸造は、白または赤ワインの発酵途中にグレープ・スピリッツを添加して発酵を途中で止め、甘みを残すようにして造られるのが特徴。この長いぶどうの栽培とドウロ・ワインの醸造の歴史と伝統は、顕著な普遍的価値を有する美しい文化的景観を生みだすと共に、技術的、社会的、経済的な進化を反映している。
アルコバサの修道院 アルコバサの修道院は、ポルトガルの中西部、首都リスボンの北約120km、コインブラの南約100kmにある門前町アルコバサにある修道院。ポルトガルの宗教建築物で最も重要だといわれるサンタ・マリア・デ・アルコバサ修道院は、ポルトガルを建国したアフォンソ・エンリケス1世がイスラム軍との戦勝に感謝し1178年に建造した、簡素・簡潔を基本とするシトー派の修道院で、正面の幅が221mもありポルトガル最大の規模。建築は、ロマネスクからゴシックへの過渡期の様式。勇敢王といわれたアフォンソ4世の子で、14世紀の国王であったペドロ1世と姫コンスタンサの侍女イネスとの悲恋物語は有名であるが、この二人の葬られた一対の石棺がマヌエル様式の礼拝堂に安置されている。この石棺には、繊細で美しい装飾彫刻が施され、ポルトガル・ゴシック芸術の最高傑作といわれている。
コア渓谷とシエガ・ヴェルデの先史時代の岩壁画 コア渓谷とシエガ・ヴェルデの先史時代の岩壁画は、ポルトガルの北東部、ポルトの東100km、ドゥーロ川の上流域、それに、スペインの西部のカスティーリャ・イ・レオン自治州サラマンカ県シエガ・ヴェルデに展開する。1993年に考古学者によって発見された2万年前の旧石器時代の岩壁画は、人間文化発展の黎明期における作品である。コア渓谷(フォス・コア)の先史時代の岩壁画は、コア渓谷に沿った15kmの範囲にわたり16箇所に点在する。馬、鹿、牛やその他の動物など人類初期の生活を描いた数多くの岩壁画は、当時の社会、経済、精神生活に光明を投げかける。この地域は、当初、ポルトガルの電力会社の水力発電用のダム建設が計画されていたが、この遺跡保護の声が高まり中止された経緯がある。「コア渓谷の先史時代の岩壁画」は、2010年の第34回世界遺産委員会ブラジリア会議で、スペイン側のカスティーリャ・レオン州サラマンカ県にある動物などが645も描かれた「シエガ・ヴェルデの先史時代の岩壁画」を構成資産に加えて、登録範囲を拡大し、登録遺産名も「コア渓谷とシエガ・ヴェルデの先史時代の岩壁画」に変更になった。
バターリャの修道院 バターリャの修道院は、ポルトガルの中西部、首都リスボンの北約120km、コスタ・デ・プラタ地方のバターリャ市にある修道院。バターリャは、ポルトガル語で、「戦い」の意で、バターリャの修道院の正式名称は、勝利の聖母マリア修道院。この修道院は、フェルナンド王の死去に伴う王家の争いとアルジェバロータの戦いに勝利した国王の甥であるジョアン1世が、戦前の誓いに従って、1388年に着工、16世紀まで続いたが、未完に終わった「戦い」の修道院である。創設者の礼拝堂には、ジョアン1世の家族の棺が置かれており、エンリケ航海王子もここに眠っている。建築様式は、ゴシック様式とマヌエル様式が混在。特に「王の回廊」には見事なマヌエル様式の装飾が施されている。
マデイラ島のラウリシールヴァ マデイラ島のラウリシールヴァは、ポルトガルの南西部、リスボンの南西980kmの大西洋上に浮かぶ標高1862mの険しい峰のピコ・ルイヴォ山がそびえる荒々しい海岸線をもった火山列島の照葉樹林原生林。マデイラ島は、その特異な景観から「大西洋の真珠」と言われている。また、平均気温が16〜21℃と年間を通じ温暖な気候に恵まれている。ラウリシールヴァ<月桂樹林>等の花が年中絶えないことから、「洋上の庭園」、「花籠の町」とも呼ばれている。マデイラ島のラウリシールヴァは、その生態系、それに、ハト、トカゲ、コウモリ、少なくとも66種の維管束植物、20種の苔類など動植物の生物多様性を誇る。欧州屈指のリゾート地として、また、斜面の段々畑で作られたブドウを使ったマデイラ・ワインの産地としても有名。 
