Patrimoine de l'humanite
シンクヴェトリル国立公園 シンクヴェトリル国立公園は、アイスランドの南部、レイキャビクから北東へ49km、野外の旧国会議事堂のアルシングとその後背地からなり、1930年に国立公園に指定された。世界遺産の登録面積は、9270haである。アルシングは、930年にノルウェーからの移住者によって、世界で初めて全島集会の民主議会を開き、現在の国会議事堂が出来るまでの1798年まで続いた。その間、アイスランドの憲法を制定し、議会制民主政治を確立した。シンクヴェトリルは、「聖なる場所」、そして、「世界の議会の母」として、アイスランドの人々が世界に誇る国家的に重要な史跡であり、その文化的景観を誇る。また、シンクヴェトリル国立公園は、大西洋中央海嶺の地上露出部分で、ユーラシア・プレートが東に、北米プレートが西に広がり、アイスランドとアフリカ大陸のみでしか見られない地球の割れ目「ギャウ」でも有名である。シンクヴェトリルは、1930年に国立公園に指定されており、かつて、アルシングが開催された場所には、現在アイスランド国旗が掲揚されている。
スルツェイ島 スルツェイ島は、アイスランドのレイキャネース半島の南岸から約32km、ウエストマン諸島の最南端にある火山島である。スルツェイ島は、1963年から1967年まで起こった海底火山の噴火で形成された新島で無人島である。スルツェイ島は、1963年11月の誕生以来、手付かずの自然の実験室を提供してくれており、歴史上、最も詳細に監視し記録された新島の成長や形成などの進化の様子、それにスルツェイ島への動植物の定着のメカニズムを明らかにするものである。スルツェイ島は、人間の干渉から解放され、植物や動物の生命が新天地に漂着する過程について、長期間における独自の情報を生み出した。1964年に科学者達がスルツェイ島を研究し始めて以来、海流によって運ばれる種子が漂着する過程を観察した。維管束植物による糸状菌、細菌、真菌の出現は、1965年からの最初の10年間は、10種類であったが、2004年までには、75種の蘚苔類(せんたいるい)、71種の子嚢菌類(しのうきんるい)、それに24種の菌類が確認されている。また、これまでに、89種の鳥類がスルツェイ島で確認されており、それらのうち57種がアイスランドの何処かで営巣し繁殖している。スルツェイ島は、また、335種類の無脊椎動物の故郷でもある。スルツェイ島は、高緯度帯に突如出現した火山島に、いかに外来の動植物が定着するかその生態系を解明する上でも、まさに世界的な実験室なのである。世界遺産の登録基準では、「陸上、淡水、沿岸および海洋生態系と動植物群集の進化と発達において進行しつつある重要な生態学的、生物学的プロセスを示す顕著な見本である」ことが評価された。スルツェイ島への入島は厳しく制限されており、科学的な調査や研究を目的にした科学者のみの上陸が許されている。
スケリッグ・マイケル スケリッグ・マイケルは、アイルランドの南西部、アイヴェル半島のボラス岬の沖合い12kmの海上に浮かぶスケリッグ諸島のスケリッグ・マイケル島にある。スケリッグ・マイケルとは、「ミカエルの岩」の意である。スケリッグ・マイケルには、7世紀に、聖フィナオンによってスケリッグ・マイケル修道院が、10〜11世紀には、修道士達によって聖ミカエル(マイケル)をまつる聖堂が建てられた。大西洋の荒波が打ちつける荒涼たる岩の孤島で、アイルランドの初期キリスト教修道士達が厳しい修行生活を続けてきたが、16世紀に閉鎖された。石積みの十字架、僧房、礼拝堂などの遺跡や出土品から当時の修道士達の生活がしのばれる。スケリッグ・マイケル島は、現在は無人島ではあるが、多くの海鳥が生息している。スケリッグ・マイケルの登録遺産名は、当初、Skellig Michaelであったが、2012年に英語表記からアイルランド語表記のSceilg Mhichilに変更になった。
ベンド・オブ・ボインの考古学遺跡群 ベンド・オブ・ボインの考古学遺跡群は、アイルランド東部、首都ダブリンの北西約40km、ボイン川の屈曲部の渓谷の丘陵部にある古墳群。新石器時代後期の巨大古墳の中では、ヨーロッパで最大、かつ最も重要な巨石の芸術である。ニューグランジ、ドウス、ノウスの3つの地域には、大型石室墓があるが、いずれも高度な建築技術と天文学知識を駆使してつくられたものである。また、多数の墳丘や5つの列石などが発見されている。古墳入口の巨大石板には、縄文や渦巻の文様が刻まれ、土器や骨製ピンなども出土している
コブスタンの岩石画の文化的景観 コブスタンの岩石画の文化的景観は、アゼルバイジャンの首都バクーから南西へ約60km、アゼルバイジャン中央部の半砂漠に巨岩群が聳え立つ高原の、ガラダフ地区とアプシェロン地区、ジンフィンダシュ山のヤジリテペ丘陵、べユクダシュ山とキチクダシュ山の3つの地域に展開する。コブスタンの岩石画の文化的景観の世界遺産の登録範囲は、核心地域が537ha、緩衝地域が3096haに及び、4000年間にわたって描かれた人物、ヤギや鹿などの野生動物、葦の小舟などの6000の岩石画が集積している。コブスタンの岩石画は、1930年代に発見され、コブスタン国立公園や特別保護区に指定されているが、石油パイプラインの建設など潜在的な危険にさらされている
シルヴァンシャーの宮殿と乙女の塔がある城塞都市 シルヴァンシャーの宮殿と乙女の塔(Maiden Tower)がある城塞都市バクーは、カスピ海の南西に面するアブセロン半島のバクー湾に面した港町である。バクーとは、ペルシア語で、「風の吹く町」を意味し、12世紀に海岸ぎりぎりに城壁が築かれ、その中に、「内城」(イチェリ・シェヘル)で囲まれた旧市街がある。乙女の塔(クイズ・ガラスイ)は、12世紀に建てられた奇妙な楕円形の見張りの塔で、好きでもない男との結婚を押し付けられた王女が塔の上からカスピ海に身を投げたという伝説も残っている。中央広場を中心に、ゾロアスター、ササン、アラビア、ペルシア、シルヴァン、オスマン、ロシアなど多彩な文化の影響を受けたアゼルバイジャン建築を代表する15世紀のシルヴァンシャーの宮殿など歴史的建築物が数多く残っている。2000年11月の大地震による損壊、都市開発、圧力、保護政策の欠如によって、2003年に危機遺産になったが、2009年の第33回世界遺産委員会セビリア会議で、アゼルバイジャン当局の修復努力、管理改善が認められ、危機遺産リストから解除された。
ベラトとギロカストラの歴史地区群 ベラトとギロカストラの歴史地区群は、アルバニアの中央部と南部にある歴史地区群である。ベラトは、アルバニアの中央部にあるトルコ人の町が良く保存された稀な事例である。ベラトには、様々な宗教や文化のコミュニティが共存している。人口64000人の町は、紀元前4世紀を起源とし13世紀に建てられカラとして知られる城が特徴である。城塞地域には、主に13世紀からの多くのビザンチン教会群があり、価値ある壁画やイコンが残っている。また、町には、1417年からのオスマン帝国の時代に建てられたいくつかのモスクもある。ベラトには、18世紀にスーフィーによって使用された宗教的なコミュニティの為のいくつかの家屋が残っている。一方、ギロカストラの歴史地区は、アルバニアの南部、首都ティラナの南約145km、ジェール山の傾斜地にある。ギロカストラの名前は、ヨーロッパのこれらの地に居住したイリュリア民族に由来している。ギロカストラは、絵のように美しい魅力的な町で、町全体が博物館のような白と黒の石畳の千段の町としても知られている。ギロカストラの町は、13世紀に興り、15世紀のトルコ軍の侵略によって衰退したが、17世紀には、刺繍、フェルト、絹、チーズなどのバザーで栄え、町は再生した。ギロカストラの町の中心部には、バザールやモスク、ドリノ川を見下ろす尾根には、ギロカストラ城が残されている。ギロカストラ城は、2〜3世紀に作られた城跡が、6世紀にイリリア人によって拡張され、13世紀に今のような形になり、後に牢獄としても使われた。ギロカストラは、後にアルバニアの自由と独立の為の愛国運動の拠点として重要な役割を果たしたが、1940〜1941年のギリシャ・イタリア戦争で、再び戦場と化した。2005年に「ギロカストラの博物館都市」として世界遺産登録されたが、ギロカストラの歴史地区にベラトの歴史地区を追加、登録範囲を拡大して、現在の登録遺産名になった。
ブトリント ブトリントは、アルバニア南部、ギリシャとの国境近くにあるサランドラ地方のブトリントにある古代ギリシャ人の都市国家。紀元前5世紀頃から15世紀にトルコ人に滅ぼされるまで続いた。現在の考古学遺跡は、ギリシャ植民地、ローマ帝国、ビザンチン帝国など各時代を代表する数々の遺跡が残されている。ブトリント湖畔の1平方kmにわたり城壁を張り巡らし、イオニア式の神殿、円形劇場、公衆浴場、住居などの遺跡やギリシャ語碑文などが残されている。この国の内紛によって、この考古学遺跡が損なわれてはならない為、1997年に危機にさらされている世界遺産に登録された。また1999年には、登録範囲を延長・拡大した。略奪の防止など安全面での改善措置が講じられた為、2005年に危機にさらされている世界遺産リストから解除された。
エチミアジンの聖堂と教会群およびスヴァルトノツの考古学遺跡 エチミアジンの聖堂と教会群およびスヴァルトノツの考古学遺跡は、アルマヴィル・マルツ地方にある。エチミアジンの聖堂は、アルメニア正教の本山として知られ、アルメニア風の中央ドーム、十字廊型の教会が発達し花開いた歴史を目の当たりに見せてくれる。エチミアジンの聖堂や、7世紀半ばに建設されたスヴァルトノツ聖堂などの建造物は、この地方の建築と芸術の発展に大きな影響を及ぼした。
ゲガルト修道院とアザト峡谷の上流 ゲガルト修道院とアザト峡谷の上流は、コタイク地方のゴフ村の近くにある。ゲガルト修道院には、岩壁を彫り抜いて建造された教会と墓地が多数あり、13世紀のアルメニア建築の最盛期を物語っている。美しい自然豊かなアザト峡谷の絶壁に塔の様な中世建築物が聳え立っているのが印象的。
ハフパットとサナヒンの修道院 ハフパットは、キリスト教を世界で最初に国教としたアルメニア北部のトゥマニヤン地方にある。991年に、アショット1世の命によって、アルメニア産の火山岩で建てられたビザンチン様式の聖十字架教会、13世紀までに、聖十字架教会の周辺に建てられたカフカス地方特有のコーカサス様式の木造建築物がある。この2種類の建物は、見事なまでの独特の調和を誇り、10〜13世紀のアルメニアの教会建築や宗教芸術を具象化した代表的な複合建築物で、西洋のゴシック様式にも大きな影響を与えた。地震による倒壊やモンゴル軍の襲撃で何度も被害を被ったが、修復されてきた。2000年にサナヒンの修道院が追加登録された。
マドリュウ・ペラフィタ・クラロー渓谷 マドリュウ・ペラフィタ・クラロー渓谷は、アンドラの南東部、フランスとスペインの国境にあるピレネー山脈のなかにあるマドリュウ、ペラフィタ、クラローの一連の3つの渓谷からなる。マドリュウ・ペラフィタ・クラロー渓谷は、エンカンプ、アンドラ・ラ・ヴェリャ、サン・ジュリア・デ・ロリア、エスカルデス・エンゴルダニの4つの行政区にまたがり、アンドラの国土面積の十分の一くらいを占める。ドラマチックな氷河、岩の崖、マドリュウ川、ヴァリラ川などの河川が合流し、開放的な草原、深い渓谷の森林の自然景観が見られる。また、ピレネー山脈の高山帯に暮らす人々にとって、この地域は、段々畑での農業、牧畜を営む生活の場であり、山岳文化を生み出す文化空間であり続けた。2006年にはバッファー・ゾーンの拡大登録がなされた。
アイアンブリッジ峡谷 アイアンブリッジ峡谷は、英国西部、ロンドンの北西約190km、バーミンガムの郊外にある産業革命の発祥地コールブルックデールにある。アイアンブリッジは、その名の通り、鉄の橋で、アブラハム・ダービー1世が、世界で初めて開発した溶鉱炉で鉄鉱石と石炭から鉄を造る技術を用いて、1779年に、セヴァーン川が流れるセヴァーン峡谷に架けられた世界最初の鉄橋である。通称、アイアンブリッジ峡谷には、18世紀後半の産業革命期の溶鉱炉や工場、労働者が住んでいた村落などの産業遺産が保存されている。アイアンブリッジ峡谷は、「世界の工場」と呼ばれ大英帝国の黄金時代を築いたヴィクトリア女王時代(在位1837〜1901年)の名残を今も留めている。
王立植物園キュー・ガーデン 王立植物園キュー・ガーデンは、英国の南東部、ロンドンの南西約10km、サリー州リッチモンドのテムズ川南河岸にある。王立植物園であるキュー・ガーデンは、何世紀にもわたって科学的、文化的に発展した見事な歴史的景観を呈する。1759年の宮殿併設の庭園として開設以来、面積が約121ha、4万種類にもおよぶ植物の多様性や経済的な植物園の研究に秀でたセンターとして世界的にも認められている。キュー・ガーデンは、18世紀以降、世界中の植物の収集や研究に先導的な役割を果たし文献も豊富である。ここには、国際的にも重要な、歴史的な庭園景観を誇り、18世紀から20世紀にかけて活躍したウイリアム・ケント、チャールズ・ブリッジマン、ウイリアム・チェンバーズ等によって設計された庭園もある。また、17世紀のキュー・パレスやヴィクトリア時代の温室など建築学的にも重要な建物が残っており、恒久的な保護管理措置が講じられている。キュー・ガーデンには、年間100万人以上の人が訪れる。キュー・ガーデンへの交通アクセスは、ロンドンの中央駅、あるいはウエスト・エンド駅から地下鉄でキュー駅で下車。または北ロンドン駅からシルバーリンク列車でキュー・ガーデン駅下車。
グリニッジ海事 グリニッジ海事は、英国南東部、ロンドンの東の近郊のテムズ川の南河畔にある世界の標準時を刻む海洋都市である。グリニッジは、英国の建築と科学の努力の結晶であり、建築家C.レンによって設計された王立海軍学校の他、建築家I.ジョーンズによって17世紀初めに建てられたイタリアのパラディオ様式を導入したクイーンズ・ハウス、アンドレ・ル・ノートルによって造園されたグリニッジ公園の中央の丘には、C.レンとR.フックの設計によって、1675年に建設された旧王立天文台がある。1884年の国際会議で、グリニッジに世界基準となる子午線が引かれ、グリニッジ標準時(GMT)を世界の標準時間にすることが決まった。国立海事博物館では、英国の航海の歴史がわかる展示品が収集されている。グリニッジ・ピアに停泊するカティーサーク号は、完成した1869年当時は、海運大国英国を象徴する世界で最速の帆船で、紅茶や羊毛の交易に使用されていた。
新石器時代の遺跡の宝庫オークニー 新石器時代の遺跡の宝庫オークニーは、英国北部、スコットランド北部にある多島海の大小70からなる諸島にある。なかでも、最大の島メインランド島には、代表的な遺跡が残されている。新石器時代の遺跡の宝庫オークニーは、以下の4つの構成資産からなる。紀元前3000〜紀元前2000年頃の新石器時代の円形墳墓のメイズ・ホウ、何らかの儀式のために建造されたと思われる直径44m、12基の巨石からなるストーンズ・オブ・ステネス、直径104m、60基の石からなり、そのうち27基の石が現在も立っているリング・オブ・ブロッガーの環状列石、それに、スカラ・ブラエの石造りの家の集落遺跡である。これらオークニー諸島に残るさまざまな遺跡は、新石器時代の北部ヨーロッパの人々の文化の高さを示す顕著な証しである。
セントキルダ セント・キルダは、英国の北西部、スコットランドの北方の沖合185kmの大西洋上に浮かぶヒルタ島、ボーレー島、ソーア島、ダン島の 4つの島とスタック・リーなど2つの岩礁など火山活動から生まれた群島からなる。北大西洋で最大の海鳥の繁殖地で、世界最大のシロカツオドリ、それに、オオハシウミガラス、ニシツノメドリ、コシジロウミツバメ、フルマカモメなどが生息する鳥の楽園。セント・キルダ群島で最大の島であるヒルタ島では、2千年以上前の巨石遺跡も発見されており、古代よりこの島に人が住んでいたことを証明している。また、農業、牧羊を生業とし、伝統的な石の家に住んでいた生活の痕跡が残されているが、1930年以降は無人島である。セント・キルダは、イギリス政府の生物圏保護地域に指定されており、2004年に周辺海域も登録範囲に含められた。2005年7月の第29回世界遺産委員会では、その文化遺産としての価値も認められ、自然遺産から複合遺産になった。
ダラム城と大聖堂 ダラム城と大聖堂は、英国中部、イングランド地方北部、ダラム県のダラム市を流れるウェア川に囲まれた小高い丘の半島にあり、ロマンチックな美しい景観を誇る。ダラム城は、ノルマン・コンクエストを遂げたウィリアム1世によって、スコットランドなど北方の国境警備の為に築かれた城で、1072年に建造された。ダラム大聖堂は11〜12世紀の創建で、英国のノルマン・ロマネスク様式の聖堂としては、最大規模を誇り、その後も増改築が繰り返された。ダラム城は、1832年以降はダラム大学の施設として使用されており、聖カスバート、聖ベーダ、聖オズワルドの3聖人が埋葬されているダラム大聖堂は、巡礼地になっている。
