Patrimoine de l'humanite
イスタンブールの歴史地区 イスタンブールは、トルコの西部、ボスポラス海峡を挟んで、アジアとヨーロッパの2大
陸にまたがる都市である。イスタンブールは、東西文明の十字路と謳われ、紀元前7世紀
にギリシャ人が入植、ローマ帝国の首都、帝国分裂後のビザンチン帝国の首都、15世紀オ
スマン・トルコの首都と変遷。5世紀皇帝テオドシウスの命令により建てられたマルマラ
海から金角湾へかけて7kmにのびるテオドシウスの城壁、ビザンチン建築の最高傑作のひ
とつ聖ソフィア大聖堂(現在はアヤソフィア博物館)、ブルーモスク(スルタンアフメッ
ト・ジャミイ)、オスマントルコ帝国歴代スルタンの居城であったトプカプ宮殿などが帝
国の栄枯を映す。イスタンブールは、コンスタンチノープルとかビザンチウムと呼ばれて
いた。慢性的な交通渋滞を解消する為、ボスポラス海峡横断地下鉄整備に伴う新たな地下
鉄橋の建設、また、歴史的なオスマン様式の木造住宅の空家の増加などが世界遺産保護の
脅威や危険になっている。
サフランボルの市街 サフランボル市街は、トルコの北部、黒海沿岸地方西部の山間の盆地にある。かつてサフ
ランが咲き乱れていたのが、その名前の由来。山に囲まれたすり鉢状のギュムシュ谷の谷
間に、オスマン・トルコ様式の古い民家や町並みが残る。土壁に木の窓枠が並んだ独特の
木造家屋は、トルコの最も伝統的な民家である。1727年に建てられた3階建の民家カイマ
カムラル・エヴィは、内部を見学できる。14〜17世紀のオスマン・トルコ時代にシルク・
ロードの中継地として繁栄したキャラバン・サライ(隊商宿)は今は廃墟となっている。
トロイの考古学遺跡 トロイの考古学遺跡は、アジアとヨーロッパの2つの大陸にまたがるトルコの北部エーゲ
海地方、マルマラ海沿岸地域のビガ半島にある観光地トロイにある考古学遺跡。トロイは
、ドイツの考古学者シュリーマンらの発掘によって、紀元前3000年からローマ時代までの
9つの異なる時代の集落、塔、城壁、門、神殿、祭壇、寺院、劇場、家屋の基礎などが発
掘された。このことで、ミケーネ文明(紀元前15〜紀元前13世紀頃)と同時期にトロイ文
明(紀元前1200年頃、ギリシャ人に滅ぼされた)があったとされ、伝説のトロイ戦争の実
在を確証させた。トロイ戦争に題材をとった紀元前8世紀の盲目の詩人ホメロス(ホーマ
ー)の叙事詩「イリアス」、「オデッセイア」は、長くヨーロッパで親しまれている。「
イリアス」は、トロイの別名イリオンの歌の意で、トロイ戦争での英雄たちの活躍を歌い
、「オデッセイア」では、トロイ戦争の英雄オデッセイの帰国途上の冒険を歌っている。
伝説のトロイ戦争を記念してトロイの木馬は復元され遺跡の入口に立てられている。木馬
にまつわる話は、トロイ戦争の勇士であるプリアム王、ヘクトル、パリス、そして、美し
いヘレンの話が伝わるレリーフにも表われている。現在は、国立公園になっており、西は
エーゲ海、北はダーダネルス海峡、南はチャナッカレとイズミールを結ぶ高速道路に面し
ている。毎年8月中旬に国際トロイ・フェスティバルが開催されるチャナッカレからバス
で約30分と近いので、イスタンブールから日帰りの観光も可能。
ヒエラポリス・パムッカレ ヒエラポリスとパムッカレは、イスタンブールの南約400kmのデニズリから北20kmにある
。ヘレニズムからローマ時代にかけての古代都市遺跡であるヒエラポリスは、紀元前190
年にペルガモンの王であったユーメネス2世によって作られ、2〜3世紀のローマ時代に、
温泉保養地として最も栄えた。聖フィリップのレリーフがある円形大劇場、ドミティアヌ
ス帝の凱旋門、浴場跡、八角形の聖フィリップのマーティリウム、アナトリア最大の2km
もある共同墓地などが残っている。パムッカレは、トルコ語で「綿の城塞」という意味で
、トルコ随一の温泉保養地で、温泉が造り出した真白な石灰岩やクリーム色の鍾乳石の段
丘が印象的。地面から湧き出た石灰成分を含む摂氏35度の温泉水が100mの高さから山肌を
流れ落ち、長年の浸食作用によって出来た幾重にも重なった棚田の様な景観は、きわめて
幻想的で圧巻。
ギョレメ国立公園とカッパドキアの岩窟群 ギョレメ国立公園は、トルコの中部、ネヴシェヒール地方にあるアナトリア高原にある。
カッパドキアの岩窟群は、エルジェス山やハサン・ダウ山の噴火によって、凝灰石が風化
と浸食を繰り返して出来上がったもので、キノコ状、或は、タケノコ状の奇岩怪石が林立
する。この地に、4世紀前後にローマ帝国の迫害から逃れたキリスト教徒が、横穴式に掘
り抜いて約360の岩窟修道院や教会などをつくった。なかでも、ギョレメ峡谷一帯のギョ
レメ国立公園は、周辺の自然を損なうことなく人間の手の入った世界でも珍しい地域で、
カッパドキアの奇観を代表するチャウシン岩窟教会などの岩窟教会、トカル・キリッセ、
エルマル・キリッセ、バルバラ・キリッセなどの聖堂が集まっており、内部には彩色鮮や
かなビザンチン様式のフレスコ画が残っている。また、カッパドキアには、オオカミ、ア
カギツネなどの動物、100種を超える植物など、貴重な動植物が生息している。
セリミエ・モスクとその社会的複合施設 セリミエ・モスクとその社会的複合施設は、トルコの最西端、マルマラ地方のエディルネ
県の県都エディルネの中央部の丘の上にある。セリミエ・モスクは、エディルネがオスマ
ン帝国の首都であった時代に建設されたモスクの1つで、オスマン帝国時代の建造物群の
中で最も有名である。セリミエ・モスクは、16世紀の建築家ミマール・スィナンによって
、1569年から1575年まで足かけ7年をかけて建設されたイスラム建築の最高傑作である。
イスタンブルのアヤソフィア大聖堂を越える直径31.5mの大ドーム、4つのすらっとしたミ
ナレット群は、オスマン帝国の天涯を示すものである。セリミエ・モスクの周辺に建てら
れ一機関として管理されているイスラム神学校のマドラサなどの社会的複合施設は、オス
マン帝国のキュッリイェ(モスクを中心として、マドラサ、病院、救済施設を融合した複
合施設)の最も調和のとれた建築物群だと言われている。
ネムルト・ダウ ネムルト・ダウは、アナトリアの南東部、アドゥヤマンとカフタの間の海抜2450mのネム
ルト山の山頂にある。紀元前1世紀のコマゲネ王国のアンティオコス1世のトゥムルス(墳
墓)は、直径150m、高さ50mに及ぶ小石を積み上げた円錐型の古墳。東西に設置されたテ
ラスに、5体ずつある神像群は、地震によって頭部がすべて落ちており、アポロン、ゼウ
ス、ヘラクレス、女神フォルトゥナ、それに、王自身の奇怪な頭をした巨大な石像が地面
に無造作に並んでおり、異様な雰囲気を放っている。
クサントス・レトーン クサントス・レトーンは、トルコ西南部のムーラ地方、地中海沿岸のアンタリア近郊にあ
る海洋民族であったリュキア人の都市遺跡。ペルシャに侵略され、マケドニア、ロードス
の支配を受け、最後は、ローマに屈服しなかった為、攻撃され焦土と化した。クサントス