エヴォラの歴史地区 エヴォラの歴史地区は、ポルトガルの中南部、リスボンの東約110km、アレンテージョ地方の都市エヴォラにある。エヴォラの歴史地区は、標高300mの丘上に城壁で囲まれた街で、2世紀末のローマ遺跡であるディアナ神殿跡や城壁跡、12〜13世紀のゴシック様式のエヴォラ大聖堂、この街の初めての大司教、枢機卿エンリケ王子によって大司教座が置かれ16世紀にイエズス会によって設立されたエヴォラ大学、聖フランシスコ教会、ロイオス修道院などポルトガル・ルネッサンスの中心地に相応しい文化遺産を残す。ローマ帝国時代にはエヴォラ・セラリスという名前だった博物館都市は、ポルトガル国王のジョアン2世、マヌエル1世、ジョアン3世の居住地となった15世紀に黄金時代に達した。エヴォラの歴史地区のモニュメントは、ブラジルのポルトガル様式の建築に大きな影響を与えた。
シントラの文化的景観 シントラの文化的景観は、ポルトガルの中西部、首都リスボンの西約30kmにあり、19世紀のヨーロッパ・ロマン建築の最初の中心地で、詩人のバイロンが「この世のエデン」と称えた美しい街。大西洋を眼下に見下ろす緑豊かなシントラ山系のこの街は、曲がりくねった石畳の小道、街の至る所に泉が湧き出ている中世の世界である。ポルトガルの王侯貴族が離宮を置き、またヨーロッパ各地の亡命貴族たちがこよなく愛したこの地には、今も木立の中にキンタと呼ばれる豪華な館が点在している。シントラ宮殿は、14世紀にジョアン1世が夏の離宮として建てたもので、空に向かってそそり立つ巨大な2つの煙突が印象的。内部は古いアラブ風の美しいタイルで覆われ、部屋ごとに王家のエピソードを伝えている。ペナ宮殿は、フェルナンド2世が、廃虚となったジェロニモス派の修道院をゴシック、イスラム、マヌエル、ムーア及びルネッサンスの要素を取り入れ改築したもので、岩山の上にたたずんだその姿は、幻想的にすら映る一方、山上のペナ宮殿からは、遠くは大西洋やリスボン市街など壮大なパノラマを望むことができる。シントラの街並みの文化的景観は、公園や庭とのユニークな組み合わせを生み、ヨーロッパの街並みにも大きな影響を与えた。
ピコ島の葡萄園文化の景観 ピコ島の葡萄園文化の景観は、ポルトガルの西部1500km、大西洋上のアソーレス諸島で2番目に大きい火山島であるピコ島にある。ピコ島の葡萄園文化の景観は、島のシンボルであるピコ火山(2351m)を背景に、15世紀のポルトガルの入植以来、火山性の固い玄武岩の岩盤を肥沃な土壌につくり変え、果樹園を造成してブドウ栽培へと発展させた人々の確固とした信念と努力の結晶を表している。かつては広範囲にわたって営まれていた農業の景観が、極めて美しい耕地景観として良く保存されており、海風や海水を防ぐ為に造られた膨大な数の石積みの壁も昔ながらに残っている。ピコ島では、ヴェルデーリョと呼ばれる輸出用ワインを生産する伝統的なブドウ栽培が今も続けられている。
リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔 リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔は、ポルトガルの西部、首都リスボン市内にある。テージョ川沿岸のベレン地区は、バスコ・ダ・ガマのインド航路発見など大航海時代の基地であった。ジェロニモス修道院は、エンリケ航海王子が船乗りたちのために建てた礼拝堂跡にマヌエル1世が1502年に着工した、マヌエル様式を代表する巨大修道院。ベレンの塔は、港の要塞で1515〜1519年にかけて建造された。正式名称は、「サン・ヴィセンテの砦」。外観は優雅なマヌエル様式だが、中に入ると潮の干満を利用した、政治犯の地下水牢があった。現在、内部は博物館となっている。
オフリッド地域の自然・文化遺産 オフリッドは、アルバニアとの国境に接するオフリッド湖東岸の町で、ビザンチン美術の宝庫。オフリッド地域には、3世紀末にキリスト教が伝来、その後、スラブ人の文化宗教都市として発展した。11世紀初めには、聖ソフィア教会が建てられ、教会内部は、「キリストの昇天」などのフレスコ画が描かれ装飾された。最盛期の13世紀には、聖クレメント教会など300もの教会があったといわれる。一方、400万年前に誕生したオフリッド湖は、透明度の高い美しい湖として知られている。冬期にも凍結せず、先史時代の水生生物が数多く生息しており、オフリッド地域は、古くから培われてきた歴史と文化、そして、これらを取り巻く自然環境が見事に調和している。1979年に「オフリッド湖」として自然遺産に登録されたが、周辺の聖ヨハネ・カネオ教会などとの調和が評価され、翌1980年には文化遺産も追加登録されて複合遺産となった。
ハル・サフリエニの地下墳墓 ハル・サフリエニの地下墳墓は、マルタ島東部のパオラにある先史時代のもので、1902年に発掘された。紀元前2400年頃の建造で、地下の深さ10.6m、3層構造、38の石室を持つ。ハル・サフリエニの地下墳墓の石室は複雑な迷路と急階段でつながれ、仕掛けが施されている。ハル・サフリエニの地下墳墓の広さは約500平方mで、祭儀と埋葬に使われたと見られ、6000以上の遺骨が発見されている。
マルタの巨石神殿群 マルタは、地中海の中央に浮かぶマルタ本島をはじめゴゾ島などの島々からなる国。マルタでは、人類最古の巨石の石造建築物といわれる先史時代の神殿が、今世紀に入って約30発見されている。ゴゾ島にある紀元前3000年頃の建造とされるギガンティア神殿が最古で、マルタ本島の南部にあるタルクシェン神殿、ハギアル・キム神殿、ムナイドラ神殿、スコルバ神殿なども巨石で建造されている。いずれも、誰がどの様にして、巨石を運び積み上げたかについては解明されていないが、マルタの巨石文化の起源は、ステンティネロ文化人のシチリア方面からの移住によるものではないかと見られている。また、神殿の性格としては、祭礼の場、或は、聖所的な場ではなかったかと推定されている。
ヴァレッタの市街 ヴァレッタは、シチリアの南90km、地中海の中心に浮かぶマルタ島東部の北岸にあるマルタの首都。マルタ島は、ギリシャのロードス島から撤退した十字軍のヨハネ騎士団が最後の砦とし、一度は、オスマン・トルコ軍に町や港を焼かれた。しかしながら、ヨハネ騎士団は、1530年に、神聖ローマ帝国(962〜1806年)の教皇カール5世にマルタ島を与えられ、東部の北岸のヴァレッタに、城壁で囲んだ港町を再建して要塞都市を築き上げ、1571年のレパントの海戦でも活躍し、マルタ騎士団と呼ばれるまでになった。ヴァレッタの地名は、1565年の大包囲戦時にヨハネ騎士団長であったジャン・バリゾ・デ・ラ・ヴァレッテの名前に因んで、命名されたものである。ヴァレッタ市街には、セント・エルモ要塞、ヴァレッタで最も古い建物である勝利の女神教会、騎士の遺体が埋蔵され、また隣接する博物館には、カラヴァッジョの傑作「洗礼者ヨハネの斬首」が収蔵されている聖ヨハネ大聖堂、それに、歴代のヨハネ騎士団長が居住していた宮殿など数多くの歴史的建造物が残り、中世の美しい町並み景観を形成している。