バース市街 バース市街は、英国南部、首都ロンドンの西約140km、イングランド地方バース・アンド・ノース・イースト・サマセット県のエイヴォン川が流れる谷間にある町バースの市街地で、その地名が浴場(Bath)の起源になった温泉場である。 1世紀頃、古代ローマの支配下に入り、大浴場や神殿が建設され、温泉保養地として繁栄した。後に、ローマ人の撤退とともに荒廃したが、18世紀に上流階級の貴族のリゾートとして復活、当時のジョージアン様式の優雅なテラスハウスが建つ町並みと共に保存されている。建築家ジョン・ウッド親子によって造られた三日月形のロイヤル・クレッセント、円形のザ・サーカスなどの集合住宅の建築物は特徴的。また、バース市街の南には、18世紀にバースの実業家ラルフ・アレンが造園した美しいプライア・パーク・ランドスケープ・ガーデンがある。なお、英国・バース、チェコ・カルロヴィヴァリなど、ヨーロッパ8か国10か所の温泉町をつなぐ「文化の道」は、2010年に欧州評議会の「温泉遺産と温泉町の道」として認定されている。
ブレナヴォンの産業景観 ブレナヴォンは、英国南西部、ウェールズ州のカーディフの北東40kmにある。ブレナヴォンの産業景観は、石炭や鉄鉱石の鉱床、採掘現場、初期の鉄道、高炉などの製鉄設備、労働者の為の住宅、そして、公共設備など19世紀に鉄鉱石と石炭の主要産地として世界に名を馳せた南ウェールズの繁栄ぶりを雄弁に物語っている。ブレナヴォンの産業景観は、産業革命初期に「ビッグ・ピット」と呼ばれた炭鉱、それに製鉄所などの産業活動とそれを取り巻く人間の生活の様子が良く保存された顕著で傑出した事例である。ブレナヴォンの産業遺産は、現在は、博物館などとして活用されている。
リヴァプール-海商都市 リヴァプール-海商都市は、英国中西部、イングランド北西部にあり、18〜19世紀に大英帝国の貿易港として繁栄した。リヴァプールは、現代のドック建造技術、輸送システム、そして、港湾管理の発展において先駆けであった。産業港として、その美しい建築物と港の歴史が世界遺産として評価された。マージー川からのロイヤル・ライヴァー・ビル、キュナード・ビル・ドック・オフィス、1753年、1842年、1853年に建造されたソールトハウス・ドック、スタンレー・ドック保護地域、リヴァプール市役所、ウィリアム・ブラウン通り文化区域、ブルーコート・ チェンバーズ、レーン校などは、当時の町の発展段階を示している。現在、ピール・ホールディングスが手がけている大規模な水域再開発計画によって、リヴァプールの歴史的な都市景観が損なわれることが懸念されることから、2012年に「危機にさらされている世界遺産リスト」に登録された。
ウエストミンスター・パレス、ウエストミンスター寺院、聖マーガレット教会 ウエストミンスター・パレス、ウエストミンスター寺院、聖マーガレット教会は、英国南東部、首都ロンドンの中心部、テムズ河畔のウエストミンスター周辺に位置している。ゴシック・リヴァイヴァル建築の代表ともいえるウエストミンスター・パレスは、かつては宮殿であった。1532年にヘンリ8世がホワイトホール宮殿に移ってから国会議事堂として使用されるようになり、議会政治の発祥地英国の象徴になっている。なかでもロンドンのランドマークともいえる時計台(高さ約95m)、ビッグ・ベンは有名。ウエストミンスター寺院(アビー)は、世界有数のゴシック建築として名高く、亡きダイアナ元王妃の葬儀が行われた寺院としても記憶に新しいところである。もともと歴代英国国王の戴冠式など王室の主要行事が営まれる格式の高い場所で、ヘンリ7世やエリザベス1世をはじめ多くの著名人の墓所があることでも知られている。ウエストミンスター寺院の隣に建つ聖マーガレット教会は、11〜12世紀に建設されたが、19世紀に修復された。英国の絶対主義が確立されたテューダー朝(ヘンリ7世からエリザベス1世までの5代)ゆかりの人物の記念碑が多数並んでいる。これらはいずれもエドワード懺悔王により11世紀に創建され、その後幾度か修復や再建が施された。英国王室の歴史を刻む壮大な建築物群を構成している。
カンタベリー大聖堂、聖オーガスティン修道院、聖マーチン教会 カンタベリー大聖堂、聖オーガスティン修道院、聖マーチン教会は、英国南東部、首都ロンドンの南東約80km、城壁に囲まれた中世の面影が色濃く残るイングランド最古の町カンタベリーにある。カンタベリー大聖堂は、英国国教会(信者数約7000万人)の総本山である。ローマ教皇のグレゴリウス1世が、英国へキリスト教布教の目的で派遣したベネディクト会修道士の聖アウグスティヌスの布教によって、当時のケント国王がケルトの宗教からキリスト教に改宗した6世紀に遡る。現在の聖堂とステンドグラスは12世紀頃建立されたものである。関連建築物として、現在は廃虚になっている聖オーガスティン修道院、イングランド最古の教会で、今なお教区教会として使用されている聖マーチン教会がある。なお、英国・カンタベリーからドーバー海峡、フランス、スイス、グラン・サン・ベルナール峠、イタリア・ローマに至る2000kmの「文化の道」は、1994年に欧州評議会の「フランシジェナの道」として認定されている。
コンウォールと西デヴォンの鉱山景観 コンウォールと西デヴォンの鉱山景観は、英国の南西部、南西イングランド地域、コンウォール州とデヴォン州にある。コンウォールと西デヴォンの景観の多くは、銅と錫の鉱山の急速な成長の結果、18世紀と19世紀初期に形成された。深い地下鉱山、機関車庫、鋳造場、ニュータウン、港湾、副次産業は、多産な革新を反映、19世紀初期には、世界の銅の供給量の3分の2を生産する地域になった。コンウォールと西デヴォンは、英国の産業革命に貢献し、世界の鉱山がある地域にも影響を与えた。エンジン、機関車庫、それに、鉱業機器を具体化したコンウォールの技術は、世界中に輸出された。ここは、鉱業技術が急速に普及した中心地域であった。コンウォールと西デヴォンの鉱業が1860年代に斜陽化した時、ここで働き生活していた鉱山労働者の多くが、南アフリカ、オーストラリア、中央・南アメリカへ移住した。そこでは、コンウォールの機関車庫が今もなお、生き残っている。
ジャイアンツ・コーズウェイとコーズウェイ海岸 ジャイアンツ・コーズウェイとコーズウェイ海岸は、英国北西部、北アイルランドの北端のロンドン・デリーの東、42kmにある。起伏に富んだ海岸線が8kmも続く一帯であり、北アイルランド一の景勝地。数々の伝説が残る「巨人の石道」という意味のジャイアンツ・コーズウェイは、玄武岩の柱状節理による5、6角形の柱状奇岩群が、高さ100mほどの断崖から海中まで無数に密集し、その光景は壮観。ここは、地質学者によって300年にもわたって行われた調査によって、5000万〜6000万年前の新生代の火山活動により流出した大量のマグマが冷却、凝固し、割れ目のある石柱になったことがわかり、地球科学の発展に寄与した。その数が4万本ともいわれる石柱の中には、高さが12mもある「ジャイアント・オルガン」、「馬の靴」、「貴婦人の扇」などと名付けられた不思議な奇岩もある。
ソルテア ソルテアは、英国中部、西ヨークシャーのブラッドフォード地域のシップリーの近くを流れるエア川の河畔にある。ソルテアは、19世紀後半に繁栄した工業村で、ブラッドフォード市長も務めたチツス・ソルト爵(1803〜1876年)が1851〜1876年にかけて、アルパカの羊毛紡績工場(1853年創業。現在はアート・ギャラリーなどに多目的に使用されている)、公共建築物、そして、工場労働者の家屋などからなるモデル村をつくった。ソルテアは、22の街路などその都市計画と高水準の建築とが見事に調和しており、外観はほとんど100年前の面影を残している。ソルテアの都市計画と建築は、ヴィクトリア女王(1819〜1901年)の時代のフィンランソロピックな温かみを鮮明に感じることができる顕著な事例で、「ガーデン・シティ」運動の発展にも影響を与えた。また、ソルテアの繊維産業は、当時の英国の基幹産業としての誇りと権威を象徴するものであり、その後の経済・社会の発展にも重要な役割を果たした。
ドーセットおよび東デヴォン海岸 ドーセットと東デヴォン海岸は、英国の南部イングランドのドーセット県とデヴォン県にある。ドーセットと東デヴォン海岸は、国際的にも重要な多様な化石の発掘地で、地球の歴史、地質学上の進化の様子、海岸の絶壁や海浜など地形学上の侵食の過程を学べる教材が豊富である。ジュラ紀前期から白亜紀後期の恐竜イクチオサウルスの化石が発見されたことでも有名。地質時代の区分の一つである古生代で4番目に古い約4億1000万年前から3億6000万年前の時代のデヴォン紀の名前は、魚の化石が多く含まれアンモナイトや三葉虫の化石も発掘されたこの時代の地層がよく見られる東デヴォン海岸に由来している。
ファウンティンズ修道院跡を含むスタッドリー王立公園 ファウンティンズ修道院跡を含むスタッドリー王立公園は、英国中部、ノース・ヨークシャー県、リボンにある。ファウンティンズ修道院は、戒律にのっとって純粋な信仰生活を望んだベネディクト会の13人の修道士によって、1132年 に創建されたが、1539年のヘンリ8世の修道院解散令によって解体された。その後の1598〜1604年に、当時の所有者であったステファン・プロクターによって、ファウンティンズ・ホール・キャッスルが建設された。ファウンティンズ修道院の名前は、近くに泉が湧いていたことに由来する。スタッドリー王立公園は、ウォーター・ガーデンもある18世紀に造られた典型的な英国式庭園である。ファウンティンズ修道院の回廊、本堂、四角い塔などの遺構が、美しいスタッドリー王立公園の庭園に配された湖、池、滝、水路に映え、幻想的な雰囲気を醸し出している。
ヘンダーソン島 ヘンダーソン島は、南太平洋のポリネシア東端、ピトケアン諸島にある面積3700haの環状珊瑚礁の無人島で、英国領に属する。1606年にスペイン人航海士のペドロ・フェルナンド・デ・キロスによって発見され、1819年には、英国のヘンダーソン船長が島に到着し、ヘンダーソン島と命名した。この島には、美しい自然景観、原始の自然が手つかずのままに残されており、飛べない鳥のヘンダーソン・クイナ、ヘンダーソン・ヒメアオバト、ヘンダーソン・オウムなど5種類の鳥、10種の植物など、この島固有の貴重な動植物が生息している。また、ヘンダーソン島の海岸は、ウミガメの産卵場所にもなっている。しかしながら、ヘンダーソン・ウミツバメなどの外敵である外来種のナンヨウネズミが繁殖、駆除が大きな課題になっている。また、ビジターの行動規範、レンジャーの任命、ピトケアン諸島の環境戦略などの管理計画の策定も急がれる。
ローマ帝国の国境界線 ローマ帝国の国境界線は、ドイツと英国の2か国にわたって分布する。ローマ帝国の国境界線は、ドイツの北西のライン河畔のバート・フニンゲンから南東のドナウ河畔のレーゲンスブルグまでの全長550kmのリーメスの長城遺跡と、ローマ皇帝ハドリアヌス帝が造らせたイングランド北部のケルト人など北方民族に対する監視所や要塞を持つハドリアヌスの城壁など、大西洋岸からヨーロッパ、そこから紅海、アフリカ北部を経た大西洋に至る5000km以上に展開する。ローマ帝国の国境界線は、要壁、堀割り、要塞、見張り塔の遺跡群からなる。防御線のある構成要素は、発掘され、あるものは再建され、いくつかは破壊された。ある部分は野外調査でのみ知られている。これらの遺跡は、900近い見張り塔、60の要塞、保塁、要壁、堀割りや、貿易、工芸、軍隊に従事した民間住居を含んでいる。2005年7月の第29回世界遺産委員会ダーバン会議で、1987年に登録された「ハドリアヌスの城壁」の登録範囲を拡大し、登録遺産名も「ローマ帝国の国境界線」に変更された。また、2008年7月の第32回世界遺産委員会ケベック・シティ会議では、英国のスコットランド中央部に残る石と土で作られたローマ時代の遺構である「アントニウスの長城」も構成資産に加え、登録範囲を拡大した。
エディンバラの旧市街と新市街 エディンバラの旧市街と新市街は、英国北東部、ロンドンの北約630km、北海の入り海であるフォース湾の南岸にある。エディンバラは、15世紀以来のスコットランドの首都として繁栄し、中世の要塞都市の景観をもつ旧市街と、ヨーロッパの都市計画に大きな影響を与え18世紀以降に発展した新古典主義の町並みをもつ新市街の2つの顔をもつ。聖マーガレット教会、セント・ジャイルズ大聖堂、エディンバラ城、ホーリールード修道院、ホーリールードハウス宮殿、スコットランド国立美術館、1583年創立のエディンバラ大学など貴重な建造物が残っている。この新旧2つの歴史地区の町並みが、この町のユニークさを表している。18世紀後半には文芸興隆期を迎え、画家のA.ラムゼー、H.レーバーン、哲学者のD.ヒューム、歴史家のW.ロバートソン、小説家のH.マッケンジーなどを輩出した。
グウィネズ地方のエドワード1世ゆかりの城郭と市壁 グウィネズ地方のエドワード1世ゆかりの城郭と市壁は、英国の中西部、グウィネズ県のアングルシー島、カーナーフォン、コンウェイ、ハーレフに分布する。13世紀のエドワード1世(在位1272〜1307年)がウェールズを攻略する際に建てた城郭群である。アングルシー島にあるボーマリス城は、完成度の高い二重の城壁で知られる。コンウェイのコンウェイ城は、1283年からわずか4年で建てられ、8つの円塔と4つの小塔が美しい。ハーレフのハーレフ城は、13世紀末にウェールズ拠点として建てられた。カーナーフォン城は、戦略的に重要なセイオント川河口に建てられたウェールズ地方最大規模の城郭であり、王家の居城として使用された。1301年にこの城で生まれたエドワード1世の息子である皇太子に、プリンス・オブ・ウェールズの称号を与えたことでも知られている。
ゴフ島とイナクセサブル島 ゴフ島とイナクセサブル島は、南大西洋上にある英国の海外領土の火山島である。ゴフ島は、面積約80平方キロメートルの無人の火山性孤島で、約2億年以上前の火山活動で誕生した。6世紀にポルトガルの船乗りに発見された後、1731年にこの島に立ち寄った英国人のゴフ船長の名前に因んでゴフ島と名付けられた。ゴフ島は、年間降水量は3400mmにもおよび、亜寒帯に属する海洋性気候で、風も非常に強い。生態系もほとんど破壊されておらず、アルバトロスなどの海鳥が島の断崖に集団営巣し世界最大級のコロニーを形成し、生殖地となっている。また、ゴフ・ムーヘンとゴフ・バンティングの2種の陸鳥、12種の植物の固有種が生息している。ゴフ島の南東部には、南アフリカ政府の気象観測所があり、昆虫学、鳥類学、気象学などの学術研究のプロジェクトが進められつつある。2004年にイナクセサブル島と周辺海域を追加、登録遺産名も「ゴフ島野生生物保護区」から変更された。
ストーンヘンジ、エーヴベリーと関連する遺跡群 ストーンヘンジは、英国南部、イングランドの南部ソールズベリーの南ウィルトシャーの荒涼たる平原にある4000年以上前の先史時代の巨石の環状列石遺跡で、世界遺産の登録面積は、4985.4haである。ヘンジとは、古英語で、「つるす」という意味。高さ6m以上の大石柱が100m近い直径の内側に祭壇を中心に、4重の同心円状に広がる。その建設の目的については、諸説があるが、はっきりわかっていない。夏至になると、ヒール・ストーンといわれる高さ6mの玄武岩と、中心にある祭壇石を結ぶ直線上に太陽が昇る。ストーンヘンジ以外にウッドヘンジ、コニーベリーヘンジなど8つの関連の遺跡群がある。エーヴべリーは、ストーンヘンジの北約30kmのケネット地区の北ウィルトシャーにある巨石の環状列石遺跡。紀元前3000年後半のものと推測されているが、建設の目的については、ストーンヘンジと同様、諸説がある。エーヴべリー以外に、ケネット・アヴェニュー、シルバリー・ヒルなど、6つの関連の遺跡群がある。ストーンヘンジを横断するA344の道路閉鎖、ストーンヘンジへの訪問者のアクセスや施設の改善が課題になっている。
ダウエント渓谷の工場群 ダウエント渓谷の工場群は、英国中部、イングランドのダービーシャー県クロムフォードを流れるダウエント川の渓谷にある。ダウエント渓谷の工場群は、英国の産業革命期の1769年に、それまで人の力で糸を紡いでいた紡績機械を水車で動かすことを考え水力紡績機を発明したリチャード・アークライト(1732〜1792年)によって発展した綿紡績の新技術が取り入れられ、近代の工場システムが確立された顕著な重要性にある。ダウエント渓谷の田舎の景観の中に、紡績工場が立地することにより、工場労働者の為の住宅が建設され、結果的に定住が促進され、類まれな工業景観は、200年以上にもわたって、その品質を保っている。