には、ローマ時代の劇場、ビザンチン教会、住居跡と共に独特の神殿型、家型、柱状の形
状をした墳墓が、近郊のレトーンには、ギリシャ神話の女神レト、太陽神アポロン、月の
女神アルテミスを祀った3つのギリシャ神殿や劇場の遺構が残っている。
ディヴリイの大モスクと病院 ディヴリイの大モスクと病院は、東部アナトリアのシバスの南東177kmの山あいにある。
ディヴリイの大モスクと病院は、13世紀のアナトリア・セルジューク朝時代(1077〜1307
年)初期の石造りの大モスクと付属病院および墓の複合建築物で、同一の四角い敷地内に
ある。12世紀の初めにユーフラテス川の上流地域を制圧したメンギュジュック朝のアフメ
ット王が、1228年に大モスクの、同じ頃に妻が付属病院の建設を命じた。東西北の3門が
あり、北門とイスラム様式とアナトリア様式が融合した大モスクのドームを支える16本の
石の円柱には、精緻な双頭の鷲などの動物模様、植物模様、文字、幾何学模様のレリーフ
が施されている。ドームの天井の彩色も豊かである。ディヴリイは、ビザンチン帝国時代
には、テフリケと呼ばれていた。
ハットシャ:ヒッタイト王国の首都 ハットシャは、中部アナトリア、アンカラの東約150kmのポアズカレにある。ハットシャ
は、紀元前1650年頃にトルコ中央部を支配したヒッタイト王国の首都遺跡。標高1000mの
アナトリア高原の岩山に周囲6kmのビュユク・カレなどの城壁を巡らした城塞で、王の門
、スフィンクスの門、ライオンの門、ヤズルカヤ神殿、貯蔵庫、王宮などの遺跡が残る。
中央アジアからこの地に移住したヒッタイト人は、製鉄技術を初めて利用し鉄器を発明し
た騎馬民族で、王国の全盛期には、エジプト、バビロニアと並ぶ古代オリエントの三大強
国の一つに数えられた。
オスン・オショグボの聖なる森 オスン・オショグボの聖なる森は、ナイジェリアの南部、ラゴスの北東約200kmのオスン
州オショグボ市にある木々や藪の自然美を有する聖なる森。オスン川は、イレサの北の丘
陵から発し、ヨルバ県を貫流して、ラゴスなどの干潟に流れ込む。オショ・イグボは、雷
神で、ヨルバ族でオショグボの創立者の妻の一人であった。不思議な力を持っていた彼女
が、劇的にオスン川へと変身し、オスン川の神になったという伝説は有名である。オスン
の聖なる森には、オスンや他のヨルバ族の神々を称える神社、彫刻や芸術作品が建てられ
ている。その多くは、1950年代にこの地に来たオーストラリア人のスーザン・ウエンガー
と仲間の芸術家によって創られた。オシュン神社では、毎年7〜8月に伝統的な宗教儀式が
行われる。オショグボの町自体は、美術や音楽など芸術家の町であるが、オスンを崇拝す
ると幸運が訪れると信じられ、国内外から多くの人が訪れるお祭りになっている。
スクルの文化的景観 スクルは、カメルーンとの国境に近いナイジェリア東部のコーヒーの産地として有名なア
ダマワ州のマダガリ地方の高原にある。スクルの稀な景観は、人間が居住する上での土地
利用の形態やその環境を写実的に例証しており、何世紀にもわたって変ることなく、昔の
ままの伝統を今も引き継いでおり、貴重な文化的な景観となっている。その文化的景観は
、ハウサ系のマダガリ人の豊かな知恵と精神的な強靱さを如実に証明するもので、眼下に
集落を見下ろす起伏の多い丘陵にある部族長のクシディの館や階段状の棚畑は、彼等の信
仰や崇拝のシンボルでもある。また、周辺には、かつて栄えた鉄器時代の露天掘りや鉄器
の生産・加工の場であったことを示す遺跡の数々が点在する。
トワイフェルフォンテイン トワイフェルフォンテインは、ナミビアの北西部のクネネ州にある石器時代の岩石画の集
積地である。この地域の地形は、先史時代の火山活動によって形成された奇岩がオルガン
・パイプス、バーント山、ドロス・クレーター、化石林などに見られるのが特徴である。
これまでに、2000人以上の人物画が確認され、サイ、象、ダチョウ、キリンなど多種の動
物、人間や動物の足跡が残されている。これらの岩石画からは、少なくとも2000年以上に
わたる南部アフリカの狩猟採集民族の生活や信仰を知ることができる。トワイフェルフォ
ンテインの核心地域は、1948年に国の記念物に指定され、国の遺産法で保護され、管理計
画の施行は2005年に始まった。トワイフェルフォンテイン・カントリー・ロッジは、コリ
ハスという小さな町の西100kmにある。トワイフェルフォンテインの岩画の一部は、20世
紀の初期に、ウィンドホックのナミビア国立博物館に移されている。トワイフェルフォン
テインは、ナミビア最初の世界遺産である。
アイルとテネレの自然保護区 アイルとテネレの自然保護区は、ニジェールの北部、サハラ砂漠の一部をなす2000m級の
山岳地帯を含む荒涼とした北部乾燥地帯。谷間には、極く僅かだが森林もある為、生物は
、サル、レイヨウ類などの哺乳類が10種、鳥類が10種超、爬虫類が約20種など多様で1997
年にはユネスコ生物圏保護区に指定されている。特に、アダックス、リムガゼル、バーバ
リシープなどは貴重。武力紛争により、1992年に危機にさらされている世界遺産に登録さ
れたが、ニジェール政府やユネスコの努力で、次第に回復しつつある。
ニジェールのW国立公園 ニジェールのW国立公園は、ニジェールの西部、サバンナ草原地帯と森林地帯の境界域に
あり、ベナン、ブルキナ・ファソとの国境を超えて広がる広大なW国立公園のニジェール
側である。この地域を流れる長さ4200kmのニジェール川は、アフリカ最大の川の一つで、
この地域でWの形に湾曲して流れていることから「W国立公園」と名付けられた。その流域
は、鳥類の重要な生息地域で、また、湿地はラムサール条約<特に、水鳥の生息地として
国際的に重要な湿地に関する条約>に登録されている。西部アフリカのライオン、チータ
ー、ヒョウ、アンテロープ、ゾウ、ガゼル、バッファロー、ウオーターバック、バオバブ
など動植物の宝庫で生態系としても重要な地域。新石器時代から自然と人間が共存、独特
の景観と生物の進化過程を表している。
バーレーン要塞-古代の港湾とディルムン文明の首都 -バーレーン要塞は、首都マナーマの西5kmにある。ディルムン、アッシリア、ポルトガル
など人間の度重なる占有によって積み重ねられた人工的な土塁の典型的な証しである。バ
ーレーン要塞は、300×600mの広さの遺跡を含む地層で、紀元前2300年から紀元後16世紀
まで人間が住み続けたことを証明するものである。バーレーン要塞の約4分の1は、異なっ
たタイプの居住、公共、宗教、軍事的な構造物で、1950年代初期に発掘された。それらは
、バーレーン要塞が、何世紀にもわたって香辛料や絹の貿易港であったことを証明してい
る。12mもの高さがある土塁の頂上には、14世紀に建造された印象的なポルトガルの要塞
があり、要塞を意味するカラートの名前を全体の遺跡の名前にした。バーレーン要塞は、
紀元前3000年ごろにアラビア半島東部、すなわち、この地域に栄えた最も重要な古代文明