シュトルーヴェの測地弧 シュトルーヴェの測地弧は、ベラルーシ、エストニア、フィンランド、ラトヴィア、リトアニア、ノルウェー、モルドヴァ、ロシア連邦、スウェーデン、ウクライナの10か国にまたがる正確な子午線の長さを測るために調査した地点である。現存するエストニアのタルトゥー天文台、フィンランドのアラトルニオ教会など34か所(ベラルーシ 5か所、エストニア 3か所、フィンランド 6か所、ラトヴィア 2か所、リトアニア 3か所、ノルウェー 4か所、モルドヴァ 1か所、ロシア連邦 2か所、スウェーデン 4か所、ウクライナ 4か所)の観測点群。シュトルーヴェの測地弧は、ドイツ系ロシア人の天文学者のヴィルヘルム・シュトルーヴェ(1793〜1864年 ドルパト大学天文学教授兼同天文台長)を中心に、1816〜1855年の約40年の歳月をかけて、ノルウェーのノース・ケープの近くのハンメルフェストから黒海のイズマイルまでの10か国、2820kmにわたって265か所の観測点を設定、地球の形や大きさを調査するのに使用された。シュトルーヴェは、北部で、ロシアの軍人カール・テナーは、南部で観測、この2つの異なった測定ユニットを連結し、最初の多国間の子午線孤となった。この測地観測の手法は、シュトルーヴェの息子のオットー・ヴィルヘルム・シュトルーヴェ(1819〜1905年 プルコヴォ天文台長)等にも引き継がれ、世界の本初子午線の制定などへの偉大なステップとなった。シュトルーヴェの測地弧は、人類の科学・技術史上、顕著な普遍的価値を有するモニュメントである。
コトルの自然と文化-歴史地域 コトルは、アドリア海に面し、背後には、標高1749mのロヴツェン山を擁するフィヨルドの中に天然の良港をもった港町。その為、古代ローマの時代から海賊、それに、諸外国からの攻撃や争奪の対象となってきた。貿易で蓄積した富で建てたローマ・カトリック教会、12世紀のロマネスク様式の聖トリフォン大聖堂、宮殿、広場など中世の難攻不落の城郭都市の遺産が残る。1979年4月15日にアドリア海東岸を襲った大地震に遭い、聖トリフォン大聖堂などが甚大な被害を受けた。この為、1979年にユネスコ世界遺産に登録されると同時に危機にさらされている世界遺産リストにも登録されたが、その後、再建と修復が行われた為、2003年に解除された。
ドゥルミトル国立公園 ドゥルミトル国立公園は、モンテネグロ共和国北東部のドゥルミトル山地にある国立公園。ドゥルミトル国立公園には、氷河期に形成されたタラ峡谷、22の氷河湖があり、標高2522mのドゥルミトル山の頂上にまで石灰岩が広がる地質学的にも非常に重要な山岳地帯で、中世代、新生代第3紀、第4紀の岩層をもつ。もみの木の原生林がうっそうとしていて、貴重な古代マツをはじめとする太古の植物群も見られ、化石も多数発見されている。原生林や氷河湖の中を流れるタラ川は、バルカン半島に残された数少ない未開の川である。ヨーロッパ・オオライチョウやシャモアなどの希少種、それに、ヒグマやオオカミなども生息している。
シュトルーヴェの測地弧
ラトビア