ニュー・ラナーク ニュー・ラナークは、英国北部、スコットランド中南部、グラスゴーの南東およそ40km、クライド川の渓谷にある19世紀の産業遺産。ニュー・ラナークには、石造りの重厚な工場建造物、水車、倉庫などが残されている。ニュー・ラナークの工場は、後に英国の社会主義者、社会運動家として有名になったロバート・オーウェン(1771〜1858年)が、1800年に共同所有者および管理人として操業を始めたもので、英国最大の綿紡績工場であった。ロバート・オーウェンは、機械化など産業革命の発達によって、手工業に携わっていた労働者の生活の困窮化や堕落を目の当たりにし労働者のライフ・スタイルなどの待遇改善、工場法の制定を唱え、労働組合や協同組合の設立に努力した。ニュー・ラナークの工場は、労働者の住宅、その幼少年子弟の為の学校、それに労働者の日用品を販売する生活協同組合を併せ持つ近代的な施設であった。
ブレナム宮殿 ブレナム宮殿は、英国南部、ロンドンの北約90km、オックスフォードシャー県のウッドストックにある。バロック様式のカントリーハウスの代表で、1704年、ブレンハイムの戦いで、フランス軍に勝った褒章として、当時のアン女王から土地と爵位を受けたマールバラ公爵のジョン・チャーチルが、建築家のジョン・ヴァンブラに設計させ約20年の歳月をかけて建設した邸宅である。ブレナムは、その時の戦勝地であるドナウ川河畔の村の名前に因んでつけられたものである。ブレナム宮殿の200もの部屋の室内は、大理石や漆喰の壁で、フレスコ画やタペストリーが華麗に装飾されている。ブレナム宮殿のイギリス式の風景庭園は、森、丘などの自然環境を生かして、2つの人造湖、運河、並木通りを取り入れた広大なものである。有名な英国の元首相のウィンストン・チャーチルは、ここブレナム宮殿で生まれた。
ポントカサステ水路橋と運河 ポントカサステ水路橋と運河は、英国南西部、ウェールズ地方のデンビーシャー県を流れるディー川の渓谷にある英国最大の運河橋である。ポントカサステとは、ウェ−ルズ語で、「連絡橋」という意味である。ポントカサステ水路橋と運河は、18世紀末から19世紀の初頭において、困難な地理的環境下で建設された水路橋の傑作であり、世界遺産の登録面積は、105ha、バッファーゾーンは、4145haである。ポントカサステ水路橋は、長さが313m、幅が13.7mの19連の鋳鉄アーチ橋である。渓谷をまたいでランゴレン運河が通っており、最大高は38.7m、水路溝は、幅3.6mで、1805年に完成した。英国土木学会初代会長を務めた土木・運河技術の第一人者であったトーマス・テルフォード(1757〜1834年)によって架けられた先駆的な土木・運河技術の駆使した作品である。ポントカサステ水路橋と運河は、英国の産業革命よってもたらされた革新的な顕著な事例の一つであり、内陸の水路、土木技術、土地利用計画、構造設計における鉄の利用などの分野で、国際的な交流や影響を与えた顕著な事例である。
ロンドン塔 ロンドン塔は、英国南東部、ロンドン市内のシティにある。イングランド王のウィリアム1世(在位1066〜1087年)が、1078年にテムズ河畔のローマ砦跡に、ロンドン市民の反乱に備えて、ホワイト・タワーを中心とする城塞を築いたのが始まり。王の居城として使われた後、王室の者も含めた政治犯の牢獄となり、エリザベス1世が幽閉されたほか、処刑の場になるなど数々の悲劇の舞台となった。ロンドン塔は、度重なる改築の結果、13の塔と不等辺六角形の二重城壁を持つロンドンでも最古級の建築物であり、現在は、博物館として使用されている。ホワイト・タワーは、5階建約28mの建物で、塔のイメージから受ける程、高くはない。
アクイレリアの考古学地域とバシリカ総主教聖堂 アクイレリアの考古学地域とバシリカ総主教聖堂は、イタリアの北東部のトリエステの西約50kmにある。アクイレリアは、紀元前2世紀に出来た古代ローマの植民都市が起源である。古代アクイレリアは、東ローマ帝国の中で、最大で最も裕福な都市の一つであった。そのほとんどは、そっくりそのまま完全な形で生き残り、地中海世界で、また、東ローマ帝国の都市で、最も典型的なものといえる。バシリカ総主教聖堂は、11世紀に建てられたロマネスク様式の教会で、中央ヨーロッパのキリスト教の普及に決定的な役割を果たした。内部には、4〜5世紀の初期キリスト教の聖堂跡や床モザイクが見られる。
アマルフィターナ海岸 アマルフィターナ海岸は、イタリアの中央部、ソレント半島南岸の海岸で、ヴィエトリ・スル・マーレからアマルフィを通ってサレルノまで延びる40kmの海岸線で、地形と歴史の進化を表わす地中海の景観の顕著な事例である。アマルフィターナ海岸は、垂直に切り立った岩の絶壁、無数の入江、しがみつく様につくられた村落、エメラルド色に輝くティレニア海など変化に富んだ絶景が、降り注ぐ太陽の下でパノラマ状に広がり、世界一美しい海岸と言われている。アマルフィターナ海岸には、天然の良港と素晴しい自然環境に恵まれたアマルフィ、高級リゾート地のポジターノ、そして、紺碧の海を見下ろす丘に建つラヴェッロなど絵の様に美しい町が多い。また、オリーブ、レモン、ぶどうの畑など自然の地形を巧みに生かした土地利用は見事な文化的景観を誇り、イタリアでも屈指の観光の名所になっている。
イタリアのロンゴバルド族 権力の場所(568〜774年) イタリアのロンゴバルド族 権力の場所は、イタリアのフリウリ・ヴェネツィア・ジュリア州ウーディネ県チヴィダーレ・デル・フリウリ、ロンバルディア州ブレシャ県ブレシャとヴァレーゼ県カステルセプリオ-トルバ、ウンブリア州ペルージャ県のスポレートとカンペッロ、カンパニア州 ベネヴェント県ベネヴェント、プッリャ州フォッジャ県モンテ・サンタンジェロの5州6県7都市にまたがって分布し、トルバ塔などの要塞群、聖マリア・フォリス・ポルタス教会などの教会群、聖サルヴァトーレ修道院などの修道院群などの重要な建造物群から構成される。それらは、6世紀〜8世紀に権勢を奮って広大な領地を支配し、イタリアで独自の文化を発展させたロンゴバルド族の権力と栄光を伝える場所である。ロンゴバルド族の建築様式は、古代ローマ、キリスト教精神、ビザンチンの影響、ドイツ風の北欧の遺産をもとに総合的に描写され、ヨーロッパの古代から中世の時代までの変遷がわかる。一連の構成資産からは、中世ヨーロッパのキリスト教の精神的、文化的な発展において、修道院運動を支持するなどロンゴバルド族の果たした主要な役割が見てとれる。
オルチャ渓谷 オルチャ渓谷は、イタリアの中部、シエナの南東部のトスカーナ・アミアータ山とチェトーナ山に囲まれた海抜450mの農業後背地で、トスカーナ州の代表的ななだらかな丘陵景観が続く一帯で、長い間の土地利用によってできた景観が特徴的である。オルチャ渓谷には、ルネッサンス時代の町が見られるほか、糸杉並木、ブドウ畑、オリーブ畑などの丘陵と平原の牧歌的な景観が、ピエトロ・ロレンツェッティ(1280〜1348年)、ジョヴァンニ・ディ・パオロ(1403〜1483年)など多くの芸術家に影響を与えるなど文化的価値も高く、ルネッサンス絵画の中に頻繁に描かれている。また、オルチャ渓谷は、ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ、テヌータ・ディ・トリノーロという銘柄のワインの産地としても有名である。
クレスピ・ダッダ クレスピ・ダッダは、ミラノの北東35km、ロンバルディア州のトレッツォ・スッラッダの周辺を流れるアッダ川が流れる渓谷にある。当時、繊維産業に携わっていた啓蒙的な資本家クリストフォロ・ベニーニョ・クレスピ(1833〜1920年)が、1878年にアッダ川の対岸に技術的にも進歩した綿紡績工場を建設した。そして、クレスピは、労働者のニーズを満たし労働者との間により人間的な関係を築く為、当時ヨーロッパや北米でブームとなった労働者とその家族の町、いわゆるカンパニー・タウン(同業組合の町)の街づくりが行われた。この工場では、資本家と労働者との間に強い信頼関係が築かれ、大きなストライキや労働争議は起こらなかったいわれる。クレスピ・ダッダには、オーナーのクレスピ家の住居、工場管理者、医者、教会の牧師の家屋、それに3階建てで赤煉瓦の屋根が印象的な特異な労働者住宅の町並みが当時のままに残っている。一部の家屋には現在も人が住み利用されているが、本来のカンパニー・タウンの機能、そして地域の良き伝統文化としてのアイデンティーが失われ存続が危ぶまれている。
シエナの歴史地区 シエナは、トスカーナ州にある中世の面影を色濃くとどめる町。歴史は大変古く、ローマ建国の祖ロムルス・レムス兄弟のレムスの子孫セニウスらによって建設されたといわれている。ライバル都市のフィレンツェへの敵対心を都市計画への情熱に置き換え、何世紀もの間、ドゥオモ(大聖堂)を中心とするゴシック建築様式の夢を追求し続けた。カンポ広場は、貝殻状にゆるい傾斜のある広場で、イタリア中で最も美しいといわれる。そこを中心に、ドゥオモ美術館、シモーネ・マルティーニの「荘厳の聖母」やピエトロ・ロレンツェッティの「聖母の誕生」などの壁画で飾られたプッブリコ宮など、12世紀から15世紀にかけて作られた歴史地区は、周囲の景観と調和した芸術作品に仕上がっている。カンポ広場では、毎年7月2日と8月16日にパリオ祭が行われる。豪華絢爛な中世の時代衣装行列と裸馬の競馬で、町は賑わう。
チェルヴェテリとタルクィニアのエトルリア墳墓群 チェルヴェテリとタルクィニアのエトルリア墳墓群は、ローマから約42km、ティレニア海に面するラツィオ州のチェルヴェテリ、タルクィニアにある。チェルヴェテリとタルクィニアのエトルリア墳墓群は、紀元前9〜紀元前1世紀の死者の町の異なる埋葬習慣を示す。チェルヴェテリの円形の台の上に土を盛り上げた塚トゥムロやライオンの墓、それに、タルクィニアの約6000の地下墳墓群、豹の墓に残る巨大なフレスコ壁画などは、当時の芸術的傑作をなすもので、700年の歴史と文化を誇る古代エトルリア文明の独自性と素晴らしさの証拠である。
ドロミーティ山群 ドロミーティ山群は、イタリアの北東部、東アルプスに属する山群である。北はリエンツァ川、西はイザルコ川とアディジェ川、南はブレンタ川、東はピアーヴェ川に囲まれた範囲に展開する。ドロミーティ山群の登録面積が約135911ha、バッファーゾーンが98512ha、ペルモ・ヌボラウ、マルモラーダ、パーレ・ディ・サンマルティーノ、サン・ルカーノ-ドロミテベッルネーシ・ヴェッテ・フェルトリーネ、ドロミーティ・フリウラーネ、プエツ・オードレ、プエツ・ゲイスラー、シリアル-カティナッチョ、ローゼンガルテン、ラテマール、ドロミーティ・ディ・ブレンタなどの9つの構成資産からなり、高山の山岳景観と類いない自然美は、世界有数である。ドロミーティ山群は、また、国際的にも重要な地球科学の価値を有する。切り立った崖、深い渓谷など変化に富んだ石灰岩の地形は、世界的にも素晴らしいものであり、地質学的にも、地球上の生命史上、記録された絶滅後の三畳紀(2億〜2億6500万年前)の海洋生物の化石を目の当たりにすることが出来る。ドロミーティ山群の気高い記念碑的で彩り豊かな景観は、旅行者の目を惹きつけ、科学的、芸術的な価値を有するものである。包括的な管理の枠組み、管理計画と観光戦略の確立が求められている。ドロミーティは、日本語では、ドロミテ、ドロミティ、ドロミチなどとも表記される。
バルーミニのス・ヌラージ バルーミニは、イタリア半島の西、ティレニア海に浮かぶサルディーニャ島の中央部のカリアリ県バルーミニにある。紀元前2世紀後半、サルディーニャ島のバルーミニ村に、他では類を見ない堅固な石造りの砦であるヌラーゲが造られた。先住民族のサルディーニャ民族による巨石文化「ヌラーゲ文明」の重要拠点のひとつである。中央の塔、稜堡、防壁、武器庫、井戸、中庭などからなり、バルーミニのス・ヌラージは、紀元前1世紀前半の古代カルタゴからの攻撃にもよく耐え、先史時代の貴重な建造物として残っている。
ピエンツァ市街の歴史地区 ピエンツァ市街の歴史地区は、トスカーナ州のシエナの南、シエナ県のコムーネ(自治体の最小単位で、日本でいえば市町村)のひとつピエンツァにある。ピエンツァは、トスカーナの雄大なパノラマを見晴らせる小高い丘の頂上にあり、トスカーナの宝石といわれるルネッサンス期の佇まいがそのままに残る小さな町。ローマ教皇ピウス2世(1405〜1464年)の生誕地で、ルネッサンス建築様式が都市計画に初めて生かされた町。フィレンツェの建築家ベルナルド・ロッセリーノ(1409〜1464年)が設計したこの町には、ピオ2世広場を中心に、ピッコローミニ館、ボルジア館、後期ゴシック様式を取り入れたルネッサンス様式の外観と内装で、聖母マリアが奉られているピエンツァ大聖堂が建っている。
フェラーラ:ルネッサンス都市とポー・デルタ フェラーラ:ルネッサンス期の都市とポー川デルタは、イタリア北部エミリア・ロマーニャ州フェラーラ県にある。イタリアで最も長い川であるポー川の上流にあるフェラーラは、芸術家を保護したエステ家が、13世紀初めに居を構え、以後エステ家公領の首都として発展した。フェラーラは、15〜16世紀のイタリア・ルネッサンス期には、詩人のアリオストやベンボ、画家のティツィアーノなど多くの芸術家を送りだした知的で芸術的な町。エステ家のエルコレ1世の都市計画に基づき、都市景観の概念を取り入れた建築家ビアーゴ・ロセッティの設計で建設されたこの地区は、人間中心主義者達の理想の町となり、現代都市計画の誕生とその後の発展を特色づけた。エステ城、ディアマンティ宮殿、パラッツォ・スキファノイア、ドゥオーモ、サンタ・マリア・イン・ヴァード聖堂などルネッサンス期の建造物が多く残る。
ポンペイ、ヘルクラネウム、トッレ・アヌンツィアータの考古学地域 ポンペイ、ヘルクラネウム、トッレ・アヌンツィアータの考古学地域は、ナポリ近郊のポンペイ、エルコラーノ市、トッレ・アヌンツィアータにある。紀元後62年に起った地震によってトッレ・アヌンツィアータは崩壊、紀元後79年に起ったヴェスヴィオ火山の噴火によって、古代ローマ時代に繁栄したポンペイとヘルクラネウム(現エルコラーノ)等の多くの町が、火山礫や火山灰、それに、泥流や熔岩流で埋った。18世紀半ばからの奇跡的な発掘によって出現したフォロ(公共広場)、アポロ神殿やヴィーナス神殿、市場、大劇場、音楽堂、浴場、通り、商店、住宅などの考古学遺跡は、当時の高い文化水準と優雅で合理的な生活の様子を如実に物語っている。ポンペイ遺跡からの発掘品は、ナポリ国立考古学博物館に収蔵されている。
モデナの大聖堂、市民の塔、グランデ広場 モデナは、イタリア北部、ポー渓谷の南側にあるエミリア・ロマーニャ州モデナ県の県都。モデナの大聖堂、市民の塔、グランデ広場は旧市街の中心部にある。モデナの大聖堂(サン・ジミニャーノ大聖堂)は、4世紀のモデナの司教で、モデナの守護者であるサン・ジミニャーノを称えて、ロンバルディアの建築家ランフランコと彫刻家ヴィリゲルモによって12世紀に建てられた初期ゴシック芸術の傑作である。なかでも、大聖堂の正面の旧約聖書伝の彫刻が印象的で、内部には中世の素晴らしい芸術作品が収蔵されている。大聖堂の後ろに聳えるモデナのシンボルである市民の塔(トッレ・チヴィカ)は、高さ88mの白大理石の鐘楼で、1319年に頭頂部が付け足された。ロマネスク様式とゴシック様式の鐘楼は、風向計にギルランダ(花冠)があることから、ギルランディーナの愛称をもつ。モデナの大聖堂は、市民の塔とグランデ広場と共に建築家達の強い信念と、その建設を命じたとカノッサ王朝の威光を示す。モデナは、その後エステ家の支配下に入り、15世紀に公国となった。そして、1598年、エステ家が拠点としていたフェッラーラを追われて、モデナを首都にしてから、華やかな宮廷文化が花開いた。
レーティッシュ鉄道アルブラ線とベルニナ線の景観群 レーティッシュ鉄道アルブラ線とベルニナ線の景観群は、スイスとイタリアにまたがるスイス・アルプスを走る2つの歴史的な鉄道遺産である。レーティッシュ鉄道の北西部、ライン川とドナウ川の分水嶺(ぶんすいれい)でもあるアルブラ峠を走るアルブラ線は、1898年に着工し、1904年に開通した。ヒンターライン地方のトゥージスとエンガディン地方のサン・モリッツの67kmを結び、ループ・トンネルなど42のトンネル、高さ65mの印象的なランドヴァッサー橋などの144の石の高架橋が印象的である。一方、ベルニナ峠を走るベルニナ線は、サン・モリッツからイタリアのティラーノまでの61kmを結び、13のトンネルと52の高架橋が特徴である。ベルニナ鉄道(現在のレーティッシュ鉄道ベルニナ線)は、歯車を使ったラック式鉄道ではなく、一般的なレールを使った鉄道で、アルプス最高地点を走る鉄道として、すぐにその技術が大きな話題となり、後につくられるさまざまな鉄道計画のモデルになったといわれている。万年雪を冠った標高4000m級のベルニナ山脈の名峰や氷河が輝くスイス・アルプスの世界から、葡萄畑や栗林に囲まれた素朴な渓谷を越えるイタリアまでの縦断ルートである。標高2253mから429mまで、1824mの高低差を克服、驚くべき絶景が連続的に展開する。レーティッシュ鉄道は、20世紀初期から約100年の歴史と伝統を誇るグラウビュンデン州を走るスイス最大の私鉄会社で、アルプスの雄大な大自然を破壊することなく切り開き、山岳部の隔絶された集落を繋ぎ生活改善を実現した鉄道利用の典型である。レーティッシュ鉄道は、驚異的な鉄道技術、建築、環境が一体的であり、その鉄道と見事に共存しつつ現代に残された美しい景観は周辺環境と調和すると共に建築と土木の粋を具現化したものである。レーティッシュ鉄道は、最も感動的な鉄道区間として、今も昔も世界各地からの多くの観光客に親しまれており、最新のパノラマ車両も走る人気の絶景ルートであるベルニナ・エクスプレス(ベルニナ急行)の路線で、グレッシャー・エクスプレス(氷河特急)の一部区間でもある。レーティッシュ鉄道ベルニナ線は、箱根登山鉄道と姉妹鉄道提携をしている。