の一つであるディルムン文明の首都であった。それは、シュメールの楔形文字粘土板にそ
の記述が多数残されているこの文明の最も豊かな遺跡を含むものである。この遺跡は、
1955年にデンマークの探検隊によって発掘され、現在も作業が続けられている。
ロロペニの遺跡群 ロロペニの遺跡群は、トーゴとガーナと国境を接するブルキナファソの南西部、ガウアの
近くのロロペニの北西に展開する四角形大集落遺跡群である。ロロペニの遺跡群の世界遺
産の登録面積は、1.1ha、バッファーゾーンは、278.4haである。ロロペニの遺跡群は、周
囲を、赤色の風化土であるラテライトと石からなる約6mの高さの境界壁から囲む大規模な
廃墟となった集落遺跡である。なかでも、サハラ砂漠を横断して金の交易が行われた時代
に繁栄した集落であるロビ地域の10の要塞群は、大変保存状態が良い。最近の発掘調査の
結果では、ロロペニの遺跡群は、11世紀頃からのもので、14〜17世紀にかけて繁栄したと
されている。ロロペニの遺跡群は、現在のブルキナファソ、コートジボワール、ガーナの
3か国にまたがる広域のロビ族文化圏のなかで、定住圏として重要な役割を果たしたこと
を物語っている。ロロペニの遺跡群は、ワールド・モニュメント財団による2008年版の「
最も危機に瀕しているワールド・モニュメント・ウォッチ・リスト100選」にも選定され
ているが、熱帯地方特有のスコールによる強風、大雨、それに、サバンナの植生などで、
風化や劣化が進んでおり、崩壊の危機にさらされている。
アボメイの王宮 アボメイの王宮は、ベナン南部のズー県、首都ポルトノボの北西約140kmにある。17世紀
初め、ギニア湾岸のアラーダ王国のド・アクリン王子が、アボメイに建てた国がアボメイ
王国(後にダホメイ王国に改名)である。初代のド・アクリン王から最後のアゴリ・アグ
ボ王まで、絶対君主の12代の王のもとで、300年間、西海岸最強のフォン族の王国として
、奴隷貿易で、繁栄を謳歌した。奴隷の売買が行われたことから、この辺りは、「奴隷海
岸」と呼ばれた。現在、アカバ宮殿など12の宮殿遺跡と要塞跡が各地に散在し、王宮の一
つは、アボメイ歴史博物館になっており、ゲゾー王の時代のタペストリー、グレン王ゆか
りのレリーフ等が残っている。1984年の竜巻によって大被害を受け、1985年に危機にさら
されている世界遺産に登録されたが、世界遺産基金の援助等を受け、保護管理状況が改善
されたため、2007年危機リストから解除された。しかしながら、2009年1月21日、アボメ
イの王宮のゲゾー王とアゴングロ王の墓などを含む建造物群6棟が、山火事によって被災
した。
ツォディロ ツォディロは、セポパ、シャカウェ間を結ぶ主要道路の西の丘陵地帯にあり、マウンから
約300km離れている。ツォディロは、顕著な普遍的価値を有する世界中で最もすばらしい
壁画が存在する場所の一つである。ツォディロは、何万年もここに生きてきたサン族(ま
たの名をコイサン、バサルワ)による先史時代の人間の生活、動物、幾何学模様、手書き
デザインの約4000点もの岩絵が残されている。ツォディロには、岩の家や古代の鉱山、先
史時代の村々が丘陵のあちこちに点在している。近くには、サン族の居住地があり、ハン
ブクシュ族も「男の丘」の付近に村を作って住んでいる。ツォディロでは、クドゥ、ヒョ
ウ、ダチョウ、オオアリクイ、サル、ブラウン・ハイエナを見ることができる。
アツィナナナの雨林群 アツィナナナの雨林群は、マダガスカル島の東部にある自然公園で、南北1200kmの範囲に
展開する登録面積479661haの雨林。マダガスカル最大のマソアラ国立公園、新種オオタケ
キツネザルの保護を目的としたラノマファナ国立公園、南回帰線以南では珍しい多雨林を
含むアンドハヘラ国立公園、それに、ザハメナ国立公園、マロジェジイ国立公園などの6
つの国立公園が登録された。アツィナナナの雨林群は、進行しつつある重要な生態学的、
生物学的プロセスを示す顕著な見本であると同時に、少なくとも25種のキツネザルなどの
絶滅危惧種を含む生物多様性の保全にとって重要な自然生息地であることが評価された。
しかしながら、違法な伐採、絶滅危惧種のキツネザルの狩猟の横行などから、2010年の第
34回世界遺産委員会ブラジリア会議で、「危機にさらされている世界遺産リスト」に登録
された。
アンボヒマンガの王丘 アンボヒマンガは、マダガスカルの中央部、首都アンタナナリボの北東21km、タナから
22kmの森林に囲まれた小高い丘の上にある。アンボヒマンガとは、「青い丘」、「青い都
市」、「聖なる都市」、「禁じられた都市」と言われ、フランス植民地になる前には、メ
リナ族が最初にマダガスカルを統治した場所で、王族の首都であり発祥地であった。ロー
ヴァによって全盛をきわめた急勾配の丘陵の古い聖なる村には、歴史博物館がある。アン
ボヒマンガの王丘は、マダガスカルの人々にとって、神聖化された場所であり、宗教的な
意味でも非常に重要な意義を有するものである。村の入口には、古くて巨大な円盤のつい
た7つの石門がある。そして、石壁の内部には、王妃の避暑宮殿とマダガスカルの部族統
一をした王族アンドリアナンブイニメリナの住居があり、そこには当時の生活を偲ばせる
調度品や武器などが展示されている。
ベマラハ厳正自然保護区のチンギ ベマラハ厳正自然保護区のチンギマダガスカルは、鮮新世以降外界から閉ざされて独自の
進化を遂げた世界第4位の大きさをもつ世界有数の珍しい生き物の宝庫。チンギは、「シ
ファカ跳び」として滑稽な歩き方をするベロー・シファカ、絶滅危惧種のアイアイ
(Aye-aye)、夜行性のネズミ・キツネザルなどのキツネザルの仲間や世界の種の66%を
占めるカメレオンなどや、今なお、記録されていない種の野生生物が生息するマダガスカ
ル中西部の原生林のベマラハ高原の厳正自然保護区にある。チンギは、古生代の石灰岩が
、二酸化炭素を含んだ雨水や地下水によって浸食されて、無数の針のように鋭く尖った岩
が切り立つ独特の景観を呈するカルスト台地。ビッグ・チンギとスモール・チンギに分け
られ、独特の景観を創り出している。チンギは、日本の秋吉台と同じ様な構造で、地下は
洞窟になっている
チョンゴニの岩画地域 チョンゴニの岩画地域は、マラウイ中央州デッザ地域の森林地帯で花崗岩の丘陵にある中
央マラウイ高原の126.4平方kmの地域に展開する。チョンゴニの岩画地域は、中央アフリ
カの岩画地域のなかで最も芸術的な集積が特色である。チョンゴニの岩画地域は、後期石
器時代からこの地域に居住する狩猟採集民族のバトワ族(ピグミー)による絵画と農民の
岩画の比較的稀な伝統を反映している。チェワ族の農家は、鉄器時代の後期からこの地域
に住んでおり、岩画の慣習は20世紀に入るまで続いた。岩画で象徴的なのは、女性の成人
儀礼などとの関わり、チェワ族の間では文化的な関連性が今尚ある。チョンゴニの岩画地
域は、雨乞い、葬祭などの祭礼や儀式と強い結びつきがある。
マラウイ湖国立公園 マラウイ湖国立公園は、マラウイ湖の南部に設けられたアフリカ唯一の湖上国立公園で、