シュトルーヴェの測地弧は、ベラルーシ、エストニア、フィンランド、ラトヴィア、リトアニア、ノルウェー、モルドヴァ、ロシア連邦、スウェーデン、ウクライナの10か国にまたがる正確な子午線の長さを測るために調査した地点である。現存するエストニアのタルトゥー天文台、フィンランドのアラトルニオ教会など34か所(ベラルーシ 5か所、エストニア 3か所、フィンランド 6か所、ラトヴィア 2か所、リトアニア 3か所、ノルウェー 4か所、モルドヴァ 1か所、ロシア連邦 2か所、スウェーデン 4か所、ウクライナ 4か所)の観測点群。シュトルーヴェの測地弧は、ドイツ系ロシア人の天文学者のヴィルヘルム・シュトルーヴェ(1793〜1864年 ドルパト大学天文学教授兼同天文台長)を中心に、1816〜1855年の約40年の歳月をかけて、ノルウェーのノース・ケープの近くのハンメルフェストから黒海のイズマイルまでの10か国、2820kmにわたって265か所の観測点を設定、地球の形や大きさを調査するのに使用された。シュトルーヴェは、北部で、ロシアの軍人カール・テナーは、南部で観測、この2つの異なった測定ユニットを連結し、最初の多国間の子午線孤となった。この測地観測の手法は、シュトルーヴェの息子のオットー・ヴィルヘルム・シュトルーヴェ(1819〜1905年 プルコヴォ天文台長)等にも引き継がれ、世界の本初子午線の制定などへの偉大なステップとなった。シュトルーヴェの測地弧は、人類の科学・技術史上、顕著な普遍的価値を有するモニュメントである。
リガの歴史地区 リガは、ラトヴィアの首都。1282年にハンザ同盟に加わり、13〜15世紀にかけてバルト海地方の重要な交易中心地として中央及び東ヨーロッパ地域との貿易によって繁栄した。ダウガバ川の右岸の旧市街には、13世紀に創建され世界最大級のパイプオルガンのあるドムスカヤ聖堂、聖ヨハネ教会、聖ペテロ教会、聖ヤコブ教会、15〜16世紀にドイツ騎士団のワルターが築いたリガ城など古い建築物が保存されている。
クルシュ砂州 クルシュ砂州は、リトアニアの西部のクライペダ地方とロシア連邦の西部の飛地であるカリーニングラード地方の2国にまたがる世界遺産である。クルシュ砂州は、幅が0.4〜4km、長さが98kmで、バルト海とクルシュ海(淡水)に突き出ている。日本の天橋立が幅40〜100m、長さ3.6kmであるから、そのスケールは比較にならない。ニダ砂丘などが長く延びたサンビアン半島には先史時代から人類が居住してきたが、バルト海からの風と潮による自然の脅威に絶えずさらされてきた。リトアニアのサハラ砂漠ともたとえられるクルシュ砂州が消失の危機から守られたのは浸食作用に挑んだ人間の絶え間ない努力の結果にほかならない。その努力の軌跡は、19世紀に始まった植林などによる保護など、人間と自然との共同作品ともいえる文化的景観としての価値が評価され文化遺産として世界遺産に登録された。また、クルシュ砂州一帯のネリンガという地名は、エプロンで砂を運んでこの砂州を造り人々を災害から救ったといわれる伝説上の巨人の女神の名前に由来している。
ヴィリニュスの歴史地区 ヴィリニュスはリトアニアの首都で、13〜18世紀に東西交易の中継地として繁栄した。旧市街のカテドゥロス広場には、リトアニア最古の大聖堂(18世紀に再建)、13世紀の城の一部のゲジミナス塔、最盛期の16世紀に建てられたリトアニア・ゴシック様式の聖アンナ教会、木製彫刻で世界的に有名な17世紀バロック様式の聖ペテロ・パウロ教会、それに、聖ヨハネ教会、聖カジミエル教会、べルナルディディス教会などのカトリック建築群、ヴィリニュス大学などが中世の面影を残している。長年、ポーランドやロシアなどの大国に翻弄され続け、戦火にも巻き込まれたが、焼失をまぬがれた歴史的建築物が数多く残っている。