ヴァルカモニカの岩石画 ヴァルカモニカ(カモニカ渓谷)は、イタリア北部のロンバルディア平原のオーリオ川の川沿いに広域に分布する。ヴァルカモニカの岩石画は、カモニカ渓谷のオーリオ川沿いの約70平方kmにおよぶ地域の岩壁に描かれた。ヴァルカモニカの約14万点にもおよぶ岩石画は、紀元前18世紀〜紀元前2世紀頃までの長きにわたって描きつづけられたもので、青銅器時代からの古代人の生活、農業、狩猟、航海、戦争、儀式などが活き活きと描かれている貴重な遺跡。ヴァルカモニカの岩石画は、古代ローマ時代になって描かれなくなり、イタリアの古代民族カムニ族も消滅したが、それらの理由は、未だ謎のままである。ロンバルディアのシンボルとなっている「カムニのバラ」など、おびただしい数の岩石絵があるナクアーネの岩石絵自然公園(カポ・ディ・ポンテ)は、1955年に自然公園に指定され、世界でも類のない野外博物館になっている。ヴァルカモニカの岩石画は、イタリア初の世界遺産で、1979年に登録された。
ヴェネツィアとその潟
ヴェネツィアは、イタリア北東部のヴェネト州にある。ヴェネツィアは、アドリア海の118の州の上に造られた水の都で、176の運河と400余の橋で島を結んでいる。9世紀に聖マルコの遺体がエジプトから移されると発展しはじめ、15〜16世紀には、胡椒などの香辛料、絹、銀などの貿易で強国を築き、東西文明の結接点となった。大運河(カナレ・グランデ)の入口にあるサン・マルコ広場には、高さが100m近い鐘楼、ビザンチン、ゴシック、ルネッサンスなどの様式が混在した大理石のサン・マルコ大聖堂、それに、ドゥカーレ宮殿が、また、潟の岬の部分には、バロック様式の傑作といわれるサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会がある。ヴェネツィアでは、海面上昇や地盤沈下等が原因で、満潮時に冠水することが多くなっており、問題が深刻化しつつある。
アグリジェントの考古学地域 アグリジェントは、シチリア島南西部にあり、シチリア州の県都。紀元前6世紀にギリシャ人の都市「アクラガス」として誕生以来、地中海地方の中心都市となった。最盛期の紀元前5世紀の人口は、30万人といわれる。考古学地域は、市街地の南部にあたり、コンコルディア神殿はじめ、ジュノン、ヘラクレス、ジュピター、ディオスクリなどのドーリア式のギリシャ神殿の数々が、この都市のかつての栄光と偉大な足跡を残す。ジュピターの神殿から出土した7.5mの人間型の柱などの出土品は、考古学博物館に展示されている。ギリシャ・ローマ時代の都市づくりにも大きな影響を与えた。
アルプス山脈周辺の先史時代の杭上住居群 アルプス山脈周辺の先史時代の杭上住居群は、オーストリアのケルンテン連邦州とオーバーエスターライヒ連邦州、フランスのローヌ・アルプ地方とフランシュ・コンテ地方、ドイツのバーデン・ヴュルテンベルク州とバイエルン自由州、イタリアのフリウリ・ヴェネツィア・ジュリア州、ロンバルディア州、ピエモンテ州、ヴェネト州、スロヴェニアのイグ市、それにスイスのベルンやチューリッヒなど14の州の6か国にまたがって分布している。これらは、紀元前5000年から紀元前500年にかけて、アルプス山脈や周辺のモントゼー湖やアッターゼー湖(オーストリア)、シャラン湖(フランス)、コンスタンツ湖(ドイツ)、カレラ湖(イタリア)、ツーク湖(スイス)などの湖群、リュブリャナ湿原(スロヴェニア)などの湿地群の畔に建てられた先史時代の杭上住居(或は高床式住居)の集落の遺跡群で、現認されている937のうち111(スイス 56、イタリア 19、ドイツ18、フランス11、オーストリア5、スロヴェニア 2)の構成資産からなる。杭上住居群は、多数の杭によって湖底や河床から持ち上げられ独特の景観を呈している。幾つかの場所で行われた発掘調査では、新石器時代、青銅器時代、鉄器時代初期にかけての狩猟採集や農業など当時の生活や慣習がわかる遺構が発見されている。アルプス山脈周辺の先史時代の杭上住居群は、保存状態が良く、文化的にも豊富な遺物が残っている考古学遺跡群である。
ウルビーノの歴史地区 ウルビーノは、イタリア中部のマルケ州にあるウルビーノ県の県都で、「マルケ州の宝石」と称される中世のルネッサンス芸術都市。ウルビーノは、聖母子像を数多く残したラファエロ・サンティ(1483〜1520年)や、「ウルビーノのヴィーナス」(フィレンツェのウフィッツィ美術館収蔵)で有名なヴェネツィア派画家のティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1488/90頃〜1576年)の生誕地としても知られる。特に芸術家を手厚く保護したフェデリコ公(フェデリコ・ダ・モンテフェルトロ)の下で、画家のラファエロ・サンティ、パオロ・ウッチェッロ(1397〜1475年)、ピエロ・デッラ・フランチェスカ(1416〜1492年)、建築家のドナト・ブラマンテ(1444〜1514年)など多くの芸術家を惹き付け、また、彼等はその期待に応えて多くの傑作を生み出し、ルネッサンス期の芸術と建築の頂点を極めた。ゴシック様式とルネッサンス様式が美しい中庭がある壮大な城館で、現在はマルケ国立美術館になっているパラッツォ・ドゥカーレ(ドゥカーレ宮)も見所の一つ。
カステル・デル・モンテ カステル・デル・モンテ(モンテ城、或はデル・モンテ城)は、イタリア南部のアンドリアにあり、当時シチリア国王で後の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(1194〜1250年ドイツのホーエンシュタイン家出身)によって13世紀に建てられた。カステル・デル・モンテは、イタリア語で山上の城を意味する。カステル・デル・モンテは、金色の石造りで、数学的、天文学的にも正確に設計された。この城は、軍事上でも居城でもなく別荘、或は天体観測所、または、客をもてなす為に使用されたと考えられている。古代ギリシャ・ローマ、イスラム、北欧シートー会ゴシックの各様式が見事に融合している。八角形の中庭を八角形の城が取り囲み、その周囲に八角形の塔が8つ付設されているユニークな城。四角形でないのはこの城だけで、フリードリヒ2世自らが設計に加わったといわれる。長い間放置されていたが、1876年にイアリア国家の所有となり、1928年から修復が始まった。
サン・ジミニャーノの歴史地区 サン・ジミニャーノは、フィレンツェの西南約54km、トスカーナ州のシエナ県にある別称「美しい塔の町」。町の名前は、398年になくなったモデナの司教、聖ジミニャーノにちなんでいる。フランチジェーナ街道とピサーナ街道との交通の要衝として、12〜14世紀にわたって栄えた丘の上の城壁に囲まれた古都で、1300年にダンテ(1265〜1321年)がフィレンツェの大使として赴任したことでも知られている。以前から防衛のための塔が建設されていたが、13世紀に入り町が繁栄したことで、貴族たちが教皇派と皇帝派に分かれて競って塔を建設した。当時は72の美しい塔があったが、今はグロッサの塔など14が残るのみ。14世紀半ばには、フランチジェーナ街道が利用されなくなり、町はすたれていった。他の都市では、塔は不要なものとして解体されたが、サン・ジミニャーノでは戦争に巻き込まれる事もなく当時の町並みが残っている。チステルナ広場を中心とする中世の町並みや12〜13世紀のロマネスク教会、ポポロ館などが保存されている。
シラクーサとパンタリカの岩の墓 シラクーサとパンタリカの岩の墓は、シチリア島の東海岸、現在のシラクーサ州の州都にある。シラクーサとパンタリカの岩の墓は、ギリシャ時代とローマ時代の顕著な痕跡である2つからなっている。パンタリカの岩の墓は、野外の採石場の岩に切り込まれた紀元前13世紀から紀元前7世紀までの5000以上の墓である。ビザンチン時代の痕跡もこの地域に残っており、アナクトロン(皇太子の宮殿)の土台が有名である。もう一つは、紀元前8世紀のコリントからのギリシャ人によるオルテュギアとしての都市の土台の中心部分を含む古代シラクーサである。ローマ共和政末期を生きた弁論家であり政治家であったマルクス・トゥリウス・キケロ(紀元前106〜紀元前43年)がシラクーサを「最も偉大なギリシャ都市、そして全ての中で最も美しい」と讃えた都市遺跡は、アテネの神殿(紀元前5世紀、後に聖堂に転換)、ギリシャ劇場、ローマの円形闘技場、要塞などの痕跡を留めている。多くの遺跡は、アラブのイスラム教徒、ノルマン人、フリードリヒ2世(ホーエンシュタウフェン、1197〜1250年)、アラゴン王国と2つのシチリアの王国の間のビザンチンからブルボンのシチリアの平穏ではなかった歴史の証しを留めている。歴史的なシラクーサは、3000年以上に及ぶ地中海文明の発展を示すユニークな証しである
ティヴォリのヴィッラ・アドリアーナ ティヴォリは、ローマの北東約30kmにある。ヴィッラ・アドリアーナは、ティヴォリの南西6kmにある約60〜70haの広大な敷地にある別荘遺跡で、ローマの五賢帝の一人に数えられるハドリアヌス帝(76〜138年 在位117〜138年)が118年から12年の歳月をかけて建てさせた。ハドリアヌス帝が視察の為、旅行したローマ帝国内のギリシャやアレクサンドリアなどの場所を偲ばせるもので、ヒッポドローム、ペキーレ、アカデミア、セラピス神殿、円形の海上劇場、ローマ共同浴場、図書館、ニンファエウムなど理想のパックス・ロマーナ(ローマの平和)を思わせるスケールの大きさに圧倒される。皇帝の死後は、しばらくは後継者たちが利用していたが、ほどなく高価な大理石や彫刻が運び出され廃虚となった。15世紀になってようやく発掘作業が始まったが、本格的な発掘、修復は、遺跡がイタリア政府に買い上げられてからで、現在もその発掘作業と研究は続いている。
ナポリの歴史地区 ナポリは、イタリア南部、地中海沿岸にあるカンパーニア州の州都で、イタリア第三の都市。紀元前470年にギリシャ人が入植して以来、古代ローマ帝国、ビザンチン、ノルマン、フランス、スペインなどの支配の変遷を経て、異なる文化の特性を絶えず取り込み、独自の文化、芸術を開花させた。登録遺産は、最もナポリらしい「スッパカ・ナポリ」と呼ばれる旧市街、内陸部のドゥオーモと海岸部にある王宮の周辺一帯に集中する。ファサードが壮観なサン・フランチェスコ・ディ・パオラ教会、14世紀のゴシック建築であるサンタ・キアーラ教会、12世紀に建てられた重厚な城カステル・ヌオーヴォ(新城)、美しいナポリ湾と遠方のヴェスヴィオ火山を望める古城の卵城、イタリア三大歌劇場のひとつであるサン・カルロ歌劇場などの優れた建造物が数多く残っている。
パドヴァの植物園(オルト・ボタニコ) パドヴァは、イタリア北部のヴェネト州パドヴァ県の県都で、町の中心部には、1222年に創立された、ダンテ・アリギエーリ(1265〜1321年)、フランチェスコ・ペトラルカ(1304〜1374年)、ガリレオ・ガリレイ(1564〜1642年)も教鞭をとった名門のパドヴァ大学がある学芸都市。パドヴァの植物園(オルト・ボタニコ)は、大学付属の植物園としては世界最古で、1545年に自然科学研究のためにジュスティーナ修道院の一部を植物園とすることで造園された。ヴェネツィアの貴族ダニエル・バルバロが計画、建築家のアンドレア・モロニが設計した。輪状の池に囲まれた地球をイメージした円形の庭園は、建設時の姿を今も留める。門や手すりなどの装飾物、水道、温室などの施設は後に加えられた。植物園内最古の植物は、1585年に植えられたヤシの木である。ゲーテ(1749〜1832年)が1786年にこの植物園を訪れた時に、このヤシの木を見て独自の自然観を得たことで有名な「ゲーテのヤシの木」をはじめ、熱帯性や珍種などあらゆる種の植物が豊富で、国内外の植物の研究のためにも利用されている。植物園の側には、堀に囲まれた美しい庭園が中央にあるプラート・デラ・ヴァッレという広場もある。
ピサのドゥオモ広場 ピサは、フィレンツェの西約90km、トスカーナ州のアレルノ川の河口にある。11〜13世紀にかけてイタリアで最も繁栄した海運都市国家。ピサ共和国の繁栄を伝えるピサのドゥオモ広場にあるサンタ・マリア大聖堂は、1063年、ギリシャ人の建築家ブスケトスの指導のもとに着工、1118年献堂された。半円状アーチを用いた荘重なロマネスク様式で、厚い大理石の石積みで、窓は小さく、広い壁面は、壁画で飾られている。その正面にある円形の建物が洗礼堂で、12〜14世紀にかけられて造られ、建築期間が長かったため、建築様式がロマネスクからゴシック様式へと変遷していることがよくわかる。その横には、納骨堂「カンポサント」が木立の中に建つ。ピサの斜塔として有名な鐘楼の「トッレ・ペンデンテ」は、ドゥオモの付属施設として建てられた白大理石のロマネスク様式の建築物で、高さ54.5m、直径約17mの円筒形8層。1173年ボナンノ・ピサノの設計により建築が始まったが、建設中に傾斜し始め、今も傾斜しつつあり、保全の為の修復が行われている。ガリレオ・ガリレイ(1564〜1642年)は、この斜塔から重力の法則を、またドゥオモ内のランプから振り子の法則を発見するきっかけをつかんだといわれる。
ペストゥムとヴェリアの考古学遺跡とパドゥーラの僧院があるチレント・ディアーナ渓谷国立公園 チレント・ディアーナ渓谷国立公園は、カンパーニア州のサレルノ県南部のほぼ全域に及ぶ。高い山々、ティレニア海に面した険しい断崖や岩礁、岩がちの岬、小さな湾や入江、砂浜が続く海岸に特色がある。また、カルスト地形で、石灰岩の山肌にある400以上の洞穴と海岸に沿った自然のアーチも特徴。チレント地方は、自然価値だけでなく、宗教的にも重要であった。先史時代と中世期を通じて、文化、政治、商業の陸海の主要交通路であり、地中海地域での人間社会の発展に寄与してきた。チレント・ディアーナ渓谷国立公園には、紀元前6世紀にギリシャ人によって築かれ、ポセイドニアの名で呼ばれていたペストゥムの壮麗な3つのギリシャ神殿の遺跡、紀元前6世紀に造られた街であるヴェリアの古代遺跡、そして、パドゥーラのサン・ロレンツォ僧院が残っている。この地域は、自然風景と考古学遺跡とが一体となった文化的景観に特徴がある。
マテーラの岩穴住居と岩窟教会群の公園 マテーラは、イタリアの南部、ナポリの東250kmにあるバジリカータ州の県都である。マテーラは、岩壁を意味するサッソの複数形であるサッシと呼ばれる穴居群がある町で、珊瑚礁のような石灰質の岩にあいた穴を民家として利用、2000年以上も人が住み続けていた。1270年建立のロマネスク様式の美しい大聖堂のほか、岩窟教会が約130ある。グラヴィナ渓谷には、石造の岩穴住居があり、石灰岩が浸食により造成され、この渓谷には、このサッシが何層にも重なって存在している。20世紀半ばには、条例によって住民は新市街に移住し廃虚と化したが、現在は一部修復され、岩穴住居にも生活の気配が戻ってきている。2007年の第31回世界遺産委員会クライストチャーチ会議で、「マテーラの岩穴住居」から現在の名称に変更になった。
モン・サン・ジョルジオ モン・サン・ジョルジオは、ティチーノ州のルガノの南方にある、地質学的、古生物学的にも重要で、動植物の生態系も豊かな南アルプスの美しい山である。モン・サン・ジョルジオは、中世には、隠遁者を惹きつける聖なる場所であった。一方、2.3〜2.4億年前には、恐竜が、メリーデ地域に住みついていたと思われ、三畳紀の地層から化石が発掘されている。土質が柔らかい泥の為か、これらの生物の骨格が完全に保存されている。メリーデには、各種の恐竜の骨格が発掘されており、発掘の詳細と出土した小物までも展示している小さな恐竜博物館もある。また、この地域では、多くの魚の様な無脊椎動物の化石が発見されているので、昔は、海の近くであったに違いない。2010年の第34回世界遺産委員会ブラジリア会議で、類いない重要性と多様性の価値がある三畳紀の海洋生物の化石が残っているイタリア側の「モン・サン・ジョルジオ」を構成資産に加えて、登録範囲を拡大した。