湖に浮かぶ12の島を含む。マラウイ湖は、緑深い森と岩山に囲まれ、湖面の8割がマラウ
イ(残りの2割はモザンビーク)に属する。500km以上の長さを誇り、国土の2割を占める
面積は、世界第10位(30000平方km)、深さは、世界第4位(706m)。湖面の輝きが何度も
変わることから、探検家リヴィングストン(1813〜1873年)は、「きらめく星の湖」と呼
んだ。マラウイ湖には、ワニ、カバをはじめ、稚魚を口中で飼育する食用淡水魚のマラウ
イ・シクリッド(カワススズメ科)など固有種の魚が数多く生息し、その種類は500〜
1000種といわれる。数百万年の歴史をもつ古代湖で、進化上の稀少種も多く、自然科学者
の興味の的となっている。住民の漁なども制限されている。マラウイ湖は、かつては、ニ
アサ湖(現地語で「たくさんの水」の意)と呼ばれていた。
アスキアの墓 アスキアの墓は、トンブクトゥーの東300km、ガオにある。アスキアの墓は、北アフリカ
との交易によって栄え15〜16世紀に全盛期を誇ったソンガイ王国(1473〜1591年)の皇帝
アスキア・モハメド(在位1493〜1528年)によって、1495年に当時の首都ガオに建設され
た。ソンガイ王国は、かつては、西アフリカ地方とサハラの交易を支配し、アスキアの墓
は、重要な遺構である。アスキアの墓は、土着の伝統建築様式を反映して、泥レンガが出
来ており、高さが17mで、ピラミッドの形をしている。 世界遺産の構成資産は、ピラミッ
ドの墓、2つの平屋根のモスクの建造物群、モスクの墓地、野外の集会広場からなる。マ
リ北部を占拠する武装勢力による世界遺産の破壊行為の脅威や危険にさらされていること
から、2012年に「危機にさらされている世界遺産リスト」に登録された。
バンディアガラの絶壁(ドゴン族の集落) バンディアガラの絶壁は、マリの首都バマコの北東480km、サハラ砂漠の南縁のサヘル(
岸辺)と呼ばれる乾燥サバンナ地帯にある。バンディアガラの絶壁は、モプティ地方のサ
ンガ地区にそびえるバンディアガラ山地にあり、ニジェール川の大彎曲部に面した、独特
の景観を誇る標高差500mの花崗岩の断崖である。この地に1300年頃に住み着いたドゴン族
は、この絶壁の上下に、土の要塞ともいえる集落を作って、外敵から身を守った。また、
バンディアガラの絶壁の麓には、ソンゴ村の集落がある。トウモロコシ、イネ、タマネギ
などの作物を収める赤い粘土で造られた穀物倉を設け、絶壁の中腹には、ドゴン族の壮大
な宇宙と「ジャッカル占い」など神話の世界に則った墓や社を造り、先祖の死者の霊を祀
る。ドゴン族の神聖なる伝統的儀式では、動物、鳥、オゴン(ドゴン族の最長老)、トー
テムなど90種にも及ぶ美しい仮面を用いて、仮面の踊りを繰り広げ、独特のドゴン文化を
形成する。60年に1回行われるドゴン族最大の行事である壮大な叙事詩シギの祭り(次回
は2027年)は、シリウス星が太陽と共に昇る日に行われる。
ジェンネの旧市街 ジェンネは、マリ中部のニジェール川とバニ川の中州にある。ジェンネは、14〜16世紀に
は、マリンケ族の帝国であったマリ帝国、西スーダンの王国であったソンガイ帝国が、北
部アフリカのイスラム商人との交易で、黄金の都と呼ばれたトンブクトゥやニジェール川
下流のガオなどの交易都市と共に栄えたサハラ南部の町である。ジェンネには、西アフリ
カのイスラム教のシンボルともいわれる、町の中央にある56m四方の基層部と11mの高さを
誇る日干しレンガを使ったスーダン様式の大モスク、聖なる井戸のナナ・ワンゲラ、ジェ
ンネ最古のテパマ墓地などが旧市街に残っている。
トンブクトゥー トンブクトゥーは、マリの中部にある「ブクツー婦人」という意味をもち「黄金の都」と
呼ばれた町。9〜16世紀に興亡したソンガイ帝国など三大帝国時代に、サハラ砂漠で採れ
る岩塩とニジェール川上流の金の交易で繁栄を謳歌した。特に、14世紀以降は、イスラム
文化が開花、100ものイスラムのコーラン学校やジンガリベリ・モスク、サンコレ・モス
ク、シディ・ヤヒヤ・モスクなどのモスクが建設され今に残る。1968年から1973年にかけ
て起きたサヘル地域の干ばつ、1984年の大干ばつによって被害を受け、また、サハラ砂漠
から吹き寄せる砂により、耕地、道路、人家が埋没の危機にさらされており、ゴーストタ
ウン化しつつあるトゥアレグ族の町も、100年後には、砂漠化するともいわれている。
1990年に「危機にさらされている世界遺産」に登録されたが、管理計画の導入など改善措
置が講じられた為、2005年に解除された。2008年の第32回世界遺産委員会ケベック・シテ
ィ会議で、トンブクトゥーのアハメド・ババ文化センター近くでの新建設の監視強化が要
請された。また、マリ北部を占拠する武装勢力による世界遺産の破壊行為の脅威や危険に
さらされていることから、2012年に、再度、「危機にさらされている世界遺産リスト」に
登録された。
オカシュランバ・ドラケンスバーグ公園 オカシュランバ・ドラケンスバーグ公園は、レソトと国境を接するクワズール・ナタール
州の山岳地帯にある。オカシュランバ・ドラケンスバーグ公園は、3000m級の秀峰、緑に
覆われた丘陵、玄武岩や砂岩の断崖、渓谷など変化に富んだ地形と雄大な自然景観を誇る
。また、ブラック・ワイルドビースト、多様なレイヨウ種、バブーン(ヒヒ)の動物種、
絶滅の危機に瀕している獰猛なヒゲハゲタカなど多くの野鳥、貴重な植物種が生息してお
り、ラムサール条約の登録湿地にもなっている。文化面では、ドラケンスバーグの山岳地
帯に住んでいた先住民族のサン族が4000年以上にもわたって描き続けた岩壁画が、メイン
洞窟やバトル洞窟などの洞窟に数多く残っており、当時の彼等の生活や信仰を知る上での
重要な手掛かりとなっている。
スタークフォンテン、スワークランズ、クロムドラーイと周辺の人類化石遺跡 スタークフォンテン、スワークランズ、クロムドラーイは、ヨハネスブルクから車で45分
の距離にあるガウテング州のスタークフォンテン渓谷の中にある洞窟群。スタークフォン
テン洞窟では、1936年に、260万〜320万年前の初期人類アウストラロピテクス・アフリカ
ヌスの化石が最初に発見されたのをはじめ、1976年には、私たち人類の祖先ともいえるホ
モ・ハビリスの化石が発見された。スワークランズ洞窟では、1948年に、100万〜200万年
前のアウストラロピテクス・ロブストゥスやホモ・エレクトスの人類遺跡、約100年前の
人類が火を使った痕跡が至るところで発見された。クロムドラーイ洞窟では、絶滅した剣
歯猫、猿、ヒヒ、ハイエナ、カモシカなどの動物の化石、そして、アウストラロピテクス
・ロブストゥスの化石が発見された。この地域で発掘された出土品は、350万年前から現
在に至るまでの人類の進化の様子や旧石器時代の生活がわかる、人類学や考古学上、きわ
めて重要かつ豊富な情報をもたらし、今も尚、探索や発掘が進められている。一方、スタ