ケルナヴェ考古学遺跡 (ケルナヴェ文化保護区) ケルナヴェ考古学遺跡 <ケルナヴェ文化保護区>は、リトアニアの東部、ヴィリニュス州シルヴィントス地区のネリス川が流れるパジャウタ渓谷の段丘上にある。ケルナヴェ考古学遺跡 <ケルナヴェ文化保護区>は、紀元前9000〜紀元前8000年の旧石器時代後期から中世までの居住地、カルナス丘陵要塞、埋葬遺跡などから構成され、バルト地方における1万年以上の人間居住を物語る類ない場所であり、壷や瓶も数多く発掘されており、また、古代の土地利用の様子も保存されている。ケルナヴェの町は、中世にはリトアニア大公国の首都として重要な封建都市であったが、14世紀の後半にチュートン騎士団によって破壊された。世界遺産の登録面積は、コア・ゾ−ンが194.4ha、バッファー・ゾーンが2455.2haで、一帯に保存されている古代から近代までの長い歴史を留める遺跡群や建造物群が登録されている。ケルナヴェ考古学遺跡は、2003年にケルナヴェ国立文化保護区に指定されている。
シュトルーヴェの測地弧
リトアニア
シュトルーヴェの測地弧は、ベラルーシ、エストニア、フィンランド、ラトヴィア、リトアニア、ノルウェー、モルドヴァ、ロシア連邦、スウェーデン、ウクライナの10か国にまたがる正確な子午線の長さを測るために調査した地点である。現存するエストニアのタルトゥー天文台、フィンランドのアラトルニオ教会など34か所(ベラルーシ 5か所、エストニア 3か所、フィンランド 6か所、ラトヴィア 2か所、リトアニア 3か所、ノルウェー 4か所、モルドヴァ 1か所、ロシア連邦 2か所、スウェーデン 4か所、ウクライナ 4か所)の観測点群。シュトルーヴェの測地弧は、ドイツ系ロシア人の天文学者のヴィルヘルム・シュトルーヴェ(1793〜1864年 ドルパト大学天文学教授兼同天文台長)を中心に、1816〜1855年の約40年の歳月をかけて、ノルウェーのノース・ケープの近くのハンメルフェストから黒海のイズマイルまでの10か国、2820kmにわたって265か所の観測点を設定、地球の形や大きさを調査するのに使用された。シュトルーヴェは、北部で、ロシアの軍人カール・テナーは、南部で観測、この2つの異なった測定ユニットを連結し、最初の多国間の子午線孤となった。この測地観測の手法は、シュトルーヴェの息子のオットー・ヴィルヘルム・シュトルーヴェ(1819〜1905年 プルコヴォ天文台長)等にも引き継がれ、世界の本初子午線の制定などへの偉大なステップとなった。シュトルーヴェの測地弧は、人類の科学・技術史上、顕著な普遍的価値を有するモニュメントである。
オラシュティエ山脈のダキア人の要塞 オラシュティエ山脈のダキア人の要塞は、紀元前1世紀〜紀元後1世紀に、ダキア人がつくった要塞で、鉄器時代の6つの保塁が残されている。ダキア人は、ブルガリアの先住民であるトラキア人とも血縁的に関係があるこの地に最初に居住した民族で、ルーマニア人の先祖ともいえる。ダキア人は、101〜102年および105〜106年の2度にわたり、ローマ人の侵攻を受けた。このダキア人の要塞は、ローマ人の征服を防御する為に備えたものである。ローマ人は、結果的にダキアを征服、ローマ人による支配は、275年まで続いた。ローマ人が名付けた豊穰の地ロマニアがルーマニアの語源といわれる。ダキア人については、古くは、ヘロドトスの著書の中で、トラキア人の中で、最も、勇敢で正義感が強いと著わされている。
ドナウ河三角州 ドナウ河三角州は、ルーマニア東部、黒海沿岸トゥルチャ県一帯。アルプス山脈とドイツのシュバルツバルト(黒森)を源流にし、東欧の8か国を流れて黒海に注ぐ、全長2860kmのヨーロッパ第2の長流である国際河川のドナウ河(英語では、ダニューブ川)は、黒海の手前で聖ゲオルゲ、スリナ、キリアの3つの大きな支流に分かれる。更に、分かれた無数の小川、湖沼が5470平方kmの雄大な大湿地帯−ドナウ・デルタを形成している。陸地面積は僅か13%であるが、葦の島、湖、蔦や蔓のからまる樫の森、砂丘が広がる。ここには、ペリカンなど300種の野鳥、カワウソ、ミンク、山猫、鹿、猪など数十種類の野生動物、チョウザメ、カワカマス、鯉、鯰など100種以上の魚類が生息する動植物のパラダイスで、生物圏保護区に指定されているほか、ラムサール条約の登録湿地にもなっている。