レオナルド・ダ・ヴィンチ画「最後の晩餐」があるサンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会とドメニコ派修道院 サンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会は、イタリア北部のミラノ市街にある。15世紀に建てられたルネッサンス建築の代表であるこの教会には、ルネッサンスの理想であった万能人の典型ともいうべきレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452〜1519年)が描いた有名な「最後の晩餐」のフレスコ画が、ドメニコ派の旧修道院の大きな食堂の奥の壁に残されている。この名作は、15世紀の終りにミラノ公爵であったルドヴィーコ・イル・モーロの為に描かれたものである。1970年後半から大規模な科学的修復が始まり、1999年に名画の復元が完成した。また、サンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会は、ブラマンテ(1444〜1514年)によるクーポラ等、建築学的にも興味が尽きない。

ヴィチェンツァの市街とベネトのパッラーディオのヴィラ ヴィチェンツァは、イタリア北部ヴェネト州の県都。ヴィチェンツァは、「陸のヴェネツィア」と呼ばれ、ルネッサンスの偉大な建築家アンドレア・パッラーディオ(1508〜1580年)やその弟子たちの手になる建築物が見られる芸術都市。ヴィチェンツァ市内を走るパッラーディオ通りや郊外の丘には、彼の設計した建造物が多く点在し、「創造者の都市」と呼ばれる。代表建築物のバジリカ・パッラディアーナ、「ラ・ロトンダ」と呼ばれるヴィラ・カプラ、最後の作品テアトロ・オリンピコやヴェネツィアのサン・マルコ広場に似たシニョリーア広場などがある。
ヴェローナの市街 ヴェローナは、イタリア北部、ヴェネチアの西約120kmのアディジェ川沿いにあるヴェネト州第2の都市で、美しい歴史都市。ヴェローナは、その都市構造、そして、高度な芸術的要素をもった建築様式において、過去2000年もの間めざましい発展を遂げた。ヴェローナの市街には、ローマ時代のものでは、25000人収容可能な観客席がある円形闘技場(アレーナ)や半円形の石造建築のローマ劇場、中世のものでは、13〜14世紀に栄華を誇ったスカラ家の古城のカステル・ヴェッキオ(ヴェッキオ城)、エルベ広場、シニョーリ広場、それに、サン・ゼーノ・マジョーレ教会などロマネスク様式の多くの教会が数多く残っている。また、ヴェローナは、シェークスピアの戯曲「ヴェローナの二紳士」、「ロメオとジュリエット」の物語にゆかりの深い都市としても知られている。
アッシジの聖フランチェスコのバシリカとその他の遺跡群 アッシジは、ペルージャの東南約25km、スパシオ山の麓の丘に建つ聖フランチェスコ(1181或は1182〜1226年)ゆかりの聖地で、フランチェスコ修道会の総本山がある町。聖フランチェスコは、清貧を説いた中世イタリアの最も誉れ高い聖人。彼の名を冠した聖フランチェスコ教会は、上と下の教会に分かれ、バシリカの前後にある階段で上下できる。上の教会では、「聖フランチェスコの生涯」を描いたジョット・ディボンドーネ(1267頃〜1337年)のフレスコ画の力作が圧巻で、下の教会には、信者にとっての巡礼先となっている地下室の聖フランチェスコを埋葬した墓があるほか、シモーネ・マルティーニやロレンツェッティなどによるフレスコ画が壁面に描かれている。アッシジは、古代ウンブリア・ローマおよび中世の都市の姿を宗教建築や文化的景観に留めている。
アルベロベッロのトゥルッリ アルベロベッロのトゥルッリは、イタリア南部、イタリア半島のかかとの部分にあたるプーリア州バーリ県にある。アルベロベッロは、イタリア語で「美しい木」という意味を持つ。アルベロベッロは、有史以前から受け継がれた西ヨーロッパの建築様式の生きた証。トゥルッリと呼ばれる円錐形のとんがり帽子のような屋根をもつユニークな町並みが特徴で、人口1万人のアルベロベッロの村のモンティ地区とアイア・ピッコラ地区に約1500のトゥルッリが集中している。トゥルッリは、地中海沿岸で採れる石灰岩の薄い石板を同心円状に並べた円錐形の屋根をもつ一風変わった形の家で、白い漆喰塗りの壁と灰色のとんがり帽子の屋根がある家並みが林立する光景は、おとぎの国のような雰囲気を醸し出す。1635年にこの地域に建てられる建造物は「トゥルッリによること」という条例が発布され、それが1795年まで実効力をもっていたため、少しずつ技術改良を加えながらも独特の造形と雰囲気をもつ町並みとして発展し、1923年には国の保存地域に指定され、保存・保護されてきた。
エオリエ諸島(エオーリアン諸島)
エオリエ諸島(エオーリアン諸島) は、ティレニア海の南東部のシチリアにある面積1216haの火山列島で、リーパリ島、サリーナ島、ヴルカーノ島、ストロンボリ島、パナレーア島、フィリクーディ島、アリクーディ島の7つの主な島といくつもの小島や岩礁からなる。エオリエ諸島は、ギリシャ神話で「風の神」の語源を持つ。エオリエ諸島は、ごく狭い範囲に、962mのサリーナ山をはじめとする6座の火山が集中していることが特徴で、その内2つは現在も活動中。地中海性の灌木が茂り、切立った断崖などの自然景観と共に先史時代の遺跡やかつての耕作地などが残されている。エオリエ諸島は、火山学研究の宝庫で、ヴルカーノ式とストロンボリ式の噴火形態を明らかにするなど学術的価値も高く地球科学者の間でも関心が強い。エオリエ諸島(エオーリアン諸島)は、他にリーパリ諸島という呼び方もある。
カゼルタの18世紀王宮と公園、ヴァンヴィテリの水道橋とサン・レウチョ邸宅 カゼルタは、カゼルタ県の県都で、ナポリの北約25kmにある。王宮は、ブルボン家のカルロス7世が、ベルサイユやマドリッドに対抗する意図で建築家ヴァンヴィテッリ(1700〜1773年)に建てさせた。ロココと新古典様式の装飾が見事。庭園には噴水、水盤などが残り、ナポリから続く並木道が美しい。王宮と庭園を中心に公園が広がる。池や泉に水を満たすためにヴァンヴィテッリは、水道橋を作り、カロリーノと呼ばれる水道管(長さ529m、高さ85m)によって水を引いた。また近隣のサン・レウチョには王立絹織物工場があった。自然景観を背景に設計され、18世紀のフランス啓蒙思想を豊かに具現化している。
サヴォイア王家王宮 サヴォイア王家王宮は、イタリア北西部ピエモンテ州トリノにある。サヴォイア家は、イタリアのピエモンテとフランスの間にある小さな山岳地帯のサヴォイアを支配していた辺境伯貴族の家系。スペイン継承戦争で、サルデーニャ王国の王位を得て、イタリア統一後は、イタリア王家となった。エマヌエレ・フィリベルト公爵(1553〜1580年)が1562年にトリノに首都を移して以来、支配者の威光を示すように、町づくりが代々受け継がれてきた。その時代の最高の建築家や芸術家による優秀な建物群は、王室別荘や狩猟小屋を含む王宮を中心に周りの風景に光を放っている。
ジェノバ:新道とロッリの館群 ジェノバ:新道とロッリの館群は、リグーリア州、ジェノバの歴史地区にある。ジェノバ:新道とロッリの館群は、単位での都市開発プロジェクトのヨーロッパにおける最初の事例を代表するものである。ジェノバの歴史地区計画では、特に、公共機関によって区分された、法律に基づく「公的な宿泊施設」の特殊なシステムであった。ロッリの宮殿群は、ジェノバ共和国の最も富裕で権力のある貴族によって建てられ「ロッリ」とよばれる厳選されたリストに登録された大邸宅群(パラッツィ・デイ・ロッリ)であった。ジェノバ:新道とロッリの館群は、いわゆる「新しい道」(レ・ストラーデ・ヌオーヴェ)沿いのルネッサンス様式やバロック様式の宮殿群である。16世紀後期に新道(ガリバルディ通り)に建立された大邸宅宮殿は、貴族の街区を形成し、1528年の法令の下では、総督ドリアのもと、スペインと同盟も結び、欧州カトリック世界のメイン銀行となって金融業で繁栄したジェノバ共和国政府と見做された。宮殿は、一般的に3〜4階の高さで、広々とした威厳のある玄関階段、中庭、庭園を望むテラスが特徴である。この都会的な設計モデルの影響は、イタリアやヨーロッパの文献によって確認されている。これらの館群の所有者達は、世界各地からの国賓をもてなす迎賓館として利用することを余儀なくされ、建築学上のモデルの知識と有名な芸術家や旅行者を魅了した大邸宅文化(例えば、巨匠ルーベンスの絵画の収集など)の普及に貢献した。元王宮、赤の宮殿、白の宮殿等のロッリの館は、現在、美術館、市庁舎、銀行、店舗などとして活用されている。
ティヴォリのヴィッラ・デステ ヴィッラ・デステは、ローマの北東30km、ラツィオ州ローマ県のアニエーネ川が流れるティブルティーナ山地の丘の上の小さな町ティヴォリにある。ヴィッラ・デステは、16世紀半ばにイッポリト・デステ枢機卿(1479〜1520年)によって旧ベネディクト会修道院を改築させて建てられた名門貴族エステ家の別荘で、ナポリ出身の建築家ピッロ・リゴーリオ(1500〜1583年)による宮殿や庭園は、最も洗練されたルネッサンス文化を物語っている。古びて苔むした大小様々な形の噴水や装飾された泉などがある庭園は、革新的なデザインと創造性が施された、まさに真に水の庭園であり、16世紀のイタリア式庭園のユニークな事例である。ヴィッラ・デステは、ヨーロッパの庭園の発展に決定的な影響を与えた。
ノート渓谷(シチリア島南東部)の後期バロック都市群 ノート渓谷(シチリア島南東部)の後期バロック様式の都市群は、シチリア州のカターニア県、ラグーサ県、それにシラクーサ県の各都市にある。1693年にエトナ山(標高3350mの活火山)の周辺地域を大地震が襲い、ヴァル・ディ・ノートと呼ばれる渓谷にある、カルタジローネ、カターニア、ミリテロ・イン・ヴァル・ディ・カターニア、モディカ、ノート、パラッツォロ・アクレイデ、ラグーサ、シクリなどの町が全壊した。これらの町は、驚異的な復興を遂げ、建築家のバッカリーニなどによってドゥオーモ広場や大通りにバロック様式の見事な建築物を再建し、そして、バロック芸術を花咲かせ、今も美しい景観を留めている。
ピエモント州とロンバルディア州の聖山群
ピエモント州とロンバルディア州の聖山群は、イタリアの北部、ピエモント州とロンバルディア州の山上に点在する神秘的な聖域である。サクリ・モンティとは、聖なる山の意味のサクロ・モンテの複数形を表す表記。ヴァラッロ・セジア(別名「新エルサレム」)、セッラルンガ・ディ・クレア、オルタ・サン・ジュリオ、ヴァレーゼ、オローパ、オッスッチョ、ギッファ、ドモドッソラ、ヴァルペルガ・カナヴェーゼの9つの聖山は、16世紀後半〜17世紀につくられ、チャペルなどが特徴的な小聖堂や礼拝堂などの宗教建築物が数多くあるキリスト教の聖山で、多くの信者や観光客が訪れる巡礼地になっている。ピエモント州とロンバルディア州の聖山群は、それらの象徴的な精神性に加えて、周辺の丘陵、森林、湖などの自然が背景となって、一体的に調和し、大変美しい景観を呈している。ピエモント州とロンバルディア州の聖山群の宗教建築物は、建物内部のフレスコ画や木彫りの彫像の様式においても高い芸術性を有している。
フィレンツェの歴史地区 フィレンツェは、イタリア中部にあるエトルリア人が紀元前に建設した町。その後ローマの植民地、15世紀にはヨーロッパの商業とルネッサンスの中心都市となった。「花の都」フィレンツェは、アルノ川を挟んで町全体にルネッサンス期の建造物が立ち並び、一大美術館の様相を呈している。花の聖母寺(ドゥオーモ)と呼ばれるサンタ・マリア・デル・フィオーレ教会、ヴェッキオ宮、シニョリーア広場、ヴェッキオ橋、サンタ・マリア・ノベラ教会などが代表的。また、権勢を誇ったメディチ家邸宅やウフィッツィ美術館は富の象徴。メディチ家は、芸術家らを抱え芸術振興に力を注いだ。ボッティチェリをはじめ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロなど芸術家を輩出した。
ポルトヴェーネレ、チンクエ・テッレと諸島(パルマリア、ティーノ、ティネット) ポルトヴェーネレは、イタリア北西部、リグーリア州のラ・スペツィア県の半島の突端部にある。切り立った断崖にある絶景の街ポルトヴェーネレ(イタリア語で「ヴィーナスの港」という意味)、それに、ブドウ、レモン、オレンジ、オリーブなどの段々畑の景観が広がるリヴィエラの真珠チンクエ・テッレ(イタリア語で「5つの土地」という意味)を結ぶリグーリア海岸線、それに、沖合いに展開するパルマリア島、ティーノ島、ティネット島の美しい島々は、地中海の風光明媚な自然環境と文化的景観を誇る。リグーリア海岸線に沿った12世紀以降のモンテロッソ・アル・マーレ、ヴェルナッツァ、コルニーリア、マナローラ、リオマッジョーレの古くて小さな集落は、岬と入江が連なる複雑で険しい急傾斜面にあり、1000年にも及ぶこの地の人々の生活の知恵、そして計り知れない土地利用の努力の様子を物語る。2011年10月、類いない文化的景観を誇るチンクエ・テッレで、豪雨による洪水や地滑りが発生、集落や道路等が深刻な被害を蒙った。
マントヴァとサッビオネータ マントヴァとサッビオネータは、イタリアの北部、ロンバルディア地方のポー渓谷にあるルネッサンスの都市計画の2つの側面を代表するものである。これら両都市の世界遺産の登録範囲は、核心地域は235ha、緩衝地域は2330haである。マントヴァは、ロンバルディア州マントヴァ県の県都で、都市の刷新と拡大を示し、30km離れた郊外の小都市サッビオネータは、理想都市としてのルネッサンス期の理論を実践した代表的なものである。マントヴァの都市の配置は、不規則であるが、ローマ時代以来の成長の異なった部分は規則的に整備されており、聖セバスティアーノ教会と聖アンドレア教会には革新的な設計技法が用いられている。サッビオネータは、ヴェスパジアーノ・ゴンザガ・コロンナ公爵(1531〜1591年)により、16世紀の後半に創建された計画都市である。彼はマントヴァ公国を支配していたイタリアの名門貴族のゴンザガ家の直系ではなかった為、郊外のサッビオネータという寒村を与えられただけであった。マントヴァとサッビオネータも、ルネッサンスの都市、建築、芸術の理念を実現したもので、ゴンザガ家の展望や行動に適ったものである。マントヴァとサッビオネータの2つの都市は、建築学的な価値やルネッサンス文化の普及において主要な役割を果たし、重要であった。ゴンザガ家によって育まれたルネッサンスの理想は、都市・建築面において、現在も生き続けている。
ラヴェンナの初期キリスト教記念物 ラヴェンナは、ヴェネツィアの南約150kmにあるアドリア海に面したエミリア・ロマーニャ州の県都で、5世紀には西ローマ帝国の首都となり、また、8世紀にはビザンチン帝国の中心地として栄えた古都として知られている。市内にあるガッラ・プラチディア廟、ネオニアーノ洗礼堂、サンタポッリナーレ・ヌオーヴォ教会、アリアーニ洗礼堂、アルチヴェスコヴィーレ礼拝堂、テオドリック王の廟、サン・ヴィターレ聖堂、サンタポッリナーレ・イン・クラッセ教会の8つの教会は、5〜6世紀にかけて建設された初期キリスト教記念物であり、どれも、グレコ・ローマン、キリスト教肖像画、オリエンタル、西洋の各様式を見事に融合させた偉大な芸術作品である。また、各教会内部の壁面に描かれたビザンチンの豪華なモザイク装飾は、フィレンツェで生まれ、この地で生涯を終えた詩人ダンテ(1265〜1321年)が雄大な叙事詩「神曲」のなかで「色彩のシンフォニー」という表現でその美しさを称えた見事なもの。なかでも、成熟期のビザンチン式モザイクの傑作が多数残されているサン・ヴィターレ聖堂とその敷地内にある、ラヴェンナに残る最も古い壁画モザイクである「ユスティニアヌスと随身たち」があるガッラ・プラチディア廟は、華麗な装飾に圧倒される。
ローマの歴史地区、教皇領とサンパオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂 ローマの歴史地区は、イタリアの首都ラツィオ州の州都、ローマ県の県庁所在地でもあるローマ市のアウレリアヌスの城壁内にほぼ位置している。伝説によると、ローマは、紀元前753年に双子の兄弟であるロムルスとレムスによってパラティヌスの丘に創建された。ローマ歴史地区には、ローマ帝国の最盛期の1〜2世紀に政治・経済・宗教の中枢をなしたフォロ・ロマーノを中心に、パンテオン、アウレリウス記念柱、コロッセオ、カラカラ公共浴場跡などの遺跡群やヴェネツィア広場などが残されている。ローマの歴史地区は、教皇領、サンパオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂と共に、「ローマの歴史地区、教皇領とサンパオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂」としてユネスコ世界遺産に登録されている。1990年に登録範囲を拡大し、アウグストゥス霊廟、ハドリアヌス霊廟などが含められた。世界遺産の登録面積は1485.1haで、合計16の構成資産になっている。