ークフォンテン渓谷を訪れる人は、これまでは、めったにいなかったが、ユネスコ世界遺
産への登録を契機に、エコ・ツーリズムの高まりや人類学者に伴われたツーリスト等の関
心を集めている。2005年の第29回世界遺産委員会で、登録範囲にリンポポ州のマカパン渓
谷とノースウエスト州のタウング頭骨化石発掘地が含められた。
リヒターズベルドの文化的な植物景観 リヒターズベルドの文化的な植物景観は、南アフリカの北西部、北ケープ州の山岳部の荒
涼とした砂漠地帯の160000haに展開する。リヒターズベルドの文化的な植物景観は、先住
民族で、半遊牧民のナマ族の所有地を含む地域である。ナマ族は、かつて、南西アフリカ
全域を支配していたコイコイ族の流れを汲む氏族で、現在も伝統的な遊牧生活を営み、先
祖代々受け継がれてきたイグサから造るドーム型の移動式住居を建てている。南アフリカ
政府は、一帯の自然環境は、遠くから見ると人に似ている絶滅危惧種のハーフ・メンズ(
半人半植物)などの植物の宝庫であるとして、当初、複合遺産としての世界遺産登録を目
指していたが、自然遺産としての価値は認められず、文化遺産として登録された。
イシマンガリソ湿潤公園 イシマンガリソ湿潤公園は、南アフリカ東部、クワズール・ナタール州のセント・ルシア
湖周辺に広がる自然保護区。イシマンガリソとは、「驚異」の意味をもつ現地のズールー
語である。河川、海水、風などが造り出した珊瑚礁、チャータース入江など長い砂の海岸
、海浜の砂丘、湖沼、葦やパピルスが茂る湿地帯を含む変化に富んだ地形や生物学的にも
注目される生態系の連鎖が見られる。地理学的には、220kmも延びる海岸線の美しい景色
、雨季と乾季の循環で塩類化する自然現象などを含む。生態系は、カバやワニの宝庫で、
絶滅危惧種を含む多様な生物生息地を包含している。また、イシマンガリソ湿潤公園は、
ラムサール条約にも登録されている。2008年、「グレーター・セント・ルシア湿潤公園」
から登録名が変更になった。
フレーデフォート・ドーム フレーデフォート・ドームは、ヨハネスブルクの南西約120km、フリー州のウィットウォ
ーターズ盆地の中央部のパリス周辺に広がるドーム構造の世界最大規模の巨大な隕石孔。
直径40〜50kmの隆起地形が特徴的であるため、フレーデフォート・ドーム、フレーデフォ
ート・リングなどと呼ばれている。隕石の衝突の証拠であるシャッターコーン、コーサイ
ト、スティショバイトなどの超高圧鉱物がシュードタキライトの中から発見され、その起
源が隕石の衝突であることが実証された。放射性年代測定法によると、約20億年前に形成
されたと考えられている。その直径は、100km以上に及び、形成当時には300km近くあった
と推測されている。フレーデフォート・ドームは、メキシコのチクシュルブ・クレーター
、カナダのサドベリー・クレーターと共に、世界三大隕石孔とされている。
ロベン島 ロベン島は、アフリカ第2の都市ケープタウンの北11kmの沖合にある面積574haの島。この
島の歴史は、1525年頃ポルトガルの船が罪人を島に置き去ったことに始まる。その後も、
オランダやイギリスによって、監獄、難病で苦しむ人達を隔離する病院、軍事基地、1950
年代には、海軍の訓練センターとしてなど、用途は転々とした。1961年、南ア政府は、こ
の島を再び監獄島として使用することを決め、1991年までの30年間に、3000人を越える黒
人活動家を収監した。この中には、後に、南アフリカ共和国の大統領となりノーベル平和
賞も受賞したネルソン・R・マンデラ氏(1918年〜)も政治犯として囚われ、1964年に無
期懲役の判決を受け、18年もの間、石切場などで重労働を課せられた。1990年代に入り、
南ア政府のアパルトヘイト(人種隔離)政策は撤廃され、この島に収監されていた黒人も
解放された。この島とこの島にある建物は、不撓不屈の精神で人種差別や人権抑圧などの
苦難を乗り越え、民主主義と自由を勝ち取った象徴であり、人類が忘れ去ってはならない
共通のモニュメントになった。1997年1月に、芸術・科学・文化・技術省の管轄となり、
島全体が博物館に指定された。また、この島では、ジャッカス・ペンギンやロベン島原産
の美しい植物も見ることができる。ロベン島へは、ケープタウンからボート・ツアーで訪
れることができる。尚、国家対ネルソン・マンデラほかの刑事裁判所判決No. 253/1963は
、世界記憶遺産に登録されており、南アフリカ国立公文書館(ケープタウン)に収蔵され
ている。
ケープ・フローラル地方の保護地域 ケープ・フローラル地方の保護地域は、南アフリカの南西、ケープ州のケープ半島国立公
園、シーダーバーグ原生地域など8か所の保護地区からなり、総面積は5530平方kmにも及
ぶ。ケープ・フローラル地方の保護地域には、アフリカの植物相の20%が見られ、世界で
最も植物が豊富な地域にも数えられ、フィンボスと言われる特有のブッシュ植生が発達し
ている。ケープにおける植物の数や多様さ、更に、固有種は、世界でも有数で、地球上に
18か所ある生物多様性のホットスポットの一つに数えられている。ケープ植物区系とは、
植物地理学的に地球をヨーロッパ、オーストラリア、アメリカ合衆国、カリフォルニア、
ケープ地域、南西オーストラリアの6つに区切った植物区系の一つで、ケープ地域のみで
単独の植物区系と見なされるほど、植生は際立っている。
マプングブウェの文化的景観 マプングブウェの文化的景観は、南アフリカの北東部のリンポポ州のリンポポ川とシャシ
ェ川の合流地点にあるサバンナの景観が広がる墓地、集落などを含む都市遺跡で、隣国の
ジンバブエとボツワナと国境を接する。マプングブウェは、アフリカ南部では初めての王
国で、アフリカ大陸でも最も強大な王国となり、アラブ諸国、インドや中国などアジアの
国々との周辺で採れる黄金や象牙での交易で繁栄したが、14世紀末の急激な気候変動によ
る寒冷と干ばつによって衰退した。マプングブウェには、手付かずの宮殿や集落の遺跡、
2つの都跡などが残っており、華麗な黄金製のサイなどの副葬品も出土している。また、
マプングブウェの砂岩の丘(通称 ジャッカルの丘)は、宗教的にも聖山として崇められ
ていた。
アアプラヴァシ・ガート アアプラヴァシ・ガートは、首都のポート・ルイス地区にある面積1640平方mの近代季節
労働移住発祥の地である。1834年に、英国政府は、奴隷に代わる「自由」労働の使用にお
いて「偉大な実験」と呼んだ最初の地として、インド洋のマスカレン諸島にある周囲が珊
瑚礁で囲まれたモーリシャス島を選んだ。1834〜1920年の間に、約50万人の年季奉公の労
働者がインドからモーリシャスの砂糖プランテーション(大規模農場)で働く為、或は、
レユニオン島、オーストラリア、南部と東部のアフリカ、或は、カリブ諸国に移送する為
、アアプラヴァシ・ガートに到着した。アアプラヴァシ・ガートの建造物群は、グローバ
ルな経済システムと、歴史上の大移住の先駆けとなった証しである。アアプラヴァシ・ガ