モルダヴィアの教会群 モルダヴィア(モルドバ)地方は、ルーマニア北部にある山や川など豊かな自然に恵まれた土地。15〜16世紀にモルダヴィア公国の首都として隆盛を極めたスチャヴァ近郊の山奥に芸術的価値の高い後期ビザンチン様式のフレスコ画で知られるスチェヴィツァ、モルドヴィツア、フモル、アルボレ、ヴォロネッツ、パトラウツィ、プロボタの7つの修道院がある。それぞれの僧院の外壁には、聖書の物語や聖人の生涯が描かれており、500年間、風雨にさらされたとは信じ難い色鮮やかさに驚かされる。最後の審判を描いたヴォロネッツの修道院の彩り豊かな壁画は、一見の価値がある。2010年の第34回世界遺産委員会ブラジリア会議で、ルーマニア東北部のブコヴィナ地方にありこれまで世界遺産の登録範囲に入っていなかった、聖ヨハネ・クリマコスの「天国への梯子」などのフレスコ画が見事な「スチェヴィッツァ修道院の復活教会」を新たに構成資産に加えて、登録範囲を拡大した。
シギショアラの歴史地区 シギショアラは、トランシルヴァニア地方ムレシュ県にある中世の都市の規模を保った小さな城下町。シギショアラの歴史地区は、トランシルヴァニアのサクソン人として知られるドイツ人の職人や商人によって、12世紀末につくられた。シギショアラは、数世紀にわたって、中欧の商業の要として、戦略的にも大変重要な役割を果たした。15世紀にこの町で生まれたドラキュラ公ゆかりの地としても有名。
ホレーズ修道院 ホレーズ修道院は、ルーマニア西南部、ヴルチャ県にある。ワラキア公国君主ブランコベアヌ公が夢の中の神のお告げによって礎を置き、1697年に完成した僧院で、ブランコベアヌ公も住居として使用した。主聖堂のカトリコン聖堂を中央にして、東西南北に十字をかたどって配置された聖堂は、ルーマニアの伝統とバロックが融合した装飾性豊かなブランコベアヌ様式という独特の建築方式である。5つの聖堂は、300年後の現在でもほぼ当時のままの姿で残されている。ブランコベアヌ様式は、モゴシュアイア宮殿・修道院やポトロジー宮殿にも見られる。
トランシルヴァニア地方にある要塞教会のある村 トランシルヴァニア地方にある要塞教会のある村は、カルパチア山脈という自然の要塞に囲まれた南部トランシルヴァニアのアルバ、ブラショフ、シビウ、ビエルタンなどにある7つの村。この地方は、山岳、丘陵、平地と、地形は変化に富み、古くから独特の土地利用による集落を形成し、13〜16世紀には、要塞教会が建てられ、戦時には軍事拠点としての役割を果たした。このような地理と歴史を背景に、深い森に覆われた中世の教会は、静かながらも絵のような美しい文化的景観を誇っている。
マラムレシュの木造教会 マラムレシュ地方は、ウクライナと国境を接するルーマニア北西部にある民芸の宝庫。この地方には、ルーマニアの豊かな森が育んだ文化が息づいている。異なった期間、地域、建築様式を代表する全て木でつくられたゴシック様式の8つの木造教会がある。それらは、建物の西端の時計塔、こけら板の屋根、デザイン、それに、職人の技術が様々なことからも明らかである。それらは、1000m級の山々に囲まれたルーマニアの山岳地域特有の文化的景観を醸し出している。