ヴィッラ・ロマーナ・デル・カザーレ ヴィッラ・ロマーナ・デル・カザーレは、シチリア島の地理的な中心にあるピアッツァ・アルメリーナの郊外6kmのところにある古代ローマのカザーレ荘。紀元後3〜4世紀に、西ローマ帝国の強大な経済力をもとに造られた3500平方kmにおよぶ広大な貴族のヴィッラ(別荘)の跡で、風呂場跡、寝室、客間など当時の貴族の優雅な生活ぶりがうかがわれる。40を超す部屋の床に施されている豪華なモザイク装飾は、北アフリカのモザイク職人を呼んで作られ、ローマ時代のものとしては最高とされる興味深いものである。ビキニ姿の体操をする女性、ライオン、象、カモシカ、或は、キツネなどを狩猟する様子、イルカと戯れる図、それに馬車競技の図などが生き生きと描かれている。保存状態が良く、当時の生活様式を今に伝える貴重な資料となっている。
カルパチア山脈の原生ブナ林群とドイツの古代ブナ林群 カルパチア山脈の原生ブナ林群とドイツの古代ブナ林群は、ヨーロッパの東部、スロヴァキアとウクライナ、それにドイツの3か国にわたり展開する。カルパチア山脈の原生ブナ林群は、世界最大のヨーロッパブナの原生地域で、スロヴァキア側は、ボコヴスケ・ヴルヒ・ヴィホルァト山脈、ウクライナ側は、ラヒフ山脈とチョルノヒルスキー山地の東西185kmにわたって、10の原生ブナ林群が展開している。東カルパチア国立公園、ポロニニ国立公園、それに、カルパチア生物圏保護区に指定され保護されている。ブナ一種の優占林のみならず、モミ、裸子植物やカシなど別の樹種との混交林も見られるため、植物多様性の観点からも重要な存在である。ウクライナ側だけでも100種類以上の植物群落が確認され、ウクライナ版レッドリスト記載の動物114種も生息している。しかし、森林火災、放牧、密猟、観光圧力などの脅威にもさらされている。2011年の第35回世界遺産委員会パリ会議で、登録範囲を拡大、進行しつつある氷河期以降の地球上の生態系の生物学的、生態学的な進化の代表的な事例であるドイツ北東部と中部に分布する5つの古代ブナ林群(ヤスムント、ザラーン、グルムジン、ハイニッヒ、ケラヴァルト)も登録範囲に含め、登録遺産名も「カルパチア山脈の原生ブナ林群」から現在の登録遺産名に変更した。
ブコヴィナ・ダルマチア府主教の邸宅 ブコヴィナ・ダルマチア府主教の邸宅は、ウクライナの西部、チェルニウツィー州の州都チェルニウツィー市内を流れるプルト川とその支流の間の高台にある。ブコヴィナ・ダルマチア府主教の邸宅は、1864〜1882年にチェコの建築家ヨセフ・フラーフカ(1831〜1908年)が建設した建築物群で、建築様式の相乗効果が見事である。邸宅には庭園や公園があり、ドーム状の屋根を持つ神学校と修道院教会とが一体となっている。これらの建築物は、ビザンチン時代からの建築的・文化的な影響を受けつつも、宗教に寛容であったオーストリア・ハンガリー帝国の政策を反映したハプスブルク君主国がこの地を領有していた時代の東方正教会の権勢を具現化したものである。ブコヴィナ・ダルマチア府主教の邸宅の一部は、現在、チェルニウツィー国立大学の歴史文化センターとして利用されている。
キエフの聖ソフィア大聖堂と修道院群、キエフ・ペチェルスカヤ大修道院 キエフは、ウクライナの首都で、ウクライナの中央部ドニエプル川沿いに開けた町。9世紀末以降キエフ公国の都として発展。10世紀末ウラジミール1世がキリスト教を国教と定め、ビザンチン帝国の例にならって聖堂建築の礎が置かれた。聖ソフィア聖堂は、11世紀初めウラジミール1世の息子ヤロスラフ公により創建された、キエフに現存する最古の教会。13のドームをもつ多塔型で、内陣に「乙女オランドの像」など11世紀初頭のモザイクやフレスコ画が残る。ペチェルスカヤ大修道院は、洞窟修道院上に建つ2層構成となっており、上のウスベンスキー寺院は約100mの鐘楼をもち、下は地下墳墓と修道院。洞窟を意味する「ペチェラ」がそのまま修道院の名前となった。11世紀の創建で、ロシア正教を代表する修道院。
リヴィフの歴史地区 リヴィフは、ヨーロッパの真珠と呼ばれるウクライナ西部のリヴィフ州の州都。イタリアやドイツの都市や建築物と共に、東欧において、8000年以上前の建築学的、芸術的な伝統が融合した顕著な見本。1256年、ガリチア公ダニール・ロマノビッチが建設し、以降ガリチア地方の政治・商業の中心都市としての役割を果たしたリヴィフは、多くの異民族を魅きつけた。
シュトルーヴェの測地弧 シュトルーヴェの測地弧は、ベラルーシ、エストニア、フィンランド、ラトヴィア、リトアニア、ノルウェー、モルドヴァ、ロシア連邦、スウェーデン、ウクライナの10か国にまたがる正確な子午線の長さを測るために調査した地点である。現存するエストニアのタルトゥー天文台、フィンランドのアラトルニオ教会など34か所(ベラルーシ 5か所、エストニア 3か所、フィンランド 6か所、ラトヴィア 2か所、リトアニア 3か所、ノルウェー 4か所、モルドヴァ 1か所、ロシア連邦 2か所、スウェーデン 4か所、ウクライナ 4か所)の観測点群。シュトルーヴェの測地弧は、ドイツ系ロシア人の天文学者のヴィルヘルム・シュトルーヴェ(1793〜1864年 ドルパト大学天文学教授兼同天文台長)を中心に、1816〜1855年の約40年の歳月をかけて、ノルウェーのノース・ケープの近くのハンメルフェストから黒海のイズマイルまでの10か国、2820kmにわたって265か所の観測点を設定、地球の形や大きさを調査するのに使用された。シュトルーヴェは、北部で、ロシアの軍人カール・テナーは、南部で観測、この2つの異なった測定ユニットを連結し、最初の多国間の子午線孤となった。この測地観測の手法は、シュトルーヴェの息子のオットー・ヴィルヘルム・シュトルーヴェ(1819〜1905年 プルコヴォ天文台長)等にも引き継がれ、世界の本初子午線の制定などへの偉大なステップとなった。シュトルーヴェの測地弧は、人類の科学・技術史上、顕著な普遍的価値を有するモニュメントである。
イチャン・カラ イチャン・カラは、タシケントから西に約750km、ウズベキスタン西部のウルゲンチの南西30km、カラク砂漠への入口として古くから知られているオアシス都市のヒバにある。1643年に、遊牧民のウズベクが16世紀に建国したヒバ・ハーン国(現ウズベキスタン)の新都になったヒバは、外壁と内壁の二重の城壁で守られ、外城のデシャン・カラと内城のイチャン・カラに区分されていた。かつては、外城に庶民が住み、内城にはハーンの宮殿やハーレム、モスクなどが集まっていた。内城のイチャン・カラは、高さ8m、長さ2.2kmの城壁で囲まれている。東西南北に門があり、東西にはカール・マルクス通り、南北には、タシプラトフ通り、ブハラ通りが走っている。街全体が見渡せるタシュ・ハウリ宮殿、イスラム・ホジャやカリタ・ミナルなどのミナレット(尖塔)、イスラム教神学校のメドレセなどの遺跡が残っている。その美しさは、シルクロードの他のオアシス都市であるサマルカンド、ブハラと並んで「中央アジアの真珠」とうたわれている。
ブハラの歴史地区 ブハラは、ウズベキスタン中央部、ゼラフジャン川下流域にあり、中央アジアのシルクロード拠点として2000年以上の歴史をもつ。1世紀頃に建設され、1500年にウズベク族が建国後は、ブハラ・ハーンの都となる。中心部の市街地は、中世さながらの町で、日干しれんがの城壁には、様々な模様が刻まれている。城壁は、単に外敵の侵入を防ぐだけでなく、キジル・クム(赤い砂漠)から押し寄せる大量の砂をせき止める役目も果たしていた。シルクロードのオアシスの町として発展したブハラは、モスクではブハラ最古のマゴキ・アッターリー寺院(10世紀創建で、1934年に砂の中から発掘された)やバラ・ハウズ・モスク、砂漠の灯台ともいえるカルヤーン・ミナレット(光塔)、中央アジア最古のメドレセ(イスラム神学校)のウルグ・ベクやミール・アラブ、イスマイル・サマニ廟、市場、城砦などが残る。
サマルカンド-文明の十字路 サマルカンドは、ウズベキスタンの中東部、首都タシケントの南西およそ270kmにある。サマルカンドは、人々が遭遇する町の意味で、中央アジア最古の都市で、最も美しい町といわれる。紀元前4世紀にはアレクサンドロス大王(在位紀元前336〜323年)が訪れ、町の美しさに驚嘆したといわれる程で、古くから「青の都」、「オリエントの真珠」、「光輝く土地」と賞賛された。14世紀、モンゴル大帝国の崩壊と共にティムール朝(1370〜1507年)が形成された。ティムール(在位1370〜1405年)は、サマルカンドを自らの帝国にふさわしい世界一の美都にしようとし、天文学者、建築学者、芸術家を集めて、壮大なレギスタン・モスクと広場、ビビ・ハニム・モスク、シャーヒ・ジンダ廟、グル・エミル廟、ウルグ・ベクの天文台などを建設、シルクロードなど東西文明の十字路として繁栄させるなど一大文化圏を築いた。2008年の第32回世界遺産委員会ケベック・シティ会議で、サマルカンドの新道路や新ビル建設の監視強化が要請された。  (注)レギスタンとは、ウズベク語では「砂の町」、タジク語では「中央広場」を意味する。
シャフリサーブスの歴史地区 シャフリサーブスの歴史地区は、サマルカンドの南部のカシュカダヤ地方にある、かつてのソグディアナの古都。シャフリサーブスは、「緑の街」と呼ばれる様に、かつては緑豊かなオアシス都市であった。ここはティムール帝国(1370〜1405年)を興したティムールが生まれた町としても知られ、サマルカンドに劣らない華麗な建築をシャフリサーブスに残した。なかでも、ティムールの夏の宮殿であった「アク・サライ宮殿」、実際にはサマルカンドに埋葬されている「ティムールの墓」、ティムールの孫で天文学者であったウルグ・ベクが父シャー・ルフを偲ぶために建設した「金曜モスク」(コク・グンバッズ・モスク)、ティムールが最も寵愛したジャハーンギル王子が眠る霊廟が建つドルッサオダット建築群は、中世の中央アジアの建築様式に多大な影響を与えた。しかし、16世紀後半、豊かなシャフリサーブスに嫉妬したブハラのアブドゥール・ハーンによって、多くの建物が破壊された。シャフリサーブスは、かつてはケシュと呼ばれ、中央アジアの都市の中では最古の歴史を有する。紀元前4世紀には、アレクサンダー大王、7世紀にはかの唐僧玄奘三蔵(602〜664年)も訪れたといわれている。
シュトルーヴェの測地弧 シュトルーヴェの測地弧は、ベラルーシ、エストニア、フィンランド、ラトヴィア、リトアニア、ノルウェー、モルドヴァ、ロシア連邦、スウェーデン、ウクライナの10か国にまたがる正確な子午線の長さを測るために調査した地点である。現存するエストニアのタルトゥー天文台、フィンランドのアラトルニオ教会など34か所(ベラルーシ 5か所、エストニア 3か所、フィンランド 6か所、ラトヴィア 2か所、リトアニア 3か所、ノルウェー 4か所、モルドヴァ 1か所、ロシア連邦 2か所、スウェーデン 4か所、ウクライナ 4か所)の観測点群。シュトルーヴェの測地弧は、ドイツ系ロシア人の天文学者のヴィルヘルム・シュトルーヴェ(1793〜1864年 ドルパト大学天文学教授兼同天文台長)を中心に、1816〜1855年の約40年の歳月をかけて、ノルウェーのノース・ケープの近くのハンメルフェストから黒海のイズマイルまでの10か国、2820kmにわたって265か所の観測点を設定、地球の形や大きさを調査するのに使用された。シュトルーヴェは、北部で、ロシアの軍人カール・テナーは、南部で観測、この2つの異なった測定ユニットを連結し、最初の多国間の子午線孤となった。この測地観測の手法は、シュトルーヴェの息子のオットー・ヴィルヘルム・シュトルーヴェ(1819〜1905年 プルコヴォ天文台長)等にも引き継がれ、世界の本初子午線の制定などへの偉大なステップとなった。シュトルーヴェの測地弧は、人類の科学・技術史上、顕著な普遍的価値を有するモニュメントである。
ターリンの歴史地区(旧市街) ターリンは、バルト海に面したエストニアの首都。13世紀にゲルマン修道会によって町が建設された。中世には、ハンザ同盟の貿易都市として繁栄し、16世紀のリヴォニア戦争など数世紀にわたって災害や戦争にも耐えた。13世紀に建てられたゴシック建築の旧市庁舎、トーンペア城、エストニア最古の教会でトームキリクと呼ばれる大聖堂、聖ニコラス教会、ギルドホール、富裕なハンザ商人達の邸宅群がこの町のかつての豊かさを物語る。
アルプス山脈周辺の先史時代の杭上住居群 アルプス山脈周辺の先史時代の杭上住居群は、オーストリアのケルンテン連邦州とオーバーエスターライヒ連邦州、フランスのローヌ・アルプ地方とフランシュ・コンテ地方、ドイツのバーデン・ヴュルテンベルク州とバイエルン自由州、イタリアのフリウリ・ヴェネツィア・ジュリア州、ロンバルディア州、ピエモンテ州、ヴェネト州、スロヴェニアのイグ市、それにスイスのベルンやチューリッヒなど14の州の6か国にまたがって分布している。これらは、紀元前5000年から紀元前500年にかけて、アルプス山脈や周辺のモントゼー湖やアッターゼー湖(オーストリア)、シャラン湖(フランス)、コンスタンツ湖(ドイツ)、カレラ湖(イタリア)、ツーク湖(スイス)などの湖群、リュブリャナ湿原(スロヴェニア)などの湿地群の畔に建てられた先史時代の杭上住居(或は高床式住居)の集落の遺跡群で、現認されている937のうち111(スイス 56、イタリア 19、ドイツ18、フランス11、オーストリア5、スロヴェニア 2)の構成資産からなる。杭上住居群は、多数の杭によって湖底や河床から持ち上げられ独特の景観を呈している。幾つかの場所で行われた発掘調査では、新石器時代、青銅器時代、鉄器時代初期にかけての狩猟採集や農業など当時の生活や慣習がわかる遺構が発見されている。アルプス山脈周辺の先史時代の杭上住居群は、保存状態が良く、文化的にも豊富な遺物が残っている考古学遺跡群である。
ザルツカン・マーグート地方のハルシュタットとダッハシュタインの文化的景観 ザルツカン・マーグート地方は、オーストリアの中央部、ザルツブルクの西と西南に広がるダッハシュタイン山(2995m)がそびえるアルプスの湖水地方に展開する。美しい自然景観の中で、岩塩の採掘が紀元前2000年から始まりユニークな集落が形成された。この豊富な岩塩資源のお陰で、この地は20世紀半ばまで繁栄を続けた。それは、ハルシュタット湖の湖畔にあるハルシュタットの町の素晴しい建造物などが織り成す自然景観と集落景観とが調和した文化的景観にも反映されている。また、ハルシュタットは、中央ヨーロッパ最古の鉄器文化を生んだ地としても知られている。
センメリング鉄道 センメリングは、ウィーンの森の南方のニーダエステライヒ州にある山岳鉄道。センメリング鉄道は、1848〜1854年にかけて、エンジニアのカール・リッター・フォン・ゲーガ(1802〜1860年)の指揮のもとに建設された。センメリング鉄道は、ミュルツツシュラーク(グラーツ方面)とグロックニッツ(ウィーン方面)の間の41kmを切り立った岩壁と深い森や谷を縫って走る。ヨーロッパの鉄道建設史の中でも画期的な存在で、土木技術の偉業の一つと言える産業遺産。当時は、標高995mのセンメリング峠を超えるのは、物理的にも困難だったが、勾配がきつい山腹をS字線やオメガ線のカーブで辿ることにより、また、センメリング・トンネル(延長1.5km、標高898m)を通したり、クラウゼルクラウゼ橋やカルテリンネ橋など二段構えの高架の石造橋を架けることによって、それを解決した。この鉄道の開通によって、人々は、シュネーベルク(2076m)やホーエ・ヴァント(1132m)などダイナミックな山岳のパノラマ景観や自然の美しさを車窓から眺めることが出来る様になった。また、かつては、貴族や上流階級のサロンであったジュードバーン、パンハンス、エルツヘルツォーグヨハンなど由緒あるホテルの遠景も、新しい形態の文化的景観を創出している。
ウィーンの歴史地区 ウィーンの歴史地区は、首都ウィーンの真ん中の直径1km程度の旧市街地が中心。中世時代から城壁に取り囲まれていたウィーンの歴史地区は、その建築的、そして、都市の資質として、建築、美術、音楽、文学の歴史に関連して重要な価値を有している。歴史地区の都市と建築は、ゴシック様式の聖シュテファン寺院をはじめ、中世、バロック、そして、近代の3つの主要な段階の発展を反映するものであり、オーストリアと中央ヨーロッパの歴史のシンボルとなった。本来都市が拡大するべきバロック時代には、迫り来るオスマントルコの脅威が大きく、城壁外へは拡大できなかった。しかし、1699年のカルロビッツ和約で、オイゲン公がオスマントルコを東に追いやり、市街地は一気に城壁の外側へと拡大し建築ブームが起こった。また、ウィーンは、ワルツ王ヨハン・シュトラウスなど偉大な作曲家を数多く生んだ16〜20世紀の音楽史、特に、ウィーン古典主義やロマン主義において基礎的な発展を遂げ、ヨーロッパの「音楽の首都」としての名声を高めた