ートは、モーリシャス最初の世界遺産になった。
ル・モーンの文化的景観 ル・モーンの文化的景観は、モーリシャス島の南西部のインド洋に突き出しているル・モ
ーン半島にそびえる高さ55mの岩山は、18世紀から19世紀の初期を通じて、逃亡奴隷によ
って、身を潜める隠れ場所として使用されていた。ル・モーンは、森林やほとんど近づけ
ない断崖などで隔絶された山によって守られ、逃亡奴隷がル・モーンの山頂や洞窟群に小
さな集落を形成した文化的景観を今も留めている。逃亡奴隷の口承の伝統は、ル・モーン
を奴隷の自由との闘い、彼らの苦痛や生贄の象徴にした。これらは、奴隷の出身地である
アフリカ大陸本土、マダガスカル、インド、それに、東南アジアの国々にも関連する。モ
ーリシャスは、東部の奴隷交易の重要な途中滞在場所となり、ル・モーンに住む逃亡奴隷
が大人数の為、“逃亡奴隷共和国”として知られる様になった。
アルガン岩礁国立公園 アルガン岩礁国立公園は、モーリタニアの首都ヌアクショットの北150km、モーリタニア
北西部沿岸にあるティミリス岬の北方200kmにもわたる岩礁地帯。沿岸域は、暖流と寒流
が交わる為、魚類が豊富で、また、沖合25km近くまでも浅瀬が広がっている為、チチュウ
カイモンクアザラシ、クロアジサシ、ウスイロイルカ、シワハイルカなどの海洋動物、そ
れに、フラミンゴ、クサシギ、シロペリカンなど多くの鳥の絶好の餌場であり、ヨーロッ
パやシベリアからの200万羽の渡り鳥の楽園であり越冬地になっている。1982年に、アル
ガン岩礁の120万haがラムサール条約の登録湿地に登録された。一方、地球環境問題にも
なっているが、風による砂の移動が活発になって海岸線のすぐそばまで砂漠が迫る砂漠化
が深刻化している。
ウァダン、シンゲッティ、ティシット、ウァラタのカザール古代都市 ウァダン、シンゲッティ、ティシット、ウァラタは、モーリタニアの南東の内陸部に11〜
12世紀に造られた交易都市。サハラ砂漠を行き来するキャラバンの商業交易街として発展
した。貿易とイスラム教の中心地であったこれらの街は、テラスを持つ家々が、イスラム
の光塔を備えたモスクの周りの狭い通りに並ぶ。その光景は、西サハラ地方の遊牧民の伝
統文化と生活様式を表わす。これらの4つの街は、他の街に比べ建造物群がよく残ってお
り、当時の繁栄を偲ばせる街並が現存することから、世界遺産に登録された。
モザンビーク島 モザンビーク島は、モザンビークの東岸から4km沖合いのモザンビーク海峡に浮ぶ全長3km
の珊瑚礁の小島。ポルトガル語の、イーリャ・デ・モザンビーク(Ilha de Mocambique)
から、通称、イーリャ(Ilha)と呼ばれる。アラブの貿易基地だったが、1498年にヴァス
コ・ダ・ガマ(1469頃〜1524年)が上陸した後、ポルトガルが、1508年に要塞を築き植民
地化した。モザンビーク島の町並みは、ポルトガル様式のサント・アントニオ聖堂をはじ
めとするキリスト教建築物、サン・パウロ宮殿、サン・セバスチャン要塞などがアラブ様
式やインド様式と調和して美しい。1898年にポルトガル領東アフリカの首都がマプトに移
ると孤立化した。モザンビーク島とモザンビーク本土とは橋で結ばれている。
アイット-ベン-ハドゥの集落 アイット-ベン-ハドゥの集落は、モロッコ中部のワルザザト地方、アトラス山脈の山中に
残っている古代の隊商都市と推定される、オアシスの中の伝統的な集落遺跡。アイット-
ベン-ハドゥの集落は、ワルザザト川に沿ったサハラとマラケシュを結ぶ隊商ルート沿い
にある。アイット-ベン-ハドゥの集落は、小山の斜面に、ベルベル人が築いた日干し煉瓦
の住居等を含めて、「クサル」という全体が要塞化した建造物のカスバの村で、高い壁に
は独特の模様がある。アイット-ベン-ハドゥの集落は、古代の建築技法を伝える貴重な集
落遺跡である。アイット-ベン-ハドゥの集落は、アラビアのロレンス、グラディエーター
などの映画の撮影ロケーションになったことでも知られている。
テトゥアン(旧ティタウィン)のメディナ テトゥアンは、モロッコの北東部、ジブラルタル海峡を挟んでスペインの対岸にある港町
。イスラム時代のモロッコとアンダルシアを結ぶ重要な拠点として発展した。ティトゥア
ン(キリスト教徒による聖地奪還)の後、スペイン人に追われた避難民により再建された
。位置的にもスペイン文化の影響を強く受けており、モロッコで一番小さいイスラム教の
聖地ながら、スペインとイスラム文化が融合した白亜の美しい町並みが広がっている。メ
ディナの中央に建つ17世紀の王宮は、その典型的な建造物である。
マラケシュのメディナ マラケシュは、モロッコの中南部にあるモロッコ第2の都市で、マラケシュ州の州都。
1070年頃に、西サハラに興ったベルベル人のムラービト朝のユースフ・イブン・ターシュ
フィーンが建都、スペイン征服を機に、サハラ砂漠を横断する隊商の拠点となるオアシス
都市として発展した。12世紀のムワッヒド朝も王都として市街地を拡大し、マラケシュの
シンボルともいえる67mのモザイク装飾が美しいミナレット(塔)のあるクトゥビーヤ・
モスクなどを建設した。また、マラケシュは、サハラ砂漠を横断する隊商路の北の基点と
して交易だけではなく、マグレブ地方のイスラム文化、学問の中心地としても繁栄した。
マラケシュは、メディナと呼ばれる旧市街と、フランス人によって建設された新市街とに
二分される。マラケシュのメディナは、城壁に囲まれた内側にあり、迷路のような狭い路
地が印象的で、スーク(市場)がひしめいている。かつては、公開死刑場であった中心部
のジャマ・エル・フナ広場には、数多くの屋台が立ち並び、内外からの大勢の人の熱気に
あふれ賑わっている。1999年には、第23回世界遺産委員会が、ここマラケシュで開催され
た。
エッサウィラ(旧モガドール)のメディナ エッサウィラは、モロッコ中部、首都ラバトの南西約400kmにある大西洋に面した漁港と
ビーチ・リゾートの町。エッサウィラは、町の入口に墓のある聖シディ・モガドールの名
前に因んで、かつてはモガドールと呼ばれていた。ポルトガル人が1506年にここに要塞を
造ったが、1541年にポルトガルは、モロッコの部族との争いでこの拠点を失い町は衰退し
た。エッサウィラは、1785年にフランス人の建築家テオドール・クールニュのプランで造
られた北部アフリカの要塞都市の類まれな事例で、現代ヨーロッパの軍事建築の原則にそ
って建設されたものである。エッサウィラという名はこの時つけられた。エッサウィラは
、1785年に町が創られて以来、トンブクトゥーなどサハラの後背地からの象牙や金とヨー
ロッパなどからの皮革、塩、砂糖との交易などを通じて主要な国際貿易港になり多くのユ
ダヤ商人が定住した。エッサウィラは、ポルトガル、フランス、そして、土着のベルベル
人の建築様式が混在し、北アフリカで最も美しい町の一つと言われている。
フェスのメディナ フェスは、モロッコ中北部、首都ラパトの東約180kmにある。9世紀に、モロッコ最古のイ