ルクセンブルク市街、その古い町並みと要塞都市の遺構 ルクセンブルグは、ローマ時代には、ケルト人=トレヴィール族が居住し、葡萄の栽培などの農耕、牧畜、手工業を営んでいた。また、ランスとトリアー及びメッツとアーヘンとを結ぶ街道が交差する交通の要所であった。963年、アルデンヌ伯は、交換により、サント・マキシマン修道院からボックの岩山を入手し、そこに城塞を建設した。これが今日のルクセンブルグの国家と街の始まり。この砦の遺跡は、今日、尚、大きく湾曲して流れるアルゼット川を眼下に見下ろすことができる「ボックの出鼻」と呼ばれている断崖絶壁の辺りに見ることが出来る。10世紀から中世にかけては、多くの城砦、ラ・ダン・クルーズ塔ほか無数の塔、砲台を備えた城塞都市国家に発展した。1443年、ブールゴーニュ公、フイリップ・ル・ボンのルクセンブルグ城塞の占領によって、自治国家としての存在及びドイツとの絆に終止符が打たれた。以後ルクセンブルグは、ナポレオン戦争後の「大公国」が成立するまで、約4世紀にわたり、当時の欧州諸大国による征服、条約による委譲、割譲の対象となり、ブールゴーニュ公領以後も、ハプスブルグ、スペイン、フランスの間で、その統治権が変遷した。18世紀には「北のジブラルタル」とも呼ばれた。1867年、ルクセンブルグは、大国の保障の下に、独立の永世中立国として認められたが、この結果、プロシャの駐屯軍は撤退し、砦は解体された。
ウランゲル島保護区の自然体系 ウランゲル島保護区の自然体系は、シベリアの最北東端から140km、東シベリア海とチュコト海の間、シベリア大陸からはロング海峡を挟んだ位置にあるウランゲル島760870ha、そして、ヒラルド島 1130ha、並びに周辺海域からなる。ウランゲル島は、タイヘイヨウ・セイウチの生息数が世界最多、それに、北極熊の生息が最も最適な島の一つである。また、メキシコから回遊してくるコククジラの主要な餌場にもなっている。また、絶滅の危機にある約100種類の渡鳥の最北の繁殖地でもある。一方、維管束植物は、これまでに、400以上の種・亜種が確認されている。また、1989〜1991年に紀元前2000年までのマンモスの牙、歯、それに、骨が発見されている。
キジ島の木造建築 キジ島は、サンクト・ペテルブルクの北東約350km、カレリア地方のオネガ湖に浮かぶ小島。キジとは、この地域の先住民であったカレリア人及びヴェブス人の言葉で「祭祀の場」を意味する。キジ島には、1714年建立で別名「丸屋根の幻想」の異名をとる、高さ37m、タマネギ形の22の丸屋根を持った木造建築がユニークなロシア正教のプレオブランジェンスカヤ聖堂をはじめ、その南側には1764年建立のポクロフスカヤ聖堂、また、1874年建立の八角形の鐘楼がある。これらは、釘を全く使用せず建築されたことでも有名である。キジ島全体は木造建築の特別保護区に指定され、オネガ湖畔の村々などから農家、風車小屋、納屋、鍛冶屋、浴場など17〜18世紀の木造建築群などが移築され、島全体が野外博物館になっている。
コローメンスコエの主昇天教会 コローメンスコエは、首都モスクワの南東部、モスクワ川右岸の自然公園内にあるイワン4世からピョートル1世までの歴代ロシア皇帝の別荘地で、敷地面積257haの広さを誇る。キリスト昇天を賛える主昇天教会(ヴォズネセニエ聖堂)は、雷帝(グローズヌイ)と呼ばれたイワン4世(1530〜1584年)の誕生を祝って1532年に建てられた。主昇天教会は、古代ロシア伝統の木造建築の技術を生かしたレンガと石灰岩の石造り教会で、高さが62m、四面が急傾斜のテント型の屋根を持った八角錐の尖塔と半円状の装飾が特徴である。多くのロシア教会は、玉葱の形をしたドームをもっているが、主昇天教会は、玉葱のない独自の教会建築である。建築様式は、ビザンチン様式とは一線を画すロシア古来の木造建築技術を教会建築に生かしたシャーチョール様式を確立した最初の建物である。