ザルツブルグ市街の歴史地区 ザルツブルクは、オーストリアの北西部、ヨーロッパの南北の接点にあたるザルツブルク州の州都。ザルツブルクという地名は、「塩の城」という意味で、文字どおり、古くから塩の交易で潤い、そして、宗教都市としてもさかえた。ザルツブルクを貫流するザルツァッハ川の左岸の歴史地区には、ドーム広場の近くにある聖ペーター僧院教会や大聖堂をはじめ、レジデンツ広場の西にある歴代の大司教が使用していたレジデンツ宮殿、そして、中世から19世紀にかけて絶対的な支配力をもっていた大司教の居城として1077年にメンヒスブルク山頂に建設されたゴシック様式のホーエンザルツブルク城などの建造物群が美しい都市景観を形成している。また、ザルツブルクは、数多くの芸術家も輩出しており、天才音楽家モーツアルトの生家もある。映画「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台にもなった世界に知られた音楽の街でもある
フェルトゥ-・ノイジードラーゼーの文化的景観 フェルトゥ−・ノイジィードラーゼーの文化的景観は、ハンガリーの北西部のジョール・モション・ショプロン県、オーストリアの東部のブルゲンラント州に広がる。小平原キシュアルフョルドの西側にあるフェルトゥー湖はハンガリーでは2番目に大きい湖で、湖畔のショプロンは、バロック様式の教会や博物館が残る歴史のある町で、ワインの産地としても有名。一方、ノイジードラー湖は、面積が320平方kmの平原湖、流出河川はなく、平均の深さが0.8mと浅い湖で、最深部でも2mしかない。湖岸から3km以内はアシが生い茂る野鳥の天国で、280種の鳥類が生息している。ノイジードラー湖は、この湖水生態系の一部で、周辺のなだらかな丘陵地には葡萄畑が展開し、貴腐ワインなど白ワインの名産地としても知られ文化的景観を呈している。フェルトゥ−・ノイジードラーの湖水地帯は、移住者、或は征服者としてここに到着した民族が集う場所である。フェルトゥ−・ノイジィードラーゼーは、ここに8000年前に人が定住して以来、困難への挑戦と耕作地への開拓の試練を提供した。フェルトゥ−・ノイジィードラーゼー地域の多様な文化的景観は、自然環境と共生する人間、進化のプロセスなどを物語っている
グラーツの市街- 歴史地区とエッゲンベルク城 グラーツは、人口25万人のオーストリア2番目の都市。グラーツという名称はスラブ語で小さな城を意味する「グラデツ」に由来する。約900年前に始まるこの街の歴史は、中世時代、ルネッサンス時代とハプスブルグ家の都として最盛期を迎え、皇帝フリードリッヒ3世は1438〜1453年に居城を置いていた。当時の遺産は、今も、中欧で最も完全な歴史的旧市街として残っており、かつて、東からの外敵に備える要塞であった標高473mのシュロスベルク山の麓に、州庁舎、市庁舎、フェルディナンド2世の霊廟などの建造物や、赤いレンガ屋根の町並みが当時の面影を色濃く残している。かつてあった強固な要塞は、今はその姿をほとんどとどめていない。わずかに残る「カーゼマッテン」は、美しい野外舞台として利用されている。また、グラーツには、400年以上の歴史を持つグラーツ大学と世界的に知られるグラーツ音楽院があり、国際見本市や国際会議も開かれるヨーロッパ有数の文化都市としても知られている。2010年の第34回世界遺産委員会ブラジリア会議で、イタリアのルネッサンスの影響を受けた建築物、「エッゲンベルク城」を新たに構成資産に加えて登録範囲を拡大、登録遺産名も「グラーツの市街- 歴史地区とエッゲンベルク城」に変更になった。
シェーンブルン宮殿と庭園群 シェーンブルン宮殿と庭園群は、首都ウィーンの市街から南西約5kmのところにある。18世紀から1918年まで、マリア・テレジアなどハプスブルグ家の夏の離宮として使われた。レオポルト1世の命を受けて、1696年に、建築家フィッシャー・フォン・エルラッハなどによって手がけられ、建物の内部には、1441の部屋があり、フランスのヴェルサイユ宮殿に対抗して豪華な装飾が施されている。庭園は、1752年、世界最初の動物園として造られたが、その後、大幅な改造が行われ、花壇、植え込み、噴水などが幾何学的に組み込まれたバロック様式の代表的な庭園群となっている。シェーンブルン宮殿と庭園群は、ナポレオンがウィーンを占領した時の司令部、ウィーン会議(1814〜1815年)の会場、1961年のケネディ・フルシチョフ会談の場所など数々の歴史的なドラマの舞台にもなっている。世界遺産の登録面積は、コア・ゾ−ンが186.28ha、バッファー・ゾーンが260.64haである。
ワッハウの文化的景観 ワッハウの文化的景観は、オーストリアの北東部、メルクとクレムスとの間約36km、ドナウ川が流れるドナウ渓谷の一帯であるワッハウ地方に広がり、その自然と文化との調和は、絵の様に美しい。ワッハウを貫流するドナウ川の自然環境、そしてメルクやクレムスなど中世の面影が残る美しい町並みの集落、メルクの壮大な修道院やデュルンシュタインの水色の塔を持つ教会などの建築物、それに葡萄の栽培が行われている農業景観など、ワッハウ地方は、先史時代以来の長い歴史の変遷を静かに物語っている。またワッハウは、良質のワインであるワッハウ・ワインの産地としてもその名を世界的に知られている。
Ir.D.F.ウォーダヘマール(D.F.ウォーダ蒸気揚水ポンプ場) Ir.D.F.ウォーダヘマール(D.F.ウォーダ蒸気揚水ポンプ場)は、フリースラント州のアイセル湖に面したレマーにある産業遺産。18世紀にエネルギー源の一つとして蒸気力が出現したことは、千年来の課題であった水を制御するパワフルなポンプをオランダ人技師のディルク・フレドリック・ウォーダに考案させる契機となった。1920年に開設されたウォーダ蒸気揚水ポンプ場は、水を制御する技術を代表するもので、何世紀にもわたって、全世界に標準モデルを供給し続けた。技術設計者のディルク・フレドリック・ウォーダの名前をたたえるIr.D.F.ウォーダヘマール(D.F.ウォーダ蒸気揚水ポンプ場)は、いわば、オランダの水との戦いの記念碑ともいえる産業遺産。Ir.=Ingenieur 技術者、技師、エンジニア。
キンデルダイク-エルスハウトの風車群 キンデルダイクとエルスハウトの風車群は、オランダ第2の都市ロッテルダムの郊外にある。1740年頃、キンデルダイクでは、がっしりした19基の風車が建造され、今日までよく保存されている。これらの風車は偏西風を利用して回していた為、どの風車も西を向いている。海面下にある低湿地の水を排水し、酪農、牧畜や園芸農業の為の干拓地(ポルダー)を造り、また、製粉などにも用いられた産業遺産。今日では、動力ポンプがその役割を担い、風車は観光用として保存されるのみとなっている。動力ポンプの規模はヨーロッパ最大級で、スクリュー式のポンプ場がある。農業及び生活用灌漑事業は、中世から現在まで続いているが、ここには、高い堤防、排水路、揚水機場、放牧地など古代より水と戦ってきた「低湿地」の人々の努力と水利技術の粋が集められている。毎年4月上旬から9月下旬まで日曜日を除く毎日、一基の風車の内部が見学でき、また、7〜8月の毎土曜日の午後、風車が回り、9月の第2週には、毎晩イルミネーションが風車を美しく飾る。
リートフェルト・シュレーダー邸 リートフェルト・シュレーダー邸は、首都アムステルダムの南39km、オランダの中央にあるユトレヒト州の州都ユトレヒトにある。リートフェルト・シュレーダー邸は、建築家で、また「赤と青の椅子」などの作品で有名な家具デザイナーであったヘリット・トーマス・リートフェルト(1888〜1964年)が、1924年に、未亡人であったトゥルス・シュレーダーの依頼によって設計したものである。内部空間と外部空間の流れるようなつながり、2階の開放的な平面計画、そして、視覚に訴える色彩の使用の3点が、この住宅の最大の特徴である。ヘリット・リートフェルトは、第一次世界大戦後の幾何学的芸術運動「デ・ステイル」(De Stijl 1917〜1932年)の代表的メンバーも務め、オランダの芸術と建築に大きな影響を与えた。
アムステルダムのシンゲル運河の内側にある17世紀の環状運河地域 アムステルダムのシンゲル運河の内側にある17世紀の環状運河地域は、オランダの北部、北ホラント州、首都アムステルダムの中心部を同心円状に流れる5つの環状運河地域。アムステルダムの中世の都市は、ザイデル海に流入するアムステル川の両岸に、湿地の水を排出して建設され、以来、数世紀にわたって、街は、扇状に、徐々に外側(南)へと広がり発展した。アムステルダムの名前は、1270年頃にアムステル川の河口に建設されたダム(現在のダムラック)に由来し、14世紀にはハンザ同盟との貿易により港町として繁栄した。アムステルダムは、中央駅を中心に扇形に広がり、内側のシンゲル運河、ヘレン運河、カイゼル運河、プリンセン運河、外側のシンゲル運河まで、5本の運河が取り囲む水都であり、17世紀には、東インド会社と西インド会社が設立され、自由な貿易都市として、その繁栄は頂点を迎える。運河沿いには17世紀の豪商の邸宅、教会、レンガ造りの建物などが立ち並んでいる。アムステルダムの大規模な都市計画は、19世紀まで、世界中で参考にされた。シンゲル運河の内側にある17世紀の環状運河地区は、現在は、アムステルダムの旧市街にあたり、オランダ政府は、1999年から公式にその歴史的な町並み景観を保護してきた。
   
スホクランドとその周辺 スホクランドは、アムステルダムの東フレフォランド州。1859年、度重なる洪水の危険を回避する為、ウィリアム3世は、島民を退去させスホクランドは無人島となる。1932年、ゾイデル海は、30kmの長さの締切堤防アフスライトディクが完成したことにより現在のアイセル湖となった。その後の干拓事業により、1937年には入植も始まり、当時の貴重な住居跡が数多く発見された。また、氷河時代の化石も多く発掘された。ポルダー干拓歴史博物館に改造された老朽化した建物などが展示されている。
ワッデン海 ワッデン海は、デンマーク、ドイツ、オランダの三国に囲まれ、いくつもの島々によって外洋と隔てられている。ワッデン海域の世界遺産の登録面積は、ドイツとオランダの2か国にまたがる968.4haで、ドイツ側のニーダーザクセン・ワッデン海国立公園、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン・ワッデン海国立公園、オランダ側の計画決定区域(PKB)など7つの構成資産からなる。ワッデン海は、泥質干潟、塩性湿地、藻場、水路、砂浜、砂州、砂丘など自然景観、生態系、生物多様性と様々な自然環境に恵まれている。ワッデン海には、ゴマフアザラシ、ハイイロアザラシ、ネズミイルカなどの海生哺乳類、ヒラメ、ニシンなど100種の魚類、クモ、昆虫など2000種の節足動物など多様な野生生物が生息している。また、ワッデン海域には、毎年約1000万〜1200万羽の渡り鳥の飛来地であり、東部大西洋やアフリカ・ユーラシアへの飛路の中継地となっている。ワッデン海の沿岸部では、大規模な堤防やダムが造られ、洪水を減らし、低地の人々を守り、農工業の用水の確保に役立ってきたが、一方、自然を破壊もしてきた。また、農薬、肥料、重金属、油による汚染と富栄養化、それに、漁業資源の乱獲などが進み環境が悪化している。1978年以降、オランダ、ドイツ、デンマークは、ワッデン海の総合的な保護の為の活動や方策を総括し、また、WWF(世界自然保護基金)も、ワッデン海の広大な海域を守る為、三か国ワッデン海計画の策定を進めている。将来的には、デンマーク側の世界遺産登録も望まれる。
アムステルダムの防塞 アムステルダムの防塞は、首都アムステルダムの市街を取り巻く周囲135kmに及ぶ。1883年から1920年にわたって造られた。軍隊の駐屯や食料貯蔵の為に建設された45の砦と、堤防、水門、運河などにより構成された水害対策も兼ねた世界で唯一の軍事防塞。16世紀以来、オランダ人は、水門、運河の管理、水路の利用など、水力を自国の防衛に利用することを考えてきた。その為、防塞は、アムステルダムの市街地から平均して15kmほど離れたところに建設されており、この間にある干拓地や水路などが、洪水を防いだり、敵の侵入を阻むのに効果的役割を果たした。
ドローフマカライ・デ・ベームステル(ベームスター干拓地) ドローフマカライ・デ・ベームステル(ベームスター干拓地)は、アムステルダムの北、北ホラント州のプルメレンドの近郊のベームステルにある17世紀初期に造られたオランダ最古のポルダー(干拓地)。ドローフマカライ・デ・ベームステル(ベームスター干拓地)は、中央、北、西、南東の4区に分かれている。田畑、道路、堤防、運河、風車、村落が織りなす文化的景観が見事に調和した設計は、その後のヨーロッパをはじめとする各地での干拓事業に大きな影響を与えた。もともとは、オランダ東インド会社の海外派遣の食料確保を目的とした農地としての土地利用を企図したものであるが、排水に難点があり、牧草地に転用、その後、技術改善を図り、現在は花卉などの園芸農業を営んでいる。国土が低地である故に強いられてきた人間と水との格闘の歴史、干拓地の開発史を研究するのに欠かせない人類にとってかけがえのない世界遺産として認められた。ドローフマカライ・デ・ベームステルの管理は、ベームステル市とワータースパップ(水域管理局)とが共同で行なっている。
コジャ・アフメド・ヤサウィ廟 コジャ・アフメド・ヤサウィ廟は、現在のトルキスタン(昔のヤス)にある12世紀の宗教家かつ詩人のコジャ・アフメド・ヤサウィの霊廟である。1389〜1405年のティムール(タメルラン)時代に建設された青色のタイルで装飾された大きなドームを有するイスラム教の宗教建築物である。ペルシャ人の建設家は、この一部未完成のコジャ・アフメド・ヤサウィ廟の建物で、皇帝の監督の下に、建築上、構造上の工法の実験を行った。これらの工法は、ティムール帝国の首都サマルカンドの建設に応用された。今日、コジャ・アフメド・ヤサウィ廟は、ティムール時代の最大級かつ最も保存状態が良い建造物の一つである。尚、コジャ・アフメド・ヤサヴィの写本は、世界記憶遺産に登録されており、カザフスタン国立図書館(アルマティ)に収蔵されている。
サリ・アルカ−カザフスタン北部の草原と湖沼群 サリ・アルカ−カザフスタン北部の草原と湖沼群は、ナウルズム国立自然保護区とコルガルジン国立自然保護区の2つの保護地域からなり、合計面積は、450344haに及ぶ。サリ・アルカ−カザフスタン北部の草原と湖沼群は、ソデグロヅル、ハイイロペリカン、キガシラウミワシなどの絶滅危惧種を含む渡り鳥にとって重要な湿地であるのが特徴である。中央アジアのサリ・アルカ−カザフスタン北部の草原と湖沼群は、アフリカ、ヨーロッパ、南アジアから西・東シベリアの繁殖地への、渡り鳥の飛路において、主要な中継点と交差点である。サリ・アルカ−カザフスタン北部の草原と湖沼群は、世界遺産の登録面積が、核心地域が450344ha、緩衝地域が211147.5haであり、草原の植生、鳥類の絶滅危惧種の半分以上が生息する鳥類にとっても貴重な避難場所になっている。サリ・アルカ−カザフスタン北部の草原と湖沼群は、北は北極へ、南はアラル・イルティシュ川流域の間に位置する淡水湖と塩湖を含む。
タムガリの考古学的景観とペトログラフ タムガリの考古学的景観とペトログラフは、カザフスタンの南東部、天山山脈の西方、アルマトイ州のタムガリ峡谷にあり、タムガリ山(標高982m)を含む900haのごつごつした円形の地域からなる。峡谷周辺の48の地域に、紀元前2000年後期から20世紀初期にかけて描かれた動物、人物、太陽の像など約5000点のペトログラフが分布している。ペトログラフは、石器や金属器で岩の表面を線刻した岩絵で、露天の岩面に残されている。これらは、周辺に残る住居跡や祭祀場跡と推測されている遺跡群とともに、当時の人々の暮らしぶりや牧畜生活者の儀礼などを伝える。また、青銅器時代などの墓も残っており、時代によって石囲いから墳墓に変化していった様子を読み取ることができる。タムガリの考古学的景観とペトログラフは、中央アジアの遊牧民族の生活の変遷を辿る上での貴重な証拠となっており、独特の文化的景観を形成している。
スライマン・トォーの聖山 スライマン・トォーの 聖山は、キルギスの南西部、ウズベキスタンとの国境、キルギス第2の都市、オシュ州オシュ市にある。スライマン・トォーとは、キルギス語で、スライマン山のことである。スライマンとは、コーランに登場する聖人で、旧約聖書ではソロモン王に相当する。スライマン・トォーの聖山の世界遺産の登録面積は、112ha、バッファーゾーンは4788haである。スライマン・トォーの聖山は、フェルガナ渓谷の周辺景観とオシュの都市景観の背景になっている。オシュは、中世の時代に、中央アジアのウズベキスタンと中国のカシュガルとを結ぶシルクロードの重要なルートの十字路にあたる肥沃なフェルガナ渓谷の最大の都市群の一つであった。そして、スライマン・トォーの聖山は、旅人にとってのランドマークであり、心の慰めになっていた。スライマン・トォーは、少なくとも1500年間、聖山として崇められてきた。約1100mの5つの峰と斜面は、古代の祭礼の場所であり、紀元前3000年の岩画のある洞窟群、古代の道、モスクなどがある。スライマン・トォーの聖山は、イスラム、イスラム教が伝わる前のプレ・イスラム、それに、馬の崇拝の信仰を反映する類いない精神的価値を有する景観である。スライマン・トォーは、ゾロアスター教の経典であるアベスタの世界、ベーダの伝統、イコンの聖画像の様なものである。スライマン・トォーへの巡礼は、現在においても、中央アジアのイスラム教徒にとっては、神聖なる活動であり、メッカへの巡礼と同等に考えられている。聖山や岩画への観光客の増加に対応した観光戦略、それに、国立スライマン・トォー歴史考古博物館の様なガイダンス施設の充実が求められる。