スラム王朝を開いたイドリース朝の都として建設された。フェス川の左岸から発展し、モ
ロッコ最古のカラウィーン・モスクなどが建設された。13世紀半ばにマリーン朝の都にな
った頃からは、多くのマドラサ(学校)やモスクができ、学問・文化・商業の中心として
発展した。城壁に囲まれた旧市街は、世界一複雑といわれる迷路都市で、絶えず侵略の危
機にさらされていたこの地域の住民が、外敵を寄せ付けないために工夫した結果、このよ
うな入り組んだ路地の町を作り出したのである。
ヴォルビリスの考古学遺跡 ヴォルビリスの考古学遺跡は、メクネスの北15kmにあるモロッコに残る最大の古代ローマ
遺跡。紀元前3世紀に併合されたモロッコ北部のマウレタニア・ティンギタナ(首都ティ
ンギス)は、ローマ帝国の重要な海外の属領であった。多くの建物が肥沃な農業地帯に彩
りを添えている。また、ヴォルビリスは、一時、イドリース王朝(789〜926年)の首都に
なったが、その始祖であるイドリース1世の墓が近くのモーレイ・イドリースに残ってい
る。
古都メクネス 古都メクネスは、モロッコの中部メクネス州にある。11世紀に軍事拠点として建設され、
1672〜1727年にアラウィ朝の首都になった。イスマイルスルタンによって巨大な門のある
高い壁に囲まれたイスパノ・モレスク様式の町となり、現在も17世紀のイスラム文化とヨ
ーロッパ文化の調和のとれた光景を醸し出している。マンスール門は、エディム広場に面
した巨大な門で、北アフリカで最も美しく有名な門だといわれている。
マサガン(アル・ジャディーダ)のポルトガル街区 マサガン(アル・ジャディーダ)のポルトガル街区は、カサブランカの南西90km、アル・
ジャディーダ市内のドゥカラ・アブダにある。マサガンは、1502年にポルトガル人が創建
した町で、1513年には、街のシンボルにもなる巨大な城塞が建設された。マサガンは、イ
ンド航路の中継点として、ポルトガルが西アフリカに築いた初期の町であり、1769年には
、モロッコに征服された。その為、ヨーロッパとモロッコの文化が影響しあい、建築・技
術・都市設計にも反映された。マサガンは、19世紀の半ばから、アル・ジャディーダとし
て知られるようになり、多文化が行き交う商業の中心地へと発展した。
アムラ城塞 アムラ城塞は、首都アンマンの東約83km、シリア砂漠の西側にあたるヨルダン中部のアズ
ラク地方にある。8世紀頃に造られたウマイヤ朝(661〜750年)のカリフ(王)の隠れ家
となっていた砂漠の中の離宮で、征服した土地を管理警戒する拠点としての目的のほかに
、厳格な掟のイスラム教徒の目をそらし享楽的な生活を送る為に建てられた。かつて建物
の中には、ハマムと呼ばれる蒸風呂が備えられ、入浴や酒宴が繰り広げられた。浴場の壁
や天井一面には、等身大の踊る女、砂漠の動物、12宮の天体図など色彩豊かな初期イスラ
ムに特徴的なフレスコ画が多数描かれている。
ペトラ ペトラは、首都アンマンの南190km、標高950m、岩山に囲まれたワジ(涸れ川)の峡谷に
ある。ペトラは、ギリシャ語で「岩」という意味で、岩山のシックと呼ばれる亀裂に、ア
ラブ系の遊牧民族のナバタイ人が砂岩の壁面を彫った紀元前2世紀頃の古代遺跡。最も有
名なのは、ベドウィンが「ファラオの宝物庫」と呼び、世界一美しい葬祭殿とされた高さ
30m、奥行き25mのバラ色のエル・カズネ・ファルウンの神殿。この他にローマ時代の1〜3
世紀に建造された6000人以上もの収容能力があったといわれる円形のローマ劇場跡、浴場
、宴会場、墳墓群、礼拝堂、住居址、貯水池、舗装道路などが残る。1812年にスイス人の
探検家ヨハン・ブルクハルトによって発見された。イギリスの詩人ディーン・パーゴンは
、ペトラを「東の国の壮麗な要塞、時の刻みと同じ位古いバラ色の都市、いつしか私もこ
の中に一体化していく」と称賛した。また、映画「インディ・ジョーンズ 最後の聖戦」
のクライマックス・シーンの舞台にもなっている。レバノンのバールベク、イランのペル
セポリスと共に中東三大遺跡として称えられる。
ウム・エル・ラサス(カストロン・メファー) ウム・エル・ラサス(カストロン・メファー)は、マダバの南東30kmにある、3世紀から9
世紀、すなわち、ローマ時代、ビザンチン時代、初期イスラム時代の連続した遺跡地帯。
これまでに、軍事建築の遺構や、保存状態の良いモザイク画の床面をもつ教会建築が見つ
かっている。カストロン・メファーは、ウマイヤ朝時代の地名である。
エルサレムの旧市街とその城壁 エルサレムは、ヨルダン川に近い要害の地に造られた城郭都市。世界三大宗教であるユダ
ヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地として有名で、アラビア語の「アル・クドゥス」(
聖なる都市)の名で知られている。1947年11月の国連総会で、エルサレムをイスラエル、
ヨルダンのいずれにも属さない分離体として国連の信託統治下に置くというパレスチナ分
割統治案、国連決議181号が採択され、旧市街を含むアラブ人居住区の東エルサレムと、
ユダヤ人居住区の西エルサレムに分断された。東エルサレムの領有権は中東戦争などで紛
糾、1980年7月、イスラエル議会は東西エルサレムを統一エルサレムと呼びイスラエルの
首都とする法律を決議したが、国連総会はイスラエルによる東エルサレムの占領を非難、
その決定の無効を決議している。一方、パレスチナ自治政府は東エルサレムを独立後の首
都とみなしている。約1km四方の城壁に囲まれた約0.9平方kmの旧市街が世界遺産に登録さ
れており、紀元前37年にユダヤ王となったヘロデ王により築かれ、その後、ローマ軍の侵
略で破壊され、離散の民となったユダヤ人が祖国喪失を嘆き祈る様子から「嘆きの壁」と
呼ばれる神殿の遺壁、327年にローマのコンスタンティヌス帝の命でつくられたキリスト
教の「聖墳墓教会」、691年にウマイヤ朝第5代カリフのアブドゥル・マリクによって建て
られた黄金色に輝くモスク、「岩のドーム」などがある。現存する旧市街の城壁は、オス
マン帝国第10代皇帝のスレイマン1世が1538年に建造し、長さが約4.5km、高さが5〜15m、
厚さが3mで、43の見張り塔、11の門を含む。旧市街はムスリム地区、キリスト教徒地区、
ユダヤ教徒地区、アルメニア人地区に大別されており、宗教、歴史、建築、芸術などの観
点から、「顕著な普遍的価値」を有すとしてヨルダンの推薦物件として登録された。(イ
スラエルは1999年に世界遺産条約を締約しているがこの時点では未締約国であった。)世
界遺産リストでは、どこの国にも属さず単独で扱われている。また、民族紛争、無秩序な
都市開発、観光圧力、維持管理不足などによる破壊の危険から1982年に「危機にさらされ
ている世界遺産リスト」に登録された。「嘆きの壁」と「神殿の丘」のムグラビ門をつな
ぐ坂(Mughrabi asent)を撤去し、鉄の橋を架ける問題が新たな火種になっている。