アイガイの考古学遺跡(現在名 ヴェルギナ)
アイガイの考古学遺跡は、ギリシャ北部の中央マケドニア地方、ピエリア山の山麓のヴェルギナにある考古学遺跡。古代マケドニア王国の最初の首都アイガイの町は、19世紀に、現在のヴェルギナの近くで発見された。アイガイの考古学遺跡には、モザイク模様をふんだんに使った宮殿と紀元前11世紀代の300を越す古墳群がある。王家の大古墳の一つは、マケドニア王であるフィリップ2世のものとされている。彼はギリシャの全ての町を征服し、その息子アレキサンダー大王の為、ヘレニズム文化の普及の道をつけた。2007年の第31回世界遺産委員会クライストチャーチ会議で、「ヴェルギナの考古学遺跡」から名称変更になった。
エピダウロスのアスクレピオスの聖地 エピダウロスのアスクレピオスの聖地は、ギリシャ南部、ペロポネソス半島東部のサロニカ湾に面した港湾都市エピダウロスの内陸部にある。エピダウロスの街の起源は、紀元前6世紀に遡り、紀元前4世紀の最盛期に各種の建造物が建てられた。神話では、アポロの息子で医療と健康の神であるアスクレピオスの信仰が広がり、祈りながら治療する場として評判になり、劇場、宿泊所、浴場、闘技場、アスクレピオス神殿、アルテミス神殿などが最盛期の紀元前4世紀末に造られた。特に、ポリュクレイトスの設計で建築されたエピダウロス劇場は、均整美がすばらしい。2007年の第31回世界遺産委員会クライストチャーチ会議で、「エピダウロスの考古学遺跡」から現在の名称に変更になった。
サモス島のピタゴリオンとヘラ神殿 サモス島は、紀元前6世紀後半に栄えたエーゲ海東南部の島。紀元前6世紀の技術者エフパリノスが山から島の中心に導水する為に造った地下水路やヘラ神の神殿跡、古代の港の堤防跡などの遺跡が残っている。女神信仰があったサモス島は、大女神ヘラの生誕地とされ、ピタゴリオンの東6kmの地に大神殿を造った。現在は石柱が1本残るのみ。また、この地は、数学者ピタゴラス(紀元前582年頃〜紀元前497年頃)誕生の地としても知られ、彼を賛えて、町の名がピタゴリオンと命名された。
デルフィの考古学遺跡 デルフィは、ギリシャ中部、コリントス湾を望むパルナッソス山中にある。紀元前6世紀頃には、ここが「世界のへそ(中心)」と考えられ、多くのポリス(都市国家)をつなぐ宗教的な核として太陽神アポロンを祀った神殿が造られ、アポロンの神託が行われた。この神託をうかがうために国家の首長や巡礼、一般の人々が大勢集まり、芸術や競技の中心となった。紀元前4世紀のドーリス式のアポロン神殿、観客5000人を収容できる野外劇場、スタディオン(競技場)、紀元前5世紀の円形神殿(トロス)などが緑濃いオリーブ林の広がるパルナッソス山を背に荘厳に佇む。
パトモス島の聖ヨハネ修道院のある歴史地区(ホラ)と聖ヨハネ黙示録の洞窟 パトモス島は、エーゲ海南東部にある12の島々からなるドデカニサ諸島の一つ。パトモス島の大きさは、八丈島の半分位で、風光明媚な景観で知られている。港から登っていくと、城壁がめぐらされた聖ヨハネ修道院の見える町が中世の町ホラ。キリストの十二使徒の一人聖ヨハネが黙示録の天啓を受けた千年の歴史に輝く修道院の聖堂や数多くの僧房は興味深い見どころ。黙示録は、パトモス島に流刑された使徒ヨハネが、95〜97年頃に、エペソ、スルミナ、ペルガモなどのアジアの7つの教会の聖徒にあてて書いたキリストの啓示の書。黙示録は、全22章からなっており、この世のすべての時代におけるキリストと人との関係が描写されている
メテオラ メテオラは、ギリシャ中央部のテッサリア地方、ピニオス川がピントス山脈の深い峡谷から現われテッサリア平原に流れ込むトリカラ県にある修道院群。メテオラとは、ギリシャ語の「宙に浮いている」という形容詞が語源の地名。11世紀以降、世俗を逃れ岩の割れ目や洞窟に住み着いた修道僧によって、14〜16世紀のビザンチン時代後期およびトルコ時代に、24の修道院が約60の巨大な灰色の搭状奇岩群がそそり立つ頂上(高さ30〜400m) に建てられた。メテオラには、女人禁制を含めた厳しい戒律を定めた修道僧アタナシウスによって建てられたメガロ・メテオロン修道院(別名メタモルフォシス修道院)をはじめ、ヴァルラム修道院、アギア・トリアダ修道院、アギオス・ステファノン修道院、ルサノウ修道院などの修道院があり、中世の典礼用具や木彫品、クレタ様式のフレスコ画やイコン(聖画)などビザンチン芸術の宝庫でもある。
アテネのアクロポリス アテネのアクロポリスは、古代ギリシャを代表する都市国家。世界遺産の登録面積は、コア・ゾ−ンが3.04ha、バッファー・ゾーンが116.71haである。アクロポリスとは、ポリス(都市国家)の中心となった要塞堅固な丘(アクロ=高い)のことで、ポリスの守護神を祀る神域であった。アクロポリスはギリシャ各地にあったが、最盛を誇ったアテネのアクロポリスが最も知られている。156mの岩山を城壁で囲んで2500年前に築かれたアテネの守護神「アテナ」を祀って建てられたドーリス式の壮大なパルテノン神殿、アテナ・ニケ神殿(翼無き神殿)、乙女の立像による6本の石柱が印象的なイオニア式のエレクティオン神殿、前門(プロピュレイア)プーレエ門等が、栄光と苦難の歴史を秘める。なかでも、パルテノン神殿は、アテネのアクロポリスの象徴的な存在で、古代ギリシャ文明がもたらした精神的遺産に敬意を表し、ユネスコのロゴにも使用されている。15世紀にオスマン・トルコ軍に占領された時、また17世紀にヴェネツィア軍が侵攻した時に、激しく破壊された歴史もある。今も尚、修復が続けられている。2010年のギリシャの経済危機は、アクロポリスの保存修復に携わる現場労働者への賃金未払いなど、文化財の保存修復にも影響が及んでいる。
オリンピアの考古学遺跡 オリンピアは、ギリシャ南部ペロポネソス半島のクロニオン丘の南麓にある。1896年にクーベルタン男爵の尽力により復活した近代オリンピックの礎となる古代オリンピック発祥の地で、紀元前10世紀頃、ヘラ神とゼウス神を信仰の対象に聖域化した。古代オリンピック大会は、紀元前776年に始まり、民族間の戦争や対立を超えて、競争、レスリング、格闘技、戦車競走、競馬などの運動競技や芸術や文芸のコンテストが競われた。4年毎に開催され、紀元後393年まで1000年以上続いたが、キリスト教が広まるにつれ、聖域は異教の建造物として取り壊され、また、オリンピックもテオドシウス1世の勅命によって禁止された。オリンピア古代遺跡は、一周192mのトラックを持つ競技場(スタディオン)、近代オリンピックの聖火が今も点火されているドーリス式のヘラ神殿、紀元前5世紀のゼウス神殿、プリュタネイオン(オリンピック評議員役所・迎賓館)、体育館(ギムナシオン)、フィリッペイオン(マケドニア王フィリッポス記念堂)、宿舎としても使用されたレオニダイオンなどで、当時の遺構が堂々たる威容を誇っている。オリンピア考古学博物館では、「ニケ女神像」や「ヘルメス像」など数多くのすばらしい彫刻を鑑賞することができる。
ダフニの修道院、オシオス・ルカス修道院とヒオス島のネアモニ修道院 ダフニの修道院、オシオス・ルカス修道院とヒオス島のネアモニ修道院は、11世紀に造営された修道院である。ダフニ修道院は、アテネの西11kmの近郊にあり、城壁に囲まれ石工の技術がすばらしいギリシャでも屈指の優れたモザイク画やイコン画(聖像画)で内部が装飾されている修道院である。オシオス・ルカス修道院は、デルフィの東35kmにある10世紀前半のギリシャの聖者オシオス・ルカスに因んだビザンチン様式の修道院で、ドームを持つ八角形の大聖堂の内部は、クレタの画家ダマスキノスが描いたイコンや11世紀頃の豪華絢爛なモザイク画で飾られている。ネアモニ修道院は、エーゲ海東部のヒオス島にあり、聖母マリア図で有名である。
デロス デロスは、エーゲ海に浮かぶ小デロス島にある紀元前5〜3世紀の遺跡。キクラデス諸島の中では一番小さな島だが、ギリシャ神話のアポロンとアルテミス生誕地としてデルフィに次ぐ聖地として栄えた。ペルシャへの対抗上、ギリシャ諸都市は、サラミスの海戦の後の紀元前479年頃にアテネを中心とするデロス同盟を結んだことでも有名。ギリシャの各都市国家が共同で、岩上に建てたアポロン神殿、それに、アルテミス神殿、劇場、アゴラ、大理石の獅子像など最盛期の遺跡が残る。
ミケーネとティリンスの考古学遺跡 ミケーネは、首都アテネから131km、ドイツのハインリヒ・シュリーマン(1822〜1890年)の発掘によって明らかにされたクレタ文明やオリエント文明の影響を受けた紀元前15〜13世紀頃に栄えたミケーネ文明の中心地。その遺跡は、トロイ戦争で、ギリシャ軍を率いたアガメムノンの王宮跡と伝えられている。周囲には、巨石の城壁が残り、獅子門を通り中に入ると、シュリーマンが発掘した有名な王家の墓がある。また、道を隔てて、蜂の巣型の墳墓もあり、「アトレウスの宝庫」と呼ばれている。遺跡からは、おびただしい黄金細工が発掘され、古来「黄金に富めるミケーネ」と言われていたことが実証された。一方、ヘラクレスの生地と伝えられるティリンスの遺跡は、アルゴスから8kmの所にある。巨石を積み上げて造られたキクロポス式の城塞や、宮殿、地下の通路などは、ミケーネ時代のもの。ミケーネとティリンスの小王国は、巨石で築いた城塞を持ち、役人を使って、人民から貢納をとりたてるなど、オリエント的な専制国家に発展する傾向を持っていた。
ロードスの中世都市 ロードス島は、エーゲ海の南東部に浮かぶドデカニサ諸島の中で最大の面積を持つ島。聖地エルサレムの守護軍であった十字軍の聖ヨハネ騎士団は、1308年にトルコ軍に敗れて、ロードス島に退いたが、以後、約200年間にわたって、島に壕を巡らして難攻不落の城塞を築き、また、騎士団総長の宮殿や騎士たちの館を建てて聖地奪還を目指した。旧市街の15〜16世紀の石畳や館が今も中世の面影をとどめている。また、ロードス島は、紀元前305年のマケドニアのデメトリオス1世による攻略の撃退を記念し、紀元前290年頃、港に建てられた高さ30m以上の太陽神ヘリオスの彫像でも知られている。このロードスの巨像は、紀元前225年頃、地震によって壊れたが、世界七不思議の1つとして伝承されている。
アトス山 アトス山は、ギリシャ北部のハルキディキ半島の突端にあるギリシャ正教の聖山。アトス山には、標高2033mの険しい山の秘境に、10世紀頃から造られたコンスタンティノープル総主教庁(総主教座はトルコのイスタンブールにある聖ゲオルギオス大聖堂)の管轄下にある修道院が20ある。中世以来、ギリシャ正教の聖地として、マケドニア芸術派の最後の偉大な壁画家エマヌエル・パンセリノスのフレスコ画をはじめ、モザイク、古書籍、美術品、教会用具等を多数有するビザンチン文化の宝庫である。アトス山は、今も厳しい修行の共同生活の場として女人禁制の戒律が守られ、1700人ほどの修道士の手によって運営されている。また、アトス山の岩山が切り立つ緑の山々、渓谷、海岸線など変化に富んだ自然景観も大変美しい。
コルフの旧市街 コルフの旧市街は、ギリシャの海岸の沖合い、アドリア海の入口にあるイオニア諸島のコルフ島(ギリシャ語でケルキラ島)の旧市街である。ヴェネチア帝国の植民都市だったころの影響のため、いまでもイタリア風の建造物が数多く残されている。コルフの旧市街の町並みは古い城塞のそばに沿って続くが、これはビザンチン時代に形成されたものである。コルフの旧市街には、ビザンチン時代の旧城塞、ヴェネチア時代の新要塞などが残っている。
テッサロニキの初期キリスト教とビザンチン様式の建造物群 テッサロニキは、ギリシャ北部のエーゲ海沿岸のセルマイコス湾に抱かれたギリシャ第2の都市。テッサロニキという地名は、アレキサンダー大王の妹の名前に因んで付けられた。元々はマケドニアの古都で、ローマ、ビザンチンの属領と変遷した。聖パウロが初期キリスト教を伝道させたこともあって、後に、ビザンチン帝国の保護を得た。297年の小アジア、アルメニア、シリア、メソポタミアの遠征におけるガレリウス皇帝の勝利を記念して、305年頃に建てられたガレリウスの凱旋門、4世紀初期のドーム型の建物であるロトンダ霊廟、5世紀半ばに建てられたアヒロピエトス教会や5世紀末のオシオス・ダビド教会など初期キリスト教の教会、ビザンチン時代の繁栄を物語る城壁の名残でもある白い塔、7世紀と1917年の2度の火災で壊れたが、1948年に修復・再現されたビザンチン様式のアギオス・ディミトリオス教会、1028年の建設とされる十字架の聖堂があるパルギア・ハルケオン教会、14世紀のアギイ・アポストリ教会などの歴史的建造物が近代建築と共に美しい調和を見せている。
バッセのアポロ・エピクリオス神殿 バッセは、ギリシャ南部のペロポネソス半島のアルカディア地方にある標高1130mの山。アポロ・エピクリオス神殿は、この山中に、紀元前5世紀末に建設された。ドーリア式の円柱を持ち、形が美しいところからアテネのパルテノン神殿の建築家が建てたとの説もある。アルカディアは理想郷の代名詞でもある。
ミストラの考古学遺跡 ミストラの考古学遺跡は、ギリシャ南部、ペロポネソス半島にあるスパルタの西郊外にある。ミストラの考古学遺跡は、1249年にフランク族の王であったギュロウム・ド・ピレハウドインが城塞を築いたのが起源である。ビザンチン帝国が支配した14〜15世紀の美しい教会、パンダナサ修道院、14世紀の壁画の残るオデトリア教会、13世紀の聖ディミトリオス大聖堂など、ビザンチン時代後期の城塞都市のゴーストタウンがそのまま保存されている。「幻の都」、「中世のポンペイ」とも呼ばれている。2007年の第31回世界遺産委員会クライストチャーチ会議で、「ミストラ」から現在の名称に変更になった。
シベニクの聖ヤコブ大聖堂 シベニクの聖ヤコブ大聖堂は、ダルマティア地方の沿岸部にある。シベニクの聖ヤコブ大聖堂は、15〜16世紀の中世に、北イタリアのダルマティア地方とトスカーナ地方との間で芸術交流が盛んに行われていたことを如実に語っている。大聖堂建設を次々に進めた建築家、フランチェスコ・ディ・ジャコモ、ゲオルギウス・マテイ・ダルマティクス、ニコロ・ディ・ジョヴァンニ・フィオレンティーノの3名は、石造りにするための構造を開発し、丸天井や大聖堂の工事に特異な技法を用いた。また、大聖堂の外観や装飾部分もゴシック美術とルネッサンス美術が見事に融合している。
トロギールの歴史都市 トロギールは、アドリア海に臨むショルタ島とクロアチアの本土の間にある港町。紀元前385年頃、ギリシャの植民都市として建設された。ギリシャ時代に出来た直角に区画された道路網、9〜10世紀に建てられた聖バルバラ教会、13世紀に建てられたルネッサンス様式とバロック様式とが調和したロマネスク様式の聖ロブロ教会、何代も続くこの町の支配者達によって建てられたタウンホールなどの公共の建物、個人の建物、公共広場、城塞などが旧市街に残る歴史都市。
ポレッチの歴史地区のエウフラシウス聖堂建築物 ポレッチは、クロアチアの西部にあるイストラ半島のアドリア海に面した都市。紀元前1世紀に古代ローマ人が建設した歴史地区には、4〜6世紀に、初期キリスト教の複合建築物が建てられた。なかでも、6世紀に司教エウフラシウスによって建造されたビザンティン様式のエウフラシウス聖堂は圧巻で、教会堂、洗礼室、礼拝堂、中庭などからなっている。内外壁を飾るモザイク、柱の彫刻などがあるエウフラシウス聖堂は、宗教建築の最高峰ともいえ、当時の状態を良く保っている。
スタリ・グラド平原 スタリ・グラド平原は、ダルマチア地方、アドリア海の美しき真珠の島フヴァル島の西部のスタリ・グラドと東部のイェルサの間の東西約6km、南北2kmに展開する肥沃な大平原である。スタリ・グラド平原は、紀元前384年頃に、エーゲ海の中央に浮かぶギリシャの島パロス島からのギリシャ人による最初の定住が進んで以来の文化的景観をそのまま今に留めている。この肥沃な平原でのギリシャ時代からの農業は、温暖な地中海性気候を生かしたグレープやオリーブの畑作を中心に行われてきたが、今は、ラヴェンダーそれに漁業も営まれている。スタリ・グラド平原は、地質学的にも関心が高く、また、自然保護区でもある。その文化的景観は、先史時代の石の壁やトリム、あるいは、小さな石のシェルターを特徴とし、2400年以上にもわたって古代ギリシャ人やチョーラによって使われた古代の土地区画の幾何学的な仕組みによっても証明される。