ワディ・ラム保護区 ワディ・ラム保護区は、ヨルダンの南部、サウジアラビアとの国境地域のアカバ特別経済
地域にあり、狭い峡谷、自然のアーチ、赤砂岩の塔状の断崖、斜面、崩れた土砂、洞窟群
からなる変化に富んだ「月の谷」の異名をもつ荘厳な砂漠景観が特徴である。ワディ・ラ
ム保護区の岩石彫刻、碑文群、それに考古学遺跡群は、人間が住み始めてから12000年の
歴史と自然環境との交流を物語っている。20000の碑文群 が結び付いた25000の岩石彫刻
群からは、人間の思考の進化やアルファベットの発達の過程を辿ることができ、アラビア
半島における、遊牧、農業、都市活動の進化の様子を表している。また、「ワディ・ラム
のべドウィン族の文化的空間」は、2008年に世界無形文化遺産の代表リストに登録されて
いる。
ガダミースの旧市街 ガダミースは、首都トリポリの南西400km、チュニジアとアルジェリアとの国境近くにあ
る先住民のトゥアレグ族が開いたキャラバン・ルート上のオアシス都市。7世紀以降「砂
漠の真珠」と呼ばれ、ローマ帝国の時代から、北部アフリカのトリポリとアフリカ内陸部
のチャド湖方面を結ぶ交易で繁栄した。ビザンチン時代には、キリスト教が栄え、19世紀
には、アラブ人の奴隷交易の中心地であった。テラスで繋がれた日干し煉瓦の上に、石灰
を塗った白く厚い壁で覆われた不定形の密集したイスラム風の家々の町並みが旧市街の特
徴。家の内部には、アラベスク模様の華麗な装飾や伝統工芸が施されている。
タドラート・アカクスの岩絵 タドラート・アカクスは、首都トリポリの南、約1000kmにわたって連なるタドラート・ア
カクス山脈の谷間にある、サハラ砂漠のフェザン地方にある。タドラート・アカクスには
、約8000〜2000年前の先史時代から受け継がれてきた岩絵が残されている。ゾウ、キリン
、水牛、ウマ、レイヨウ、ダチョウ、羊、ラクダなどの絵は、現在のサハラ砂漠が当時は
サバンナ地帯であり、狩猟や牧畜中心の生活が行われていたことを示す貴重なもの。
キレーネの考古学遺跡 キレーネの考古学遺跡は、リビアの東部海岸の山中にあるヘレニズム文化を今に伝える都
市遺跡。キレーネは、紀元前7世紀頃にギリシャ人が北部アフリカに移住した際に、ギリ
シャ風の様式や文化を取り入れて建設した都市で、ゼウスを祀った北部アフリカ最大の神
殿やキレーネ最古のアポロンの神殿、アゴラの広場、劇場、浴場などの遺跡が発掘されて
いるほか、数か所に共同墓地も残っている。4世紀の地震、そして、7世紀には、イスラム
・アラブ軍の侵攻に遭って、町は、砂の中に埋没してしまったが、18世紀初頭に発見され
、一躍有名になった。
レプティス・マグナの考古学遺跡 レプティスは、リビア北西部の地中海岸にフェニキア人が紀元前10世紀に建設した貿易中
継地。ローマ帝国の支配下になり発展し、小神殿や闘技場、浴場などが建てられた。全盛
期の2世紀末、セプティミウス・セウェルス帝の時代には、凱旋門、大会堂、列柱回廊な
どが整備された。「偉大なるレプティス」という意味のレプティス・マグナと呼ばれるに
ふさわしい巨大で贅沢な都市は、ローマに匹敵するといわれた。7世紀以降、町は衰退し
、砂に埋没したが、そのために装飾などの損傷が少なく、保存状態がよい。
サブラタの考古学遺跡 サブラタの考古学遺跡は、トリポリの西70kmのところにある。サブラタは、航海と貿易の
民といわれ地中海貿易を牛耳っていたフェニキア人が、紀元前4世紀頃、中部アフリカの
国々からの象牙、金、宝石、ダチョウの羽毛、それに、奴隷などの交易を行う為に建設し
た植民市。その後、サブラタは、ローマ帝国の支配下となり再建された。1〜3世紀に建設
された神殿、アゴラ広場、バシリカ、浴場、そして、アフリカでは最大規模といわれる壮
大な円形劇場などの遺跡が傷みながらも残っている。
アンジャル アンジャルは、レバノンの東部、首都ベイルートの東約50km、アンチ・レバノン山脈の麓
のリターニ川が流れるベカー地方にある。アンジャルは、広大な地域を支配していたウマ
イヤ朝(661〜750年)の第6代カリフ(後継者の意)であったアル・ワリード一世が7世紀
後半に建設したレバノンに唯一残るウマイヤ朝の都市遺跡。アンジャルの町は、ダマスカ
スとベイルートを繋ぐ隊商の中継地として古くから栄え、東西南北の四面に市門のテトラ
ピュロンがある城壁に囲まれた要塞、イスラムの最高権力者であるカリフの保養用の宮殿
、モスク、公共浴場、住居、商店などから構成されていた。
バールベク バールベクは、首都ベイルートの東85km、リーターニ川が流れるベカー高原の中央にある
ローマ帝国が造った最大のユピエル(ジュピター)神殿を持つ遺跡。270m×120mの神域に
あるユピエル(ジュピター)神殿は、アウグストゥス(在位紀元前27年〜14年)自身が設
計したとされ、前門、前庭、大庭園を備えたヘレニズム期のコリント式の列柱神殿で、
250年頃に完成したとされる。90m×54mと壮大で優美。南隣の150年頃に建設された酒神の
バッカス神殿と神域外の最後に建てられた貝殻から生まれるヴィーナスが描かれたヴェヌ
ス(ヴィーナス)神殿は、バロック的な造形美が特徴。ヨルダンのペトラ、イランのペル
セポリスと共に中東三大遺跡として称えられる
カディーシャ渓谷(聖なる谷)と神の杉の森(ホルシュ・アルゼ・ラップ) カディーシャ渓谷(聖なる谷)と神の杉の森(ホルシュ・アルゼ・ラップ)は、レバノン
の北部、レバノン山脈のコルネ・エル・サウダ山(3087m)の斜面のカディーシャ渓谷に
広がる樹齢1200〜2000年のレバノン杉の森(約400本)と最も重要な初期キリスト教の修
道士が隠遁した聖アンソニー修道院、聖母マリア修道院などの構成資産からなる文化的景
観である。かつて、ヘブライ人の国家を築いたソロモン王(紀元前960年頃〜紀元前922年
頃)は、神自身が植え育てたとされるこのレバノン杉を珍重し、エジプトの神殿やエルサ
レムの自身の宮殿を造る木材にした。また、専制的な国王は、レバノン杉から精巧な装飾
の石棺や太陽の船を彫刻した。しばしば、旧約聖書にも登場するレバノン杉は、レバノン
の国旗にも描かれている様に、レバノンの栄光の象徴でもある。
ビブロス ビブロスは、首都ベイルートの北27km、地中海沿岸の寒村のジュバイルにあるフェニキア
文字発祥の地。ビブロスは、ギリシャ人がつけた呼び名で、パピルスすなわち書物を意味
する。アルファベットの基になったフェニキア文字を考案した海洋交易民族のフェニキア
人が築いた7000年の歴史を持つ古代都市遺跡が残っている。ビブロスは、泉を中心にした
町で、紀元前2800〜2600年頃のオベリスク神殿、ローマ時代の円形劇場や列柱、紀元前2
世紀頃のビブロス王の墓などが20世紀に発掘された。ビブロスには、中世の11世紀に十字
軍が築いた城塞跡やロマネスク様式の聖堂も残っている。今日、世界中で使われている聖
書「バイブル」という呼び名は、ここビブロスから来ているとも言われている。ビブロス
で発掘された出土品のほとんどは、ベイルートのレバノン国立博物館に移されている。